第3話 撤退ルートは、壁に書いてある
十九時四十二分。
アストラの生配信の同時接続は、二十八万人を超えていた。
『第十二層の大広間、着いてから十分ちょいですけどー』
画面の中で、鷹野さんが手を振る。
二十人の探索者が、ランタンを掲げて広間に並んでいた。新人たちの装備は、まだ傷ひとつなく光っている。
『さて、元鑑識官さんの言ってた“天井を歩く魔物”ですけど』
鷹野さんが、わざとらしくランタンを天井に向けた。
『いませんねー。苔、きれいに光ってますねー』
コメント欄が笑いで埋まる。
私は、自分の部屋でその配信を見ていた。
ノートパソコンにはアストラの配信。スマホは通話中で、相手は第十二層の入口にいる犬飼さんだ。
机の上には、印刷した地図を広げてある。
第十一層から第十四層まで、協会が公開している最新版の地図。昼のうちにコンビニで四枚、拡大して刷ってきた。
その横に、番号札の束。
準備をしながら、何度も思った。
何も起きなければいい。私が「妄想」と笑われて、それで終わればいい。
十九時ちょうど、配信が始まる前に、犬飼さんから電話がかかってきた。
「灰原さん。今、十二層の入口に着きました。灯火、四人とも装備は万全です」
「ありがとうございます。……無理は、しないでください」
「それ、俺のセリフです」
電話の向こうで、犬飼さんが少し笑った。
「灰原さんは、画面の向こうから見ててください。俺たちは、灰原さんの言う通りに動きます。ここ、迷っちゃだめなところなんで」
その言葉の重さを、私はうまく受け止められなかった。
七年間、私は「起きてしまったこと」だけを読んできた。
「これから起きること」を読むのは、初めてだった。
「灯火、待機中です。……今のところ、何も」
「はい」
私は、アストラの画面に映る天井を見ていた。
広間の天井。光苔。帯状の剥がれは、ない。
ただ。
「犬飼さん。広間の奥、東側の通路の入口。見えますか」
「配信の画面ですか? ええと……」
「通路の天井の苔が、少しだけ暗いんです」
剥がれてはいない。
でも、光り方が弱い。苔は傷つくと、半日ほどで光が鈍る。
「何かが、半日以内に、あの通路の天井を通っています」
その瞬間だった。
アストラの画面が、揺れた。
『え、なに、ランタン――』
広間の明かりが、ひとつ、またひとつと消えていく。
誰かの悲鳴。剣を抜く音。
画面の端、天井の暗がりから、白いものが垂れ下がった。
脚だった。
骨のように白く、関節が多く、先端が刃のように平たい脚。それが一本、二本、十本――数えきれないほど。
『上だ! 上にいる!』
画面が大きくぶれて、配信のカメラが床に落ちた。
横倒しになった映像の中を、探索者たちの足が逃げ惑う。
コメント欄は、もう文字が読めない速さで流れていた。
「犬飼さん、入れますか」
「入ります!」
通話の向こうで、犬飼さんが仲間に叫ぶ声がした。
私は、自分の配信を開いた。
【迷宮鑑識】緊急 第十二層
開始と同時に、同時接続が千を超え、五千を超えた。
「灰原です。アストラの配信と同じ場所を見ています。今から、撤退ルートを読みます」
画面を二つに分ける。
左に、アストラの配信。右に、第十二層の地図。
アストラの落ちたカメラは、まだ生きている。
横倒しの画面の中で、壁が映っていた。
私は地図の上に、番号札を置いていく。
「アストラの配信は、この四十分、広間に入るまでの通路をずっと映していました。その映像の天井を、全部思い出してください」
7番。西の通路。天井の苔、明るい。剥がれなし。
8番。北の通路。苔が暗い。半日以内に何かが通過。
9番。東の通路。苔が暗い。壁に三本線、二か所。
「それは、北と東を通ってきました。何度も行き来しています。でも――」
7番の札を、指で叩く。
「西の通路だけは、天井が一度も荒らされていません。それは西を通らない。たぶん、通れないんです」
『なんで分かるの』
「西の通路の天井は、低いんです。地図の記録で、高さ一・八メートル。体長四メートルの生き物は、天井に張りついたままでは曲がり角を抜けられません」
スマホの向こうに、呼びかける。
「犬飼さん。撤退ルートは西です。西の通路から、十一層への階段へ」
「了解!」
通話の音声が、戦いの音で埋まる。
剣が何かを弾く、硬い音。誰かの泣き声。
『灯火きた!』
『灯火の配信も始まってる』
犬飼さんたちのヘルメットカメラの配信が、別の窓で立ち上がった。
広間の中で、灯火の四人が、散らばったアストラの新人たちを一人ずつ西へ押し出していく。
「犬飼さん、左の柱の陰に一人います。足が見えます」
「見えた!」
犬飼さんが、うずくまっていた小柄な少女を抱え上げる。
新人の一人だ。肩当てが裂けている。
『水瀬です、水瀬ひより……っ、足が、動かなくて』
「大丈夫、俺が運ぶ。目、つぶってていいから」
犬飼さんの声は、驚くほど落ち着いていた。
カメラ越しに、少女の震える手が、犬飼さんの胸当ての革をぎゅっと掴むのが見えた。
天井から、白い脚が振り下ろされた。
犬飼さんの盾が、それを受け流す。火花が散った。
「西へ! 走れ!」
一人、また一人と、西の通路へ探索者たちが消えていく。
天井の白いものは、通路の入口まで追ってきて――止まった。
低い天井に阻まれて、それ以上は進めない。
数えた。
アストラ二十人。灯火四人。
二十四人。
「……全員、通路に入りました」
犬飼さんの声が、息切れで途切れ途切れになっていた。
「負傷者三人。でも、全員、生きてます」
私は、そこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
◇
配信の数字を見たのは、全員が地上に戻ったあとだった。
同時接続、二万一千。
『この人、本物だ』
『昨日バカにしてたやつ全員謝れ』
『西の通路の天井の高さまで覚えてるの何』
覚えているのではない。
協会の地図を、七年間、毎日見ていただけだ。
アストラの配信は、まだ続いていた。
地上の入口で、鷹野さんが顔を真っ白にして座り込んでいる。
『……助かった』
鷹野さんは、それだけ言った。
誰に、とは言わなかった。
その横を、担架に乗せられた水瀬さんが運ばれていく。
付き添っている犬飼さんが、一瞬だけ、カメラの方を見た。
スマホが、短く震えた。
『足、骨折だけで済みました。灰原さんのおかげです』
私は、返事を打とうとして、指が止まった。
「おかげ」ではない。走ったのも、盾を構えたのも、全部、犬飼さんたちだ。
『犬飼さんたちが、走ったからです』
それだけ送って、スマホを伏せた。
私は、配信を終える前に、もう一度だけアストラの最後の映像を巻き戻した。
十九時五十八分。
全員が西の通路に逃げ込んだあと、落ちたカメラが映していた広間。
天井の白いものは、しばらく通路の入口でうろうろしていた。
それから、急に向きを変えた。
迷うことなく、まっすぐ下へ。
十三層へ続く縦穴に、するすると降りていく。
獲物を追うのを、やめたのではない。
何かに、呼ばれたような動きだった。
――誰かが、あれを呼んでいる。




