第27話 燃え上がる
白い、糸が。
空気に流れて、眼前をふわりと、揺らいでいた。
一筋、たったひとすじの、糸、それだけだった。
だけど――
「なん、だ?」
誰かがそう言った。
糸が、ただあった。
そして。
「ひっ――!?」
誰かが言った。
見ると、黒服を着たスタッフの一人が、手を振り払っていた。
ぽたり、と。
虫が、いや――蟲がそこにいた。
白く、ぶよぶよとした芋虫だった。
蚕だ。
蚕が、スタッフの手から落ちたのだ。
「くそっ!」
スタッフが舌打ちをして、蚕を踏み潰す。
だが――
「――――え?」
足を上げた靴の下からは、潰れた蚕の汁、そして……
そこからさらに、数匹の蚕が、まるで湧き出るように蠢いていた。
「う、うわあああっ!?」
スタッフが恐怖の声をあげ、のけぞり、倒れる。
そして。
「ひ、ひいっ!?」
倒れた時に、ぶち、ぶちゅ、という感触と音。
そこにも、いた。
蚕が、うぞうぞと――手を突いた床、その床板と手のひらの間に、
蚕が。
――かさ。
かりかり、かり。
ぼり。
かさかさ。
ふと、音が響く。小さな、本当に小さな、しかし異様に響く音が。
「なんだ……なんの音だ?」
私も、そして他の皆も周囲を見回す。
音は、無造作に箱の中に転がされている、蚕の繭からだった。
動いている。
糸を採った後の繭が、動いていた。
そして……
ぼり、ぼり。
齧る音。
繭を、中から食い破る音だ。
繭の中から――蛹から孵った虫が、繭を食い破り、外に出ようとしている。
「馬鹿、な――」
鍋倉が初めて、顔をゆがめて言った。
ありえない、と。
それはそうだ。だって、糸を採ったあとの繭というのは――
糸を採るために、百度近い湯で中の蛹を煮殺した後の、死骸に外ならないのだ。
蛹が、孵るはずが無いのだ。
しかし孵っている。還っている。反っている。
そこらに無造作に、ゴミのように箱や床に捨てられた、繭という廃棄物が、次々と動き、蠢き、中から食い破っている。
こりこり。
がりがり。
ぼりぼり。
さりさり。
ぞりぞり。
不協和音を奏でながら――
這い出ていた。
生々しい糸を引いた、半ば腐敗した、あるいは干からびた、それでも――孵った蚕が、蚕蛾たちが。
「う、うわああああああっ!」
蚕蛾たちだけじゃない。
隅に寄せてあった桑やクヌギの鉢植え、そこの葉や枝から――ぼとり、ぼとりと蚕たちが落ちていく。
そして、増えていく。
どこにこれだけの蚕がいたのか。NPOヤママユ会がこれだけの蚕を飼育していたのか? いや、そうではない。それでは説明がつかない。
枝葉からだけではない。
最初のように、足元から、あるいは服の下から。蚕たちが這い出て、ぼとり、ぼとり、うぞり、うぞりと蠢き、進んでくる。
「なんで、なんでこんなに――」
「床が――ひいっ、ゆ、床の下から――」
「やめろ、寄るな!」
スタッフたちが、それぞれに叫んでいた。逃げようとして、転んで、また蚕を踏んで悲鳴を上げた。
「……っ!」
私はパニックに陥ったスタッフの手を振り払い、香里と弥子ちゃんの所に行く。
「大丈夫か!」
「は、はい、でもなんなんすかこれ! めっちゃやばいっす!」
「知るか!」
理解が追い付かないのは私もだ。
このようなこと、聞いた事が無い。
「踏むな、潰すな!」
桐也が叫んだ。
「蟲毒の一種だ、これは」
「蟲毒って――毒虫を壺にいれて食い合わせて、最後に残った一匹を使う呪術だったか」
「大まかにはあっているが、それ以外にも蟲を使った呪術や祟りを蟲毒と言う事もある。今はそっちの用法だ」
「つまり――どっちにしろやばいってことか。何でこうなった」
「……虎の尾を踏んだ、ってところだろう」
桐也が言う。その視線の先には、弥子ちゃんがいた。
「まゆの娘の子孫。彼女を利己、欲望のままに捕らえて利用しようとした。それが引き金だ」
「引き金――」
「虎の尾を踏み、龍の逆鱗に触れ、地雷を踏み抜いた。
もう――止まらない」
蚕が糸を吐く。何匹もの蚕がスタッフたちの身体によじ登り、蠢き、そして糸を吐く。その糸に絡み取られ、動けなくなっていくスタッフたち。
繭が孵る。繭の中から這い出た蚕の成虫が、白い蛾が――その翅をはためかせ、鱗粉をまき散らしながら飛ぶ。
そう、飛んでいる。
完全家畜化され、飛ぶ力を失っている蚕が、飛んでいた。何匹も何匹も、何十匹も、何百匹も。
それは、あり得ない光景。しかし、現実として――起きていた。
「あ、がぁ――あ」
誰かが叫んだ。
「ひっ!」
香里が叫ぶ。その視線の先には、ヤママユ会のスタッフ。
糸に絡まれた彼の――顔が、曲がっていた。
まるでCGを適当にいじったかのように、ぐにゃり、と。下手くそなアイコラ画像のように、滑稽に、そして――おぞましく。
そしてそれは一人だけではない。
「ひぃ――」
「ぁ――が」
「ぎにぃ――っ」
「みょら、ぶ――っ」
何人も、何人も。
口の中に蚕が入り込み、全身に絹糸が絡まりつく中、次々と――顔が曲がっていった。
「我、宇宙に満つる神仙の御霊に命ず――!」
声が響いた。桐也だ。
「我らを宇宙の力で包み寄せ来たる邪念悪念退けし破邪の盾となれ――律!」
中指と人差し指を立てた剣印を掲げ、呪文を唱えていた。
「桐也! これは――」
「結界だ!」
桐也が言う。見ると、蚕たちは確かに――私達に近寄ってはこない。
結界と言うのは、漫画や映画にあるように光の壁や文様が現れるわけではないのだな、参考になる。などと場違いな事が頭によぎってしまった。
だがしかし、増えている。
壁や床には大量の蚕が蠢き、そして空中には大量の蚕蛾が飛んでいる。
このままでは――。
「桐也、どうする! どうすればいい!」
私は叫んだ。
桐也は結界を維持したまま、歯を食いしばっていた。
「……持たない」
「え?」
「これだけの数だ。結界が、持たない。じきに破られる」
桐也の額から汗が滴っていた。剣印を組んだ手が、微かに震えていた。
「おいおい、冗談だろ」
「俺はお前みたいな作家でもなきゃ夕海くんみたいんユーチューバーでもない、みんな時にウェットにとんだジョークなんて出来るか」
「素質はありそうなんだけどな!」
見れば。
桐也が指した剣印――その指が、手が、曲がっていた。
曲がり始めていた。
倒れている連中の顔と、同じように。
「お前、その手――」
「強すぎる」
桐也が脂汗をしたたらせながら言う。
「オシラガ様の、まゆの怨念は強すぎる――! このままじゃあ、みんな――!」
そう叫ぶ桐也の顔は、左目が――奇妙な形になりはじめていた。
眼球はすでに、明後日の方向を向いている。いわゆる斜視、だ。そして急激な肉体の変質に耐えられないのか、その左目からは血が一筋流れている。
まずい。このままでは本当にまずい――!
蚕は増え続けていた。床が見えなくなっていた。壁が白く染まっていた。天井から蛾が降ってきていた。
スタッフたちは次々と倒れている。糸に絡まれ、顔を歪ませ、動かなくなっていく。
その中で、鍋倉が壁際に立っていた。
震えながら、しかし立っていた。
「どうすれば止まるんだよ!」
私は桐也に聞いた。
「今は止められない! 前も言っただろう、ここじゃ色々と足りない、準備が!」
「じぉや――」
「逃げるしかない!」
「逃げてどうする! こんなのほっといたら――」
「人形だ!」
桐也は叫んだ。
「山村のオシラサマ人形、全ての起因であり全ての元凶、あのオシラサマ人形があれば、あるいは――
鎮める手がかりになる!」
「どこにある!」
私は叫ぶ。ここにはない。わかりきっている。
「栗下刑事だ! あの男に頼んだだろう!」
「そうだった!」
私はスマートフォンを取り出した。
画面が蚕の鱗粉で汚れている。
怪談、ホラーの作法ではこういう時は何故か電波は繋がらない――そういう考えが浮かんだが頭を振りその考えを振り払い、電話をかける。
果たして、電話は無事につながった。
「栗下さん、今どこですか!」
「遠野駅についたところだ。どうした、声がおかしいぞ」
「来てください。今すぐ。そして人形を持ってきてください!」
「人形って……あれか。たまたまバッグに入ってるやつか」
「それです、たまたま刑事が持ってる奴を!」
「……わかった。すぐ行く」
私の必死の声に、栗下刑事は返事をして電話を切った。
遠野駅から上郷まで15分ほどだ。
それだけ耐えれれば――!
「来る、今丁度遠野駅を出たところだと!」
「遠いな。だが、それまで持たせる。持たせるしかない――!」
桐也は唇を噛んだ。
その時だった。
ガシャン、という音がした。
施設の隅で、何かが倒れた音だった。
見ると、スタッフの一人が、もがきながら棚に手をかけ、そのまま引き倒していた。
棚の上にあった照明器具が落ちて、ガラスが割れる。
電球の熱が、棚の脇に置かれていたクヌギの葉の束に触れた。
葉が、燃えた。
「火だ!」
香里が叫んだ。
小さな炎だった。最初は、ほんの小さな炎だった。
しかし、蚕が寄っていった。
蚕が燃えた。蛾が燃えた。白い糸が燃えた。
炎が大きくなった。
「まずい」と桐也が言った。「この建物は木造だ。燃え広がる」
「わかってる」
「出口はあっちだ」
「わかってる!」
しかし蚕が床を埋め尽くしていた。出口までの道が、白く塗り潰されていた。
まるで絨毯のようだ。
「踏んでいくしかないのか……」
「踏むな。踏めばどんな返しがあるかわからん!」
「踏まずに歩けるか、あの中を!」
「……結界を移動させる。俺の周囲に維持したまま動く。お前たちは俺から離れるな」
桐也が言う。それしかない。
「香里」
「はい」
「弥子ちゃん」
「はい」
「桐也から離れるな。どんなことがあってもだ……!」
二人が頷いた。
炎が壁に移っていた。煙が出始めていた。
その時、鍋倉が壁際から動いた。
「待て、私も――た、助けてくれ」
なん、だと――?
その言葉に、私は脳が沸騰しそうになる。
助けろ、だと?
誰のせいでこうなったと思っている!
私が思わず激昂しようとした時、
「何様のつもりだよ、あんた!」
香里が叫んだ。
「あんたが、あんたがこんなことしなきゃ! まゆさんの墓をあばかなきゃ、遠野を食い物にしなきゃ、弥子ちゃんを襲ったりしなきゃ――こんな――こんなことは起きなかったんだよ!」
眼に涙を浮かべて香里が叫ぶ。
「わ、私のせいではない! これはただの事故にすぎん! 頼む、私も助けてくれ、お金ならいくらだって――」
「うるさい! あんたなんか、あんたなんかこのまま――」
「待て」
私は香里の口を手でふさぐ。
「それ以上は、言っちゃ駄目だ」
思っていても、たとえそれが正しいとしても――。
それは、言ってはいけない事だ。
この場では、なおさら。
倫理観や正義感ではない。
この場所で、今この場所でそれを口にしてしまったら、それは――容易に現実になりえてしまう。
そしてそれを、その目で見てしまったら――
自分が言ったから、そうなった。
自分が、そうしてしまった。
そう、思ってしまう。縛られてしまう。罪を背負ってしまう。
言霊、というやつだ。
だから――言ってはいけない。
「先生……」
「……こいつは、連れていく。自白は、証言は取れているんだ」
ポケットの中のICレコーダーは、今も動いている。
「後で栗下刑事に引きずりわたす。こいつは法で裁かせる。
だから――いいんだ」
香里は黙った。納得してくれたのか、それはわからないが。
ともあれ今は、ここで問答している場合ではない。
「行くぞ」
桐也が言った。
ゆっくりと、しかし確実に、桐也は動き始めた。
蚕が左右に割れた。
正確には割れたのではない。ただ、桐也の歩む先の蚕が、少しずつ、少しずつ、退いていった。
「すごい」と香里が言った。
「喋るな、集中が乱れる」と桐也が言った。
私たちは桐也の後ろにぴったりとついて歩いた。
足元の蚕が、すれすれのところで止まっていた。本当にすれすれだった。靴の先一センチも離れていないところに、白い蚕の塊があった。
「――桐也さん」
弥子ちゃんが小声で言った。
「なんだ」
「手、繋いでいいですか」
「……頼む」
隙にしろ、勝手にしろ、ではなく。頼む、と。桐也は言った。
弥子ちゃんの手が、黙って、開いている桐也の左手を握った。
一方香里は、私の袖を掴んでいた。
炎が広がっていた。煙が濃くなっていた。天井から蛾が降ってくる中を、私たちは歩いた。
◇
出口のドアが見えた。
「あと少しだ」
桐也が言った。
しかしその時、桐也の足が止まった。
桐也の顔が、青白くなっていた。
「桐也?」
「……限界だ」
桐也は言った。
「もう――持たない」
「あと少しじゃないか、気張れよ拝み屋!」
「そのあと少しが、……持たない」
桐也は膝をついた。
剣印を組んだ手が、崩れた。
蚕が――動いた。
「走れ!」
私は叫んだ。
その言葉に、香里と弥子ちゃんが駆けだす。
私も走った。桐也に肩を貸しながら。
蚕を踏んだ。踏みながら走った。ぶち、ぶちゅ、という感触が足の裏に伝わってきた。
「うわっ」
「走れ!」
四人で、出口へ向かって走る。
蚕が足首まで這い上がってきた。払いながら走った。蛾が顔に当たった。振り払いながら走った。
炎が左手の壁を舐めていた。熱い。煙が喉に入る。だか、私達とは走る。
そして、出口が見えた。
「このおっ!」
肩から体当たりをした。
転がるように外に出る。
「はっ――」
五月の夜の空気が、肺に入ってきた。
四人でドアから飛び出して、そのまま数メートル走って、止まった。
「はあ、はあ、はあ……い、生きてる~……!」
香里が膝に手をついて息をしていた。
「…………」
弥子ちゃんが地面に座り込んでいた。
桐也が建物の壁に手をついて、大きく息を吸っていた。
私は振り返る。
曲がり家が燃えていた。
窓から炎が見える。煙が夜空に上っていた。
そして窓から、蛾が飛び出してきた。何百匹もの蛾が、夜空に舞い上がっていった。
夜の遠野の空に、白い蛾が舞う。燃える蛾が飛ぶ。
月明かりの中で、白く、白く、舞い上がっていった。
「……きれい、おぞましいほど」
香里が呟いた。
確かに、きれいだった。
おぞましく、しかし確かにきれいだった。
◇
大きなブレーキ音を立てて車が施設の前に止まってきた。タクシーだ。
そのドアが開いて、いがぐり頭の男が降りてきた。
「オイオイオイオイオイ、何がどうなってるんだ、ここは!」
栗下だった。
施設の炎を見て、飛び出してくる蛾を見て、地面に座り込んでいる私たちを見て、顎をしゃくれさせたまま言った。
ああ――彼も、顔が曲がっている。
だが、生きている。
「人形、持ってきたぞ」
ジュラルミンのケースを差し出した。
「ありがとうございます」
私は受け取った。
「遅かったか」
「いいえ、ナイスタイミング」
私は建物を見た。
炎の中で、蚕が、蛾が、糸が、全て燃えている。
だが――終わってはいない。全てが燃えてハッピーエンド、なんていう終わりは、呪いには――無い。
何も、終わってはいないのだ。
だから――終わらせないといけない。
桐也が立ち上がった。
まだ顔が青かったが、目には光が戻っていた。
左目は閉じている。おそらく、まだ明後日の方を向いているのだろう。
「人形を」
私はケースを渡した。
桐也はケースを開ける。アルミホイルに巻かれた包みを取り出した。
その包みを解く。
アルミホイルの包みの下、布の中に、木製の人形が二体あった。
白木の、細長い顔の、女と馬頭の二対の夫婦人形。オシラサマの人形だった。
山村パターソンが持っていた、まゆの墓の桑の木で作られた、まゆの怨念が宿った器。図らずも宿ってしまった――最悪級の呪物。
桐也はその人形を両手で持ち、目を閉じた。
燃える建物を前に、静かに何かを唱え始めた。
これは――
「オシラ祭文」
事前の取材で聞いた事がある。
オシラサマを讃える、オシラサマを祭る時の祭文だ。
――そうか。
ここで、行うのか。
祭りを。
「弥子ちゃん」
桐也は立ち上がった弥子ちゃんに言った。
「はい」
「一緒にやれるか」
弥子ちゃんは炎を見た。それから人形を持つ桐也を見た。
「……やります」
弥子ちゃんは桐也の傍に立った。
目を閉じた。
そして、歌い始めた。




