第二百四話 隠匿
承前
時間は少し遡る。
スタイリス王子の部屋で長椅子に寝かされていた侍女シュレヒは、程無く「おい、起きろ」という低い男の声と叩かれた頬の痛みで意識を取り戻した。
「スタイリス殿下?」
返事をしながら目を開けた。ずきずきと痛む頭に手をやりながら体を起こすと、ぼやけた視界が急速に鮮明になっていく。だが、眼の焦点が合った時、そこにあったのは美麗な王子ではなく見慣れぬ中年の男の顔だった。
「貴方は?」
「私はシェルケン侯爵の家令のハインツだ。侯爵からスタイリス殿下の様子を見に遣わされた。お前はここで何をしているのだ? 殿下はどこだ?」
その言葉に、シュレヒの記憶が鮮明に蘇り脳裏を流れた。お慕いする殿下の打ちひしがれたお姿、薬包を手に覚悟を迫るシェルケン侯爵の厳しい眼、震えそうになる手を懸命に鎮めて酒瓶に入れた禍々しい褐色の粉、杯の酒を訝しげに見詰める王妃殿下のお顔、必死に浴びせた酒に塗れてお倒れになった陛下と妃殿下のお体。
成功を報告した時の殿下の驚きと喜びに満ちた麗しいお顔だけは何故か曖昧模糊と霞んでいるが、確かに自分は使命を果たしたのだ。
男に答える声は思わず高くなった。
「わ、私、し遂げました! 侯爵様のお言葉通りに薬入りの酒をお浴びせしたら、陛下も妃殿下もお倒れになられました!」
「声を落とせ」
「は、はい」
男の声は低く、それでいて鋭く迫力に満ちている。押されてシュレヒの声も自ずと小さくなる。
男は国王夫妻の身に起きたことを聞いても冷静を失わず、平然と問い続けた。
「それで、ここへ来たのか。スタイリス殿下はどこにおられる?」
「殿下に首尾をお知らせしたところまでは憶えているのですが、その後がわかりません。侯爵様のお部屋へ行かれたのではないのですか?」
「……そうか。私と行き違いになったのかも知れんな。陛下の所からこの部屋へ来るまでに誰かに見咎められなかったか?」
「いえ、誰にも」
「この部屋付きの侍女や従僕は?」
「いないはずです。殿下が臣籍降下になられましたので。今日からは定時に御用伺いに回る者だけになっていると思います。最後の巡回時間はとっくに過ぎておりますので、もう来ないと思います」
「そうか。ならば良し。シェルケン閣下の所へ報告に行くから共に来い」
「はい!」
「良いか、できるだけ周囲の者に顔を見られぬよう、私のすぐ後ろに付いて、慎ましやかに顔を伏せて歩くのだ」
「承知しました」
「では行くぞ」
シュレヒはハインツと名乗った男の後に従って部屋を出た。
前を歩く男は何もなかったかのように平然と廊下を進む。その背中を上目遣いで追いながら歩く見映えのしない女の心の中では、豪華な衣装と装飾品に身を包んでスタイリス王子の横に並び、優しく手を引かれ、謁見室の階を一段一段踏みしめて上り詰める自分の姿が思い描かれていた。
時は既に宵となり、所々に蝋燭が灯された薄暗い廊下を二人は黙って進む。人の気配は薄く、時折下働きの者が頭を下げながら擦れ違うだけで特に誰かに話し掛けられることもなく、無事にシェルケン侯爵の控室が見えてきた。
だがハインツが扉を開いてシュレヒを招き入れたのはその隣室の小部屋だった。
そこには侯爵が顔を強張らせ待ちかねて立っていた。
シュレヒは思わず声を上げた。
「侯爵様、私、やりました!」
「静かにしろ!」
抑えた声で一喝されると、侍女は慌てて口を両手で押える。侯爵はそれに構わず厳しい声でハインツに問い質した。
「ハインツ、どういうことだ? なぜその女がそこにいるのだ?」
「閣下、この者は任務を為果せた後にスタイリス殿下に報告に行ったようです。殿下の部屋で倒れているのを見出して連れて参りました」
「誰かに見付かっていないか?」
「いいえ。幸い、余人には露見しておらず、まだ辺りに騒ぎは生じておりません。天運は閣下の御下にあるかと」
「よし」
シェルケンは満足そうに軽く頷くとシュレヒをまじまじと見た。
「確かに成し遂げたのだな?」
「はい、侯爵様、私、やりました! もうこれでスタイリス殿下が臣籍に下られることはございませんね?」
シュレヒが喜びについ大声を出すと、シェルケン侯爵が肩を怒らせてつかつかと歩み寄ってきた。口を引き絞り、その目は大きく吊り上がっている。
その尋常ならざる血相に、シュレヒはたじたじと扉まで下がった。それでもシェルケンは歩みを止めず、女の目の前に立つと震える声を必死に抑えて厳しく命じる。
「声を落とせ!」
「ひっ」
その剣幕に女が怯えて身を固くすると、侯爵は右手を伸ばし、女の肩を掴んで扉に乱暴に押し付けながら尋ねた。
「本当だな? 陛下と妃殿下、嘘偽りなくお二人ともだな?」
「はい、こ、侯爵様の、ご、御命の通りにいたしました。王妃殿下が怪しまれて飲まれませんでしたが、確かに浴びせてお二人とも倒れられたのを確かめました」
「ならば、もうお二人のお命は無いはずだな」
顔を崩しにたりと笑い嬉しそうに洩らした侯爵の言葉を聞いて、シュレヒの顔が蒼褪めた。
「えっ、お命が? ど、どういうことでございましょうか? 陛下と妃殿下を弑し奉ろうと? 一時御具合が悪くなるだけだとおっしゃったではありませんか! 何と言うことを!」
「煩い、黙れ!」
シェルケン侯爵はシュレヒの肩に置いていた右手で頬に平手打ちを喰らわせた。
ピシャッ!という高い音が響き、シュレヒは「ヒィッ」と小さい悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。
シェルケンはその前に蹲むと、女の細い顎を持ち上げて顔を近付けその目を真っ直ぐに睨み付けた。
「声を上げるなと言っているだろうが! 勘違いするな、陛下を弑し奉ろうとしたのはお前ではないか。お前の声で人が来たら、処刑台に上るのは他でもない、お前なのだ」
「そんな、酷い」
「そうなりたくなければ、大人しく答えよ。本当に、浴びせたのだな?」
「本当です、侯爵様。確かに、瓶の中身まで……」
女が必死に説明しようとするのに覆い被さり、シェルケン侯爵は女の顎を小さく揺り動かしながらさらに問い詰める。
「ならば良し。その後はどこで何をした? まさか、誰かに国王のことを言ったりしていないだろうな?」
「ス、スタイリス殿下に首尾を、お二人が倒れられたことをお知らせ申し上げました。そこで安堵のあまり気を失ったのです。他には誰とも喋っておりません」
「スタイリス殿下? あの小僧は今、どこにいる?」
「わかりません。気付いた時にはお部屋にはこの方がおられただけでしたので、てっきりこちらに来られたものかと……。殿下は、殿下は御無事でいらっしゃいますよね。私をお妃に……」
「そんな訳が無かろうが」
シェルケン侯爵は女から手を放し、立ち上がると家令に向いた。
「ハインツ、どう思う。殿下はどこだ?」
「わかりません。恐らく、陛下への弑逆の試みを知り、事に巻き込まれまいとして遁走されたものかと。ひょっとするともう既に城内にはおられぬかも知れません」
「捜せ。今すぐに人を遣って捜すのだ」
「いえ、閣下、それは如何かと。まだ城内は静かです。お二人の事はまだ誰にも気付かれていないのでしょう。先に何か騒ぎ立てては、発覚したときにこちらに目が向きます」
「糞っ、あの臆病者奴が」
シェルケンは毒突くと、ぶるぶると震え出したシュレヒにちらりと目をやってハインツに命じた。
「ハインツ、こいつを連れ出せ。もう用済みだ。後の処理は任せたぞ」
そしてまた女を見下ろして、罵った。
「この悪逆の大罪人めが! お前のしたことなど、儂たちは与り知らぬ。だが、愚かな女の世迷言に耳を傾ける浅薄な連中もおろう。そうなっては大迷惑、その前に儂たちの目の前から消えてもらおう」
「そんな! お約束が違います!」
「ふん、お前と約束などした憶えはない」
「ひどい! あんまりよ!」
憤りのあまり、立ち上がってシェルケン侯爵に掴み掛ろうとしたシュレヒを、急いで駆け寄ったハインツが羽交い絞めにする。
「落ち着け、静かにしろ」
「放して! 放してよ! こいつよ! こいつが! 陛下を! 妃殿下を!」
シュレヒは手を振り回し足で地面を掻き続け、叫びながら暴れてなんとかハインツの束縛の手を逃れようとする。止む無くハインツは右手を放し、前に藻掻き出ようとしたシュレヒの脾腹に拳を当てた。「ぐっ」と呻いて倒れ掛かるところを抱き止めて支えたところで、侯爵が苛々とした声で命じた。
「よし。ハインツ、後は任せたぞ。間違いなくこの世から消し去れ。処理が済んだら、すぐに戻ってこい。今にも騒ぎが起こるだろう。ブラウたち同心した連中に使いを送り、儂の部屋に集めるのだ」
「はい、閣下。畏まりました」
「糞っ、スタイリスの意気地無しめが。折角押し上げてやろうとしたのに、逃げ出すとは臆病にもほどがある。代わりを何とかせねば……」
侯爵はハインツの返事を最後まで聞かずに呟きながら部屋を出て行った。
扉が閉まると、ハインツは「ほぅ」と溜息を吐いた。
嫌な仕事ではあるが、これは他人任せにはできない。自分がやらざるを得ない。
ハインツはシュレヒの上半身を抱え起こして背後に回ると、背中に膝を当て両腕をぐっと引いて活を入れた。女が意識を取り戻したのを確かめ、部屋の卓の上にあった水差しから器に水を注いで持ってきて飲ませた。
まだ頭がぼうっとしているらしい女の視線が定まるのを待ち、「大丈夫か?」と声を掛けた。漸くこちらを見たところで唇に左手の指を当てて見せてシュレヒが何か言おうとするのを遮り、そして右手を服の中に入れ、隠し持った暗器を抜く。一度二度と捻って刃がてらてらと照り返す燭台の光をシュレヒの眼に当てる。
そしてゆっくりと相手の顔の前に出した。
シュレヒは「ひいっ」と悲鳴を出しそうになる。その口を左手で押し塞ぐと、ハインツは冷たいほどに静かに告げた。
「良く聞け。命が惜しければ、私の言うことを良く聞くのだ。お前は許されないことをした。もうわかっているだろう。本来なら死罪になるのが当然だ。だが、私の言う通りにすれば、命だけは助けてやる」
それを聞いて、シュレヒは口を押えられたまま、真っ青な顔でがくがくと顔を縦に振る。
「いいか、暫くの間は全てを忘れろ。それができなければお前の命は無い。これをお前の肋の間に刺し込むことなど、何の造作もないのだ。わかるな?」
そう言って口から手を離すとシュレヒはまた震えながら頷いて、必死にか細い声を絞り出した。
「あの、スタイリス殿下は?」
「わからん。逃げ出されたのだ。察するに、ファレノ・アンデーレ嬢の所へ向かわれたのだろう」
「では、私は……」
「殿下の眼中にはない。そういうことだ。お前は閣下に単に利用されただけなのだ」
「……」
「わからないか? 考えてもみよ、国王陛下と妃殿下を弑し奉ろうという企みで、下手人がそのままに放って置いてもらえると思うか? ましてや、次代の国王の妃の座に就ける訳が無かろう。自分たちの謀を明るみに出されぬ様、この世から消し去るのが当然だ」
「ですが、侯爵様は私にお約束くださったのです。もう同じ運命の下、私が亡びる時は侯爵様も滅びる時なのだから安心して事に臨めと」
「その証拠はあるのか? 企てに侯爵が関わったと証せるものは? お前をスタイリス王子の妃にすると言う手形は?」
「……そのようなものはありません」
「そういうことなのだ」
「そんな」
「お前は欺かれ使い捨てにされたのだ。だが、私に従うならば一度だけ機会を与えてやる。良いか、生き延びたくば、暫くの間、身を隠しているのだ。時が来れば、全てを話してもらうこともあるだろう。だがその時も、スタイリス殿下のことだけは忘れろ。王家のお方を陥れるようなことを言えば何が起きるかわからずお前の運命も定かではない。だが、忘れられるならば、なんとか命だけは繋いでやる。できるか?」
「わかりました。あの、貴方は侯爵様に仕えられているのでしょう? なぜこのようなことを」
「いずれわかる。だが、私は侯爵の使い走りではない。今はそれだけで十分だ」
「わかりました。全て御身に従います。何卒命ばかりは」
シュレヒの必死の返事を聞いて、ハインツは漸く表情を緩めた。普通の者であれば誰とて、人の命を奪うようなことはしたくない。もっとも、侯爵一味は躊躇せずにそれを選んだのだが。
この女も身の丈に合わぬ恋慕の情に囚われ徒な夢の中で踊り、侯爵たちに良いように使われただけだ。目が醒めれば、このような胡乱な邪謀に関わることは二度としないだろう。
「よかろう。お前はこれから私の手の者によって、とある所に送られる。そこで自分の行ったことを神に懺悔し、悔い改めて残りの生涯を送るのだ」
「はい」
「では、そこの長持に入れ。良いか、次に蓋が開けられるまでは決して声を出すな。露見した時には直ちに命が終わると思い、黙って神に祈って待て」
「わかりました」
寸刻後、シェルケン侯爵家御用の荷馬車が王城の通用門から静かに出ていった。
走る途中で向かう方角が何故かシェルケン邸から逸れたが、それを気にする者は誰もいなかった。




