第二百一話 戻れぬ一歩
承前
トーシェ・シェルケン侯爵はスタイリス王子の部屋にいた侍女シュレヒ・パインを連れて自分の控室に戻った。
中に入ると、侯爵の姉のペトラ・グラウスマン伯爵だけでなく、ローテ農相とブラウ蔵相の両侯爵、近衛内局長オットー伯爵、そして印章官デイン子爵が待っていた。
その物々しさに、シェルケン侯爵に付き従っていたシュレヒは驚いた。貴族家に籍はあるが男爵の遠縁に過ぎない彼女にとっては、雲上人ともいうべきお歴々である。顔は知っていても声を聞いたことの無い高位貴族が居並んでいるのを見て、部屋に入ったところで思わず立ち竦んでしまう。
それを見て、部屋の中を苛々と歩き回っていたオットー伯爵から大きな声が掛かった。
「シェルケン侯爵、殿下は立ち直られたか? その女は何だ?」
「伯爵、落ち着かれよ。この者は殿下を慕い、御為に働こうという志ある者です。殿下は御無事ゆえ、暫し待たれよ」
不機嫌な伯爵の声を聞いたシュレヒは思わず扉の方に向かって後退りをしていたが、それに向けてシェルケンが如才ない声を掛けた。
「女、怯えずとも良い。ここに居るのは、みな、スタイリス王子を想い、国を憂うる志ある者ばかり。其方とて、そうであろう?」
「は、はい」
おずおずと答えるシュレヒに、グラウスマン伯爵も優しげに話し掛けた。
「そう、貴女もそうなのね。私もスタイリス王子に対する陛下の御仕置はあまりだと思うのよ。殿下をお助けして相応しい座にお就けするためなら、どんなことでもするべきだわ。貴女もそう思うでしょ?」
「はい、思います! 伯爵様!」
「あら、私のことを御存じなのね。嬉しいこと。貴女のお名前は? どちらのお家のお嬢様かしら」
「シュレヒ・パインと申します。パイン男爵家の縁戚の者です」
「あら、パイン男爵様のお家に、こんなに美しくて聡明そうなお嬢様がいらっしゃるとは、知りませんでしたわ。迂闊でしたわね。男爵様の姪御様かしら」
「いえ、大姪に当たります。ただ、父も母も既に亡く、お家にはもう籍があるばかりで……」
「まあ、縁が切れそうだと?」
「はい。今の御当主様とは、お会いしたこともございません」
「何てお気の毒な! ねえトーシェ、こんな王族のお妃様にも相応しそうなお嬢様の、貴族の籍が危ういなど、あってはなりませんわ」
「そうですな、姉さん」
姉に話を振られたシェルケンも、気さくそうにシュレヒに問い掛けた。
「シュレヒ嬢、王城勤めにはどなたの御紹介で上がったのかな?」
「はい、祖父が祖母の縁を伝って、ミンストレル宰相閣下にお願いしたと伺っております」
それを聞いて、その場にいた者たちの、シュレヒを見る視線が緊くなった。一方でシェルケンとグラウスマンの二人は喜色を隠せないでいる。一層親しげな声で身の上を問い続けた。
「ほう。シュレヒ嬢は宰相閣下の御知遇を得ているのか」
「いいえ。侍女に上がる際に一度挨拶させていただいたきりです。それももう随分以前のことで、今では廊下でお見掛けした時もお声などは掛けていただけません。もはや私などお忘れかと」
「それは怪しからん! 彼奴は宰相の身にありながら、人を見る目が無さすぎる!」「全くですわ。このような礼儀正しく気品に満ちたお嬢様を、何の御縁も紹介せずに放置するなど」
シェルケンが憤慨して激しく宰相を非難すると、グラウスマンも顔を歪めて不遇の侍女への同情を表す。怒りの表情は自分へのものでなくても怖ろしいものだ。シュレヒが半ば怯えていると、シェルケンは口調をころりと優しく変えて、猫撫で声で囁いた。
「シュレヒ嬢、安心されよ。我々が知ったからには其方は大丈夫だ。もう苦境を嘆き将来に悩む必要はない。それにスタイリス殿下が真の主になられた時には、今の苦しい境遇からお助けした美しい娘御を心憎からず感じられるに違いない。そう思わんか?」
「いえ……」
「しかも、殿下は未だお一人の身。先ずは正室をお迎えになることを考えられるであろう。儂たちも心通う者に殿下のお傍にお立ちいただくように推すであろうなあ」
「はい……」
「ここに並んだお歴々を見よ。みな、スタイリス殿下をお助け申し上げようとこの場に集っているのだ。若い令嬢としてはただ一人この中におれるとは、シュレヒ嬢、運が向いてきたようだな」
「そ、そんな」
「まあ良い。そこの隅の椅子で暫く休んでおるが良い」
「はい」
シュレヒは当初はシェルケンの言葉に戸惑った様子を見せていたが、やがて血の昇った頬に手を当て、終には言われた通りに椅子に座ると嬉しげな顔を隠すように俯いた。シェルケンがその様子を見て「ふん」と鼻息を一つ吐いて他の者を振り返ると、物問いたげな一同を代表するかのように、ブラウ侯爵が口を開いた。
「だが、シェルケン侯、どうされるおつもりだ? 我々がお諫めして、仮に陛下が翻意なさったところで……」
「然様、そうなったとしても今の陛下の御心の中ではスタイリス殿下はもう次代の候補からは外れている。このままでは、すんなりと摂政・皇太子とは参りますまいな。それではお困りでしょう、オットー伯」
シェルケンに話を振られたオットー伯爵はスタイリス王子の外祖父、つまり母の父である。王子の臣籍降下によって権勢への道を断たれたも同然で、受けた衝撃は一同の中でも最も大きい。当然ながら顔色も悪ければ声色も暗い。
「勿論です。我が娘は心痛のあまり、控室に戻るなり倒れてしまいました」
「殿下の母君が?」
「如何にも」
「御無事なのですか?」
「何とか。今は自室に戻り安静にしておりますが、当分は起き上がれぬでしょう。私としても痛恨の極みです」
「それは御心配でしょう。ならば何としてでもスタイリス殿下には大理石の階段の四段目に戻るだけではなく、さらに上っていただかねばなりますまい?」
シェルケン侯爵はそう言って、思惑ありげにスタイリス王子の外祖父を見た。彼にとっては、自分の孫が玉座に着くのを人生の夢としているだろう。
「無論です。その為なら何でも致しますぞ。だが、どうやって?」
オットーが疑わしげに問い返す。自分の孫が窮地のその隅にまで追い詰められているのは明らかである。余程の妙案が無ければ覆せないのだ。
だがシェルケンは事も無げに淡々と論じ立てた。
「陛下のお心を変えていただくには、お傍から訴え続けねばならない。先ずは臣籍降下を推し進めた痴れ者を陛下のお傍から取り除かねば、スタイリス殿下の将来は無い。その上で、痴れ者に取って代わった者と忠義の皆様方とが陛下をお諫めし続ければ、やがては陛下もお気持ちを変えられよう」
「そうだろうか」
「さらに加えて、陛下のお食事時にスタイリス殿下の素晴らしい御為人を誰かが囁く。言うでしょう、『腹膨れれば心は緩む』、『飢時の聖女より飽食の獅子』と。最も心安らぐときに優しい声で囁かれる言葉は、堅苦しい場での尖った諫言よりも遥かに大きく心に響くものですからな」
「それはそうかもしれませんな」
「そうですとも」
そうオットーに言っておいて、今度は隅に座っているシュレヒに目を流す。シュレヒはどぎまぎとしながらも、シェルケン侯爵が最後に言ったことは自分の役割なのだと察した。こくこくと侯爵閣下に頷きを返す。シェルケンはそれに向けて気味悪い笑いを見せてから、一同を振り返って続けた。
「そうでもなければ、全ての貴族が『殿下以外に次代の君は考えられぬ』と陛下にお願いするように、世論を広め続けることになってしまうでしょうな」
「それはあまりに悠長、間に合うとは思えない」
オットー伯爵がそれは困るとばかりに首を振ると、シェルケンは声を潜めた。
「では、次代を担える王族がスタイリス殿下お一人になれば、如何かな?」
「何と、他の王子王女をどうにかしようと?」
「そんなことは誓って申しておりません。ですが、失政、醜聞、何かが起きて失脚し次代の候補から外れる可能性は常にある。違いますかな? オットー閣下」
「……何れにせよ、先ずは陛下に臣籍降下を思い留まっていただき、憎き宰相を取り除くために早く何かをせねばならぬ、それは確かですな」
暫しの沈黙の後にオットーは答え、シェルケンは我が意を得たりとまた笑顔を見せた。
「それでは方々、陛下の説得に御同心いただけますな?」
「勿論。直ちに参りますか」
「いえ、オットー伯、御命を下された今日すぐでは、朝令暮改となる。さすがに陛下も御翻意はなされますまい。むしろ意固地になられ我々が御勘気を被るばかり。ですが一夜二夜と過ごすほどに、陛下も冷静になられるでしょう。その間に、殿下の臣籍降下は不当との世論を作ることもできましょう」
「ではいつ?」
問い質されたシェルケンは舞踏のようにくるりと体を回して侍女シュレヒに向いた。
「シュレヒ嬢、次に、陛下の御膳を運ぶのはいつかな?」
「明日でございます。今日はスタイリス殿下のお部屋の係で終わりですので」
いきなり尋ねられてシュレヒは驚いたが、何も考えずに素直に答えた。シェルケンは、なるほど、と頷いて見せてから老魁たちに向き直った。
「では、一度食事の席での囁きを入れてから明後日で如何でしょう」
「それが最早ですな」「よかろう」「ええ、そういたしましょう」
居並ぶ面々が口々に同意すると、シェルケンは再び体を回した。己が弁舌で閣僚連を動かして、面目躍如、欣喜雀躍、喜色を露にして侍女に歩み寄ると猫撫で声に戻って命を出す。
「シュレヒ嬢、其方の知る限りのスタイリス王子のお優しいお人柄を、然り気なく、然れど精一杯の誠と共に陛下にお伝えするのだ。できるな?」
「はい、閣下!」
シュレヒは熱を込めて頷いたが、ブラウ侯爵が口を挟んだ。
「だが、シェルケン侯、スタイリス殿下の籍の変更が完了しては全て手遅れ、万事休すとなるぞ」
「御安心あれ、そちらはオットー伯の御縁戚が係りでしたな。伯爵、直様お手をお打ちくださいましょうな? 事務手続きでの二日や三日の遅延はありふれたこと、誰も咎めはしますまい」
「承った。これより直ちに」「ならばよかろう」
オットーとブラウが次々に首を縦に振るのを確かめて、シェルケンは顔を綻ばせながら話を締めた。
「では方々、明後日早くにお集まりいただきたい。それまではお近くの各家に臣籍降下撤回の雰囲気造りをお願い致す。御翻意が成れば、その後は手筈通り宰相の打倒を」
「うむ」「承知した」「頼みましたぞ」
老魁連中は口々に返事をすると、長居は無用と部屋を出て行った。
後に残ったのはシェルケン、グラウスマン姉弟とデイン子爵、それに侍女シュレヒとシェルケン家の家令ハインツだけである。
先ずは一つ済んだとシェルケン侯爵は大きく息を吐いた。だが、大事はここからである。
侯爵は侍女シュレヒに向き直った。先程までの笑顔とは打って変わったその厳しい顔付きに、彼女は怯えた。
「あ、あの、では私も失礼を……」
「待て」
「は、はい!」
立ち上がって去ろうとしたが、それは許されなかった。侯爵に目付き同様に鋭い声で止められて、侍女は身を固くする。それを見てグラウスマン伯爵が彼女につかつかと近寄り、側に並んだ。
「大丈夫ですよ。侯爵様は貴女にまだ大切な御用があるようです。良くお聞きするのよ」
そうシュレヒの左耳に囁くと左手で彼女の左腕を掴み右手で庇うかのようにしっかりと抱え、そしてその右肩を撫でた。
「大丈夫、恐くありませんからね」
「は、はい」
伯爵の腕の中に囚われて身を竦めるシュレヒに、シェルケンは目を光らせたまま猫撫で声で問い質した。
「スタイリス殿下の御為になら、何でもすると言ったな?」
「はい」
「その言葉に嘘偽りは無いな?」
「もちろんです」
「では、良く聞け。我々が説得申し上げてももしも陛下が御翻意なさらねば、殿下の御望みはこの国の風に吹かれた泡と消え去る。それは何としても防がねばならん。そうだな?」
「はい」
「だが、もしも陛下が今、直ちに摂政殿下を必要とされるようになったらどうなる? それに相応しいのは何方だ?」
「スタイリス殿下でございます!」
「そうだ。もう一度尋ねるぞ。殿下のために働き、殿下の妃として相応しいと我々に認められるためなら、何でもできるな?」
「はい!」
シュレヒの覚悟を確かめたシェルケン侯爵はグラウスマン女伯爵と頷き合った。無言で自分の机に近寄ると抽き出しの錠を外し、中から小さな薬包を慎重に取り出して侍女に向けて差し出した。
「では、これを用いるのだ」
「えっ?」
小さく声を上げ思わず身を引いた女の代わりに、今まで黙って座っていたデイン子爵が興味深そうに身を乗り出した。
「ほう、何ですかな? それは」
「ミスリル鉱石から抽出されたミスリル瘴気の粉末」
「ミスリル瘴気?」
「如何にも」
シェルケン侯爵は薬包を持った手の向きをデイン子爵に変えた。
子爵はニヤニヤと笑いながらそれを無造作に受け取り、薄紙の包みの先端を摘まみ持って光にかざし、中の濃茶色の粉末を透かして見ながら、事も無げに尋ねた。
「如何なる効能が?」
「これは我らがグラウスマン家にかつて伝わった秘薬の最後の一包。これを用いられたものは、当初は意識を失い、戻った後は暫くの間は身体の諸処に痛みを覚え、怠さに悩み、立ち働くのが難しくなる」
「陛下に毒を?」
侍女が思わず小さく叫び、グラウスマンが慌てて「お黙りなさい!」とその口を手で押さえて言い聞かす。
「静かにおし。なにも弑し奉ろうというのではありません。それは毒ではなく、ほんの暫くの間、お体を労ってお休みいただく切っ掛けを作るためだけに用いる薬。スタイリス殿下が摂政宣下を受けた後の頃には、何事もなく御本復なさいます」
「そうなのですか……」
「そうです。そもそも陛下は国事に忙しく働き詰めで、お疲れを溜めておられるのは貴女も知っているでしょう? お仕えする者として、暫しお体を休めていただきたいとは思わないのですか?」
「いえ……」
「嫌なら止めなさい。私たちに人を見る目が無かっただけのこと。殿下の御妃にと推挙申し上げるお相手はまた探さねばなりませんですね」
グラウスマンがそう突き放すように言ってシュレヒから、つい、と身を離すと、シュレヒは慌てて取り縋って言った。
「いえ! やります! やらせてください!」
「ならば良し。良いか、今から言うように用いるのだ」
シェルケン侯爵はデイン子爵から薬包を取り戻すとそれをシュレヒに渡した。
シュレヒは返事をせず、ガタガタと震えながら侯爵の顔を見る。
「おい、怖くなったか? 今更嫌だとは言わせんぞ」
「いえ、申しません。あの、本当にご体調が一時優れなくなるだけなのですね? 間違いございませんね?」
「うむ。それは安全な薬、案ずるな」
侯爵が頷くと、横から伯爵も穏やかな声に戻して口を添えた。
「陛下のことが心配なのね。その優しさ、殿下に相応しいわ。でも、今は先ず殿下の御事よ。殿下をこそ第一に考えなければ、ね?」
「は、はい! 殿下の御為であれば、いたします!」
「確と聞いた。良いか、耳を貸せ。良く聞け。このように使うのだ」
そう言うとシェルケンはシュレヒの耳に口を寄せ、何事かをゆっくり諄々と囁いた。シュレヒは体の震えが止まらず、がくがくと頷き続けながら聞いている。
「……」
「わかったな? 今は粉末だからな。舞い上がらせたものを吸いでもしたら己も同じ目に遭うぞ。決して触れぬように気を付けろ」
「承りました。必ずや」
怯えながら手の包みを見詰める女に、侯爵は声を和らげて励ました。
「もう其方と我々は同じ船の上に乗る道連れだ。お前が沈む時は我々も沈み、我々が港に辿り着けばお前もスタイリス王子に手を預けて大地を踏み高きに上ることができる。安心して事に臨め」
「はい、侯爵様、私、必ずし遂げます」
「では、行け」
「はい、失礼いたします」
シュレヒは包みを慎重に懐中に入れると、一度、二度と深呼吸をしてから肩を窄めて部屋を出て行った。
ぱたりと扉が閉まるなり、デイン子爵が「くっくっく」と笑い出した。
「何だデイン、何が可笑しい」
シェルケンがむっとして問い質すと、デインは笑ったその顔のままで答えた。
「いや、失礼。先程の症状、先代のピオニル子爵とよく似ているなと思いまして。子爵は回復しませんでしたが」
それを聞いてシェルケン侯爵は肩を竦めて黙り、代わりにグラウスマン伯爵が「ホホホホ」と笑って応じた。
「さすがですね。いえ、実のところは、あれを喫したものは間もなく床に就いて、やがては帰らぬ者になりましょう。もちろん、量が多ければ多いほど不幸な転帰への時間は短くなり、まるまるあれ一包分を一気にともなれば、一時間と保ちませんわ」
「やはりピオニルの症状とそっくりですな」
伯爵が得意げに効果を語ると、子爵も笑いながら応える。するとシェルケンも話に戻った。
「そう、ピオニルの先代子爵とその娘の話を聞いた時は、てっきりあのペルシュウィンの小僧が爵位欲しさに己が血族に少々盛ったかと思ったが、どうやら勘違いだったようだわい」
「考えてみれば、ミスリル鉱石はそれ自体が殆ど伝説に近い存在で、見たことのある者など聞いたことがありません。その瘴気の粉末など、どうやって手に入れられたので?」
子爵が然り気なく詮索したが、空かさずグラウスマンが問い返す。
「あら、それを聞いてどうなさるおつもり?」
「いえ、胸に痞えるお悩みがあればお伺いしようかと。抱えず話せば心が晴れることもあるのではと、そう申せば聞こえが良いのでしょうが、なあに、実は只の興味本位です」
「まあ、そのような戯れを。でも、よろしいわよ。教えて差し上げます。もう四十年ほど昔に、領を通りかかった旅の薬師から譲り受けただけですの。その時は何の役に立つやらと思ったのですが、今この時のための天の授け物だったのでしょうね」
「ほう、お聞かせいただいて、よろしかったのですか?」
「ええ、お話ししたところで、二度と手に入るものではありませんので」
澄まし顔で伯爵が応える。子爵は含み笑いを隠さない。
「いやいや、最後の一包と言うからには、他の何包かは何にお使いになったのかと、ふと不思議になりまして」
「まあ。子爵は小さいものをお捕まえになるのがお上手で。例のものだけでなく言葉尻も」
伯爵が動じず口の端だけで笑って皮肉を返したが、子爵は気に留めようとしない。
「これは失敬。いやあ、四十年前と言えば、先代のグラウスマン伯爵、すなわちペトラ様の御夫君と御側室、御子息が流行り病とやらで一度に亡くなられた頃ですかな? 御夫君は本家の御従兄で、あの病で本家の御血筋が絶え、ペトラ様が後を継がれたのでしたかな」
だが、子爵の探るような目付きにも女伯爵はびくともしなかった。哀しそうな顔付きと裏腹に、答える声は踊っている。
「あら、とても良く御存じで。ええ、前の夫は女遊びが過ぎて、口には出せぬ病で亡くなりました。それが不幸にもあの女と子供にも伝染ったようで」
「ほう。先程伺った症状と似た病ですかな?」
「詳しくお知りになられたいのかしら? その前に、『メデューサの眼、ローレライの声』という言葉をお教えしましょうか?」
「物珍しくとも見聞きせぬ方が身の幸せということですか。おお、怖や怖や」
子爵が大袈裟に頭を抱え込んで見せる。
黙って片隅で立っているハインツを他所にして、あははは、と男女の嬌声が響いた。
やがてデイン子爵がハインツに送られながら去った後、シェルケンが姉に話し掛けた。
「ペトラ姉さん、デイン奴にあのように秘密を打ち明けて良かったのですか? 我らの醜聞を用いて脅してくるかもしれませんぞ?」
「あら、今更何よ。秘密を打ち明ければ、身内意識が強まるでしょ? 裏切る気はむしろ小さくなるのよ。デインには果たしてもらわねばならない大事な大事な役割があるでしょうに」
「ですが、怯えて裏切られた時に、拙いのでは」
シェルケンが眉を寄せて侯爵らしからぬ困り顔になると、姉が面白そうに笑い飛ばした。
「ホホホ、トーシェ、相変わらず気が小さいわね。その顔、子供の時から変わらないわね。そんなことでは貴方の方が心配よ。四十年も昔の事に何の証拠があるの? 冗談だったと言えばそれまでよ。あの粉だって、仮に露見しても、私たちが渡したと言う証拠はどこにあるの? 訴えられても、証明できなければ讒訴した者の方が高い所からぶら下がることになる。そんな度胸があいつにあるものですか。結局は現物を持っているあの娘が処刑されてそれまでよ」
「姉さんは相変わらず度胸がありますね」
弟が「ふぅ」と息を吐き、寄った眉を解くと姉は今度はにやにやと口角を吊り上げる。
「ええ、ピオニル子爵の時も陛下の御前を逃げ出した貴方の尻拭いをしたぐらいにはね」
「あれは恩に着ていますとも。しかし度胸があるとはいえ、『夫は女遊びが過ぎて』などと、良く言えましたな。不埒な遊びをしていたのは姉さんの方でしょうに」
「あら、本家の従兄のあの男が私のことを顧みず、愛人の所に入り浸り、子供まで作っていたのは本当でしょう?」
「それは姉さんが先に若い男を取っ替え引っ替え別荘に連れ込んでいたからでしょうに。それであいつが怒って、姉さんを離縁すると言い出したのでは」
「あら、私の憶えとは違うわね」
嘯いて見せると、弟もようやく憂いを忘れたようで、ニヤニヤ笑いを姉に返した。
「あのミスリル瘴粉も、『旅の薬師』とは良く言われたものですな。どこの誰ともわからぬ胡散臭い若僧が、南部のどこかの鍛冶師のところから盗み出してきたものなのでしょう?」
「ええ、そうよ。貴方が侯爵家に婿入りする時に教えてあげたわよね。あの男、自慢げに見せびらかしてペラペラしゃべったあげくに酒に酔ってぐっすり眠り込んじゃったお馬鹿さん、笑っちゃったわよ」
「よもや自分が効力を試されることになるとは夢にも思わなかったでしょうなあ」
「貴方の婿入り道具にあげた一包を、後生大事に今まで持っていたとは、私も夢にも思わなかったわ」
「姉さんも人が悪い。そんなものを持っているとなぜ早く教えてくれなかったんですか?」
「あら、わかり切ったことを。貴方の婿入り話が決まる前に教えたら、それで私を追い落として貴方自身が伯爵位を継ごうとしたに決まってるでしょ。馬鹿におしでないわよ」
「いや、二人切りのきょうだいではありませんか。大切な姉さんにそんなことはしませんぞ」
「どうかしら。でもそうね。貴方の大嫌いなクリーゲブルグにさえ使っていないぐらいだものね」
「……」
返した言葉が急所に刺さったようで、弟は表情を消して言葉を失った。そこを逃さず姉はいよいよ刃を鋭くする。
「貴方が狙っていた令嬢が、クリーゲブルグに正室として嫁ぐって聞いた時の貴方の顔、忘れられないわ。うっふふふ」
「過ぎたこと、もう何とも思っておりません」
「嘘おっしゃい。何かにつけてはあの男を弱らせようとしているくせに」
「まあ、そういうつもりは無いのですがな」
弟が肩を聳やかして応じると、姉は声を潜めて楽しそうに言う。
「いずれ宰相の権限をもってすれば、あの男の首を真綿で締めて……」
弟も陰謀口調で応じた。
「やつの領はじり貧となり、止む無く王都に来ざるを得ず……」
「満座の貴族諸侯の中で……」
「夫婦揃って我が足下に平伏させれば」
「如何に麗しき光景でしょうかしら?」
「あっははは」「おっほほほ」
下らぬ話に興じた姉弟が二人揃って大口を開け品無く笑ったその時に、扉がトン、トン、トン、トンと重々しく叩かれた。
「誰だ!」
シェルケンの誰何の声が思わず高く大きくなる。
「ハインツです」
「何だ、お前か。入れ」
ほっと安堵して入室を許可すると重々しく扉が開かれ、自邸に戻る子爵を見送りに出ていたハインツが戻ってきた。
シェルケンは腹心の家令が休む暇も無く次の命を下さした。
「ハインツ、フェッテに近衛は暫く休暇を取って直ちに邸に戻ってくるように伝えろ。今すぐにだ。儂も邸に戻るので馬車を呼べ。待機している連中にも、明日にも始まると知らせろ」
「はい」
「見ていろ、もうすぐだ。来週のうちには、お前は宰相家の家令だぞ。嬉しかろう」
「私はただ閣下の御運と御家の隆盛をお祈りするだけです」
「なあに、もう運など必要ない。儂が執権の座に上るのは必然なのだ」
「……御意」
ハインツはまた静かに頭を下げた。だが心中に浮かぶのは、「(もう後戻りはできない。全てに幸運に恵まれなければこんな杜撰な計画は簡単に瓦解する。考えるべきはその時にどうやってこの家を守るかだ……)」という思案だけだった。
フェッテへの使者を手配するために部屋を出る彼の背中に、シェルケンたちの空々しい笑い声がまた虚しく響いた。




