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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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無邪気な好奇心、静かなる飢え

乗合馬車は王都を離れ、北へ向かう街道を揺れながら進んでいた。舗装の甘い石の上を鉄の輪が転がるたび、ガタンと衝撃が座席の板を通して伝わってくる。


窓の外では、畑が減り、低い林が増えていく。やがて林は森へと変わり、緑の壁が車窓を占めていった。


窓際に座るルミナは、甘栗色の髪をハーフアップにまとめ、外の変化を眺めている。


隣のヒトミは目を閉じたまま。黒に赤のメッシュを入れた長い髪が左目を隠し、右頬には大きな傷。眠っているわけではない。揺れに合わせて身体の芯だけを揺らし、外の気配を測っている。


向かいの席では、フードを深くかぶったヴェイルが背筋を伸ばして座る。その横で、腰まで届く金髪の毛先をいじりながら、アンリが両足をぶらぶらさせている。


マイはその隣。濃い茶色のショートボブを片方だけ耳にかけ、ヒトミと同じ位置に細い傷のある頬をわずかに伏せている。分厚い本を膝の上に広げ、視線を一度も上げずにページをめくり続ける。


馬車には他に、うたた寝をしている老人と、荷物に背中を預けた商人風の男が乗っている。狭い車内に、揺れと木の軋みと、誰かの息づかいだけが満ちていた。


揺れのリズムに全員が慣れてきた頃、アンリが金色の髪の先をくるくると指に巻きつけながら、向かい合って座る三人を順番に眺め始めた。


ヒトミの右頬に走る、大きな傷。


どんな場にいても隠そうとしない、真っすぐな傷。


そして、そのすぐ斜め隣で本を読んでいるマイの頬に――ヒトミと同じ位置に、細い傷が一本。


アンリは、むずむずしてきて口を開いた。


「ねぇ」


マイがページをめくる手を止めずに、片方の眉だけを上げる。


「なに?」


「ヒトミの傷はさ、ボク、知ってるけど......」


そこまで言って、ちらりとヒトミを見る。


ヒトミは目を閉じたまま、わずかに顎を引いた。


「あの時の、でしょ」


短く、それだけ。


アンリはうなずきかけて、今度はマイの頬を指さしそうになり――寸前で手を引っ込めた。


「で、さ。その......マイの、それ」


マイは本の端に指を挟み、顔だけゆっくりと上げた。


ヒトミがそこで初めて目を開ける。


二人の視線が、空中でぴたりと絡んだ。


言葉は、落ちてこない。


ヒトミは何も言わずにまた目を閉じ、マイも何事もなかったように本へ視線を戻す。


アンリは、そのやりとりに頬をふくらませた。金髪の毛先を、いつもより強く指に巻きつける。


「......なんでおそろいにしてるのさ」


誰も答えない。


「......はいはい、ボクだけ知らないやつね」


つぶやいて、座席の背にもたれ、むすっとそっぽを向く。


その横顔をちらりと見てから、ルミナは何も言わず、窓の外へ目を戻した。



揺れが落ち着いた頃、アンリがふいにまた顔を上げた。


「......ねぇ、ヒマ」


誰も返事をしない。


アンリは頬をふくらませ、今度は金髪を指でくるくるいじりながら、向かいのヴェイルをじいっと見つめ始めた。数秒。十数秒。ヴェイルは気づいているはずなのに、まったく反応しない。


「ねぇヴェイル!」


ついに声が飛ぶ。


「......何です」


マイが本から顔も上げずに応じる。


「アンリ、そんなに見ると嫌がられるわよ」


ヴェイルはほんのわずかに顔をそらし、短く息を吐いた。


「......落ち着くんです」


「えっ、フードかぶってると?」


「......暑い」


ヒトミが、目を閉じたまま低い声を落とす。


「じゃあ、外す? ここ、そんなに見てる人いないけど」


「......いいえ。外しません」


ルミナはくすっと笑った。


「アンリ、無理に聞いたらかわいそうだよ」


「だってさぁ、似合うんだもん......フードも兜も、なんか一人だけずるい」


「はいはい、嫉妬は心の中でね」


アンリはむくれながら、座席の背もたれにどさっと寄りかかった。


「......いいなぁ、なんでも似合う......ボクなんて何着ても『子どもサイズ』なんだよ?」


ヴェイルはそのぼやきを聞いたのか聞いていないのか、外の景色に目を戻し、ぽつりと答えた。


「......外したくないだけです」


「気分でそのスタイルなの!? なにそれ、かっこよ......」


「アンリ、声。馬車ごと揺れるわよ」


小さな笑いが一つだけ、馬車の中に落ちる。


その笑いに、うたた寝していた老人が目を開けた。前の席の商人に向かって、誰にともなくぼそっと呟く。


「若いのう。ああやって騒いどるうちが、まだ平和じゃ」


商人は苦笑してうなずき、それからルミナたちのほうへ目を向けた。


「皆さん、学園都市エスペリアへ?」


ルミナは身体を起こし、会釈をした。


「はい。エスペリアの学園まで行きます」


「おお、それはそれは。ずいぶん遠くまで」


商人は荷物の紐を直しながら続けた。


「今夜は途中の村で一泊のはずですよ。グレンフォード村、ご存じで?」


マイがようやく本から視線を外す。


「名前だけは地図で見ました。森のそばの村ですよね」


「ええ、森に囲まれた、静かなところです。ただ......」


そこで一度、言葉を切る。


アンリがすかさず身を乗り出した。金髪がふわっと揺れる。


「ただ? なに? 『ただ』ってなに?」


老人が先に口をはさんだ。


「クマじゃよ」


「クマ!?」


馬車の屋根まで響く声に、前のほうの御者がびくっと肩を跳ねさせる。


「アンリ、馬がびっくりするから」


「だってクマって、あのクマでしょ!? もふもふででっかい......!」


老人は鼻を鳴らした。


「もふもふというより『どすんどすん』じゃな。畑を荒らし、家畜をやっつけるほうよ」


商人は、真面目な声になった。


「ここ数ヶ月、周りの村でクマの目撃が続いているそうで。グレンフォードの近くでも、何度か」


「被害が出てるんですか?」


ルミナが尋ねると、商人は肩をすくめた。


「まだ大事にはなっていないようですが、皆さん用心しておられるとか。夜の外出は控えるよう、お触れが出ていると聞きました」


アンリは窓にべったりと貼りついた。


「クマ......本物!? やっっば!! 絶対見たい!! 見たい見たい見たい!! ねぇルミナ!! 本物だよ!? どうする!? 行く!? 見に行く!?」


「え、えっと......」


マイが本を閉じずに応じる。


「アンリ、まず落ち着きましょう。クマは見世物じゃないわ」


「でもでもでも!! 本物のクマだよ!? 生きてるんだよ!? しかもここらへんに出るんでしょ!? ねぇちょっとくらいなら......ねぇ!!」


「ちょっとでは済まないから、だめです」


ヴェイルが静かに、しかしきっぱりと告げた。


「危険は避けます。これは命令です」


「えぇぇぇぇぇぇぇええぇえ!?!?」


馬車の天井に声が響いた。


商人はやや面食らいながら続ける。


「そ、そんなに興味がありますか......いや、まあ......危険ではありますが......」


「興味どころじゃないよ!! クマだよ!? 生クマだよ!? 人生で一度は見とかなきゃでしょ!? ボク、ぜったい――」


「アンリ」


ルミナが、声を強めた。


「あとで、ちゃんと話そう? 今はまず、無事に着くことを考えよう」


アンリは口を閉じ、しゅるしゅると座席に戻った。金髪をいじる指だけが、落ち着きなく動いている。


「......クマ......見たいのに......」


商人は苦笑しながら、声を落とした。


「クマの出没もそうですが......森の様子が変なんですよ。木が急に倒れたり、森の奥のほうで何か音がしたりと......」


ルミナは窓の外へ目を向けた。木々の色は濃いのに、その間に不自然に「抜けた」部分がある。


「......確かに、森が荒れている気がします」


マイが視線だけ外に向け、淡々と続けた。


「あの間隔、自然に空いた隙間じゃない。人の手で木を抜いてる。広さも形も揃ってるもの」


ヒトミが、まぶたをうすく持ち上げ、外を一度だけ見た。


「切り株の匂いがする。あんまり前じゃないわね」


「前じゃないって......いつ頃?」


ルミナが聞き返すと、ヒトミは肩をすくめた。


「乾ききってない。最近ってことでいいんじゃない?」


アンリは目を凝らして外を見ようとするが、揺れる窓の向こうにはただ濃い緑の塊しか見えない。


「ぜんっぜん分かんない......ボクの目、役に立たない......」


老人が、さきほどより低い声で呟いた。


「この一年で、森の形が変わったと聞いたことがあるのう。木を切る者と、逃げる獣と、追い払われる人と......誰が悪いとも言えんが」


商人はその言葉の続きを飲み込み、唇の端だけを引き結んだ。



ガタン、と突然馬車が大きく揺れた。


「わっ......!」


ルミナは体を支え、アンリは半分跳ね上がるようにして座り直した。御者の怒鳴り声が響く。


「すまん! 道が塞がってる! 倒木だ! どかすまで待ってくれー!」


アンリが窓に貼りつくようにして叫んだ。


「うわっ、ほんとだ!! 見てルミナ!! 木がでっかいの倒れてる!! 迫力やばっ!!」


マイは本を閉じ、冷静に応じた。


「昨日の風で折れたんでしょうね。しばらく動けそうにないわ」


ヴェイルは無言で立ち上がり、フードを整えた。


「外を確認します。皆さんも、足元に注意して降りてください」


「あたしも行くわ」


ヒトミも短く告げる。


「放っておくと、アンリが走っていきそうだしね」


「あ、ボクそんな簡単に走らな......走るかも」


ルミナ、アンリ、マイは後に続いた。


外に出ると、森の匂いが急に濃くなった。風が枝を揺らし、パサパサと乾いた音が続く。


アンリは倒木を見て興奮が止まらない。金髪が揺れる。


「でっか!! なんか絵物語みたいじゃん!! 折れ方めっちゃ派手!! これ馬車ぶつかってたら絶対吹っ飛んでたよ!!」


「例えがうるさいわね」


マイは呆れたように息をついた。


「......頼むから静かにして。御者さんが困ってる」


ヴェイルは周囲の森を鋭く見回している。ふいに、その足が止まった。


「......何かの気配がします」


ルミナは息を飲む。


「え......?」


ヒトミがわずかに顔を上げた。


「......血と、土。混ざってる」


アンリがキョロキョロしながら告げる。


「え、なになに!? どこどこ!? 野生動物!? クマ!? 本物!? 来た!? ついに!?」


「アンリ、声」


そのときだった。アンリが、倒木の向こうに吸い寄せられるように目を向けた。


「......あれ......なんか黒い......」


ヴェイルが低く命じる。


「下がってください。確認するのは私がやります」


「ルミナ!! あれ!! 見える!? なんか......倒れてない!?」


アンリが指差した先。木々の影の中に、大きな黒い塊が横たわっていた。


ルミナは慎重に近づく。足音が、やけに耳に残る。一歩、また一歩。


そして、目に飛び込んできたのは――


「......クマ......」


ルミナは言葉を失った。


アンリは震える声で叫んだ。


「マ、マジで本物......!? え、うそ......これ......動いて......ない......?」


マイは息を呑む。


「......痩せてる。筋肉が落ちてる。普通じゃないわ」


クマは完全に動かない。毛並みは乱れ、肋骨が浮き出ていた。


ヴェイルが周囲を警戒しながら告げる。


「死んでいます。争った跡は見えませんね......飢えて、力尽きたと見るのが妥当です」


ヒトミは距離を詰めず、鼻を動かした。


「昨日か今日。まだ腐った匂いにはなってない」


アンリは声を震わせながらつぶやいた。


「......これ......ほんとに......死んでるの......? さっきまで、あんなにテンション上がってたのに......なんか......」


「アンリのせいじゃないわよ」


ヒトミは横目でアンリを一度だけ見た。


「見たいって思うのは普通。......でも、こういう終わり方、あたしは嫌い」


その言葉は優しさというより、彼女なりの正直な意見だった。


ルミナはそっとクマのそばに目を向けた。


クマの前足が伸ばせるあたりの地面に、かじりかけの干し肉や、硬くなったパンの欠片、つぶれた木の実がいくつも落ちている。どれも土にまみれてはいるが、新しく運ばれてきたばかりのように、まだ乾ききってはいなかった。


その先では、細い枝が折れ、何かを咥えていたような跡が、かすかに地面に残っている。


――胸が締めつけられる。


「......かわいそう......こんなに痩せて......どうして......」


マイは息をついた。


「森に何か起きてる。これは偶然じゃない」


「戻りましょう」


ヴェイルが静かに告げる。


「ここで長く立ち止まるのは危険です。まだ他に何かいるかもしれません」


アンリは呟いた。


「......さっきみたいに、ただ『見たい』って言ってたの......なんか......ごめん」


「反省はあとでまとめてしなさい」


マイが柔らかく応じる。


「今は、ここから離れるのが先」


ルミナは静かに頷いた。


倒木に、クマの死骸。そばに転がる、食べかけの餌。


ただの旅路なのに、空気が明らかに変わっていた。


何かが始まっている。そう感じずにはいられなかった。


倒木の片付けが終わり、馬車は再び動き始めた。


アンリは座席に座るなり、両膝を抱えて黙り込んだ。さっきまでの「クマ見たい見たい!!」の勢いが嘘のよう。指先だけが、金色の毛先をいじり続けている。


マイが横目で心配そうに見た。


「......大丈夫?」


アンリは唇を結び、間を置いてから答えた。


「......クマ、あんな痩せるんだね」


ルミナはそっと手を伸ばし、アンリの肩に触れる。


「アンリのせいじゃないよ. 森のことは、森の時間で起きてるんだと思う」


「......うん」


ヒトミは窓の外に目を向け、ぽつりと告げた。


「生きる場所を失うと、こうなる。人でも、獣でも」


それ以上は何も言わない。その横顔はどこか遠いものを見ているようで、ルミナは胸がざわついた。


ヴェイルは何も言わない。ただ、森の奥をずっと警戒していた。



夕刻、馬車はようやくグレンフォード村に到着した。


入口の木製の門には、村の警備をする男が二人。どちらも、普段より明らかに肩に力が入っている。馬車が近づくと、一瞬だけ槍を構えかけたほどだ。


「お、お疲れさまです......宿泊の方ですか?」


御者が頷くと、警備の男はほっとしたように息を吐いた。


「どうぞ......お気をつけて。今日は......ええ、ざわついてまして」


「ざわついている、ですか」


ヴェイルが短く問い返すと、男は目を泳がせた。


「その......詳しくは、村の者から聞いてください」


「分かりました。ありがとうございます」


ヴェイルがきちんと礼を述べると、男は表情を和らげた。


馬車が村へ入る。


アンリが首をかしげながら告げる。


「......ねえ、人、いなくない?」


マイが周囲を観察しながら応じた。


「お店は開いているのに、誰も外にいない。窓まで全部閉まってる。......これはクマのせいだけじゃないわね」


ヴェイルは低くつぶやいた。


「視線を感じます。......建物の中から」


ヒトミは村の奥にゆっくり顔を向ける。


「外に出るの、諦めた顔ね。怖いのか、怒ってるのか......どっちもかな」


ルミナは胸に小さなざわめきを感じた。


(どうしてここまで、村全体が怯えているの......?)


馬車は広場に着き、宿屋の前で止まった。


ルミナたちが降りたとき――広場の端で、村人同士の会話が耳に飛び込んできた。


「......入り口近くで、クマが倒れてたらしい」


「死んでたのか? 誰かにやられたのか?」


「いや......痩せてて......自分で倒れたんじゃないかって話だ」


アンリが息を呑む。


「さっきの......やっぱり、そうだったんだ......」


ヒトミは森に目を向け、短く、静かに告げた。


「この村、まだ何かあるわね」


マイは腕を組んで考え込む。


「理由が分からない。不自然すぎる」


ルミナは宿屋の扉に手をかけながら、振り返って森を見た。風が吹き、木々が揺れた。


その音はまるで森そのものが、何かを言おうとしているみたいだった。


(――何が始まっているんだろう)


理由は分からない。けれど、胸の奥にひっかかるような感覚だけは消えない。


ルミナはゆっくり扉を開けた。この村で、きっと何かに出会う。


その予感だけが、確かだった。

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