第百九十二話 宿下がり
王国歴224年4月下旬
ふわりふわりと空に浮く白い雲の間から春の陽射しがうらりうらりと照る中を、柔らかい東風がそよりそよりと吹いている。きっと上機嫌の風の精が、樹々の枝の萌黄色のつぷつぷの新芽がすくすく伸びて若緑色へと野山の彩りをみるみるうちに変えていくのを優しく見守っているのだろう。
菫が王城に上がってヴィオラ・リュークスと名を改め、侍女見習の修行を始めて一年近くの時が経った。
テレーゼ・コルネリア侍女取締に見守られながら王妃の下での修行は順調に進み、国王の鍾愛も相変わらず深い。もう、あと一年もせずに十五歳になり成人の儀を迎えることになる。
そんなある日、ヴィオラは国王夫妻に国王の執務室へと呼び出された。
ヴィオラがテレーゼに伴われ、侍従に呼び込まれて部屋に入ると直様に国王が嬉しそうに声を掛けた。
「おお、ヴィオラ、来たか」
「はい、国王陛下、王妃殿下、ヴィオラ・リュークス、お召しにより参じましてございます」
ヴィオラが挨拶をして侍女のお仕着せの服を摘まみ、緩やかに礼をする。
「そんな堅苦しい挨拶、せんで良い。早くこちらへ来い」
国王は顔を思い切り和ませて手招きをしたが、王妃が横から「陛下、お待ちを」と窘めた。
「陛下、甘やかしてはこの子のためになりませぬ」
そしてヴィオラに顔を向ける。
「ヴィオラ・リュークス、頭の上げ下げが少し遅いです。丁寧なのは良いですが、遅すぎると慇懃無礼に見えかねません。やり直しなさい」
顔を厳しく取り繕っても、声には春風の穏やかさが混じってしまう。
「はい、王妃殿下。申し訳なく存じます」
そう言ってヴィオラはもう一度礼をした。今度は王妃も満足したようで微笑んだ。
「良いでしょう。リュークス嬢、今日も健やかそうで何よりです」
「はい、お優しいお言葉を賜り、嬉しく思います。国王陛下、王妃殿下にあらせられましても御機嫌麗しうお見受けし、祝着至極に存じます」
王妃とヴィオラのやり取りをじれったそうに苛々としながら見ていた国王が、待ちかねて妃に声を掛けた。
「もうそれぐらいで良いであろう。今日は表に呼んだとはいえ、リュークス家の用事なのだ。侍女見習の修行のためではないのだ。早く知らせてやってくれ」
「はいはい」
王妃は国王に軽く応じて、ヴィオラに笑顔を向けた。
「ヴィオラ、今日は貴女にとって嬉しいことを知らせるために呼びました。妾も母として嬉しく思います」
「何でございましょうか、お母さま」
王妃の顔が母親のそれに代わり、ヴィオラが肩の力を少し抜いて呼び方を変えると嬉しそうに目を細めて笑い声を零して話し始めた。
「うふふ。ヴィオラ、貴女は王城に上がってから、常に厳しく自分を律して励み続けてきました。たまの休みの日も、自分で様々なことを学んでいたこと、知っておりますよ」
「ありがとうございます、お母さま」
「ええ。ですが、緊張しすぎは良くありません。張り続けた琴は、音が悪くなってしまいます」
「ですがお母さま、私は一日も早く、王族の妃として相応しい者になりとうございます」
「まあまあ。相変わらずね」
国王と王妃は表情を引き締めて懸命な思いを訴えるヴィオラの様子を見て、顔を見合わせて微笑み合った。この娘の真っ直ぐ一途な真面目振りは、内々の婚約者のユークリウス王子に負けず劣らずだ。見ていて愛おしくなるが、それだけで良しとしてはこの子のためにはならない。
国王は愛娘の方に身を乗り出して諭した。
「ヴィオラ、良く聞け。お前はそのように気を張り続けることができるかも知れん。将来ユーキの妃となっても、きっとそうあり続けようとするだろう」
「はい、お父さま。そうありとうございます」
「そうか。だが、妃がそのようであっては、将来ユーキやお前に仕える者たちがそれを見て、自分も同じように気を張り続けねば仕えられぬと思ってしまうのではないかな?」
「それは……」
「良いか、ヴィオラ。人も弓も、緩める時には緩めてやらねば軋み弱り、いざという時にきちんと強く張ることができなくなるのだ。お前も、自分を緩めることを憶えねば、どう臣下を緩ませてやれば良いのかわからなくなる。どうだ、違うか?」
「いえ、違いません、お父さま。私の考えが至りませんでした。未熟で申し訳のう存じます」
ヴィオラが悲しげに顔を伏せて謝ると、国王は慌てた。
「ああ、しょげてくれるな、ヴィオラ。そういうつもりでは無いのだ、儂が言い過ぎた、済まん、済まん。顔を上げて笑うてくれ。其方の顔が曇ると、儂の心は土砂降りになるのだ」
「はい、お父さま」
ヴィオラが頑張って微笑むと、国王もほっとして笑顔になる。
その様子を見て、王妃が冷たい声を国王に掛けた。
「……陛下、お若い時に今の宰相と共に城下へお出になった時に、出会う市井の娘たちに片端からその台詞をおっしゃって、王母様に緊くお叱りをお受けになられませんでしたか」
「な、ヴィオラの前で何を言い出すのだ。ヴィオラ、そんなことは儂はしておらんからな」
思いも寄らず昔の事を持ち出され、国王が焦る。
ヴィオラは思わず浮かべてしまった口元の笑みを合わせた両手の先で隠した。
「お父さま、私、お父さまのお教えのことを考えていて、お母さまが何をおっしゃったか聞いておりませんでした。お母さま、真に申し訳なく存じます」
義娘が悪戯っぽい声で答えると、王妃も笑顔に戻った。
「まあ。ヴィオラ、学びはちゃんと進んでいるようですね。ふふふ」
「畏れ入ります」
「そ、それより、用事の方だ。妃よ、早く伝えてやるのだ」
うかうかしていて話がまた自分の方に戻ってきては不味い。国王は妃を急かした。
「はいはい。ヴィオラ、あなたがしっかりと休めるように、暫くの間、宿下がりを命じます」
「お宿下がりを……」
「ええ。といっても、リュークス家では帰る家がありません。かといって、花街に戻すわけにも参りません。貴女とユーキのことを嗅ぎ付け始めた貴族共もぼちぼちいるようです。何かと煩く詰まらぬ噂をされてもいけませんから。それなら寧のこと、王城の外に邸を構えている王族の所での修行をするという名目で、心と体を休めてきなさい」
「お母さま、それは、つまり」
「ええ、マレーネの所へ行ってらっしゃい。あそこなら、貴女と仲の良い侍女見習もいるでしょう?」
マレーネ殿下の許には、アイリス、こと菖蒲がいる。懐かしい親友と会えるとわかって、ヴィオラに笑顔の花が咲く。
「はい! お母さま、ありがとうございます!」
「ふふふ。未来のお義母様お義父様にも可愛がってもらっていらっしゃい」
「はい!」
喜びに声が高くなる愛娘に、国王が横から声を掛けた。
「ヴィオラ、実はマレーネの奴が、『こっちへ寄こせ、こっちへ寄こせ』と煩くてかなわんのだ。面倒臭かろうが、上手く相手をしてやってくれ。ああ、だが、まだ『お義母様』と呼んではならんぞ。付け上がりおるからな」
「まあ。お父さま」
「あいつの自慢げな顔は、本当に気に障るのだ。悔しうて堪らん」
眉根に皺を寄せ、困り果てたと言うように首を振る国王を見て、ヴィオラは一歩前に進み頬を染めながら声に力を込めた。
「あの、今の私の父母は、お父さまとお母さまだけでございます」
「おお、そうだ、そうだったな、ヴィオラ。うむうむ」
「あらあら」
「お父さま、お母さま、いつもお可愛がりくださり、ありがとうございます。あの、羞かしうございますが、申し上げます。私、お父さまお母さまを敬い、お慕い申し上げております。お父さまお母さまの子となれたこと、心より嬉しく有難く思っております」
「そ、そうか。なんと嬉しいことを言ってくれるのか。なあ、妃よ」
「はい、陛下。娘を持って良かったですわね。ヴィオラ、陛下も妾も、貴女を大切に思っておりますよ」
「あい……はい、お父さま、お母さま、ありがとうございます」
「うむうむ。なんと可愛いことか。いつまでもこうしておりたいものだ」
「ですが、そろそろ時間の様ですね」
「そうか。残念だが仕方ない。ヴィオラ、マレーネたちによろしくな」
「ヴィオラ、準備はテレーゼに相談しなさい。こちらから呼びにやるまで、王城に戻る必要はありません。それに陛下はこれから当分の間お忙しいので、改めて挨拶に来る必要はありませんからね」
王妃が先を急ぐその声を聞いたヴィオラが王妃を見上げると、その顔に緊張の色が混じるのが見て取れた。ヴィオラの胸に理由無く得体の知れない不安が過る。一瞬戸惑い躊躇ったが、ヴィオラはすぐに心を決めた。
「はい。あの、お父さま、お母さま。私が留守の間、これをお持ちいただけませんでしょうか」
ヴィオラはそう言うと服の胸の辺りから緑色の簪を取り出し、心密かに『親愛なるわが友ヴィンディーゼ、どうかお父さまお母さまをお守りください』と念じてから父母に向かって差し出した。
「これは私が妓楼を出る時に、姐が形見にとくださったものです。日頃欠かさず身に着けておりますれば、私の代わりとお思いくださればと思います」
「おお、ヴィオラの身代わりか」
「嬉しいこと。簪とあらば、妾が預かりましょう。陛下、よろしいですわね」
「うむ。ヴィオラがおらぬ間、淋しくなったら妃と二人でそれを眺めることにしよう。では、下がって良い。元気で行ってこい」
「ヴィオラ、体に気を付けてね」
「はい。ではお父さま、お母さま、暫しの暇をいたします」
ヴィオラが義父母にもう手慣れた上品な礼をして下がろうとした時、国王の声がした。
「ああ、ヴィオラ、ちょっと待て」
国王が呼び止める声に、ヴィオラは急いで振り返ったそこには、国王と王妃が、極めて真剣な顔でこちらを見ていた。
国王は諄々と説き聞かせるように、最後の言葉を言った。
「これからいろいろな事が起こるやも知れんが、心配はいらぬ。良いか、落ち着いてマレーネの許におれば良いからな」
厳しいとも言えるその声の音の響きを聞いてヴィオラはまた緊張と不安で胸が締め付けられた。
返事をすることができず、ただ静かに頭を下げて部屋を辞することしかできなかった。
翌々日、ヴィオラは一時王城を辞してマレーネ王女の邸に移り、そこでマレーネやマルガレータ王女たちの大歓迎を受けた。待っていたアイリスこと菖蒲とは久方振りの再会をして手を取り合い抱き合って喜び、二人で部屋に籠って積もる話をした。緊張を解き、心を休め、宿下がりを命じた国王夫妻に大いに感謝した。
国が大きく揺れ動き始めヴィオラが国王夫妻の真の意図を覚るのは、もう少し先の事だった。




