第二百六話 退く者、進む者
前話同日夜刻
農相ローテ侯爵は謀主シェルケン侯爵の招きに応じて夜分ながら急遽登城した。召集状には理由は無く、『急ぎお集まり願いたい』としか書かれていない。異様なその内容に驚き何事が起きたのかと来てみたところ、普段の静けさとは全く異なる騒然とした城内の様子に戸惑った。
通り縋りの顔見知りの侍女に尋ねると、多くは語らないながら、どうやら国王陛下と妃殿下が倒れられたらしい。ローテは一大事に愕然とすると共に嫌な予感に囚われつつも、従者を自分の控室に残し、一人でシェルケンの部屋に向かった。
扉を叩くとシェルケンの腹心の家令ハインツに静かに招き入れられた。
まだ初夏の夜にも関わらず熱気と湿気がむんむんと洩れ出る室内に一歩入ると、そこには既に謀議の一同が勢揃いしていた。
椅子に座り込む者、立って歩き回る者、いずれも額の脂汗を蝋燭に照らせ口から散る唾の飛沫を光らせながら何事かを盛んに言い合っているのが目に入った。部屋の隅ではシェルケン家の養子のフェッテ・シェルケンが、老魁たちの会話に立ち入れずに所在無げに立ち尽くしている。誰も彼も、ローテが来たことに気付かない。ハインツが扉を閉める「パタン」という音がすると、漸く男たちが一斉にこちらを見た。
「ローテ侯爵、遅参ではござらんか」
シェルケンが歩き回る足を止めずに言った棘のある言葉に、ローテはむっとしながらも声を抑えて答えた。
「これでも可能な限り急いでの登城だが。陛下御夫妻が倒れられたと聞いたが、シェルケン侯、何があったのだ?」
シェルケンはそれに答えずに目を逸らし、彷徨き続けながら罵る言葉を吐き捨てた。
「糞っ、スタイリス殿下はどこへ行ったのだ」
ただでさえ不快な湿熱の中、独り言とは言えない大きさで耳障りな濁声が鈍く響く。
「トーシェ、落ち着きなさい」
姉のグラウスマン伯爵が安楽椅子から声を掛けても弟は足を止めようとしない。その様子に、伯爵は声を大きくした。
「慌てても碌なことは無いわ。今は焦らず次の手を考えるのよ。国王陛下がいずれ薨去されて、御闘病中の皇太子殿下が即位されれば摂政殿下がすぐに必要。そうなればスタイリス王子はすぐに戻ってくるわよ。先ずは宰相の排除、今はそれが最優先よ」
騒がしい弟を鎮めようとして姉が諭す。しかしその尋常ならざる大事を聞いて取ったローテが驚愕してシェルケンに正面から詰め寄った。
「『いずれ御薨去』とは一体どういうことだ。何があったか説明していただきたい」
「どうもこうもござらん。国王陛下と妃殿下が急な御不予で重態となられた。スタイリス殿下はどこに行かれたのか、御姿が見えない。一体何故こうなったのかは、我々にはわからん」
漸く立ち止まったシェルケンは訝しがる風を装うが、その顔は蒼く、握った手は震えている。何も知らないはずが無い。
ローテは謀議の主に顔をぐっと近付けて厳しい声を出した。
「シェルケン侯、わからん訳があるか。話が違うではないか。あれほどお元気だった国王陛下と妃殿下が揃って急な病だと? そんな世迷言が俄に信じられるか。陛下を説得するのではなかったのか。そこへ以って、我らの旗印たるべきスタイリス殿下の姿が見えんとは。貴公、一体、何をしでかし、スタイリス殿下をどこへやったのだ」
「何を人聞きの悪いことを。御夫妻は偶然の御発病に決まっておりましょうが。恰も逆賊のような扱いは止めていただきたい。スタイリス殿下の行方は私も知りたいぐらいだ」
「ではお二人の御容態は?」
「聞こえている話では、お命はまだ取り留めている。先の見込みはわからんらしい」
苦々しげに応じるシェルケンの顔をぎろりと眺め回したが、今聞いたばかりの話がいくら疑わしくても何の証拠があるわけでもない。
ローテは目をオットー伯爵に転じた。
「伯爵、スタイリス殿下は貴公の孫。今どこにおられるのか御存じないのか」
「……私室にも控室にもおられん。ひょっとすると婚約の御命を良いことに、アンデーレの所へ難を避けたのかも知れん」
「糞っ! 怯懦の臆病者めが!」
オットーが渋々と答える言葉にシェルケンが下品に口走る罵詈雑言が重なる。
「あの性根の腐った見掛け倒し殿下めが。そんなことだから臣籍に落とされるのだ」
「シェルケン侯! 何を言われるか! 『臆病者』、『見掛け倒し』とは失敬でござろう!」
可愛い孫を横から口汚く詰られて、オットー伯爵は顔に血を上らせて激しく言い返し、さらにシェルケンとその姉グラウスマンを交互に睨み付けた。
「行方が知れぬのは殿下だけではなかろう。昨日の侍女も姿が見えぬそうではないか。シェルケン侯、グラウスマン伯! 私はあのような得体の知れぬ女を殿下に娶らせるつもりはござらんぞ!」
オットーの剣幕にシェルケンが顔色を青くさせて一歩後退ったが、横からグラウスマンが言い返した。
「オットー閣下、それはもちろん御随意に。ですが、肝心の殿下がおられぬのでは、娶らせるも何もございません。肝心なのは殿下の所在、それが知れぬでは『我らが君』と仰ぎようがございませんわ。行方を晦まされたのは殿下御自身、それは事実では?」
「ぐっ……」
オットーは言葉に詰まってしまった。グラウスマンは追い討つ言葉を重ねる。
「この大事な時に御自身の安全だけを図られては、弟が嘆くのも無理はありませんこと? よもや御祖父殿が匿われたのではないでしょうね?」
「そんなことはしておりません」
「では、本当にどこへ行ってしまわれたのでしょうか?」
「それは……」
答える術が無い。オットーは顔を緋に染めたままに「はあぁぁ」と深い嘆きの溜息を洩らしたが、旗印として担ぐはずだった元王子の行方が杳として知れないのは事実、誰も取り成そうとはしない。
一呼吸、二呼吸。誰もが沈黙し何度かの呼吸を繰り返すほどの間、室内を無音が支配した後に、ローテ侯爵がまたシェルケンに振り返り、厳しく問うた。
「どうするのだ」
問われた男は汗と脂で光った顔を赤く染め、血走った目をぎらぎらと光らせると、堰を切ったように口から思惑の奔流を迸らせた。
「スタイリス殿下がおられずとも、今更止められん。陛下御夫妻が御不予とあらば宰相の排除にはむしろ好都合。予定通りに動くのみだ。なあに、当面はメリエンネ姫を立てて見せれば良い。スタイリス殿下が戻り次第に挿げ変えて我らが主と仰ぎ見れば、何も変わりはせん。オットー伯、ブラウ侯も、このまま座して傍観放置しては全ての権力が宰相の手に握られ、我々は落ちて行く一方なのはわかっておられましょう。そうなってはもう為す術は無い。今更後には引かせませんぞ」
「無論」「承知している」
緊い視線を順に送られ同意を求められたオットー、ブラウの二人に加えてデイン子爵も頷き合う。だがそれを見ていたローテ侯爵の首は縦には振られずその口からは冷たい声が放たれた。
「御自由になされよ」
それを聞いてシェルケン侯爵が驚きに顔を歪め目を細めて振り返った。
「ローテ侯、今なんと?」
「御自由になされるが良かろうと。私も自由にやらせていただく」
「今更、手を引くとでも?」
「そうは言わん。だがこれは話が明らかに違う。よもや陛下と妃殿下を弑し奉ろうとするとはな」
「何を馬鹿なことを。聞こえた知らせも毒などとは一言も言っておらん。病で御不予になられただけのこと」
嘯くシェルケンに、ローテが言い返した。
「白々しい」
呆れたと言わんばかりだ。
「『馬鹿なことを』とはこちらの台詞ですな。こう都合良くお二人が同時に病に倒れられるなどあり得ないでしょうが。しかも御膳のお世話をした侍女の行方までが知れぬとは。事態を詳細に調べるべきと訴え出て、これまでの貴殿のお話を全て明かしてもよろしいのですぞ」
「な、なんと?」
「王族の臣籍降下で国が揺らいでいるこのような時に、重大犯罪に巻き込まれては迷惑千万。我が家を守るために、身の潔白を証さねば。そのためとあらば、訴訟方に訴え出ることも辞しません」
「ま、待たれよ」
シェルケンが焦って引き止めようとする。ブラウ侯爵とデイン子爵もこれは拙いと顔を歪めた時に、高く鋭い声で口を挟んだのはグラウスマン伯爵だった。
「あら、ローテ閣下、何の証拠を持って誰の何の罪を訴えられるのでしょうかしら?」
ローテのみならず、一同の顔が椅子に悠然と座ったままのグラウスマンに向く。
女伯爵はゆらりと立ち上がると右手に持った閉じた紅の羽扇子を左の掌にぽんぽんと打ち付けながら、ローテに己が覚悟を告げた。
「良うございます、私共をお疑いなら訴訟方のブラオン伯爵のところには私も共に参りましょう。どうぞ御存分に御詮議を。ですが私共の罪を明白に証することができなければ、讒訴ですわよ。そうなれば私共もただでは済ませません。おわかりでしょう? 声高に訴え出られた大逆が冤罪となれば、高い所に吊り下げられるのはどなたになるかしら? 誰が何の毒をどうやって御夫妻に? その毒はどこから? 下手人は今どこに? そもそも酒の席での戯言を証として訴えを起こして罪に落とせるのであれば、この国の貴族が揃って処刑台にぶら下がることになりますわ。それはそれは長い処刑台と縄が必要になるでしょう。ねえ、トーシェ?」
滔々と論じ立てる姉の強い声を聞き自分に投げられた厳しい目を見てシェルケン侯爵は気を取り直した。そうだ、今更弱気になってはいけないのだ。事を始めた以上は強くあらねば。
「そう、その通り。姉の言う通りですぞ。では早速参りますか。ブラオン伯は知らぬ仲ではありませんしな」
二人に居直られてローテは「うぅむ」と呻った。
このまま訴えても、こいつらは口裏を合わせるに決まっている。ましてや今は遠ざかっているとはいえ、ブラオン伯爵は以前はシェルケンとは近かったのだ。何か証拠が出たとしても、握り潰されてしまう可能性すらもある。恐らくは下手人も既に消されているのだろう。
だが、何をどうしようとも面倒事に巻き込まれるのは真っ平御免だ。
ローテは渋々と口を開いた。
「……そこまで言われるならば、それは控えておきましょう。だが、シェルケン侯、いずれにせよ、スタイリス殿下はここにはおられぬ。事が目論見の道から外れ掛けている以上、転覆せぬかどうかは一度馬車から降りて見守らせていただこう」
「……もし無事に走り続けてから戻られても、もう車内に座られる席はありませんぞ」
「万事承知。道から転がり落ちる時には中にいたくはありませんからな」
「あら、臆されたのかしら。ですが、シェルケン家の手勢は既に王都の中にいることもお忘れなく」
「グラウスマン殿、心配御無用。我が家にも腕の立つ者はおりますからな。それに道から少々外れても、転げ落ちて砕ける馬車と決まったものでもないことも心得ております。例えそれが道に戻られても再び走り出すには我が助力は欠かせぬ筈。その時には御遠慮なくお申し出ください。後ろから押させていただきましょうほどに。それでは私はこれにて」
扉に向かおうとするローテに、シェルケンは慌てて声を掛けた。
「お待ちあれ。今から陛下と妃殿下の御病状の説明を求めて閣議の開催を宰相に求める。それには御賛成いただけますでしょうな?」
「御心配には及ばぬ。事情を何も知らねば、閣僚としては言われずともそうするでしょうからな。内相や法相も何も疑わず同意するでしょう」
「では、結構。その場で進退をもう一度お考えになられたい」
「失礼する」
ローテはシェルケンの最後の言葉には、肩を竦めるだけでまともに答えなかった。彼が部屋を出て行くまで、もう誰も何も言おうとしない。
束の間戻った静寂にバタン、と大きな音を響かせて扉が閉まると同時にシェルケンが怒声を吐き出した。
「ふん、老い耄れの臆病者めが!」
それを聞いてオットー伯爵が白い口髭を歪めて嫌な顔をした。彼はローテ侯爵より年上なのだ、「老い耄れ」の言葉が快く耳に響くはずもない。
シェルケンはそれに気付かず言い放った。
「オットー伯、速やかにスタイリス殿下の行方を掴んで速やかにこちらに戻るように説得していただきたい。それが成らねば、お手前の長年の夢は叶いませんぞ」
「承知した。手は尽くす」
「王族の監視の手配もお忘れなく。城門や各主要貴族の邸、王都の各関所は私の手勢で押さえますので御安心あれ」
「私の方も、手の者をできるだけ呼び寄せよう」
ブラウ蔵相が声を掛けるとシェルケンは目をぎろりと見開いて言葉を返した。
「ブラウ閣下、それはお手元にお呼びいただくだけで結構」
「承知した」
「では、ミンストレル奴に、臨時閣議の開催を求めるとしますかな。この時間からでは、閣議の開催は明日になりますな」
息巻くシェルケン侯爵に、椅子に戻って老魁たちのやり取りを眺めていたグラウスマン伯爵が声を掛けた。
「トーシェ、明日はいよいよお手並み拝見ね」
その傍らではデイン子爵と養子のフェッテ・シェルケンもにやけた笑みを顔に浮かべて侯爵を見ている。
「如何にも。姉さん、楽しみに待っていてください。フェッテ、お前も本当の貴族とはどういうものかを儂から学ぶが良い」




