第二百五話 容態
前話少刻後
国王と王妃の倒れている姿が発見されたのは、彼等が瘴毒を浴びてから暫く時間が経った後のことであった。
二人が食事を終える頃を見計らって訪れた侍従が部屋の扉を上品にほとほとほとほとと叩いたが、中からは何の返事も無い。聞こえなかったかと少し力を入れてとんとんとんとんとはっきり音を立てても状況は変わらず部屋は静まり返っている。侍従が訝しんで扉を薄く開けて中を覗くと、食卓には国王夫妻の姿が見えない。慌てて中に入ったところで、椅子の横に落ち倒れている二人に気が付いた。
「陛下! 妃殿下! 誰か、侍医を! 侍医を呼べ!」
軋るように甲高く響き走ったその叫びを聞いて辺りは大騒ぎになった。
知らせを受けて駆け付けた侍従長とテレーゼ・コルネリア侍女取締は救護の手配を指示してから部屋を見回した。
お二人の姿を見ると、顔も衣服も葡萄酒の紅紫色で斑に染まり、体の下の石張りの床にも濃い色の液体が零れて液溜まりを作っている。その横には割れた酒瓶の残骸、破片が転がって鋭い断面に燭台の灯火を反射させて光っており、部屋の空気は上等な酒精と果実の臭いで充満している。食卓の上を見ると皿の食事はどれもまだ手が付けられておらず、一方で使いさしの杯が二つ、乱雑に置かれている。
これだけならまだしも、給仕をしていたはずの侍女、陛下御夫妻に急な御不予が生じたならば真っ先に急を告げるべき者の姿がどこにも見当たらない。
この異常な状況は、不祥なる事件が出来したと思わざるを得ない。
侍従長と侍女取締は折柄到着した担架に二人を乗せて王城の奥深くにある寝室に運び込ませ、急ぎ侍医を呼ぶと共に、王都にいる各王族に内密に知らせを走らせた。
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王姪マレーネ王女殿下の邸へも伝令の使者が宵闇の中を走った。
知らせを聞くや、マレーネは夫と家中の主だった者を執務室に集めた。宿下がりに来ていたヴィオラも親友アイリスと共に駆け付けた。
マレーネ王女が家臣に次々と指示を出す。
「邸の者全員の所在と安否を確かめて。余人がいたら今すぐに退出させるように。急な都合でと伝えて、陛下御夫妻の御不予はまだ内密に」
「はっ」
「ユークリウスに早馬の手配を。いずれ詳細は知らせますが、まずは陛下と妃殿下が倒れられて御意識が無いことと私たちの無事、そして軽挙してはならないことを伝えてください。慌てて動かず領にて続報を待つようにと。書状はすぐに準備します」
「はっ」
「他の者も、非常時に備えて邸の警戒を厳にしてください」
「はい、直ちに!」
警備の手配を命じられた者が走り去ると、マレーネはヴィオラに向いた。
「ヴィオラ嬢、貴女はどうしますか?」
それまでヴィオラは何かを言ってはマレーネ殿下が対応を差配する妨げになると、口から言葉が零れ出ないように唇を噛み、アイリスと手を強く握り合って互いに戒め合っていたが、問われて即座に答えた。
「お父さま、お母さまのところに戻ります! 看護させていただきとうございます」
一瞬の間も置かないその返事を聞いて、マレーネは暫し瞑目して考えたが、やがて目を開いてヴィオラを見詰めた。
「良いでしょう。ですが事情を知る者にとっては貴女も王族同然の身。もし禍事であれば、兇徒は貴女も狙うかもしれません。王城まで護衛は付けますが、覚悟はありますね?」
「はい!」
「では、身支度を急ぎなさい」
「はい、今すぐに!」
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一方王城では、国王と王妃の診察を終えた侍医が侍従長とテレーゼ・コルネリア侍女取締に詰め寄られていた。
「博士、陛下と妃殿下の御容態は如何なのですか」
侍従長は緊張で声を嗄らせたが、侍医は両手を挙げて押し留めると、国王と王妃の最側近の顔を交互に見ながら冷静に答えた。
「侍従長、コルネリア様、良くお聞きください。これは、恐らく何かの瘴毒を盛られたものと思います」
瘴毒と聞いて、二人の顔が蒼褪めた。凶事を知らされ、応じるテレーゼの言葉が震える。
「瘴毒! それは解毒法は知られていないはず、では、もはや陛下と妃殿下は……」
喉に詰まって出て来ない、出したくないその言葉は、絞り出されるその前に侍医が遮った。
「コルネリア様、逸らず最後までお聞きください。今も申し上げたように瘴毒によるものと思われますが、その瘴気が今も残っているようには思えません」
「どういうことでしょうか?」
「つまり一度は瘴毒を浴びたものの、なぜか瘴気そのものは消え、毒に中った初期症状のみが残存している模様です。恐らく、時間が経てば御快復可能と思われます」
最悪の事態は避けられた。救いの朗報を聞いた二人の顔に血色が戻る。侍従長が恐る恐る尋ねた。
「間違いありませんか?」
「恐らく。実は、わが家に歴代伝わる医療記録の中に、二例の良く似た症例が残されております」
「それは誰の、どのような?」
「家秘ですので何卒、御内分に。建国王陛下と三代前の女王陛下です。いずれも何かを浴びて突然倒れられお命も危ぶまれたのですが、不思議と回復されました。瘴毒を得た後に何らかの力によって払われたらしいと記録されております」
「では今回も?」
「はい。ですが、今回はそのお二方よりも御年齢が高く、影響は大きいと思います。御意識はすぐには戻られないでしょうし、戻られても暫くは御政務に当たられることは難しいかもしれません。少なくとも今から相当の間、御床からは離れられないでしょう」
「御回復までの期間は? 具体的には何日ほど?」
「申し訳ないのですが、その見立ては私にはできません。いずれの場合も浴びた毒の量、瘴気が払われるまでの時間が不明でありますので」
「そうですか。ですがお命に関わられないのであれば、それは良かった」
ほっと侍従長が安堵の息を吐きながら答えた。だが、侍医の言葉は二人の容態に留まらなかった。
「ただ、考えるべきは、それをそのまま外部に伝えて良いかどうか。陛下を弑し奉ろうとした者は、陛下が回復されると知れば何をしでかすかわかりません」
「再びを試みる恐れがあると……」
国王暗殺とは、大逆の極みである。軽々な覚悟で行われたはずもなく、侍医の意見には理がある。テレーゼが頷きながら応じると、侍医も頷きを返して続けた。
「ええ、それを避けるためには、相手が予期した通りに動くべきだと思います。つまり、陛下と妃殿下は原因不明の病に侵され御容態は重く、人事不省、幽明の境にあり予断を許さぬと。そして御看病は限られた者のみで行い、責任ある者以外は外との接触は一切禁じて実際の御容態が洩れぬように。流行り病の可能性を仄めかせば、企んだ者以外には不審は招きますまい」
「ではその間は、政治は成り行きに任せよということですか?」
「そうなります。宰相にお任せすべきかと」
「そうすると、もしもこの機に権力を得ようと何者かが動いたとすれば」
「恐らくそれが黒幕。それを取り除けば、陛下の御無事を発表できましょう」
テレーゼの推論に侍医は賛意を示したが、侍従長は異を述べた。
「そうでしょうか。必ずしも、動いた者が今回の主犯とは限りますまい」
「何と?」
「偉大なる陛下が御健在であればこそ皆控えておりますが、然もなくば我こそが権を揮うに相応しいと自負する者はいくらもいるでしょう。毒を用いた謀略一味でなくとも、陛下が力を失われたと知れば国権を握ろうと動くかもしれず、動いたからといって、是れ即ち弑逆の大罪人也と決め付けはできぬということです。実行犯を捕らえ、口を割らせて黒幕を吐かせぬ限りは」
「理屈を言えばそうでしょうが」
「証拠も無しに犯人とすれば、その者も周囲も黙っていますまい。極端な話、貴族とは限らず、畏れながら王族やも知れぬのです」
「……」「……」
侍従長が指摘すると、侍医も侍女取締も沈黙する。三人の頭には臣籍降下の憂き目を見たスタイリス王子の姿がどうしても過ってしまう。
「コルネリア様、問題の侍女の行方は?」
侍従長の問いに、侍女取締は浮かない顔をして首を横に振った。
「一向に知れておりません」
「ではやはり、我々のすべきことは、陛下と妃殿下の御容態を秘し、看病に全力を尽くして一刻も早く御本復をいただくということですね。博士、どうかよろしくお願い致します」
「全力をお尽くし致します」
「後は侍女の捜索を進めることですが……」
「ええ、もし黒幕がいるならば、手を下した者を生かしてはおきますまい。命が危ぶまれます」
侍従長の言葉に侍女取締がまた首を振りながら応える。さらに何かを言おうとしたが、徒に話を長引かせて時間を費やしてはいけないと、侍医が口を差し挟んだ。
「いずれにせよ、御看病の手配をお急ぎください。御介抱の方法は私が指示致します」
「博士、承知しました」「何卒、よろしくお願いいたします」
侍医たちとの打ち合わせを終えた侍女取締は、介護の手配のために自室に戻ろうとした。廊下を歩く最中も、侍女の内で信頼のおける者、口が堅く忠義の心が篤い者は誰かと、配下の顔を一人ずつ思い浮かべ続ける。
そこに、一人の少女が早足を精一杯に急がせて歩み寄った。マレーネ殿下の邸から馬車を飛ばして王城に馳せ戻ったヴィオラである。
「コルネリア様!」
掛けられた呼び声に顔を上げたテレーゼが、思い詰めた顔のヴィオラを見て驚いた。
「ヴィオラ嬢! 何故ここに? どうして戻ったのですか?」
「マレーネ殿下から伺いました。テレーゼ様、お父さま、お母さまの御容態はいかがなのですか?」
「それは言えません。ヴィオラ嬢、王城は今、混乱しています。兇徒がどこに潜むやも知れないのです。疾く、マレーネ様の下に戻り、共に安全をお図りなさい」
「お言葉ですが、私は養女とはいえ、お父さま、お母さまのただ一人の娘です。お傍におり、お世話させていただきとうございます」
「なりません。貴女の身にもし何かあれば、陛下もお妃様も悲しまれます。御看病はごく近しい侍従・侍女のみで行います。貴女は今すぐ戻りなさい」
そう言ってテレーゼは身を翻そうとしたが、ヴィオラはその腕にひしと取り縋って引き止めた。
「それならば、皆様方の御看病を見習わせていただきます! 私は侍女見習でもあります。王族の方々の御病気の看護の仕方も学びとうございます! コルネリア様、何卒!」
まだ未成人の若い娘でありながらも決して放さじというその手の力の強さ、声の痛切さ、そしてこちらの視線を捕らえて離さない紫瞳の光のその鋭さ。
諦めさせるのは無理と悟ったテレーゼは、溜息混じりに確かめた。
「……仕様がありませんね。一度お傍に入ったら、当分外には出られません。それでも良いのですね?」
「はい!」
「ここへ来ることを知っているのは?」
「マレーネ殿下と御家の方だけです」
「面識のない貴族方に見咎められたり、声を掛けられたりはしませんでしたか?」
「いいえ。貴族方も哨所の近衛方も見知った方ばかりで、御挨拶もそこそこに、早く行きなさいとすぐにお通しくださいました」
「そうですか。良いでしょう。貴女が看護に加わったことは秘密にしておきます。ですが、貴女も事が片付くまでは、外の誰にも会えないのですよ?」
「はい、覚悟しております」
「わかりました。お二人は必ずや御快復なさいます。心を込めてお世話するのですよ」
「はい! これまでの御恩返しに、精一杯孝行させていただきます! まずはお父さまのお傍に参ります!」
そう答えて、国王の部屋に急ごうとするヴィオラをテレーゼは「お待ちなさい」と引き留めた。
「ヴィオラ嬢、これは貴女が姐様からいただいたものではありませんか?」
テレーゼはそう言うと懐から簪を取り出した。
見ればヴィオラが自分の身代わりにと、王妃に預けた椿の簪である。心なしか、葉の緑や花の紅の色が薄らいでいるようにも見える。
「はい、確かに。私がお母さまにお預けしたものです」
「そうですか。王妃様の側に落ちていたそうです」
差し出された簪をヴィオラが受け取ると、頭の中に「大丈夫です。安心して看病してあげなさい」というヴィンディーゼの声が聞こえた。何事があったにせよ、きっと友誼を結んだ風の精が父母を救ってくれたのだろう。
ヴィオラは心中でヴィンディーゼに深い感謝を捧げると、簪を握り締めて国王の寝室へと急いで去って行った。




