第二百三話 逐電
承前
国王と王妃に毒酒を浴びせた侍女シュレヒは、その部屋を去った後に廊下を早足に歩いていた。
人の目に立ってはならないとゆっくり歩もうとするが、ついつい気が急いて足を前へ前へと進ませる。それでも何とか小走りにはならずに、王孫スタイリス・ヴィンティア王子殿下の控室に着いた。
扉を叩きもせずにそっと開き、部屋の中に王子の姿を見付けるなり駆け寄ると、歓喜の声を上げた。
「殿下、私、やりました!」
「うわ! な、何だ?」
いきなりの大声に王子が吃驚して座っていた椅子から跳び上がっても、目に入っていないかのように叫び続ける。
「陛下も妃殿下も、侯爵様のおっしゃったようにお倒れになられたことを確かめました!」
「なっ! な、何を言ってるんだ」
「侯爵様のお言いつけ通り、秘薬入りの葡萄酒をお浴びせ申し上げたのです! 妃殿下に怪しまれ、毒見をせよと迫られましたが、杯の薬酒をお掛けしたら、力なく崩れ落ちられました! これでもう、殿下が王族籍を去る必要はありません!」
最初はぽかんと口を開けて聞いていたスタイリスだったが、嬉しそうに告げられた内容が次第次第に脳に浸透する。やがてその意味するところが、言語道断、大逆の愚行と理解した瞬間に激怒で顔を真っ赤に染めた。
「黙れ!」
怒鳴りながら立ち上がるとまだ何かを叫ぼうとしていた侍女の襟元を両手で緊く持ち、がくがくと首を揺さぶった。
「お、お前、何と言うことをしてくれた! それは弑逆じゃないか! 俺はそんなこと聞いていないぞ! あいつは説得すると言っていたではないか! まさか陛下と妃殿下に」
そう言った次の瞬間には顔色が真っ蒼になる。
「なんてことだ、露見したら、俺までが同罪になる! 間違いなく死罪じゃないか! ……いや、俺は知らん、俺は関係無いぞ! 誰があんな穴熊親父と並んでぶら下がるものか!」
そう叫ぶなり、侍女を思い切り床に突き倒した。
シュレヒは床で頭を打ち、気を失った。スタイリスはそれを打ち捨て、頭を掻きむしりながら室内を歩き回る。代わりに部屋の隅にいた従者が走り寄り、倒れたままの女の容態を確かめた。呼吸や脈拍にはこれといって異常はなく、どうやら意識を失っているだけのようだと知り、抱き上げて長椅子に寝かせた。
その間もスタイリスは全く気に掛けず、美しい黄金色の長髪を掴み、引っ張り、掻き回してぐしゃぐしゃに乱しながら、うろうろと行っては戻り、ぶつぶつと考えを口汚く洩らしている。
「どうすればいい、畜生っ、クレベールかイザークがここにおれば、良い手を考え出させるのだが……。肝心な時にあいつらはなぜおらんのだ……。クレベールはフルローズ国か……。イザーク、イザークは何故反省して戻って来んのだ、役立たずの不忠者が……。いや、それどころではない、このままでは、臣籍降下を嫌ったと俺が疑われるのは必定ではないか。シェルケンの馬鹿野郎奴が。陛下に大人しく従っておれば……。俺はそうしようと思ったのに、あの汚らしい糞穴熊親父の身勝手な無理強いの言葉に乗せられたばっかりに……。折角の陛下のお気持ちが……。あの腐れ外道のせいでこんなことに……。いや、そうだ、今からでも遅くはない!」
何かを思い付いたスタイリスは従者を振り返った。
「おい、今すぐに王族・貴族籍の管理担当のところへ行け!」
「殿下の貴族籍への移管は中止ですね?」
「馬鹿者、俺を殺す気か! 逆だ! 今すぐに、できれば昨日付で臣籍降下の手続きを完了していたことにさせるのだ。祖父の名を使って構わん。良いか、できる限り、一瞬でも早くだ。その女とシェルケンの言ったことは絶対に、一言も漏らすな。そして、俺が陛下のお心に感謝して反省していたと言え! いいな!」
「はい。殿下はどうされるので?」
「俺はアンデーレの所へ行く。もう、ここへは戻らん。そっちが終わったら、俺の身の回りの荷物を纏めてアンデーレ領に直接に来い。そこで合流するのだ。わかったな!」
「はい、殿下」
「もう殿下とは呼ぶな!」
スタイリスは言い捨てると、後も見ずに部屋を出て、足音を忍ばせてできるだけの早足で去って行った。
残された従者は困り顔で長椅子に寝かせた侍女の方を見た。正気付く様子はまだ無い。このまま放置するのは気が引けるが、この女が目覚めた時にここにいてあれこれ尋ねられては困る。変に関わり合いになったら、身勝手な王子はこちらを簡単に切り捨てて自分一人だけ助かろうとするに違いない。冗談じゃない、一緒にさっさと逃げなければ。この女も、部屋に誰もいなければあの薄情な男に見棄てられたことを悟るだろう。
従者は女の目を覚まさせないように静かに部屋を忍び出て、戸籍係のところへと急いだ。
スタイリス元王子はできるだけ人目に付かぬように馬車に乗り、王城から離れた途端に御者に命じて全速力で飛ばさせてアンデーレ伯爵家の邸に急いだ。
前触れも無い突然の訪問に驚く執事たちを尻目にファレノ嬢の居場所を尋ねると、案内を急かして彼女の部屋に入った。
嘗ての恋人が驚くのにも構わず、自慢の美麗な顔に得意の作り笑顔を飾り付けると居合わせた侍女に「婚約者同士の話なのだ。わかるだろう? 二人にしてもらいたい」と命じ、扉が閉まって二人切りになるや否や、ファレノにいとも親しげに話し掛けた。
「ファレノ、久し振りだな。元気そうで何よりだ。ずっと気に掛けていたのだぞ」
ファレノ嬢の方は同じ名打の美貌であっても、仏頂面で愛想の欠片も見せようとしない。
「はあ? ずっと? 馬鹿馬鹿しい。殿下、どういたされました? あんなに嫌っていた私に突然何の御用ですか?」
婚約者に突慳貪に返されたが、スタイリスは気にも留めない。
「お前に会いたくて来たに決まっているだろう。お前は今日も変わらずこれほどまでに美しい。さすがは俺の許嫁だ」
「何を今更、心の片隅にも無いことを。気色悪い、猫撫で声はお止めください。コボルトでも番の前ではもう少し実のある優しい声で吠えますわ。婚約など、殿下の望まれたことではないのでしょう? 私も陛下の御命でなければ、お受けするわけもないのに」
「何を言っているんだ、我が麗しのファレノ。俺がどれほどお前のことを愛しく恋しく思っていたか、言葉で言い尽せないぐらいなのだ。俺が今回の陛下の御沙汰をどんなに喜んだと思っているのだ」
白々しい。口先だけで実のない軽い男だと承知はしていても、これほど見え透いた虚言を並べられては、ファレノ嬢も堪忍袋の緒が切れる。この身勝手な男に振り回された過去の恨みつらみが鎌首を擡げて牙を剥く。
「えぇ? 何ですって? 冗談じゃありませんわ! 御自分の手当たり次第の女漁りを棚に上げて、私を尻軽だの淫乱だの男狂いだの、果ては淫売とまで好き放題に罵られたこと、私は忘れておりませんわよ!」
「それはお前の心を取り戻したくて言ったのだ。本心ではない。俺はもう、お前以外の女には手は出さない。見向きもしない。死ぬまでお前だけを愛する。この陛下から頂いた剣に誓う」
「えっ」
『王賜の剣に誓う』。その言葉を聞いてファレノはぎょっとした。いくら口から出任せ風任せの信用皆無の男でも、こんなことを言い出すとは尋常ではない。
「殿下、お気は確かですか?」
思わず口から飛び出た問いは、王子様に対してはあまりに無礼な言葉だったが、スタイリスは怒りも咎めもしなかった。
「ああ、確かだ。俺は一刻でも早く、陛下のお言葉通りにしたいのだ。お前の父に婚約の挨拶をさせてもらいたい。伯爵はどこだ」
「父は殿下と私の婚儀の準備のために、一時領地に戻っております。お互いに気が進まないとは言え、陛下の御命ですもの。準備せぬわけにはいかないことを御存じでしょうに」
「それは好都合……いや、有難い。では、我々も直ちに我らが領地に向かおうではないか」
「殿下、本当に大丈夫ですか? この国はどこですか? 御自身と私が誰だかわかりますか? お名前は? 一に二を加えると何になりますか?」
「俺はこの風の国ヴィンティア王国に並びない麗しの淑女ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢との婚約の御命を有難くも国王陛下に頂いた、王孫スタイリス・ヴィンティア元王子、一と二で三、さらに三で六だ。いいか、ファレノ。碌でもない話だが、落ち着いて聞け」
ファレノが王子を真剣に心配しはじめ、再び正気を問う質問を放っても、スタイリスはすらすらと答えた挙句に、大真面目な顔に戻った。
「はい?」
「陛下と王妃様が倒れられた。毒を盛られた恐れがある」
「何ですって!」
ファレノが血相を変えて叫びを上げ、スタイリスは慌てて人差し指を唇に当てた。
「しっ、声が高い。誰がやったかは知らんが、わかるだろう? 俺が疑われる恐れがある」
「陛下は、妃殿下は? 御容態は? 御無事なのですか?」
「わからん。倒れられたのは確かだが、お命に関わったかどうかは知らん」
国王夫妻の凶報を聞きファレノはがっくりと両膝を床に付き、両手を胸に当てて頭を垂れた。震える声で祈りを捧げ始める。
「お痛ましい……神様、四精様、何卒御恵みをお二人に……どうか、どうか御無事で……」
「おい、それはもう侍従共に任せるしかない。そんなことより俺の話を最後まで聞け」
「『そんなこと』?」
恰も他人事のように切り捨てようとする、その冷たい言い様を聞いてファレノは顔を上げた。
祈りの手を解きすっくと立ち上がるとスタイリスに詰め寄り、いきなりその胸倉を力一杯に掴んで引き寄せた。怯えて膝が折れそうになる婚約者を吊り上げた両目で睨み付けて問い詰める。
「本当に殿下ではないのですね? 臣籍降下を避けるために謀られたのではないのですね?」
「そんなわけがあるか! 放せ!」
無理やりに手を振り払われても、ファレノは疑りの眼をスタイリスから離さない。だが、少し考えると訝しげな表情に変わった。
「……確かに殿下にそのような度胸があるとは思えませんわね……。昔に私の部屋に忍んでこられた時も、再三再四びくびくと、執拗いぐらいに父の留守を確かめておられましたものね。大事を謀って政敵を転ばせられるほどの切れる頭脳でもあられませんし。騙せるのは王族の妃の座に目が眩んで自分で寝台に転ぶ馬鹿娘ぐらい」
「う、煩い! とにかくあらぬ疑いなのだ! だが誰が何と言って難癖を付けてくるかわからん。もしそうなったら、俺がこうしてここにいる以上、お前たちも一緒に疑われることだろう」
「そんな! 私たちは何も与り知りませんわ」
「それを避けるためには、わかるだろう? 俺が喜んで臣籍降下とお前との婚姻を受け入れたところを見せる必要があるのだ。もう殿下とは呼ぶな!」
「そのために、仲睦まじく領地に行けと?」
「ああ、そうだ。断っても、俺はここから動かんぞ。そして捕まったらお前たちとも共謀したと言い募ってやる。お前も俺との婚約を嫌がっていたのだからな。婚約して領地に行くか? 無実の罪で処刑場に行くか? 領地か処刑場か、二つに一つ、どのみち俺との道行きだ。好きな方を選ばせてやる、有難く思え」
スタイリスに嘯かれて、ファレノはむっとした。だが、すぐにあざとい笑顔を作り上げ、顎を突き出してスタイリスを見上げた。
「……わかりました。領地に行きましょう。但し」
「但し、何だ?」
「貴族の愛は何にも縛られない自由な愛。いいですわね?」
「ああ、望むところだ。俺もお前に縛られたくはないからな」
「いいえ、私が言ったのは私のこと。貴方も先程御自身で誓われましたわよね。確と聞きましたわよ。もう、私以外の女に手は出さないし、見向きもしないって。国王陛下の剣に立てられた誓いを、まさか破られはしませんわよね」
愉しそうに目を細めて言うファレノに、スタイリスは「ぐっ」と詰まった。
返す言葉が無い。悔しく歪む美しいその顔に、ファレノは畳み掛けた。
「それに伯爵位は貴方が名乗ったとしても、この家の血を繋ぐのは私、つまり家督は私のもの。私のその気ひとつで我が家から勘当されれば貴方は爵位も貴族籍も失って、王族籍にも戻れない。行きつくところは平民籍。そのお顔にお似合いの華やかな世界におりたければ、貴方は私に逆らえない。おわかり?」
その言葉に、スタイリスは自棄になって顔を背けた。
頭を掻きむしれば長い金髪が振れて回って輝きを撒き散らすが、口から出るのは汚い罵り言葉だけだ。
「糞っ、畜生っ、この性悪女めっ」
「ええ、その通り。おっしゃる通りで申し訳のうございます。糞畜生の性悪女ではお嫌であれば、貴方にお似合いのお可愛いらしくておつむの軽い令嬢のところへ行かれれば? どうせ私は尻軽の淫乱の男狂いの淫売女ですもの。ちっとも構いませんのよ。貴方さえここにいなければ、私たちは身の証しぐらい何の問題も無く立てられます。お帰りならどうぞこちらへ。性悪女でもお見送りぐらいはいたしますわ」
逆に嘯き返し、扉の方につかつかと歩む婚約者の腕にスタイリスは慌てて取り縋った。
「待て、わかった、悪かった。もうどうにでもするがいい! どうせ、俺にはもう他に行き場所は無いのだ!」
「『するがいい』? ふうーん、なぁるほど。素敵な態度ですこと」
思惑ありげに勿体ぶって返されて、元王子は慌てて言葉遣いを改める。
「ど、どうぞ貴女様の御随意に、我が麗しの婚約者殿」
「結構」
「では、行くぞ」
「ええ、でもその前に」
「何だ?」
ファレノは訝しげにするスタイリスの周りを意味ありげに歩き、背後に回るといきなり元王子の膝の裏を蹴り付けた。
「痛い! 何をする!」
「あぁら失礼、『剣術無敗』の元殿下」
いとも容易く隙を突かれ、堪らず前に崩れて両膝を突いたスタイリス。その頭を、ファレノは押さえ付けて無理やり前に垂れさせた。
「まずは陛下と妃殿下の御無事を祈りなさい! 貴方の大切な御祖父様、御祖母様でしょうが! このとんでもない不孝者!」
「わ、わかった」
スタイリスが慌てて胸に両手を当てるとファレノは満足そうに「ふんっ」と鼻息を鳴らし、その横に並んで跪き、同じように胸に手を当てて頭を垂れ、敬愛する国王夫妻の救命と回復を願う心からの優しい祈りの言葉を慎ましく細やかな声で「神様、四精様、我等二人、是なるスタイリス・ヴィンティアと我ファレノ・アンデーレの深甚なる願いをどうかお聞き届けください。常日頃我等国民に御慈愛をお注ぎ下さる国王陛下、王妃殿下にお救いの手をお差し伸べ下さいますように、どうか一日も早く御快復なされますように、どうか……」と長く長く捧げ続けた。
それが済むと立ち上がり、両腰に手を当ててスタイリスに向いた。
「では、元王子スタイリス・ヴィンティア卿、私に付き従って、我が家の領地へ参られますか?」
そして右手をスタイリスに向かって差し出す。
スタイリスは美顔をくしゃくしゃに歪めたが、渋々と立ち上がってその手を受けた。
「……謹んでお供させていただきます。お手を私奴にお預けください」
「光栄ですわ。オッホッホッホッホ」
その日、ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢の高笑いが響きわたると共に、この国屈指の美男美女の人番が再誕した。
だがその二人は忽ち王都から姿を消した。彼女らが領地から戻って社交界の華となったのは、暫く先、事が収まった後のことだった。




