第百三十七話 辺境伯の館再び
王国歴223年8月中旬
ユーキはクルティスとケンを連れてクリーゲブルグ辺境伯領を訪れていた。目指すは辺境伯の館である。
辺境伯から届いた書簡では、王都での用を済ませて自領に戻ったので、問題となった領間の契約について話し合いに伺いたいとのことであった。契約を破られた側から出向くのは筋が違うが、ユーキは王族であるので辺境伯の側からの挨拶も兼ねて来ると申し出たのだろう。だが筋は通すべきだし、ユーキ自身が辺境伯領を見てみたいのだと強く望んでこちらから訪問することにした。
使者を送り辺境伯の予定を尋ねたところ、王都から戻ってからはほぼ常に館に留まっているので、いつでも来訪を歓迎するとのことであった。税率を元に戻すなどの当面行うべき処置も済み、フェリックスとベアトリクスに留守居を頼んで出発した。
ケンもどうやら普通に乗馬ができるようになり、他にも護衛の衛兵数騎を含めて全員が騎行である。ユーキとクルティスにとっては初めての訪問だが、ケンは数か月振りの再訪になる。
あの時には、兄の住むトリニール町までは徒歩、そこから辺境伯の館までは荷馬車の荷台であった。今、主街道を騎行して高く馬上から見る風景は、季節の違いもあってあの時に幌の隙間から覗き見たものとは全く違って見える。
樹々は青々と茂り、太陽は高くから照り付ける。街道の先は立ち昇る陽炎で揺らぎ、両側の畑や叢から上がる青い草熱れは、南風が止むと鞍上にいても咽返るほどに押し寄せてくる。
その熱暑の中を一行はユーキを中心にして堂々と進む。
後ろから進むケンには、月毛のシュトルツ号に乗って前を行くユーキの白い服や金褐色の髪が真夏の日差しを浴びて輝いて見える。この暑さの中でも、初対面の山道で見たあの時と同じように背筋の伸びたその姿は、ただただ眩しく憧れる。
ケンは、この殿下の許に仕えて、その後ろに従えるようになった自分を嬉しく感じながら馬を進めた。
一行は領境の町で早めに一泊し、二日目に関所を越えて辺境伯の使いの出迎えを受け、その先導に従って進んで辺境伯領の領都に着いた。
領都の大通りでは相変わらず多くの人出があり、通りの両側に立ち並んでこちらに頭を下げながらも物珍しげな視線を向けてくる。
ユーキが王族と知ってか知らずか、家から道端に走り出てきて、人垣の後ろで跳び上がりながら手を振ってくる子供たちもいる。ユーキはそれに笑顔で気安く手を振り返している。すると子供たちは嬉しそうにしながらも、周囲の大人の真似をして姿勢を正して頭を下げて見送っている。姿を見ているだけでなぜだかそういう気にさせるのだろう。偉ぶったところがないのに本当に威厳を感じさせる殿下だと、ケンは改めて感じ入った。
一行は辺境伯の館に着いた。
ケンが国王陛下への上訴の取り次ぎを願い出るために荷馬車でひっそりと裏門から入ったあの時とは異なり、今日は王族の一行である。表通りに面した正門から騎乗したままで堂々と中に入るのだ。
高い格式の感じられる豪壮な黒塗りの木製の門の両側の石柱には、左には厳めしい武装の騎士、右には華やかな衣装の淑女の像がそれぞれ彫られている。その前で長槍を持って立つ門衛の一人に案内人が一声掛け、門衛が門の小窓を開いて内側に賓客の来訪を伝えるとややあって門が重々しく内側に開け放たれ、一行はその中に馬を進めた。
その先の館の玄関の前にはクリーゲブルグ辺境伯本人が出迎えに立っていた。
ユーキに従い、一行は馬を降りる。
手綱を馬丁に預けてユーキが辺境伯の前に歩み寄ると、相手も厳かな顔で進み出て頭を下げ、ユーキの言葉を待った。
「クリーゲブルグ辺境伯閣下、御機嫌よう。遠く王都からの御帰還から間もないにも関わらず相変わらず壮健な御様子、何よりです」
「ユークリウス殿下、忝きお言葉、嬉しく思います。殿下におかれましても御機嫌麗しう、祝着至極に存じます」
「閣下、本日は貴領との契約について、前領主が引き起こした違約騒動を綺麗に片付けるべく参りました」
「当方からお伺いするべきところ、殿下に御足労の煩いをお掛けしましたこと、恐縮にございます」
「いえ、実はその他にもお話ししたいこと、お力をお借りしたいことがありまして参った次第です」
「何なりと喜んでお伺いします。ですが暑中でありここは埃も立ちますれば、先ずは我が家へとお通りいただけませんでしょうか。お差し支えなければ、我が家の者も御目通り願いたく期待に胸を弾ませてお待ちしておりますれば、何卒」
「勿論です。閣下の御自慢と噂に高いお身内の方々にお会いできるものと、私も楽しみにして参りましたので」
「有難うございます。では」
そう言って先導して館へと案内しようとした時に、ユーキの後ろに控えた者のうちにあったケンの姿が辺境伯の眼に留まった。
「おお、ケンではないか! 久しいな……殿下、これは失礼」
「いえ、お気になさらず」
思わず声を上げた辺境伯にユーキは微笑みながら言葉を返し、ケンはその後ろで辺境伯に向かって深々と、恭しく頭を下げた。辺境伯もそのケンの様子を笑顔で見守ってから、「ではこちらへ」とユーキたちを館に導いた。
お仕着せの若々しく逞しい執事が開いた玄関を通ると、休憩室に案内された護衛たちと別れ、ユーキとクルティス、そしてケンの三人は広々とした応接室に導かれた。
洗い立てと思しい染み一つ無い白布が敷かれた広い方卓が泰然と中央を占め、それを挟んで一対の豪勢な椅子が置かれている。その一つ、窓を背にした奥側へとユーキは導かれた。
従僕が引いた椅子にユーキが座り、それを待って辺境伯が向かい合った席に腰掛ける。さらにユーキの両脇後ろに従僕たちが運んだやや簡素な椅子にクルティスとケンも腰掛けた。一同が席に落ち着き、従僕たちが壁の側に控えて立ったところで辺境伯が立ち上がった。
「殿下、先ずは今回の私の訴えに関わる騒動につきまして、殿下のお手を煩わせたこと、深くお詫び申し上げるとともに篤くお礼申し上げます。真に申し訳なく、また、有難うございました」
最初に監察の礼を言って深く頭を下げる辺境伯に、ユーキは微笑みながら答えた。
「閣下、お顔をお上げください。今回、私は見習として正使スタイリス殿下の監察団の端に加えていただいた身。お詫びやお礼を言われるには当たりません」
「いえ、実際の監察に当たっては殿下が御熱心に調査に当たられたこと、伺っております。また陛下の御裁断の場で、前ピオニル子爵やネルント開拓村の村人を殿下が身を挺して庇われたお姿とお言葉、私もその場で拝見拝聴致しました。殿下の御尽力が無ければ、このように穏便に収まりはしなかったでしょう」
「私はあくまで学ばせていただいた側です。意見を陛下に具申させていただいたのも、その一つに過ぎません。過分のお言葉は身に余ります」
「何をおっしゃいますやら。今回の監察の御成功は殿下の御活躍あってのこと」
前のめり勝ちに勢い込む辺境伯の言葉を、ケンはユーキの右脇でその通りだと思って頷きつつ聞いていたが、反対側にいたクルティスが「オホン」と咳払いをしてから口を挟んだ。
「脇から失礼ながら、閣下、今回の監察の功績は全て正使スタイリス殿下のもの。そうでなくては、正使殿下の御勘気を招かれることになりはしますまいか。引いては我らが殿下にも差し障りが及ばぬかと、お仕えする身として心騒ぎが致します」
それを聞いて、辺境伯は苦笑いをしながら椅子に戻った。
「これは失礼。いや、従者殿の御心配も御尤も。諫言、有難く思います。ここには心許せる者しかおりませんが、嫉妬の悪魔の耳はそれ以上に長いかもしれませんな」
ユーキが無言で曖昧な微笑みを返すと、辺境伯がクルティスに視線をやりながらユーキに尋ねた。
「殿下の御臣下も、少数なれど忠義に篤い精鋭揃いとお噂を伺っております。失礼ながら、従者殿はクルティス・ダンナー殿では?」
「はい。そうですが、『噂』というのが気になります。どのような噂か、差し支えなければお教えいただけますでしょうか?」
「勿論ですとも」
そう言うと辺境伯は「おほん」と咳払いをしてから語り出した。
「先ずダンナー殿は多岐の武芸に通じた達者であると、近衛師範に伺いました。ディートリッヒ嬢が栄達を約束された税務局の席を捨てて殿下の御足下に奔り税務局長に嘆きの霧を吐かせたことは、既に貴族の間で語り草になっております。殿下の補佐として陛下が選び抜かれたヴァイツ卿の能力は言うまでもなく、さらには奥にも傅役としてダンナー殿の御両親、それのみならず、他にも知勇兼備の油断ならぬ侍女をお抱えとか」
そこまで言って、辺境伯は顔をケンに向けた。
「その上に、そこに居るケンは事収まった後は私がこの領に迎えようと心算しておりましたところを、殿下に逸早く搔っ攫われてしまいました。弥早、御手が早いこと早いこと、このゲアハルト・クリーゲブルグ、切歯扼腕致しましたぞ」
「そうでしたか。それは危ないところでした」
「女性にも同じように御手が早いのでしょうかな?」
ぐっと身を乗り出して興味深そうに尋ねた辺境伯に、ユーキは『探らせはしません』とばかりに表情は変えずに、目だけを笑わせて応じた。
「お揶揄いは御容赦いただければ」
「はっはっは。これは失礼。如何でしょうか、ケンを私にお譲りいただけませんでしょうか?」
「いえ、お断り致します」
「でしょうなあ。ですが、妬ましい。お恨み申し上げますぞ」
辺境伯は再び「はっはっは」と愉快そうに笑声を上げた。
ケンは面映ゆさのあまり、顔を赤らめて俯くしかない。
ユーキはその様子に微笑ましく目を配ってから、ケンをここへ従えた意図を辺境伯に伝えた。
「閣下、本日こちらにケンを伴いましたのは、閣下に見せびらかしてお恨みを買うためではありません。閣下がケンの願いを聞き届けられ、ネルント開拓村からの訴えを国王陛下にお取次ぎくださったことについてお礼を申し上げたいとの、ケンの断っての願いによるものです。よろしいでしょうか」
「ほう。良いでしょう。聞きましょう」
ユーキがケンを振り返り、頷いて促すとケンは椅子から立ち上がって背を伸ばした。
「閣下、この度は有難うございました。お蔭様をもちまして、私の村は平穏な暮らしを取り戻すことができました。村長以下村民一同、閣下には心より感謝致しております。貧しい村であるため閣下のお気に入るような品を差し出すことはできませんが、村人を代表して、心からのお礼を申し上げます。誠に有難うございました」
そう言ってケンが頭を深々と下げると、辺境伯は満足そうに応じた。
「ケン、事が片付いて良かったな。戦闘報告を読ませてもらったが、ニードとの戦いでは無傷の完勝を飾ったそうだな。驚いたぞ」
「それも、閣下とお嬢様の御助言があればこそです」
「そうか。いや、実を言うと礼の代わりにはお前に仕官を求めようと思っていたのだが。その分も、殿下に忠義を尽くすのだ」
「はい、有難うございます。そのように致します」
「うむ」
辺境伯が頷き、ケンがもう一度頭を下げてから席に戻ったところで別の従僕が入室して各人に紅茶を給仕し、会話が止まった。その紅茶を飲んで一息吐いたところで、ユーキは本題を切り出した。
「閣下、よろしければ貴領と弊領の契約の問題について、片付けてしまいたいのですが」
「承知しました。殿下、お差し支えなければ、教育のために陪席させたい者がおるのですが、よろしいでしょうか?」




