第25話 後日談
佐々木幸太郎の家は、朝よりも静かだった。
弥子ちゃんが玄関を叩くと、すぐに引き戸が開いた。
幸太郎氏が立っていた。前回と同じ、背筋の伸びた老人だった。しかし目が、少し違っていた。前回の頑固な拒絶ではなく、何かを決めた人間の目だった。
「……来たか」
「はい」
「上がれ」
◇
囲炉裏の前に座った。
前回と同じ席だった。しかし空気が違った。
幸太郎氏は囲炉裏の爆ぜる火を見ながら、黙っていた。
誰も急かさなかった。
そして……しばらくして、老人が口を開いた。
「マヨイガに、行ったらしいな」
「……はい」
「そうか。やはり実在したか」
「マヨイガに、行かれたことは?」
「無い」
幸太郎氏は言った。
「ただ、あると聞かされていた。最初は、何かの比喩かと思っていたがな。たとえば秘密の隠れ家、秘密基地みたいな。
だが……そうか。あったか」
「そこで私たちは、見せられました。
オシラガ様の物語、その……後日談を」
後日談。
その言葉に、ぴくりと老人の肩が震えた。
「あれは――あなたは知っていたのですか。
祐介さんと、まゆさんの……あの物語の後に何が起きたのか、を」
「……」
老人は、黙っていた。
しばらくして、自身の沈黙に耐えかねたように、口を開く。
「祖父から、佐々木健之助から聞いた話だ。
まゆが佐々木の屋敷に連れ戻されてから、祐介が何をされたかは――俺には話してくれなかった。
ただ、祖父は言っていた。祐介は最後まで喋らなかった、と。まゆの居場所を、娘の居場所を、決して言わなかったと」
私は手帳を握りしめた。
そう、それを私たちは見たのだ。
そして、喋らなかった結果、どうなったかを。
「――だが結局、まゆは佐々木家に連れ戻された。そして祖父はそれを止められなかった。
若かったから。力がなかったから。それを、生涯悔いていたよ」
「健之助さんは」
「見ていたんだ、ずっと。まゆが何をされているかを、全部。それでも止められなかった。それが祖父の一生の後悔――重荷だった」
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
ぱちり、と薪が爆ぜた。
「そんな時だった。上郷の川に、白い子供が流れてきた」
弥子ちゃんが、息を飲んだ。
「赤ん坊、ではなかったという。もう少し大きかった。そう、三つか四つか、そのくらいの女の子だった。川の中を、まるで流れに逆らうように、真っ直ぐに浮かんで流れてきた」
私は遠野物語の一節を思い出した。
「……マヨイガが」
「そうだろうと、祖父は思った。マヨイガが、娘を送り出した。もう十分に育った。外の世界に出られると判断したか、あるいは――信頼できる者に託したかったのかもしれない、と」
「そて、健之助さんが拾った」
「拾った。しかし自分が育てることはできなかった。父親に知れれば利用される。佐々木家の血の者に育てられれば、またあの繰り返しになる。だから」
幸太郎は弥子ちゃんを見た。
「友に頼んだ。昔から縁のある、信頼できる者――小烏瀬の家に。親友の、そして妹の残した娘を幸せにしてくれ、と」
「……妹の」
弥子ちゃんの声が、かすかに震えた。
「そう、まゆは健之助の父が、先代のオシラガ様に生ませた……健之助の実の妹だったんだ」
実の娘ですら、家のために利用し、人ならざる家畜として扱っていたというのか。
なんという――呪われた、因習。
しばらく、誰も口を開かなかった。
弥子ちゃんは俯いていた。
「そして、とある時期から、佐々木家の者が次々と死んでいった。
当主も。父親も。まゆに手を出した者たちも。関係者たち、みんなだ。みんな、顔が曲がって死んでいった」
私は、無意識に自分の顔に触れた。
「そして祖父と、小烏瀬の家だけが生き残った」
それが――あの物語の顛末。
どんどはれとはいかない、つらく悲しいだけの悲劇の物語。
いや、それでも――遠野物語の作法で行けば、それでもどんどはれなのだろうか。
娘一人を残して山口家が死に絶えた話のように。
「そして」と幸太郎は続けた。「佐々木家は代々、小烏瀬家を見守り続けた。それが罪滅ぼしだとでもいうように。何かあれば助ける。困ったことがあれば力を貸す。遠くから、気づかれないように」
「……知らなかった」
弥子ちゃんが小さく言った。
「お母さんも、知らなかったと思います」
「知らせる必要はなかった。ただ守れればよかった。それだけだ」
幸太郎は静かに言った。
確かに、知らない方がよい話というのは――ある。
だけど。
「もう、そうはいかなくなった……というわけですね」
糸は全て繋がった。
かつと遠野で起きた、人の欲が引き起こした悲劇。
その悲劇を、また欲望によって掘り起こした者たちがいた。
ヤママユ会。鍋島。彼らはまゆの墓場から遺体を掘り起こした。そしてその墓にあった桑の木から作られた人形が、偶然を経て魂が入った。
それが起因となり――再びまゆの怨霊が目覚めている。
それは遠野に、そして――ヤママユ会に関わっている者たちを次々と殺して行っている。
そして――ヤママユ会は、まゆの遺体を使って何をしようとしていたのか。
断片的な香里の証言から察するに――おそらく。
「ふたたび、まゆを――オシラガ様を再臨、いや――創り出そうとしている」
それが推測される、鍋倉の目的だ。
そして、これだけは言える。
もしそれが実現したら――怨霊と化したまゆの怒りはどれほどのものか。
きっと――今以上の呪いが振りまかれるのは想像に難くない。
「なんとしても、止めないと」
その時だった。
庭先で、音がした。
「……?」
車のエンジン音だった。それも複数台。
私は窓から外を見た。
黒い車が、二台、佐々木家の前に止まっていた。
降りてきたのは、スーツ姿の男たちだった。ワークショップで見た顔もあった。
「……来た、か」
桐也が静かに言った。
「早いな」
「GPSか、あるいは――」
「この家を見張っていたのかもしれない」
幸太郎氏が立ち上がった。
彼の目は真っすぐに外を見ている。
「俺が応対する」
「幸太郎さん」
「行け」
老人は振り返らずに言った。
「裏口から出ろ。俺が時間を稼ぐ」
「しかし……」
「行けと言っている」
老人は棚の上の鍵を取り、私に投げてきた。
「車だ。裏の納屋にある」
「幸太郎さん」
私は頷き、鍵を握りしめた。
「ありがとうございます」
幸太郎氏は答えなかった。ただ黙って、玄関の引き戸を開けた。
その背中に、弥子ちゃんが言った。
「……おじいちゃん」
幸太郎は止まった。振り返りはしなかったが、それでも。
「……また来ます」
弥子ちゃんは言った。
「必ず」
幸太郎氏は少しだけ、目を細めた。
「ああ。来い」
それだけ言って、幸太郎氏は玄関に向かった。
私たちは裏口へ走った。




