倒れたクマとざわめく村
宿の扉を押し開けた瞬間、むっとした空気がルミナたちを包んだ。外の冷えた風とはちがう、人と料理と煙の混ざり合った熱気。
一階の広間は、ほとんど人で埋まっていた。
入口に近い卓には、村人らしい人々が肩を寄せ合って座り、湯気の立つ皿を囲んでいる。奥の大きな卓には、似たような装備をつけた男たちが陣取っていた。鎧こそ身につけていないが、腰の剣や、椅子にもたせかけた槍が目立つ。
(調査団……だっけ)
森の手前で会った御者がそう呼んでいた人たちだ、とルミナは思い出す。
「いらっしゃい」
カウンターの中から、丸い腹の男が顔を上げた。
目の下にくまを作った宿の主人は、五人の姿を見て、目を丸くする。
「旅のお客さんかい? こんな晩によく来たね」
「道が突然ふさがれまして」
ヴェイルが一歩前に出て、簡単に事情を話す。
「この宿で一晩、泊めていただければと」
主人は眉を寄せ、広間を一望した。空いている席はあるが、どの卓も人でいっぱいだ。二階のほうを見上げ、唸る。
「……部屋は、正直ぎりぎりだよ。調査団の方々が来てから、ずっとこんな調子でね。今もほとんど埋まってる」
ルミナは、そこかしこに積まれた荷物に目を止めた。
村の人のものらしい袋や毛布が積まれている。
家にいられない村人が、この宿に避難してきているのだと、ルミナにも分かった。
「一部屋だけなら、なんとかなるかもしれません」
主人はカウンターの下から鍵束を取り出す。
「二階のいちばん端の、小さい部屋だ。五人だとかなり窮屈だろうけど、それしか空いていない」
ルミナたちは顔を見合わせた。
アンリが小さく眉をしかめる。
「ぎゅうぎゅうかあ……でも、外で寝るよりましだよね」
「私はいいわ」
ヒトミがあっさり言う。
「私も、大丈夫です」
ルミナもうなずいた。
ヴェイルはみんなの顔を順に見てから、主人のほうを向いた。
「それでお願いします」
「ありがとうございます」
ルミナも頭を下げた。
主人は鍵を一本外し、卓の上に置くと、ため息をひとつ吐いた。
「部屋を使う前に、食事はどうする? 今ならまだ、温かいうちに出せるけど」
その言葉に、アンリのお腹が、ぐう、と素直な音を立てた。
ルミナはふきだしそうになるのをこらえる。アンリは耳まで赤くなって、マントでお腹を押さえた。
「……食べます」
マイが応じた。
「いま部屋に入ったら、きっと誰も動きたがらないもの」
「それはあるわね」
ヒトミが肩をすくめる。
「じゃあ、食事をお願いしてもいいでしょうか」
ヴェイルが主人に向き直る。
「任せときな。空いてる卓をひとつ使ってくれ。煮込みとスープとパンくらいなら、すぐに出せるよ」
主人がカウンターの奥へ引っ込む。
ルミナたちは、壁際の空いている卓に向かった。
椅子はどれも古くて、座るたびにきしむ音がした。
でも、外で寝るよりずっといい。その音を聞くと、「今日はここで休めるんだ」と少しほっとした。
少しして、湯気を立てる木皿が次々と運ばれてきた。
煮込まれた野菜と肉の匂いが鼻をくすぐり、ルミナのお腹も静かに鳴った。
スプーンを口に運ぶ。しょっぱいスープが、冷えた身体の奥にじんわり染み込んでいく。
(あったかい……)
それだけで、今日はもう十分だ、と思った。
朝からの馬車、森、道の真ん中で倒れていたクマ、この村のざわめき。
その全部が、まだはっきりと頭に残っている。
スプーンをもう一口すくったとき、隣の卓から、荒い声が飛んだ。
「だからよ、さっさと全部片づけちまえばいいんだ!」
ルミナの手が、ぴたりと止まる。
どっしりした体つきの男が、カップを机に叩きつけていた。
向かいの痩せた男が、苦笑まじりに肩をすくめる。
「クマの話かい」
「他に何がある。門のところまで下りてきたんだぞ? このままにしといたら、今度は人が襲われるかもしれないだろ!」
男はあごで入口の方をしゃくった。
門と言っているのは、この村の入り口のことだろう。
「子どもなんか外に出せやしない。畑だって台無しだ。あんなもん、見つけたら全部仕留めちまえばいいんだよ」
アンリがスープを飲みかけたまま、ぴたりと動きを止めた。
テーブルの下で、ヒトミの足先がアンリの足に触れた。
「こっちを見なさい」と告げるかわりの合図のように。
離れた卓から、低い声が返ってきた。
「言うほど簡単かねえ。あんた、山なんぞほとんど入ったことないだろ」
年配の男が、酒をちびちびやりながら口を開く。
さっきからほとんど黙っていたが、その目は、窓の向こう側――森の方角を見ていた。
「あいつらが下りてきたのは、気まぐれじゃない。山の奥の木を切り倒したのは、こっちの人間だ」
「またその話かよ」
最初の男が舌打ちした。
「事実だよ」
年配の男は淡々と続ける。
「昔からある木を倒して、道を広げて、馬車を通しやすくした。楽になったのは里の暮らしさ。その代わりに、クマたちが暮らす場所はどんどん狭くなっていった」
マイがスプーンを口元に運びかけたまま、目だけを動かした。
ルミナは、昼間見た光景を思い返す。
森の中で、不自然な方向に倒れていた木々。
道のそばで、痩せた身体を横たえていたクマ。
(……居場所、か)
「クマを全部狩って、それで終わりか?」
年配の男が続ける。
「次はイノシシ、その次はオオカミかね。森をいじるのをやめない限り、同じことが続くだけだ」
「じゃあどうしろってんだよ!」
最初の男の声が一段大きくなり、広間の空気がぴんと張りつめた。
「森を元に戻せってか? そんなことできるかよ。こっちはこっちで食っていかなきゃなんねえんだ!」
アンリがぐっとスプーンを握る。
ヒトミは目だけでそちらを見て、何も言わないまま、自分の皿のパンをちぎった。
(みんな、それぞれ言っていることは分かるのに)
ルミナは、スープの表面に映る灯りを見つめた。
揺れる光が、さっきの言葉に反応するみたいに震える。
別の卓から、乾いた笑い声がした。
「まあまあ、どっちでもいいじゃないか」
痩せた男がカップをくるくる回しながら、肩をすくめる。
「どうせ最後は、あの人たちが決めるんだろ。森をどうするとか、クマをどうするとかさ」
その先には、さっきから地図を広げていた男たちがいた。
調査団の卓だ。テーブルの上には、村と森の周りを描いた簡単な地図が広がっている。
地図の上で石を動かしていた男が、一度だけ顔を上げた。
「今は状況を確かめているところだ」
その男が、広間に届く声で告げる。
「森とクマの様子を。軽々しく結論は出せない」
言っていることはまっとうだった。
けれど、その声はどこか遠くから響いてくるように感じられた。
「だってさ」
痩せた男が笑う。
「だから俺たちは、襲われないように祈って、あとは任せときゃいいのさ」
「任せてばかりも、楽じゃないよ」
年配の男がぽつりと呟く。
「決まったことに従うのは簡単だけど、それで何がどうなったかは、誰も教えてくれやしない」
アンリが、スプーンの先でパンをつついた。
「......なんか、空気、やばくない?」
今度の声は、ルミナのすぐ横だけに届くくらいの小ささだった。
「みんな同じクマの話してるのに、見てる場所が全然ちがうっていうか」
「そういうものよ」
マイが応じる。
「自分の暮らしからしか考えられないもの。畑を守りたい人、森を守りたい人、自分の家族だけ守りたい人……どれも間違いじゃないから、余計にぶつかるのよ」
「本気でぶつかると、だいたいろくな終わり方にならないわ」
ヒトミが、カップの縁を指でなぞりながら続けた。
「血が出るか、誰かが黙るか。そのどっちか」
ルミナは、広間の隅へ目を向けた。
ヴェイルは、スープを口に運びながら、何も言わずに全体を見ている。
その目の動きから、誰が怒っていて、誰が黙っているのかだけは、確かに捉えているのだと分かった。
「……とりあえず、今夜はちゃんと食べて、ちゃんと寝ましょう」
マイがカップを置く。
「どれだけ心配しても、今ここで決められることなんて、あまりないもの」
「じゃあボク、おかわりしていい?」
アンリが、明るい声で顔を上げた。
「明日もきっとバタバタするし、今のうちに元気ためとかなきゃ」
「食べ過ぎて動けなくなるのはナシよ」
ヒトミがくすりと笑う。
主人が苦笑しながら鍋を抱えて近づき、「若い子は食べなさい」と言ってスープをよそってやる。その小さな笑い声が、広間の緊張をやわらげた。
そのやり取りを聞きながら、ルミナはもう一度だけ広間を見回した。
同じ村に住む人たちの顔が、みんな別の方向を向いている。
(クマを怖がっているのも、クマのいる場所を変えたのも、きっと人なんだ)
そこまで思って、ルミナはスプーンを握り直した。
最後まで言葉にはならないまま、スープの温かさだけが、胸の中に沈んでいった。
食事を終えると、主人が二階への階段を指さした。
「部屋は上だよ。廊下のいちばん端。鍵はこれね。水差しと毛布はもう運んである」
ヴェイルが鍵を受け取り、五人は階段を上がった。
きしむ段板の音が、さっきの広間のざわめきから、自分たちを少しずつ遠ざけていく。
二階の廊下は、思ったより暗かった。壁にかかる小さなランプの明かりが、途切れ途切れに床を照らしている。
突き当たりの扉の前で、ヴェイルが鍵を差し込んだ。
金属が噛み合う音とともに、扉が内側へ開く。
中は、想像以上に狭かった。
ベッドが二つ。小さな机がひとつ。それから、畳まれた毛布が床に置かれている。窓は小さいものがひとつだけ。
五人が入ると、部屋はすぐいっぱいになった。
「わぁ……ほんとにぎゅうぎゅうだね」
アンリが苦笑して、その場の床にぱたんと座り込んだ。
「まあ、雨風しのげるだけましよ」
マイが荷物を壁際に寄せる。
「外で寝るよりずっといいわ」
ヴェイルが部屋をぐるりと見回し、扉のそばに目を止めた。
「ベッドは四人で使ってください。私はここで休みます」
「え? 床でいいの?」
ヒトミが目を丸くする。
「扉のそばなら、誰か来てもすぐ分かります。私は壁にもたれていれば平気です」
ヴェイルがいつもの調子で言うと、ヒトミは小さくため息をついた。
「……ほんと、そういう役目はすぐ引き受けるのね。でも助かるわ」
「じゃあ、このベッドはルミナと私ね」
マイが片方のベッドをぽん、と叩く。
「二人なら何とかなるでしょ」
「はい。大丈夫です」
ルミナはうなずき、自分の荷物をベッドの足元に置いた。
「もう一つは、あたしとアンリね」
ヒトミがもう片方のベッドの端に腰を下ろす。
「え、ボクもベッドでいいの?」
アンリが顔を上げる。
「床は固いし冷たいわよ。落ちないように気をつければいいだけ」
「……じゃあ、そっち半分だけ借りる」
アンリは照れくさそうに言って、ヒトミの横に腰を下ろした。
狭い部屋のあちこちで、布と金具と木のこすれる音がする。
靴を脱ぐ音、マントを掛ける音、腰袋を下ろす音。
それらがひととおり終わると、部屋の中はふっと静かになった。
ルミナは、窓のほうを見た。
「……ちょっとだけ、外を見てもいいですか」
そう言ってベッドから立ち上がり、窓を少し開けた。
きしむ音といっしょに、冷たい夜の空気が部屋に入ってくる。
夜の村は静かだった。
すぐ下の通りには、家の窓や戸口から、ところどころ小さな明かりがもれているだけだ。
その明かりが途切れた先は、もうほとんど真っ暗だ。
屋根の列のさらに向こうに、森が黒いかたまりみたいに重なっているのが、うっすら分かる。
(あのあたりだった気がする。木がたくさん倒れていた斜面)
今は暗くて、細かいところまでは見えない。
それでも、昼間に見た木のなくなった場所を思い出して、ルミナの胸は少し重くなった。
すぐ後ろから声がした。
「なにか見える?」
マイの声だ。
「少しだけ、です。灯りと……森の影」
マイも窓の下に立ち、ルミナの隣から外を見上げた。
しばらく黙ったままだったが、息を吐く。
「昼間見たときと、形は変わっていないみたいね」
「馬車から見えた、あの削れていた場所……あそこですよね」
「たぶん、そうね。今は暗くて確認できないけれど」
マイは窓から目を離し、ルミナの横顔をちらりと見た。
何かを言いかけたが、その言葉は唇の内側で消える。
背後で、毛布の中からぼそりと声がした。
「……クマ、あの森から来たのかな」
アンリだ。顔だけ毛布から出して、天井の方を見ている。
「さあね」
ヒトミが軽く答える。
「どこから来たって、今はもうここにいないわ」
「うん……」
アンリの声が、また毛布に吸い込まれていく。
ルミナは、窓の外の黒い影から目を離せなかった。
森、その前にある村、そのあいだにできた、見えない線。
(さっき広間で言い合っていた人たちも、あの森を見て暮らしているんだ)
クマを怖がる声。
森を削ったことを悔やむ声。
誰かに任せたいと笑う声。
全部、さっき同じ部屋の中で響いていた。
今は、板壁一枚向こうの暗闇に溶けている。
「そろそろ閉めましょうか」
マイが呟く。
「はい」
ルミナが窓を下ろすと、木枠が小さな音を立ててはまり、冷たい空気が遮られた。
部屋の中に残ったのは、五人の息づかいと、遠くで鳴る風の音だけだった。
灯りを落とすと、狭い部屋は、さらに小さな世界になった。
アンリが毛布の中で丸まり、ヒトミはベッドの上で目を閉じる。
マイは天井を見上げてから、ルミナの隣で横になった。
扉のそばでは、ヴェイルが背中を壁につけたまま、目を閉じている。
ルミナは、薄暗い天井を見つめながら、さっきの広間の声を思い返した。
(クマがいなければいいって言っていた人も、森を壊したのはこっちだって言っていた人も、きっと全部、本気なんだ)
正しいかどうか、ではなく。
怖いかどうか、損か得か、でもなく。
ただ「ここで生きたい」と思っている人たちの声。
クマが道の真ん中で倒れていた光景と、森の黒い影が、胸の中で重なっていく。
(明日の朝、この村を出ても)
あの倒れたクマと、この村で聞いた声たちは、きっと忘れない。
理由はまだ分からないけれど、そう思った。
目を閉じると、風の音だけが、ゆっくりと耳に残った。
どこかで木々が揺れる気配を想像しながら、ルミナの意識は、少しずつ静かな暗闇の中に沈んでいった。




