無邪気な好奇心、静かなる飢え
乗合馬車は王都を離れ、北へ向かう街道を揺れながら進んでいた。舗装の甘い石の上を鉄の輪が転がるたび、ガタンと衝撃が座席の板を通して伝わってくる。
窓の外では、畑が減り、低い林が増えていく。やがて林は森へと変わり、緑の壁が車窓を占めていった。
窓際に座るルミナは、甘栗色の髪をハーフアップにまとめ、外の変化を眺めている。
隣のヒトミは目を閉じたまま。黒に赤のメッシュを入れた長い髪が左目を隠し、右頬には大きな傷。眠っているわけではない。揺れに合わせて身体の芯だけを揺らし、外の気配を測っている。
向かいの席では、フードを深くかぶったヴェイルが背筋を伸ばして座る。その横で、腰まで届く金髪の毛先をいじりながら、アンリが両足をぶらぶらさせている。
マイはその隣。濃い茶色のショートボブを片方だけ耳にかけ、ヒトミと同じ位置に細い傷のある頬をわずかに伏せている。分厚い本を膝の上に広げ、視線を一度も上げずにページをめくり続ける。
馬車には他に、うたた寝をしている老人と、荷物に背中を預けた商人風の男が乗っている。狭い車内に、揺れと木の軋みと、誰かの息づかいだけが満ちていた。
揺れのリズムに全員が慣れてきた頃、アンリが金色の髪の先をくるくると指に巻きつけながら、向かい合って座る三人を順番に眺め始めた。
ヒトミの右頬に走る、大きな傷。
どんな場にいても隠そうとしない、真っすぐな傷。
そして、そのすぐ斜め隣で本を読んでいるマイの頬に――ヒトミと同じ位置に、細い傷が一本。
アンリは、むずむずしてきて口を開いた。
「ねぇ」
マイがページをめくる手を止めずに、片方の眉だけを上げる。
「なに?」
「ヒトミの傷はさ、ボク、知ってるけど......」
そこまで言って、ちらりとヒトミを見る。
ヒトミは目を閉じたまま、わずかに顎を引いた。
「あの時の、でしょ」
短く、それだけ。
アンリはうなずきかけて、今度はマイの頬を指さしそうになり――寸前で手を引っ込めた。
「で、さ。その......マイの、それ」
マイは本の端に指を挟み、顔だけゆっくりと上げた。
ヒトミがそこで初めて目を開ける。
二人の視線が、空中でぴたりと絡んだ。
言葉は、落ちてこない。
ヒトミは何も言わずにまた目を閉じ、マイも何事もなかったように本へ視線を戻す。
アンリは、そのやりとりに頬をふくらませた。金髪の毛先を、いつもより強く指に巻きつける。
「......なんでおそろいにしてるのさ」
誰も答えない。
「......はいはい、ボクだけ知らないやつね」
つぶやいて、座席の背にもたれ、むすっとそっぽを向く。
その横顔をちらりと見てから、ルミナは何も言わず、窓の外へ目を戻した。
◇
揺れが落ち着いた頃、アンリがふいにまた顔を上げた。
「......ねぇ、ヒマ」
誰も返事をしない。
アンリは頬をふくらませ、今度は金髪を指でくるくるいじりながら、向かいのヴェイルをじいっと見つめ始めた。数秒。十数秒。ヴェイルは気づいているはずなのに、まったく反応しない。
「ねぇヴェイル!」
ついに声が飛ぶ。
「......何です」
マイが本から顔も上げずに応じる。
「アンリ、そんなに見ると嫌がられるわよ」
ヴェイルはほんのわずかに顔をそらし、短く息を吐いた。
「......落ち着くんです」
「えっ、フードかぶってると?」
「......暑い」
ヒトミが、目を閉じたまま低い声を落とす。
「じゃあ、外す? ここ、そんなに見てる人いないけど」
「......いいえ。外しません」
ルミナはくすっと笑った。
「アンリ、無理に聞いたらかわいそうだよ」
「だってさぁ、似合うんだもん......フードも兜も、なんか一人だけずるい」
「はいはい、嫉妬は心の中でね」
アンリはむくれながら、座席の背もたれにどさっと寄りかかった。
「......いいなぁ、なんでも似合う......ボクなんて何着ても『子どもサイズ』なんだよ?」
ヴェイルはそのぼやきを聞いたのか聞いていないのか、外の景色に目を戻し、ぽつりと答えた。
「......外したくないだけです」
「気分でそのスタイルなの!? なにそれ、かっこよ......」
「アンリ、声。馬車ごと揺れるわよ」
小さな笑いが一つだけ、馬車の中に落ちる。
その笑いに、うたた寝していた老人が目を開けた。前の席の商人に向かって、誰にともなくぼそっと呟く。
「若いのう。ああやって騒いどるうちが、まだ平和じゃ」
商人は苦笑してうなずき、それからルミナたちのほうへ目を向けた。
「皆さん、学園都市エスペリアへ?」
ルミナは身体を起こし、会釈をした。
「はい。エスペリアの学園まで行きます」
「おお、それはそれは。ずいぶん遠くまで」
商人は荷物の紐を直しながら続けた。
「今夜は途中の村で一泊のはずですよ。グレンフォード村、ご存じで?」
マイがようやく本から視線を外す。
「名前だけは地図で見ました。森のそばの村ですよね」
「ええ、森に囲まれた、静かなところです。ただ......」
そこで一度、言葉を切る。
アンリがすかさず身を乗り出した。金髪がふわっと揺れる。
「ただ? なに? 『ただ』ってなに?」
老人が先に口をはさんだ。
「クマじゃよ」
「クマ!?」
馬車の屋根まで響く声に、前のほうの御者がびくっと肩を跳ねさせる。
「アンリ、馬がびっくりするから」
「だってクマって、あのクマでしょ!? もふもふででっかい......!」
老人は鼻を鳴らした。
「もふもふというより『どすんどすん』じゃな。畑を荒らし、家畜をやっつけるほうよ」
商人は、真面目な声になった。
「ここ数ヶ月、周りの村でクマの目撃が続いているそうで。グレンフォードの近くでも、何度か」
「被害が出てるんですか?」
ルミナが尋ねると、商人は肩をすくめた。
「まだ大事にはなっていないようですが、皆さん用心しておられるとか。夜の外出は控えるよう、お触れが出ていると聞きました」
アンリは窓にべったりと貼りついた。
「クマ......本物!? やっっば!! 絶対見たい!! 見たい見たい見たい!! ねぇルミナ!! 本物だよ!? どうする!? 行く!? 見に行く!?」
「え、えっと......」
マイが本を閉じずに応じる。
「アンリ、まず落ち着きましょう。クマは見世物じゃないわ」
「でもでもでも!! 本物のクマだよ!? 生きてるんだよ!? しかもここらへんに出るんでしょ!? ねぇちょっとくらいなら......ねぇ!!」
「ちょっとでは済まないから、だめです」
ヴェイルが静かに、しかしきっぱりと告げた。
「危険は避けます。これは命令です」
「えぇぇぇぇぇぇぇええぇえ!?!?」
馬車の天井に声が響いた。
商人はやや面食らいながら続ける。
「そ、そんなに興味がありますか......いや、まあ......危険ではありますが......」
「興味どころじゃないよ!! クマだよ!? 生クマだよ!? 人生で一度は見とかなきゃでしょ!? ボク、ぜったい――」
「アンリ」
ルミナが、声を強めた。
「あとで、ちゃんと話そう? 今はまず、無事に着くことを考えよう」
アンリは口を閉じ、しゅるしゅると座席に戻った。金髪をいじる指だけが、落ち着きなく動いている。
「......クマ......見たいのに......」
商人は苦笑しながら、声を落とした。
「クマの出没もそうですが......森の様子が変なんですよ。木が急に倒れたり、森の奥のほうで何か音がしたりと......」
ルミナは窓の外へ目を向けた。木々の色は濃いのに、その間に不自然に「抜けた」部分がある。
「......確かに、森が荒れている気がします」
マイが視線だけ外に向け、淡々と続けた。
「あの間隔、自然に空いた隙間じゃない。人の手で木を抜いてる。広さも形も揃ってるもの」
ヒトミが、まぶたをうすく持ち上げ、外を一度だけ見た。
「切り株の匂いがする。あんまり前じゃないわね」
「前じゃないって......いつ頃?」
ルミナが聞き返すと、ヒトミは肩をすくめた。
「乾ききってない。最近ってことでいいんじゃない?」
アンリは目を凝らして外を見ようとするが、揺れる窓の向こうにはただ濃い緑の塊しか見えない。
「ぜんっぜん分かんない......ボクの目、役に立たない......」
老人が、さきほどより低い声で呟いた。
「この一年で、森の形が変わったと聞いたことがあるのう。木を切る者と、逃げる獣と、追い払われる人と......誰が悪いとも言えんが」
商人はその言葉の続きを飲み込み、唇の端だけを引き結んだ。
◇
ガタン、と突然馬車が大きく揺れた。
「わっ......!」
ルミナは体を支え、アンリは半分跳ね上がるようにして座り直した。御者の怒鳴り声が響く。
「すまん! 道が塞がってる! 倒木だ! どかすまで待ってくれー!」
アンリが窓に貼りつくようにして叫んだ。
「うわっ、ほんとだ!! 見てルミナ!! 木がでっかいの倒れてる!! 迫力やばっ!!」
マイは本を閉じ、冷静に応じた。
「昨日の風で折れたんでしょうね。しばらく動けそうにないわ」
ヴェイルは無言で立ち上がり、フードを整えた。
「外を確認します。皆さんも、足元に注意して降りてください」
「あたしも行くわ」
ヒトミも短く告げる。
「放っておくと、アンリが走っていきそうだしね」
「あ、ボクそんな簡単に走らな......走るかも」
ルミナ、アンリ、マイは後に続いた。
外に出ると、森の匂いが急に濃くなった。風が枝を揺らし、パサパサと乾いた音が続く。
アンリは倒木を見て興奮が止まらない。金髪が揺れる。
「でっか!! なんか絵物語みたいじゃん!! 折れ方めっちゃ派手!! これ馬車ぶつかってたら絶対吹っ飛んでたよ!!」
「例えがうるさいわね」
マイは呆れたように息をついた。
「......頼むから静かにして。御者さんが困ってる」
ヴェイルは周囲の森を鋭く見回している。ふいに、その足が止まった。
「......何かの気配がします」
ルミナは息を飲む。
「え......?」
ヒトミがわずかに顔を上げた。
「......血と、土。混ざってる」
アンリがキョロキョロしながら告げる。
「え、なになに!? どこどこ!? 野生動物!? クマ!? 本物!? 来た!? ついに!?」
「アンリ、声」
そのときだった。アンリが、倒木の向こうに吸い寄せられるように目を向けた。
「......あれ......なんか黒い......」
ヴェイルが低く命じる。
「下がってください。確認するのは私がやります」
「ルミナ!! あれ!! 見える!? なんか......倒れてない!?」
アンリが指差した先。木々の影の中に、大きな黒い塊が横たわっていた。
ルミナは慎重に近づく。足音が、やけに耳に残る。一歩、また一歩。
そして、目に飛び込んできたのは――
「......クマ......」
ルミナは言葉を失った。
アンリは震える声で叫んだ。
「マ、マジで本物......!? え、うそ......これ......動いて......ない......?」
マイは息を呑む。
「......痩せてる。筋肉が落ちてる。普通じゃないわ」
クマは完全に動かない。毛並みは乱れ、肋骨が浮き出ていた。
ヴェイルが周囲を警戒しながら告げる。
「死んでいます。争った跡は見えませんね......飢えて、力尽きたと見るのが妥当です」
ヒトミは距離を詰めず、鼻を動かした。
「昨日か今日。まだ腐った匂いにはなってない」
アンリは声を震わせながらつぶやいた。
「......これ......ほんとに......死んでるの......? さっきまで、あんなにテンション上がってたのに......なんか......」
「アンリのせいじゃないわよ」
ヒトミは横目でアンリを一度だけ見た。
「見たいって思うのは普通。......でも、こういう終わり方、あたしは嫌い」
その言葉は優しさというより、彼女なりの正直な意見だった。
ルミナはそっとクマのそばに目を向けた。
クマの前足が伸ばせるあたりの地面に、かじりかけの干し肉や、硬くなったパンの欠片、つぶれた木の実がいくつも落ちている。どれも土にまみれてはいるが、新しく運ばれてきたばかりのように、まだ乾ききってはいなかった。
その先では、細い枝が折れ、何かを咥えていたような跡が、かすかに地面に残っている。
――胸が締めつけられる。
「......かわいそう......こんなに痩せて......どうして......」
マイは息をついた。
「森に何か起きてる。これは偶然じゃない」
「戻りましょう」
ヴェイルが静かに告げる。
「ここで長く立ち止まるのは危険です。まだ他に何かいるかもしれません」
アンリは呟いた。
「......さっきみたいに、ただ『見たい』って言ってたの......なんか......ごめん」
「反省はあとでまとめてしなさい」
マイが柔らかく応じる。
「今は、ここから離れるのが先」
ルミナは静かに頷いた。
倒木に、クマの死骸。そばに転がる、食べかけの餌。
ただの旅路なのに、空気が明らかに変わっていた。
何かが始まっている。そう感じずにはいられなかった。
倒木の片付けが終わり、馬車は再び動き始めた。
アンリは座席に座るなり、両膝を抱えて黙り込んだ。さっきまでの「クマ見たい見たい!!」の勢いが嘘のよう。指先だけが、金色の毛先をいじり続けている。
マイが横目で心配そうに見た。
「......大丈夫?」
アンリは唇を結び、間を置いてから答えた。
「......クマ、あんな痩せるんだね」
ルミナはそっと手を伸ばし、アンリの肩に触れる。
「アンリのせいじゃないよ. 森のことは、森の時間で起きてるんだと思う」
「......うん」
ヒトミは窓の外に目を向け、ぽつりと告げた。
「生きる場所を失うと、こうなる。人でも、獣でも」
それ以上は何も言わない。その横顔はどこか遠いものを見ているようで、ルミナは胸がざわついた。
ヴェイルは何も言わない。ただ、森の奥をずっと警戒していた。
◇
夕刻、馬車はようやくグレンフォード村に到着した。
入口の木製の門には、村の警備をする男が二人。どちらも、普段より明らかに肩に力が入っている。馬車が近づくと、一瞬だけ槍を構えかけたほどだ。
「お、お疲れさまです......宿泊の方ですか?」
御者が頷くと、警備の男はほっとしたように息を吐いた。
「どうぞ......お気をつけて。今日は......ええ、ざわついてまして」
「ざわついている、ですか」
ヴェイルが短く問い返すと、男は目を泳がせた。
「その......詳しくは、村の者から聞いてください」
「分かりました。ありがとうございます」
ヴェイルがきちんと礼を述べると、男は表情を和らげた。
馬車が村へ入る。
アンリが首をかしげながら告げる。
「......ねえ、人、いなくない?」
マイが周囲を観察しながら応じた。
「お店は開いているのに、誰も外にいない。窓まで全部閉まってる。......これはクマのせいだけじゃないわね」
ヴェイルは低くつぶやいた。
「視線を感じます。......建物の中から」
ヒトミは村の奥にゆっくり顔を向ける。
「外に出るの、諦めた顔ね。怖いのか、怒ってるのか......どっちもかな」
ルミナは胸に小さなざわめきを感じた。
(どうしてここまで、村全体が怯えているの......?)
馬車は広場に着き、宿屋の前で止まった。
ルミナたちが降りたとき――広場の端で、村人同士の会話が耳に飛び込んできた。
「......入り口近くで、クマが倒れてたらしい」
「死んでたのか? 誰かにやられたのか?」
「いや......痩せてて......自分で倒れたんじゃないかって話だ」
アンリが息を呑む。
「さっきの......やっぱり、そうだったんだ......」
ヒトミは森に目を向け、短く、静かに告げた。
「この村、まだ何かあるわね」
マイは腕を組んで考え込む。
「理由が分からない。不自然すぎる」
ルミナは宿屋の扉に手をかけながら、振り返って森を見た。風が吹き、木々が揺れた。
その音はまるで森そのものが、何かを言おうとしているみたいだった。
(――何が始まっているんだろう)
理由は分からない。けれど、胸の奥にひっかかるような感覚だけは消えない。
ルミナはゆっくり扉を開けた。この村で、きっと何かに出会う。
その予感だけが、確かだった。




