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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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倒れたクマとざわめく村

宿の扉を押し開けた瞬間、むっとした空気がルミナたちを包んだ。外の冷えた風とはちがう、人と料理と煙の混ざり合った熱気。


一階の広間は、ほとんど人で埋まっていた。


入口に近い卓には、村人らしい人々が肩を寄せ合って座り、湯気の立つ皿を囲んでいる。奥の大きな卓には、似たような装備をつけた男たちが陣取っていた。鎧こそ身につけていないが、腰の剣や、椅子にもたせかけた槍が目立つ。


(調査団……だっけ)


森の手前で会った御者がそう呼んでいた人たちだ、とルミナは思い出す。


「いらっしゃい」


カウンターの中から、丸い腹の男が顔を上げた。


目の下にくまを作った宿の主人は、五人の姿を見て、目を丸くする。


「旅のお客さんかい? こんな晩によく来たね」


「道が突然ふさがれまして」


ヴェイルが一歩前に出て、簡単に事情を話す。


「この宿で一晩、泊めていただければと」


主人は眉を寄せ、広間を一望した。空いている席はあるが、どの卓も人でいっぱいだ。二階のほうを見上げ、唸る。


「……部屋は、正直ぎりぎりだよ。調査団の方々が来てから、ずっとこんな調子でね。今もほとんど埋まってる」


ルミナは、そこかしこに積まれた荷物に目を止めた。


村の人のものらしい袋や毛布が積まれている。


家にいられない村人が、この宿に避難してきているのだと、ルミナにも分かった。


「一部屋だけなら、なんとかなるかもしれません」


主人はカウンターの下から鍵束を取り出す。


「二階のいちばん端の、小さい部屋だ。五人だとかなり窮屈だろうけど、それしか空いていない」


ルミナたちは顔を見合わせた。

アンリが小さく眉をしかめる。


「ぎゅうぎゅうかあ……でも、外で寝るよりましだよね」


「私はいいわ」


ヒトミがあっさり言う。


「私も、大丈夫です」


ルミナもうなずいた。


ヴェイルはみんなの顔を順に見てから、主人のほうを向いた。


「それでお願いします」


「ありがとうございます」


ルミナも頭を下げた。


主人は鍵を一本外し、卓の上に置くと、ため息をひとつ吐いた。


「部屋を使う前に、食事はどうする? 今ならまだ、温かいうちに出せるけど」


その言葉に、アンリのお腹が、ぐう、と素直な音を立てた。


ルミナはふきだしそうになるのをこらえる。アンリは耳まで赤くなって、マントでお腹を押さえた。


「……食べます」


マイが応じた。


「いま部屋に入ったら、きっと誰も動きたがらないもの」


「それはあるわね」


ヒトミが肩をすくめる。


「じゃあ、食事をお願いしてもいいでしょうか」


ヴェイルが主人に向き直る。


「任せときな。空いてる卓をひとつ使ってくれ。煮込みとスープとパンくらいなら、すぐに出せるよ」


主人がカウンターの奥へ引っ込む。


ルミナたちは、壁際の空いている卓に向かった。


椅子はどれも古くて、座るたびにきしむ音がした。


でも、外で寝るよりずっといい。その音を聞くと、「今日はここで休めるんだ」と少しほっとした。


少しして、湯気を立てる木皿が次々と運ばれてきた。


煮込まれた野菜と肉の匂いが鼻をくすぐり、ルミナのお腹も静かに鳴った。


スプーンを口に運ぶ。しょっぱいスープが、冷えた身体の奥にじんわり染み込んでいく。


(あったかい……)


それだけで、今日はもう十分だ、と思った。


朝からの馬車、森、道の真ん中で倒れていたクマ、この村のざわめき。


その全部が、まだはっきりと頭に残っている。


スプーンをもう一口すくったとき、隣の卓から、荒い声が飛んだ。


「だからよ、さっさと全部片づけちまえばいいんだ!」


ルミナの手が、ぴたりと止まる。


どっしりした体つきの男が、カップを机に叩きつけていた。


向かいの痩せた男が、苦笑まじりに肩をすくめる。


「クマの話かい」


「他に何がある。門のところまで下りてきたんだぞ? このままにしといたら、今度は人が襲われるかもしれないだろ!」


男はあごで入口の方をしゃくった。


門と言っているのは、この村の入り口のことだろう。


「子どもなんか外に出せやしない。畑だって台無しだ。あんなもん、見つけたら全部仕留めちまえばいいんだよ」


アンリがスープを飲みかけたまま、ぴたりと動きを止めた。


テーブルの下で、ヒトミの足先がアンリの足に触れた。


「こっちを見なさい」と告げるかわりの合図のように。


離れた卓から、低い声が返ってきた。


「言うほど簡単かねえ。あんた、山なんぞほとんど入ったことないだろ」


年配の男が、酒をちびちびやりながら口を開く。


さっきからほとんど黙っていたが、その目は、窓の向こう側――森の方角を見ていた。


「あいつらが下りてきたのは、気まぐれじゃない。山の奥の木を切り倒したのは、こっちの人間だ」


「またその話かよ」


最初の男が舌打ちした。


「事実だよ」

 

年配の男は淡々と続ける。


「昔からある木を倒して、道を広げて、馬車を通しやすくした。楽になったのは里の暮らしさ。その代わりに、クマたちが暮らす場所はどんどん狭くなっていった」


マイがスプーンを口元に運びかけたまま、目だけを動かした。


ルミナは、昼間見た光景を思い返す。


森の中で、不自然な方向に倒れていた木々。


道のそばで、痩せた身体を横たえていたクマ。


(……居場所、か)


「クマを全部狩って、それで終わりか?」


年配の男が続ける。


「次はイノシシ、その次はオオカミかね。森をいじるのをやめない限り、同じことが続くだけだ」


「じゃあどうしろってんだよ!」


最初の男の声が一段大きくなり、広間の空気がぴんと張りつめた。


「森を元に戻せってか? そんなことできるかよ。こっちはこっちで食っていかなきゃなんねえんだ!」


アンリがぐっとスプーンを握る。


ヒトミは目だけでそちらを見て、何も言わないまま、自分の皿のパンをちぎった。


(みんな、それぞれ言っていることは分かるのに)


ルミナは、スープの表面に映る灯りを見つめた。


揺れる光が、さっきの言葉に反応するみたいに震える。


別の卓から、乾いた笑い声がした。


「まあまあ、どっちでもいいじゃないか」


痩せた男がカップをくるくる回しながら、肩をすくめる。


「どうせ最後は、あの人たちが決めるんだろ。森をどうするとか、クマをどうするとかさ」


その先には、さっきから地図を広げていた男たちがいた。


調査団の卓だ。テーブルの上には、村と森の周りを描いた簡単な地図が広がっている。


地図の上で石を動かしていた男が、一度だけ顔を上げた。


「今は状況を確かめているところだ」


その男が、広間に届く声で告げる。


「森とクマの様子を。軽々しく結論は出せない」


言っていることはまっとうだった。


けれど、その声はどこか遠くから響いてくるように感じられた。


「だってさ」


痩せた男が笑う。


「だから俺たちは、襲われないように祈って、あとは任せときゃいいのさ」


「任せてばかりも、楽じゃないよ」


年配の男がぽつりと呟く。


「決まったことに従うのは簡単だけど、それで何がどうなったかは、誰も教えてくれやしない」


アンリが、スプーンの先でパンをつついた。


「......なんか、空気、やばくない?」


今度の声は、ルミナのすぐ横だけに届くくらいの小ささだった。


「みんな同じクマの話してるのに、見てる場所が全然ちがうっていうか」


「そういうものよ」


マイが応じる。


「自分の暮らしからしか考えられないもの。畑を守りたい人、森を守りたい人、自分の家族だけ守りたい人……どれも間違いじゃないから、余計にぶつかるのよ」


「本気でぶつかると、だいたいろくな終わり方にならないわ」


ヒトミが、カップの縁を指でなぞりながら続けた。


「血が出るか、誰かが黙るか。そのどっちか」


ルミナは、広間の隅へ目を向けた。


ヴェイルは、スープを口に運びながら、何も言わずに全体を見ている。


その目の動きから、誰が怒っていて、誰が黙っているのかだけは、確かに捉えているのだと分かった。


「……とりあえず、今夜はちゃんと食べて、ちゃんと寝ましょう」


マイがカップを置く。


「どれだけ心配しても、今ここで決められることなんて、あまりないもの」


「じゃあボク、おかわりしていい?」


アンリが、明るい声で顔を上げた。


「明日もきっとバタバタするし、今のうちに元気ためとかなきゃ」


「食べ過ぎて動けなくなるのはナシよ」


ヒトミがくすりと笑う。


主人が苦笑しながら鍋を抱えて近づき、「若い子は食べなさい」と言ってスープをよそってやる。その小さな笑い声が、広間の緊張をやわらげた。


そのやり取りを聞きながら、ルミナはもう一度だけ広間を見回した。


同じ村に住む人たちの顔が、みんな別の方向を向いている。


(クマを怖がっているのも、クマのいる場所を変えたのも、きっと人なんだ)


そこまで思って、ルミナはスプーンを握り直した。


最後まで言葉にはならないまま、スープの温かさだけが、胸の中に沈んでいった。


食事を終えると、主人が二階への階段を指さした。


「部屋は上だよ。廊下のいちばん端。鍵はこれね。水差しと毛布はもう運んである」


ヴェイルが鍵を受け取り、五人は階段を上がった。


きしむ段板の音が、さっきの広間のざわめきから、自分たちを少しずつ遠ざけていく。


二階の廊下は、思ったより暗かった。壁にかかる小さなランプの明かりが、途切れ途切れに床を照らしている。


突き当たりの扉の前で、ヴェイルが鍵を差し込んだ。


金属が噛み合う音とともに、扉が内側へ開く。


中は、想像以上に狭かった。


ベッドが二つ。小さな机がひとつ。それから、畳まれた毛布が床に置かれている。窓は小さいものがひとつだけ。


五人が入ると、部屋はすぐいっぱいになった。


「わぁ……ほんとにぎゅうぎゅうだね」


アンリが苦笑して、その場の床にぱたんと座り込んだ。


「まあ、雨風しのげるだけましよ」


マイが荷物を壁際に寄せる。


「外で寝るよりずっといいわ」


ヴェイルが部屋をぐるりと見回し、扉のそばに目を止めた。


「ベッドは四人で使ってください。私はここで休みます」

「え? 床でいいの?」


ヒトミが目を丸くする。


「扉のそばなら、誰か来てもすぐ分かります。私は壁にもたれていれば平気です」


ヴェイルがいつもの調子で言うと、ヒトミは小さくため息をついた。


「……ほんと、そういう役目はすぐ引き受けるのね。でも助かるわ」


「じゃあ、このベッドはルミナと私ね」


マイが片方のベッドをぽん、と叩く。


「二人なら何とかなるでしょ」


「はい。大丈夫です」


ルミナはうなずき、自分の荷物をベッドの足元に置いた。


「もう一つは、あたしとアンリね」


ヒトミがもう片方のベッドの端に腰を下ろす。


「え、ボクもベッドでいいの?」


アンリが顔を上げる。


「床は固いし冷たいわよ。落ちないように気をつければいいだけ」

「……じゃあ、そっち半分だけ借りる」


アンリは照れくさそうに言って、ヒトミの横に腰を下ろした。


狭い部屋のあちこちで、布と金具と木のこすれる音がする。

靴を脱ぐ音、マントを掛ける音、腰袋を下ろす音。


それらがひととおり終わると、部屋の中はふっと静かになった。


ルミナは、窓のほうを見た。

「……ちょっとだけ、外を見てもいいですか」


そう言ってベッドから立ち上がり、窓を少し開けた。

きしむ音といっしょに、冷たい夜の空気が部屋に入ってくる。


夜の村は静かだった。

すぐ下の通りには、家の窓や戸口から、ところどころ小さな明かりがもれているだけだ。


その明かりが途切れた先は、もうほとんど真っ暗だ。

屋根の列のさらに向こうに、森が黒いかたまりみたいに重なっているのが、うっすら分かる。


(あのあたりだった気がする。木がたくさん倒れていた斜面)


今は暗くて、細かいところまでは見えない。

それでも、昼間に見た木のなくなった場所を思い出して、ルミナの胸は少し重くなった。


すぐ後ろから声がした。


「なにか見える?」


マイの声だ。


「少しだけ、です。灯りと……森の影」


マイも窓の下に立ち、ルミナの隣から外を見上げた。


しばらく黙ったままだったが、息を吐く。


「昼間見たときと、形は変わっていないみたいね」


「馬車から見えた、あの削れていた場所……あそこですよね」


「たぶん、そうね。今は暗くて確認できないけれど」


マイは窓から目を離し、ルミナの横顔をちらりと見た。


何かを言いかけたが、その言葉は唇の内側で消える。


背後で、毛布の中からぼそりと声がした。


「……クマ、あの森から来たのかな」


アンリだ。顔だけ毛布から出して、天井の方を見ている。


「さあね」


ヒトミが軽く答える。


「どこから来たって、今はもうここにいないわ」


「うん……」


アンリの声が、また毛布に吸い込まれていく。


ルミナは、窓の外の黒い影から目を離せなかった。


森、その前にある村、そのあいだにできた、見えない線。


(さっき広間で言い合っていた人たちも、あの森を見て暮らしているんだ)


クマを怖がる声。


森を削ったことを悔やむ声。


誰かに任せたいと笑う声。


全部、さっき同じ部屋の中で響いていた。


今は、板壁一枚向こうの暗闇に溶けている。


「そろそろ閉めましょうか」


マイが呟く。


「はい」


ルミナが窓を下ろすと、木枠が小さな音を立ててはまり、冷たい空気が遮られた。


部屋の中に残ったのは、五人の息づかいと、遠くで鳴る風の音だけだった。


灯りを落とすと、狭い部屋は、さらに小さな世界になった。


アンリが毛布の中で丸まり、ヒトミはベッドの上で目を閉じる。


マイは天井を見上げてから、ルミナの隣で横になった。


扉のそばでは、ヴェイルが背中を壁につけたまま、目を閉じている。


ルミナは、薄暗い天井を見つめながら、さっきの広間の声を思い返した。


(クマがいなければいいって言っていた人も、森を壊したのはこっちだって言っていた人も、きっと全部、本気なんだ)


正しいかどうか、ではなく。


怖いかどうか、損か得か、でもなく。


ただ「ここで生きたい」と思っている人たちの声。


クマが道の真ん中で倒れていた光景と、森の黒い影が、胸の中で重なっていく。


(明日の朝、この村を出ても)


あの倒れたクマと、この村で聞いた声たちは、きっと忘れない。


理由はまだ分からないけれど、そう思った。


目を閉じると、風の音だけが、ゆっくりと耳に残った。


どこかで木々が揺れる気配を想像しながら、ルミナの意識は、少しずつ静かな暗闇の中に沈んでいった。

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