第3話 変死
私がアイスコーヒーを、香里がキャラメルラテを注文した。
窓際の席に向かい合って座ると、彼女はカメラを外してテーブルに置き、声を少し落とした。
「さっきまで配信してたんで切りましたけど……先生、例の顔曲がり事件、知ってます?」
知っていた。
ネットで騒がれているあれだ。
「厚楽良子、どぶろく業者の」
「そうそれ。あれから一件増えたんですよ、昨日」
「増えた?」
「港区のマンションで、男が死んでたって。顔が発酵したみたいに膨れ上がってたとか。所持品に遠野産ホップのビールの見本瓶が何本もあって、でもそのビール、産地偽装だったらしくて」
私は少し考えた。
「二件目か。しかしよく知っているな」
「JKの情報ネットワーク舐めないでくださいよー。……で、これ、いいネタじゃないですかね」
香里はストローをくるくると回しながら、至極真面目な顔で言った。
「私、取り上げようと思ってんすけど」
「やめとけ」
私はにべもなく切って捨てた。
「なんでですか」
「人死にだぞ。警察に任せとけばいいんだ」
「でもー、どー見ても怪異案件じゃないですか。先生の専門でしょ」
「専門だからだよ。
顔が曲がるなんてありふれてるんだ。顔面神経麻痺に脳卒中、顎関節症。重症筋無力症、甲状腺機能障害、パーキンソン病……顔の膨張ならクインケ浮腫、アレルギー、蜂窩織炎。
ちょっと派手な症状だからって何でもかんでもオカルトに結びつけるな。そういうスタンスだとあっさり詐欺に引っかかるぞ」
「先生みたいに?」
「誰が詐欺師だくそJK」
私は乳白色に濁ったアイスコーヒーを口に含んだ。
しかし先程までのやるせない無力感は、不思議と少し薄れていた。
この少女は意外と聞き上手だ。私のオカルトライター特有の「話したい病」を上手く発露させてくれる。どれだけ知識をぶつけても、へこたれずに受け止める。そういうタイプの子だった。
「それで」と香里が続けた。「先生は今、次の取材ってあるんですか」
「……まあ、一件なくはない」
「どんなっすか」
「呪物コレクターのインフルエンサー。山村パターソンって知ってるか」
「あー! 知ってる知ってる。やばい呪物を引き取って封じてあげる、みたいなことやってる人でしょ。フォロワー何十万かいる、かなり上澄みっすよ」
山村パターソン。
元々古物収集家だったが、集めたオカルトグッズを動画で紹介することで注目を集めるようになった怪談師、配信者だ。彼は人々が手に負えないやばい呪物を引き取り、封じたり供養したりする慈善家だということだ。
少しうさん臭く思えてしまう。
「座敷わらしの取材の時に縁があってね。インタビューの依頼を出して、了承をもらってある。今日これから行く予定だ」
香里はしばらくの間、じっと私を見ていた。
それからキャラメルラテを飲み干して言う。
「……んじゃ、私もついて行きますね」
「確定事項みたいに言うなよ部外者」
「えー! 私と先生の仲じゃないですか、あんなに熱い夜を過ごしたのにっ!」
「口からでまかせ言ってんじゃねえよ、俺を社会的に殺す気か」
「死にたくなきゃ連れてってくださいよー。山村アンダーソン、私も取材したくて前から連絡してたんですけど、返事もらえてなくて。先生の同行者って形にしてくれたら入れてもらえるんで」
断ろうとして、やめた。
香里のカメラは、私一人では入れない場所にもしれっと入り込んでいく。そしてそれが、過去に何度か役に立ったこともある。
腐れ縁、というやつだ。
「撮影は相手の許可を取ってからにしろよ。あとアンダーソンじゃなくてパターソンだ」
「うひゃー! もちろんっすよ!」
香里はすぐに笑顔になった。
現金なやつだと私は思いながら、コーヒーを飲んだ。
◇
山村パターソンの自宅兼事務所は、中野の古いマンションの一室だった。
エレベーターのない四階建て、三〇二号室。ドアには「山村古物事務所」という小さな表札が下がっていた。
インターフォンを押しても、返事がなかった。
もう一度押した。
やはり、ない。
「約束の時間、合ってます?」と香里が言った。
「合ってる。十五時だ」
「もう十五時十分ですよ」
私はドアノブに手をかけた。
――動いた。
鍵がかかっていなかった。
匂いがした。
甘い。
異様に、甘い。
蜂蜜のような、でもそれより重たくて粘りのある、何か生き物が内側から分泌するような甘さが、隙間から漏れ出してきた。
私はこの時点で、世田谷の現場のことをまだ知らなかった。
だがその匂いを嗅いだ瞬間、体が先に知っていた。
これは、まずい。
「……先生」
「わかってる」
私はドアを開けた。
薄暗い室内。カーテンが閉め切られており、昼間にもかかわらず暗かった。棚に所狭しと並んだ呪物の類が、奥の常夜灯のぼんやりした光の中で輪郭を持っていた。木彫りの人形。封じられた御札の束。黒ずんだ鏡。何かの骨。
その床の真ん中に、山村パターソンは倒れていた。
倒れていた、という表現が正しいかどうか、私にはわからなかった。
人間が、自然に倒れたとき、ああいう形になるとは思えなかった。
「…………」
香里が声を失っていた。カメラを向けることも忘れて、ただドアの枠を両手で掴んでいた。
顔が歪んでいた。
徳利のように縦長に、ではなかった。
膨れているわけでもなかった。
山村パターソンの顔は、まるで誰かが両手で押しつぶしたように、左右に、横に、大きく広がっていた。
扁平に。
まるで紙に描かれた絵のように平たく、そして横に広く。
引き伸ばされた口の端から端まで、ほとんど耳の下まで届きそうだった。
眼球は、それぞれが違う方向を向いていた。
部屋の空気の中に、白い糸が漂っていた。
光の加減でそう見えるのか、それとも実際に漂っているのか、私には判断できなかった。
傍らに、布に包まれた木彫りの人形が二体、落ちていた。
包みが半分はだけて、木の顔が見えていた。
細長い、オシラサマと呼ばれる土俗人形の――いや、神像の顔が。
「せ、先生……」と香里が、掠れた声で言った。「これ……」
「警察に電話しろ」
私は室内に入らずに言った。
人形の木の目が、こちらを向いていた。
目が、合った。そんな気がした、
そんなはずはないと思った。
思ったが、視線を外すことができなかった。
窓の外。閉め切ったカーテンの隙間から、細い光が差し込んでいた。
その光の中で、白い蛾が一匹、翅を動かしていた。




