第30話 死んだ人の声
『KAGAMIより。前方の窪みに、人の手の入った痕跡はありません。前回の調査のときのままです』
第二十八層、白骨回廊。
白い岩の柱が左右から迫る、天井の低い窪みの前で、私は足を止めた。
◇
今日は、昇降機が動いていた。
地上から第二十五層の中継キャンプまで、四十分。
あの日、腕が震えるほどロープを伝って下りた縦穴を、鉄の籠は、何事もなかったように下っていった。
一緒に来たのは、灯火の四人と、早乙女さん。
それから、御子柴さんと、警察の深層隊員たち。蜜灯草の畑を、根こそぎ片付けるために来ている。
畑の下の裂け目にいた骨喰いは、香の匂いが薄れるにつれて、深層へ続く縦穴を降りていったことが、警察の観測で確かめられていた。
それでも今日は、KAGAMIのドローンが、ずっと天井を見張っている。
真壁さんは、中継キャンプで、KAGAMIのドローンと通信をつないでいた。
白骨回廊の入口に新しく置いた中継器のおかげで、今日は、ここまで声が届く。
『灰原さん。聞こえますか』
「聞こえます」
私は、窪みの前にしゃがみ込んだ。
床に、三つの岩。
白い粉を、うっすらとかぶっている。
右の壁の、床から一・四メートルの高さに、細い亀裂。
七年間、17番の札が埋もれていた場所だ。
鞄から、小さな包みを取り出す。
千春さんから預かってきた、白い小菊。
「私は、あの人のいた場所には、行けないから。灰原さん、お願いね」
出発の朝、千春さんは、そう言って、包みを私の手に乗せた。
小菊を、岩の前に置く。
灯火の四人が、ヘルメットを脱いだ。早乙女さんも。
私は、手を合わせた。
――お疲れさまでした。
現場に入るたびに、心の中で言う言葉。
今日は、声に出して言った。
「お疲れさまでした、志摩さん」
◇
志摩さんの鞄を開ける。
内ポケットの奥に、番号札の束。
1番から20番まで。17番だけが欠けた、十九枚の束。
私は、上着のポケットから、17番の札を出した。
角の丸くなった、黄色いプラスチック。
七年間、この亀裂の奥で、白い粉に埋もれていた札。
16番と、18番の間に、そっと差し込む。
束の厚みが、ほんの少しだけ増した。
二十枚。
七年ぶりに、志摩さんの札が、全部揃った。
「灰原さん」
犬飼さんが、少し後ろから、静かに言った。
「よかったですね」
「はい」
それ以上、言葉が出てこなかった。
犬飼さんも、それ以上、何も言わなかった。
私は、しばらく、その束を握っていた。
それから、鞄の内ポケットに戻して、留め金をかけた。
「真壁さん」
『はい』
「会長に、伝えてください。合同鑑識室の室長、お受けします、と」
通信機の向こうで、真壁さんが息を吸う音がした。
『……はい! すぐ伝えます!』
後ろで、日向さんと日陰さんが、同時に拳を突き上げた。
結城さんが、杖を抱えたまま、ぴょんと跳ねた。
早乙女さんが、私の肩を、軽く叩いた。
「室長。うちの新人の講習、そのうち頼むよ」
「はい。現場の読み方から」
◇
白骨回廊の東の端では、警察の隊員たちが、蜜灯草を一本ずつ抜いていた。
赤く灯っていた数千の花が、袋の中に消えていく。
洞窟の甘い匂いが、少しずつ薄れていった。
『KAGAMIより』
ドローンが、抜かれたあとの溝の上で、静止した。
緑のランプが、速く点滅している。
『溝の土を解析しました。この土は、第二十八層の土ではありません』
私は、溝の前にしゃがみ込んだ。
黒い土。
白骨回廊の白い岩とは、まるで違う色をしている。
『土に含まれる魔素の型を、協会の全階層の記録と照合しました』
KAGAMIの合成音声が、淡々と続ける。
『データベースに、該当なし。既知のどの階層の土とも一致しません』
御子柴さんが、私の隣に来た。
「どういうことだ」
『補足します』
通信機から、真壁さんの声が割り込んだ。
『協会のデータベースには、全国四十二か所のダンジョンの、人が行ったことのある全部の階層の土が登録されてます。いちばん深い記録でも、第三十九層です』
「その、どれとも違う」
『はい。つまり、この土は』
真壁さんの声が、少し震えた。
『まだ誰も行ったことのない階層から、運ばれてきたものです』
――あの畑の種が、どこから来たのか。そこだけは、久遠寺は、何も言わない。
御子柴さんの言葉を、思い出した。
久遠寺は、七年前、警察の保管庫から乾いた葉を盗んだ。
でも、畑の種と、畑の土は、誰かが、もっと深いところから運んできた。
人の行ったことのない、深い場所から。
『KAGAMIより』
ドローンが、もう一度、声を上げた。
『この土の出どころについて、判定を保留します。人による現地調査を推奨します』
私は、鞄から番号札を一枚、取り出した。
文房具屋で買い足した、21番から40番の束。
その、最後の一枚。
40番。
黒い土の上に、立てた。
「御子柴さん。この土、警察で預かってもらえますか」
「ああ。俺の事件の、続きだ」
御子柴さんは、土を袋に詰めながら、低い声で言った。
「……あんたの事件にも、なりそうだがな」
◇
地上に戻ったのは、夜の八時だった。
六畳一間のアパートで、カップ麺にお湯を注ぐ。
今日だけは、いいことにした。
三分待つあいだに、スマホを手に取る。
配信アプリを開いて、タイトルを、一文字ずつ打ち込んだ。
【迷宮鑑識】事故現場の読み方 合同鑑識室から
配信開始のボタンを押す。
画面の右上に、数字が出た。
同時接続:0
すぐに、数字が跳ね上がっていく。
千。一万。十万。
最初に流れたコメントは、短かった。
『誰?』
投稿者の名前は、「灯火_犬飼」だった。
私は、少しだけ笑った。
「……こんばんは。迷宮探索者協会、合同鑑識室、室長の灰原です」
コメント欄が、一気に流れ始めた。
『室長!?』
『おめでとうございます!』
『灰原さん、ちゃんとご飯食べて』
机の上で、カップ麺の蓋が、湯気で少し持ち上がっていた。
「今日は、壁に残った傷の読み方を、もう一度、最初からお話しします」
画面に、第十一層の、あの三本線の写真を映す。
1番の札。
「KAGAMIは、三分で事故を判定します。それは、とても大事なことです。待っている人を、待たせずに済むから」
私は、志摩さんの鞄に手を置いた。
二十枚、揃った札の束の重さが、手のひらに伝わってくる。
「でも、亡くなった人が最後に見たものは、数字にはなりません。壁の傷や、床の泥や、天井の苔の中に残っています。それを読むのが、私の仕事です」
ダンジョンの奥には、まだ、誰も行ったことのない階層がある。
そこから運ばれてきた、黒い土がある。
読むべき現場は、まだ、いくらでもある。
AIは事故を数える。
私は、死んだ人の声を聞く。




