第10話 甘い匂いの出どころ
甘い匂いのことを知っているのは、六人だけのはずだった。
私。
灯火の四人。
それから、燃えかすの鑑定を頼んだ、御子柴さん。
御子柴さんは刑事だ。捜査中の証拠の話を、配信者に漏らす理由がない。
第十四層で、私は灯火の配信を止めてもらってから、あの匂いの話をした。
四人のカメラの赤い光は、確かに消えていた。
だとしたら、鷹野さんは、どこであの匂いを知ったのか。
答えは、二つしかない。
灯火の誰かが、話した。
あるいは――鷹野さん自身が、あの匂いを、嗅いだことがある。
◇
「俺たちは、誰にも話してません」
探索者向けファミレスの、いつもの窓際の席。
犬飼さんは、テーブルに両手をついて、まっすぐに私を見た。
「メンバーにも確認しました。日向も日陰も結城も、家族にすら言ってない。……信じてもらえないなら、それでもいいです。でも」
「信じています」
私は、すぐに答えた。
「あの時、犬飼さんは、理由も聞かずにカメラを止めてくれました。話すつもりの人は、そうしません」
犬飼さんは、ふっと肩の力を抜いた。
それから、照れたように、メニューで顔を半分隠した。
「……日替わり、二つでいいですか」
「お願いします」
隣の席で、真壁さんがノートパソコンを開いていた。
協会をクビになってから、真壁さんは毎日このファミレスに来ている。無職が二人。私は、ひそかに親近感を覚えていた。
私のスマホに、御子柴さんからメールが届いた。
第十四層で拾った燃えかすは、御子柴さんに頼んで、警察の鑑定に回してもらっていた。
メールを開いて、二人に画面を見せる。
――鑑定結果:蜜灯草の燃焼残渣。
「蜜灯草……」
真壁さんが、すぐに検索をかけた。
「迷宮法で、栽培も所持も禁止されている魔草です。燃やすと甘い煙が出て、魔物を引き寄せる。昔は、探索者が魔物を狩るために使ってたらしいんですけど、事故が多すぎて、十年前に禁止になりました」
御子柴さんのメールには、続きがあった。
――七年前、警察が押収して保管していた蜜灯草が、保管庫からまるごと消える事件があった。犯人は、見つかっていない。
七年前。
第二十八層の事故が、三倍に跳ね上がった年だ。
◇
「アストラの配信を、もう一度見直しましょう」
私は、あの夜の映像を画面に出した。
第十二層。骨喰いが現れる前の、四十分あまり。
真壁さんが、映像の明るさとコントラストを調整するソフトを立ち上げる。
「KAGAMIの前処理の部分だけ、切り出して使えるようにしました。暗い映像の、細かい差を強調できます」
「ありがとうございます」
KAGAMIが、また私の隣にいる。
なんだか、不思議な気分だった。
映像を進める。
十九時三十分。新人たちが広間に入ってくる。
十九時三十五分。鷹野さんが、カメラに向かって冗談を言う。
十九時三十八分。
「止めてください」
鷹野さんが、右耳に手を当てた。
耳には、小さなイヤホン。配信者がよく使う、スタッフからの指示を聞くためのものだ。
鷹野さんは、何かを聞いて、小さく頷いた。
それから、広間の隅にしゃがみ込み、腰のポーチから何かを取り出す。
21番。鷹野さんの手元。
この札は、昨日、文房具屋で買い足した新しい札だ。
志摩さんの札の束は、20番までしかない。21番の札は、まだ角が尖っていた。
「拡大できますか」
「やってみます」
画面が、粗い粒になりながら近づいていく。
真鍮の、小さな筒。
鷹野さんはその蓋をひねって開け、岩の隙間に、そっと置いた。
「真壁さん。筒の上の空気を、強調してください」
「空気、ですか」
「煙は、暗い場所では見えません。でも、ランタンの光を、ほんの少しだけ曲げます」
真壁さんが、キーを叩く。
画面の中で、筒の上に、細い糸のような揺らぎが浮かび上がった。
22番。煙の筋。
それは、まっすぐ天井へ立ちのぼり、天井に沿って流れ――北の通路の奥へと、吸い込まれていく。
骨喰いが通ってきた、あの北の通路へ。
「……四分後に、骨喰いが出てきます」
映像をさらに進める。
骨喰いが現れた直後、逃げ惑う新人の一人の足が、岩の隙間の筒を蹴り倒していた。煙の筋が、そこで途切れる。
「煙が途切れたから、骨喰いは、もうひとつの匂いの方へ戻っていった。第十四層の、あの燃えかすの方へ」
あの夜、獲物を放り出してまっすぐ下へ降りていった理由が、ようやく分かった。
犬飼さんが、低い声で言った。
「鷹野が、呼んだってことですか」
「焚いたのは、鷹野さんです。でも――」
私は、映像を十九時三十八分から、もう少し先に進めた。
筒を置いたあと、鷹野さんは立ち上がって、カメラに向かって笑った。
天井を見上げて、「いませんねー」と言った、あの場面だ。
「魔物を呼ぶ煙を焚いた人は、その真下で笑いません。天井を見上げて、冗談を言ったりしません」
自分で焚いたものが何か、知っている人なら。
一秒でも早く、そこから離れるはずだ。
「鷹野さんは、焚いた。でも、何を焚いたのかは、たぶん知らない」
イヤホンの向こうの誰かに、言われた通りにしただけで。
真壁さんが、ゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ、鷹野さんが“甘い匂い”を知ってたのは」
「筒を開けたとき、嗅いだからです。あの匂いは、一度嗅いだら忘れません」
そして、私が第十四層で何かを見つけたことを、誰かから聞いた。
もしくは、灯火の配信の空白――四人のカメラが止まった数分間――から、何かを察した。
そこで、私のスマホが鳴った。
御子柴さんだった。
「灰原さん。鷹野リオについて、少し調べました」
「警察が、ですか」
「個人的に、です。蜜灯草の件で」
御子柴さんの声の後ろで、車の行き交う音がした。どこかの路上にいるらしい。
「鷹野は、五年前にアストラに入った。創設から七年目の時期です。七年前の第二十八層の頃には、まだ二十歳の大学生で、ダンジョンに潜ったこともない」
「七年前のことは、知らない」
「少なくとも、本人は関わっていない。それと、もうひとつ」
御子柴さんは、少し声を落とした。
「アストラの配信のイヤホンに指示を出しているのは、配信スタッフじゃありません。クランの『相談役』と呼ばれている人物です。名前は、まだ分からない」
「相談役……」
「気をつけてください。あんたが今、つついているのは、たぶん、思っているより大きいものだ」
電話が切れたあと、私はしばらくスマホを見つめていた。
「鷹野さん自身も、あの匂いが何なのか、知りたいのかもしれません」
「だからコラボしろって?」
「脅しの形でしか、聞けなかったのかもしれません」
犬飼さんは、腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「罠かもしれませんよ」
「罠なら、痕跡が残ります」
私は、番号札を一枚ずつ、鞄に戻した。
21番。22番。
「それを読むのが、私の仕事です」
◇
その夜、私は鷹野さんにメッセージを返した。
『コラボ、お受けします。条件があります。ダンジョンの中ではなく、地上の生配信にしてください。場所は、新宿第一迷宮の入口前広場で』
返事は、五分で来た。
『いいだろ。三日後の夜七時』
さらに、その一時間後。
アストラの公式アカウントが、告知を出した。
【緊急コラボ生配信】元鑑識官・灰原つむぎの“嘘”を、鷹野リオが暴く
告知の下に、配信の予約数が表示されている。
五十二万人。
私は、その数字を見つめながら、志摩さんの手帳を開いた。
あれから毎晩、最後のページから一枚ずつ遡って読んでいる。
今夜は、最後から三ページ目。
そこには、震えるような字で、一行だけ書かれていた。
――香を焚かせているのは、焚いている本人ではない。




