第26話 前夜
――KAGAMIの学習データに、七年前の調書十八件を再登録することを許可する。
公聴会の前日の昼、協会から、その一文だけのメールが届いた。
送り主の欄には、会長の名前があった。
◇
夜の七時。
探索者向けファミレスの、一番奥の大きな席。
いつもの窓際の席では、とても入りきらなかった。
灯火の四人。真壁さん。早乙女さん。
車椅子の鷹野さんと、その車椅子を押してきた水瀬さん。
それから、千春さん。
「病院、外出許可出たんですか」
日向さんが聞くと、鷹野さんは目をそらした。
「……三時間だけな」
「この人、許可の紙に『打ち合わせ』って書いたんだよ」
早乙女さんが、呆れたように言った。
「打ち合わせだろ」
「ファミレスで、パフェ頼んでおいて?」
水瀬さんが、くすりと笑った。
十二層の夜、犬飼さんの胸当てにしがみついて震えていた子が、今は鷹野さんの車椅子のハンドルを握って笑っている。
真壁さんは、ノートパソコンを開いたまま、ずっと何かを打ち込んでいた。
「明日のKAGAMIの準備、終わりました。十八件、全部入ります。判定は、公聴会の場で、初めて出します。僕も、まだ見てません」
「見てないんですか」
「見たら、僕の顔に出ちゃうので」
真壁さんは、少し照れたように笑った。
「それに、KAGAMIの判定は、KAGAMIのものです。僕が先に知っていいものじゃない、って思って」
千春さんは、私の隣で、店員さんが運んでくる料理を、端から順番に私の前に並べていた。
「灰原さん。明日は長いんだから、食べておきなさい」
「はい」
「あの人も、大事な現場の前の日は、ご飯を三杯食べてたわ」
「志摩さん、三杯も食べていたんですか」
「四杯の日もあった」
千春さんがそう言うと、テーブルの全員が笑った。
私も、笑った。
七年前、志摩さんと現場の帰りに寄った定食屋で、志摩さんは確かに、大盛りのご飯をおかわりしていた。
そんなことを、ずっと忘れていた。
◇
八時過ぎに、御子柴さんが来た。
いつもの、くたびれたコートのまま。
席には着かずに、テーブルの横に立った。
「令状が出た」
テーブルが、静かになった。
「中身は言えない。明日の朝、動く。それだけだ」
御子柴さんは、コートのポケットに手を入れた。
中から、透明な証拠品袋が出てきた。
袋の中に、角の丸くなった、黄色い札が一枚。
17。
千春さんが、小さく息を呑んだ。
「科捜研の鑑定は、全部終わった。明日、俺がこれを会場に持っていく」
御子柴さんは、袋をコートに戻した。
「置くのは、あんただ」
「……はい」
千春さんが、テーブルの下で、そっと私の手を握った。
乾いた、温かい手だった。
◇
九時を過ぎて、みんなが帰り支度を始めた頃、私は一人で店の外に出た。
駐車場の端の、自動販売機の前。
夜の空気は、少し冷たかった。
「灰原さん」
振り返ると、犬飼さんが、缶のお茶を二本持って立っていた。
「眠れそうですか、今夜」
「分かりません」
一本を受け取る。
温かかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
道路の向こうを、車のライトが、ときどき通り過ぎていく。
「怖くないですか」
犬飼さんが、ぽつりと聞いた。
「怖いです」
正直に答えた。
「明日、私が読み間違えたら、志摩さんの七年が、また『事故』になります。十八件の人たちも」
「灰原さんが読み間違えたこと、俺、一回も見たことないですけど」
「見ていないだけです。鑑識官は、間違えます。だから、番号札を置くんです。どこを見て、どう読んだのか、あとから誰でも確かめられるように」
犬飼さんは、缶のお茶を一口飲んだ。
「ひとつ、言ってなかったことがあって」
「はい」
「灰原さんの最初の配信。同接二の、あれです」
犬飼さんは、少しだけ言いにくそうに、頭をかいた。
「一人目が俺だったのは、前に話しましたよね。でも、言ってないことがあって」
私は、犬飼さんの顔を見た。
「『誰?』って書いたの、俺です」
――誰?
あの夜、同時接続が二になって、最初に流れたコメント。
たぶん犬飼さんだろうと思いながら、本人の口から聞いたことはなかった。
「おすすめに出てきたのを開いたら、うちの映像が映ってて。しかも、メンバーの誰も気づかなかった傷の話を始めて。この人誰だって、思わず打ってました」
犬飼さんは、笑った。
「それで、『誰?』」
「失礼でしたよね」
「いいえ」
私は、缶のお茶を両手で包んだ。
「あのとき、画面の向こうに誰かがいると分かって、私は、話を続けられました」
犬飼さんは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、駐車場の暗い空を見上げた。
「明日、会場で、一番前で見てます」
「はい」
「灰原さんが番号札を置くところ。一枚も見逃さないように」
◇
部屋に戻って、私は、志摩さんの手帳を開いた。
最後のページから、毎晩、遡って読んできた。
残りは、もう一枚だけだった。
一番最初のページ。
日付は、八年前の春。
私が、事故調査課に配属された日だった。
志摩さんの癖のある字で、短く書かれていた。
――今日から新人が来た。灰原つむぎ。口数は少ないが、目がいい。
その下に、もう一行。
――いつか、俺より遠くまで見るようになる。




