第21話 千春さん
「あの鞄を渡したのは、私です。誰に聞かれても、何度でも、そう言います」
志摩千春さんは、玄関の扉を開けるなり、そう言った。
私がまだ、名乗ってもいないうちに。
「昨日の会見、見ました。上がってちょうだい」
◇
多摩川の近くの、古い団地の三階。
七年前、葬儀のあとに一度だけ、線香を上げに来たことがある。
部屋は、あの日とほとんど変わっていなかった。
仏壇の横に、作業着姿の志摩さんの写真。日に焼けた顔で、少し照れくさそうに笑っている。
私は、仏壇に手を合わせた。
――ご無沙汰しています。
千春さんは、お茶を二つ淹れて、私の向かいに座った。
六十を少し過ぎたはずだが、背筋はまっすぐだった。
「巻き込みたくない、って思ってたでしょう」
「……はい」
「あの人も、同じ顔をしてたわ。七年前、最後に出かける前の晩に」
千春さんは、湯呑みを両手で包んだ。
「あの晩、あの人、珍しく遅くまで起きてて。『明日は灰原を連れていかない』って言ったの。『あいつには、まだ見せたくないものがある』って」
私は、膝の上で手を握った。
――灰原は、地上で待機だ。
出発の朝、迷宮の入口で、志摩さんは私の頭に手を置いた。
新人だから連れていかないのだと、七年間、ずっと思っていた。
「見せたくないもの、ですか」
「何のことかは、教えてくれなかった。でも、あれは、あなたを守るための顔だった。私には分かるの。三十年、隣で見てたから」
千春さんは、湯呑みを置いて、私をまっすぐ見た。
「今度は、私の番。あの人の弟子が、あの人のせいで泥棒呼ばわりされてるのを、黙って見てるつもりはありません」
◇
「それでね。あなたに見せたいものがあるの」
千春さんは、押し入れから、古い菓子箱を出してきた。
蓋を開けると、黄ばんだ書類の束が入っていた。
「協会から返ってきたものの書類。全部、取っておいたの。あの人、書類は捨てるなっていつも言ってたから」
一番上の一枚を、千春さんがテーブルに置いた。
――遺品返還受領書。
迷宮探索者協会の書式。日付は、七年前の秋。
志摩さんが亡くなった、八日後だった。
「協会は、鞄を、正式にご遺族に返していたんですね」
「そう。協会の保管庫に入れるべきものだった、なんて、どの口が言うのかしら」
私は、鞄から番号札を一枚取り出して、受領書の上に置いた。
36番。
ルーペを当てて、一行ずつ読む。
返還品目。
鑑識鞄 一。ルーペ 一。メジャー 一。紫外線ライト 一。
番号札 十九枚。
十九枚。
1番から20番のうち、17番がない。
それから。
「千春さん。この一覧に、志摩さんの手帳が載っていません」
「手帳は、作業着の胸ポケットに入っていたの。服と一緒に、警察から返ってきた。鞄に入れたのは、私。あなたに渡す前の晩にね」
鞄の中には、なかった。
だから、手帳は残った。
もうひとつ、一覧に載っていないものがあった。
「調書の控えも、ありません」
「控え?」
「志摩さんは、自分の書いた調書の控えを、必ず鞄に入れて持ち歩いていました。家に置いておくと、奥さんに捨てられるからって」
千春さんが、少しだけ笑った。
「言いそうね、あの人」
「亡くなる前の半年、志摩さんが一人で書いた調書が、四件ありました。その控えは、鞄の中にあったはずです。でも、私が受け取ったとき、鞄にはなかった。この一覧にも、ない」
受領書の一番下に、欄がもうひとつあった。
――遺品の回収・協会への引き渡し。
現場から遺品を持ち帰り、協会に届けた人の署名。
七年前、遺体を最初に見つけたと届け出た人。
――第一発見者 アストラ代表 久遠寺征司。
部屋が、しんと静かになった。
鞄は、現場から協会に届くまでの間に、一度、あの人の手を通っていた。
その間に、四件の控えが消えた。
「紙の控えは、七年前に」
私は、小さく言った。
「データの調書は、二年前に。消えたものが、全部、同じところを通っています」
千春さんは、黙って受領書を見つめていた。
その手が、少しだけ震えていた。
◇
「千春さん。お願いがあります」
私は、鞄から一枚の書類を出した。
――迷宮探索者協会規則 第四十二条 公開再検証請求書。
「重大な事故の判定に異議がある場合、ご遺族か事故の当事者は、公開の場での再検証を請求できます。請求が受理されたら、協会は、その通知の日から十四日後に、公聴会を開かなければなりません」
「私が、請求すればいいのね」
「七年前の救助隊の事故の、ご遺族として。でも、公聴会では、たくさんの人の前で話すことになります。久遠寺理事の前でも」
「灰原さん」
千春さんは、ペンを取った。
「私、七年間、あの人がどうして死んだのか、知らずに生きてきたの。それに比べたら、人前で話すくらい、何でもないわ」
請求者の欄に、千春さんは、ゆっくりと名前を書いた。
――志摩千春。
「ほかの四人のご家族にも、私から連絡します。皆さん、まだ年賀状のやりとりがあるの」
◇
その日の夕方、私は病院にいた。
鷹野さんは、右足をギプスで固められたまま、ベッドの上で請求書を読んでいた。
横の椅子には、早乙女さんが座っている。
「事故の当事者として、連名で、ってことか」
「はい。十二層の事故と、二十八層の事故の、両方の当事者として」
「……あの日、新人を連れていったのは俺だ。筒を置いたのも、俺だ」
鷹野さんは、ペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
「俺が名前を書いたら、俺のやったことも、全部、公開の場で話すことになるよな」
「はい」
「水瀬にも、聞かれる」
「はい」
鷹野さんは、目を閉じて、それから開けた。
「書くよ。あの声の持ち主の前で、ちゃんと言ってやる」
少し震える字で、鷹野リオ、と書かれた。
早乙女さんが、横から請求書をのぞき込んで、ふっと笑った。
「字、汚い」
「うるせえ」
◇
請求書は、その日のうちに、協会の窓口に提出した。
受け付けたのは、どら焼きをくれた、あの受付の女性だった。
彼女は、請求書の名前を確かめると、黙って、深く頭を下げた。
協会からの返事は、思っていたより早く来た。
翌日の昼、理事会の名前で、短い通知が届いた。
――請求を受理する。公聴会は、十四日後に開催する。
その下に、一行だけ、付け加えられていた。
――なお、公聴会は、非公開とする。




