第二百話 復権の望み
承前
「ここはどこだ」
スタイリス王子が気が付いた時には、長椅子に横たわっていた。
開いた目に入った天井は、普段は意識しないだけにこうして見ると異景にも思える。頭を起こして周囲を見れば、王城の自分の控室であることがわかった。
「戻ってきていたのか……」
謁見室からここまで、どうやって辿り着いたのか、憶えていない。
目を閉じて謁見室での事を思い返して見た。
階で喜んで立ち上がった時にはあれほど近くに見えた玉座が、あっという間に遠ざかって霞み去った。困惑と混乱と落胆の中で、国王に何を言われたかも曖昧模糊として良く思い出せない。まるで夢魔に憑り付かれ、揺れ動き回転して止まることの無い夢の世界にいたようだ。
確かに覚えているのは、臣籍に下されたこと、尻軽ファレノの奴との婚姻を命じられたことだ。
「これも悪夢の続きであれば良いのにな」
呟いた声ははっきりと聞こえる。残念ながら、そうではなさそうだ。
スタイリスは気怠い頭を何とか持ち上げて王族用の広い控室の中を見廻してみた。
静まり返った室内では、部屋付きらしい見慣れない侍女が壁際から心配そうにこちらを見ているだけで、他には誰もいない。従者すらもだ。
普段は側近たちだけでなく他の貴族も入れ代わり立ち代わり訪れてきて祝祭日の市井のように騒がしく、手狭に感じるほどのこの部屋が、今は自分の溜息さえも空虚に反響して葬儀の後の礼拝室のようにだだっ広く寒々しく感じられる。また天井を見上げてみる。数時間前には多くの者の甘言を聞きながら見たものと同じ光景とは思えない。
王子としての自分専用に与えられたこの部屋を使えるのも後僅かの間だ。
だが、名残惜しいと言うよりは、今はただただ忌々しいだけの景色だ。もう見ていたくもないと、スタイリスが目を閉じて頭を長椅子に戻そうとした時、声がした。
「あの! 殿下!」
「ん?」
スタイリスは再び頭を上げた。
部屋付きの侍女が両手を胸の前で組み、眉根を寄せてこちらを見ている。若く粧してはいるが、そろそろ妙齢も過ぎようかという年頃だろうか。何にせよ、見たことのない顔だ。
尤も、そこら辺の侍女や下級貴族の娘の顔など、これまでしげしげと見たことも無く、憶えているのは美しい女か上位貴族の令嬢だけなのだが。この女も、誰かの意識に上ることもない、どこにでもいそうな平凡な顔だ。
「何だ?」
スタイリス王子が面倒臭そうに問い返すと、侍女はおどおどと尋ねた。
「御気分はいかがでしょうか?」
「良いわけがなかろうが」
気に障る問いに被せて半ば吐き捨てるように返すと、侍女は体をびくりとさせた。 嫌味のつもりかとスタイリスが睨み付けると躊躇したが、思い切ったように大声を上げた。
「この度の陛下の殿下に対する御仕打ち、あまりのことと存じます!」
「何だって?」
「殿下は私たち貴族や庶民共の憧れの的です」
「それがどうした」
「それを臣籍に落とし、あんな見た目だけが取り柄の男垂らしの女と結婚せよなどとは、御齢のために御判断を誤られたとしか思えません!」
「何を言い出すんだ。陛下の決められたことに異を唱えるつもりか? 絞首台にぶら下げられても俺は知らんぞ」
「いいえ! 殿下のためでしたら、構いません! 殿下こそ、次代の王となられるべきお方です! 殿下のためでしたら、私!」
女の声がどんどん大きくなる。一心に叫び続けているが、ここでこいつがいくら喚こうが何かが変わるわけもない。ただ煩いだけだ。スタイリスは面倒臭そうに遮った。
「わかった、わかった。もう良い」
「ですが、」
「もう良いと言っているだろうが。お前はいったい誰だ? この部屋付きとして今まで見たことがないが、どこの家の者だ?」
スタイリス王子に胡乱げながらも名前を尋ねられる光栄に、侍女の顔が輝いた。
「はい、私、シュレヒ・パインと申します! パイン男爵の縁戚の者です。いつもは厨房付きで陛下の御膳の配膳を担当しておりますが、今日は臨時に殿下の控室付きを命じられました」
「ふうん、パインの家の者か」
「はい、今の男爵閣下からは大姪に当たります。かねてから、殿下をお慕い……」
シュレヒにとっては、スタイリス王子は遠くからその美顔麗貌を拝したことはあっても、声を掛けられたことも、ましてや一対一で話したことも皆無である。かねてから憧れていた殿下に思いを告げる千載一遇の好機と勢い込んだ。
しかし、それを口に出そうとしたところで扉を叩く音がして、スタイリス王子は侍女のことを忘れてそちらに向いた。
「入れ」
入室を許すと扉が静かに開き、入ってきたのは側近の一人のイザーク・アルホフ男爵令息だった。
「イザークか」
「はい、殿下」
イザークは仕える王子が起き上がっているのを見て、安堵した顔で話し掛けてきた。
「殿下、お気付きになられたのですね? こちらへお戻りになってそちらに横たわられた後、全くお動きになられなかったので心配致しました」
「戻ってから、どのくらい時間が経った?」
「一時間は経っておりません。御気分は如何ですか?」
「お前もか」
再びの不愉快な問いにスタイリスの顔が歪む。
「良いわけがないだろう。他の連中はどこへ行ったのだ?」
鮸もない王子の言葉に、イザークは顔を曇らせて答えた。
「従者殿は、侍医の所へ参りました。殿下の気付けになる薬を処方していただくために」
「ふん、これぐらいの事で俺が不省になるとでも思ったか。その程度に思われていたとは、見縊られたもんだ。まあいい。貴族共は?」
「……それぞれ、用を足しにと言って自家に戻りました」
「はっ、俺を見捨てて散ったということか。ブルフは?」
「……」
イザークが沈黙した。その意味は重ねて問うまでもない。
「あいつまでもか……。何が『いつまでもどこまでも、何があっても』だ。まあ、仕方がなかろうな。お前も、こんな所でぐずぐずしていないでさっさと田舎のユークリウスの下へ行けば良かろう」
「殿下、それは」
「隠さずとも良い。お前は最近ずっとユークリウスの肩を持っていたじゃないか。確かに実直だけが取り柄の小者にもそれなりの良さがあるかも知れんな。構わん、好きにしろ」
スタイリスは言い捨てるとまた椅子に身を投げ出した。
イザークはその様子を悲しげに眺めたが、スタイリスの捨て台詞には応えずに来客を告げた。
「……殿下、私のことよりも御来客です。シェルケン侯爵がお目に掛かりたいと来ておられますが」
「こんな時に、何なんだ」
「私もそのように申し上げたのですが、『今だからこそ』と言っております」
「くそっ、あの男は、『今だからこそ』誰にも会いたくないことぐらいわからないのか」
「ですが、『殿下の御為に』と強く言われまして。相手はあれでも侯爵ですので」
「何が『御為』だ、陛下の目を盗んで部屋から部屋へこそこそ隠れ歩く穴熊親爺めが。まあいい、面倒だが会ってやろう、通せ」
「はっ」
イザークが扉を開けて声を掛けると、それに応じてシェルケン侯爵がニコニコと顔一杯に笑みを張り付けて部屋に入ってきた。スタイリスは物憂げに体を起こして脚を投げ出して座り、自分の前に立った侯爵が下げようとする頭が止まるのも待たず、刺々しい声を投げ付けた。
「シェルケン、何をしに来た」
だがシェルケンはびくともしない。下げ終わって上げた顔の笑みと同じく、声からも厭らしい諂いが滲み出る。
「これは結構な御挨拶ですな。スタイリス殿下、御機嫌を伺いに参りました。御気分は如何ですかな」
人を変え三度繰り返された不愉快な問いに、王子が爆発した。
「煩い! 御機嫌だと? おい、シェルケン、どういうつもりだ! 陛下の御前を避けるお前でも、俺の臣籍降下はもう知っておろうが。嗤って見下ろすためにでも来たのか? 今や俺は伯爵家の人間も同然だからな、シェルケン侯爵様?」
だがシェルケンはスタイリスの怒りを右から左へと聞き流した。
「何をおっしゃいますか、王孫スタイリス王子殿下。拙は常に若い王族方のお味方ですぞ。嗤うなどとはとんでもない」
「はっ、『王孫』、『王子殿下』とか馬鹿にしておいて、『味方』とは聞いて呆れるわ。腰痛はどうした? 歩きもできぬとか抜かして閣議にも顔を出さんからお前は知らんだろうがな、俺は以前から陛下の緊い御不興を買っていたらしい。もう一度言うぞ? 俺は臣籍降下を命じられたのだ。もう殿下でも王族でもない! 不愉快だ、出て行け!」
スタイリスがまた大声を出したが、シェルケン侯爵は皮肉にも怒声にも動じなかった。相変わらずニコニコと笑いながら宥める声を出す。
「おやおや、拙如きにお怒りとは、実にお若い。もう一度申し上げますぞ。拙はお若い王族方のお味方です」
「くどい、俺はもう、」
スタイリスが言葉と共に王族の身分を床に向かって吐き捨てようとするところに、シェルケン侯爵は言葉を被せた。
「今はまだ王族であらせられる」
遮られた王子は不機嫌な表情をさらに歪めた。身体を長椅子の背に倒し、投げ出した脚を組んで苛々と揺らしながら投げやりに応える。
「は、それがどうしたというのだ。どうせ同じことだ、すぐに王族でなくなるのだ」
「いいえ、『今』が続けば良いではありませんか」
シェルケンが謎めかす。意味のわからないその言葉に、スタイリス王子の声から怒りが消え、脚の揺れが止まった。
「何だと?」
「殿下が王族であらせられる『今』が続けば良いと申し上げました」
「どういう意味だ?」
「籍が書き変えられるまでには時間が掛かります。その時間が掛かれば掛かるほど、殿下が王族籍にあられる『今』が長く続くとはお思いになりませんか?」
「意味がわからんと言っているのだ。はっきりと言え」
「王族の籍の管理係は、殿下の御祖父オットー伯爵の縁続き、謂わばお身内では? 殿下が今のお気持ちを洩らされれば、筆の勢いが鈍るのは人の情というものでありましょう」
「だからどうだと言うのだ。遅かれ早かれ同じ事だろうが」
「弥早、お若い。その間に、陛下のお気持ちが変わるような事が起きればどうなるでしょうかな」
「おい、何かしでかすつもりか?」
思惑たっぷりなシェルケン侯爵の言葉に、スタイリス王子は眉を顰め声を潜める。その上半身はじりじりと前にのめり出す。
だがシェルケンは明るい声の調子を変えようとはしない。
「いえいえ、何かが起きれば、です」
「……どうやってだ?」
「先ほどの殿下のお叱り、身に沁みました。思い通りに動かぬ腰のせいとは言え、拙シェルケン、いささか陛下の御前を遠ざかりすぎたと猛省致しております。速やかにお詫びに上がらねばと思います」
「それがどうした」
「なれば陛下のことです、御叱言と共に、最近の政について意見を具申せよと必ずやお命じになるでしょう。然すればこのシェルケン、陛下の御前に身を投じ、殿下の臣籍降下の御命は拙速と、伏してお諫めしようと決意しております」
それを聞いて、スタイリスの顔から緊張感が抜けた。『なんだそれは、がっかりだ』と言わんばかりだ。声からも気が抜け、座っていた長椅子に身を倒してしまった。
「はっ、お前如きがそんなことを言って陛下が思い直されるとでも? 『王命覆れば国また覆る』、当たり前だろうが。それとも俺が知らないとでも思っているのか? 馬鹿にするな」
「確かに拙如きの言葉ではどうにもなりますまい。ですが、拙一人でなければどうでしょうかな?」
「一人ではない? どういうことだ?」
「侯爵の位をいただいているとはいえ、このシェルケンも陛下は怖うございます。そこで、何名かの侯伯にお取り成しをお願いしようかと。その方々も、口を揃えて殿下をお庇い致せばどうでしょうかな?」
余裕たっぷりに言われた言葉を聞いて、スタイリスは再び体を起こした。
シェルケンのみならず、複数名の上位貴族とは。それが本当ならば。話は違う。
目にも光が戻り、期待に口角が上がる。声の調子も高くなった。
「ほう。お前にそれほどの力があったとはな」
「いえいえ、殿下のお人柄があったればこそ。殿下が臣籍に落とされるのを口惜しく思う者は少なくはありませんぞ」
「まあ、それは否定できんな。だが、宣下を受けた時には誰も助けに入らなかったのだぞ」
「それはそれぞれにお考えあってのこと。殿下をお叱りの最中の陛下に何かを申し上げて、御勘気に触れることがあれば如何でしょうか。余計にお気を立たせては、取り成しどころか反って殿下のお立場が悪くなるとの深慮によってのことでしょう」
「それはそうかもしれんな。で、俺の味方はどれほどいるのだ」
「大臣・局長級だけで複数名。陛下も無視はできますまい。勿論、殿下の外祖父、オットー伯も殿下の御為にと息巻いておられます。お心強くはありませんか?」
「うむ。祖父はどうしているのだ?」
「当初は陛下の宣下を聞いて強く落胆されていましたが、拙が別室へお連れしてお慰めし気を取り直されるようにお願いしました。今は他の方々と、打ち合わせの最中です」
「そうか、そうでなくては困る」
「それに拙共の嘆願だけとは限りません。陛下が決断なされた理由の一つとして、メリエンネ殿下の御快復がありましょう。王女殿下が王太子の後を継がれることを見込んで貴方様を王族から出されようとのことでしょうが、それがお考え通りにいかねば……」
侯爵が語尾を濁して口角を上げる。スタイリスもにやりと笑ってから応じる。
「ほう。おかしなことをいう奴だ。そう言えば、お前は以前は東宮局の長官だったな。メリエンネの近くに、お前の息の掛かった女が残っているのか? その者を使うと言うのか?」
「いえいえ、とんでもないことです。そのような怖ろしげなお言葉、耳にするだけでも肝が潰れてしまいます。殿下、拙はこう見えて少々気が小さいのです。御勘弁を。拙が申し上げたのはあくまで仮定のことです」
シェルケン侯爵が慌てて両手で耳を押さえてお道化て見せると、スタイリス王子も「はっはっは」と笑って見せた。
「少々どころじゃないだろう。お前はピオニル子爵の御裁断でも御勘気を恐れて御前に現れなかったからな」
「畏れ入ります」
「それで、お前の思惑通りに、いいか、俺ではない、お前のその思惑通りに王女の体調に万一の事があった場合、どうするというのだ? お前にとって何の良いことがあるのだ? 王女は以前はお前が面倒を見ていたのだ。お前の言うことを聞く者が減るだけだろうが」
「そうですな。ミンストレルが宰相のままであれば」
「どういう意味だ? お前の狙いは何だ。はっきり言え」
スタイリスがシェルケンを正面から見据えて強い声で問うと、侯爵も「では申し上げましょう」と態度を改めた。諂い笑いを顔から消し、一言一言、王子の反応を確かめながら己の思惑を打ち明けた。
「良くお聞きください。殿下の臣籍降下に働いた愚物ミンストレルを宰相の座から取り除かねば、殿下にもこの国にも未来はありません。しかしながら、もしも臣籍降下が失策、撤回となれば、それを推し進めたミンストレルの責任問題となるは必定。その際に彼奴めを排斥し、拙を後任とすることを御支持くださることがあれば、宰相となった拙はメリエンネ姫の体調不十分を理由に殿下を摂政に推しましょう。王太子はあの状態。そうなれば、臣籍降下どころか実際の采配は殿下の思うまま。殿下御自身を拙と共に次の王太子として推挙されれば、それで良いのでは? ですが、殿下がお気乗りがなされないのであれば止むを得ません、私はメリエンネ姫を推すことと致しましょう。王女の体調が優れなければ、その分まで拙や同心の者が政をお支えすることになりましょう」
持ち出したのは、王太子と宰相の座を分け合おうという重大な取引の謀議である。
「ふむ、なるほどな」
シェルケンの話を興味深そうに聞いていたスタイリスが納得がいったというように首を縦に振る。それを見て、今まで何か言いたそうにしながらもじっと我慢していたイザーク・アルホフが、王子が迂闊な返事をする前にと横から急いで口を出した。
「殿下、なりません。どうか良くお考えください。宰相は時に陛下の代わりの執権としての大きな権限を持つ者、その位はそう安いものではありません。真に頼みとなる腹心の者が置かれるべきものです。その座を先ずは自分に差し出せとは、真っ当な話とは思えません。それに、ただでさえ臣籍降下を命ぜられた御身ではありませんか。この上に陛下の最も信頼される宰相閣下の失脚の策謀に加担されては、陛下の御勘気がさらに嵩じることは必定、伯爵位も失われるどころか、平民籍への異動すら危ぶまれます。どうかこのような軽挙妄動にはお乗りになりませんよう」
身を尽くし言葉を尽くしての懸命の諫言だったが、不機嫌な顔になったスタイリスがそれに答える前にシェルケン侯爵が笑顔のまま応じた。
「如何にも如何にも。なるほど、アルホフ卿、宰相位に相応しいのは貴公のような、永年殿下に近くお仕えしてきた忠義の者を、ですな? 殿下の臣籍降下を事前に察せず未然に防ぐこともできなかったような有能な?」
「ぐ……」
皮肉を言われたイザークが悔しさに歯噛みして何も言えずにいると、その間にと、シェルケンは勢い良く言葉を重ねた。
「拙シェルケン、このように言い出したからには、事成った後には恰も貴殿ら子飼いのごとく殿下に仕えましょう。アルホフ卿、殿下が臣籍降下を命ぜられたその後にも尚、忠義を尽くされようという貴殿のそのお心はお見事。だが、貴殿はまだ宰相の大任には若く位も足りぬことは否めますまい? 何、お気になさるには及びませんぞ。貴殿には時間はたっぷりとあるのです。宰相が交代した後には宰相次官が空位となりましょう。力と経験を蓄えられ、昇爵を重ねて先ずはそこを目指されては? 御安心召されよ、殿下は決して貴殿を見捨てはされますまい。拙シェルケンも喜んで力をお貸し致しますぞ」
「私のことなどどうでも良いのです。事成らねば殿下のお立場は、」
イザークはそれでも怯まずに反論しようとしたが、苛立ったスタイリスに大声で遮られた。
「イザーク、止めよ!」
王子は額に青筋を立てて、一人残った最後の忠臣を怒鳴り付ける。
「お前は俺の器を伯爵位が精々だと思っているのだろう! 俺が王族に残る機会を潰そうというのか?」
「そうではございません」
「嘘を言うな! ああ、わかったぞ。俺がいなくなればユークリウスの道が拓けるからな。あいつの肩を持つと思えば、そういうことか」
「いいえ、私は御身を思うばかりです」
「うるさい、何が『御身』だ、口先だけの役立たずが! 目障りだ! 出ていけ! 目通り適わぬ! 二度と俺の前に顔を出すな!」
王子の口から激しい拒絶が叫ばれる。何とか諫めようと言葉を返していたイザークだったが、追放の宣言を聞いて顔を赤くした。目を吊り上げ、口を引き絞り、唇を噛み締める。しばし黙り込んだ後に再び口を開いた時に絞り出されたのは、王子への訣別の言葉だった。
「……承知致しました。お気に障りましたこと、真に申し訳ない事でございました。殿下、これまでお引き立てくださり、有難うございました」
「ふん、白々しい」
「失礼致します」
イザーク・アルホフは一礼すると、大股で扉に向かった。それでも扉を開いた後にもう一度物悲しそうな顔で王子を見て深く頭を下げ、名残惜しげに後退りして部屋を出ていった。
丁寧に閉められた扉の音が鎮まると、シェルケン侯爵がスタイリス王子に話し掛けた。
「殿下、よろしかったのですか? この先、お傍近く仕える者がいくらでも必要になるのでは?」
「お前の思惑通りに上手く行けばな。そうなったら、どうせあいつもブルフも他の奴らもまたほいほいと戻ってくるさ。そういう信用ならざる連中だというのは俺には以前からわかっていたのだ。で、シェルケン。お前の望みは宰相の座だけで良いのか? 随分と無欲だな」
「いえいえ。少しは拙者にも俗な欲がございますし、殿下を推される他の方々にも恩賞が必要でしょうが、それはいずれ」
「ふーん、まあ想像はつくな。ミンストレルの跡地の分け取りか」
「では御承知いただけますか?」
「いや、知らんな。何のことかわからん。この部屋に入ってから、どうも耳鳴りがして、何も聞こえなかった。俺は暫く休むとしよう」
「おやおや、殿下、お体は大丈夫ですか?」
「ああ、少し休めば大丈夫だ。シェルケン、下がっていいぞ。ああ、そこの女も、俺のためなら何でもすると言っていたぞ」
「ほう」
シェルケン侯爵は部屋の隅で立っていた侍女を今まで気が付いていなかったかのように振り返ると、その顔を見て眼を光らせた。
「うむ、女、お前、普段は食事を運ぶところを見掛けるが」
「はい、厨房付きが長く、最近は国王陛下への御膳を運ぶ係りを任されております」
「そうか。長い忠義を認められてのことだな。今日は?」
「こちら付きの者が急病のため、臨時に命じられました」
「そうか。スタイリス殿下をお慕いする気持ちを汲んで、せめて一日でもお傍にという厨房の支配の配慮であろうが、安心せよ。殿下はこれからも殿下であらせられる。お前もそうあっていただきたいと思うであろう? 殿下のために働きたいのであろう?」
「はい! 閣下!」
「では、私と共に来い」
シェルケンは侍女に命じると王子に向いた。
「殿下、お邪魔致しました。吉報をお待ちください」
「何のことかはわからんが、精々楽しみに待つことにしよう。ではな。シェルケン、下がって良い。精々好きなようにすることだな」
「はい、そのように致しましょう。失礼致します」
シェルケン侯爵はスタイリス王子に向かって再び顔一杯に作った笑顔を向けるといとも丁寧に頭を下げ、侍女を引き連れて出て行った。
後に残されたスタイリス王子は、長椅子に手足を伸ばして寝そべると、気持ち良さそうに伸びをした。この部屋で正気付いた時とは別人の顔色になっている。
「やはり俺には人望がある。上に立つ者は多くの民草に慕われねばならんのだ。国王陛下はそれを見抜けなかったようだが、今度は考え直されるだろう。この礼装は汚さぬよう気を付けねば。すぐにまた着ることになるのだからな。いや、もう暫くは脱がずにおくか。あの天井もまだまだ何度も見ることになるな」
大声でそう言って立ち上がると、返事する者の誰もいない部屋の中を行ったり来たり、嬉しそうに眺め回しながらそわそわと彷徨き始めた。
「ふむ、この話を誰かに聞かせてやりたいところだ。気付け薬など飲んでいる場合ではない。あいつは侍医の所から早く戻らないものか。他に誰か俺の人徳を聞かせてやれそうな者はいないか。探しに出るわけにもいくまいが、誰か来ないものか」




