第11話 老婆は語る
「うわぁーー……」
香里が感嘆の声を上げた。
圧巻。
まさしくその一言だった。
国指定重要文化財、菊池家曲り家。一七五〇年頃に建てられたといわれる、最も古い時期の南部曲り家だ。その屋敷の廊下を抜けると、およそ六畳ほどの小さなお堂が現れた。
壁一面、いや壁四面に、びっしりとオシラサマが飾られていた。
それはもう隙間なく、という言葉がぴったりの密度だった。木の細長い顔が、こちらを向いたまま何百体も並んでいる。いや、千体以上だろう。
布を纏ったもの、古びて木の色が変わったもの、新しいもの。それぞれが少しずつ違う顔をしていて、しかし全員がこちらを見ていた。
「……すごいな」
「ああ」
私と桐也は、それくらいしか言えなかった。
香里は珍しく黙っていた。カメラを構えたまま、どこを撮ればいいのかわからない、という顔で立ち尽くしていた。
ただ一人、弥子だけが静かにどや顔をしていた。
「すごいでしょう」
弥子は壁を見上げながら言った。
「ここのオシラサマは、そこにある布を買って願いを書いてオシラサマに着せるんです。そうすると」
「そうすると?」
「願いが叶う、と言われています」
布は一枚百円。オシラ堂に無造作に積まれていて、百円をそこに入れて購入するのだ。
我々はその色とりどりの布に、それぞれの願いを書く。
「先生は何を書いたんですか」と香里が聞いた。
「見せるか」
「えー。私はですね、チャンネル登録者数三十万人突破って書きました!」
「俗だな」
「現実的、と言ってください。桐也さんは?」
桐也は布をオシラサマに着せながら、答えなかった。
もしかすると、何も書いていないのかもしれない。彼は常々言っているからだ、神などいない。少なくとも信仰するものではない、と。
かと言ってよくいる空気補読めない心霊オカルト否定派のように、こういう場所で「いいやこういうのは迷信だうんぬん」と語り始めたりしないのは、彼の評価できる部分だと思う。
空気は大事なのだ。
私は自分の布を見た。
何を書いたか、ここには記さない。
ただ、書いた後で、私は少し息を吐いた。
オシラサマは、黙ってこちらを見ていた。
◇
オシラ堂を出ると、ちょうどゴールデンウィークのイベントが始まるところだった。
曲り家の囲炉裏端に、老婆が座っていた。そしてそこには観光客が十人ほど、その周りに集まっている。私たちも自然と足が止まった。
囲炉裏の火が、ゆらゆらと揺れている。
弥子ちゃんが、小声で「ちょうど語り部のイベントなんです」と言った。
老婆は静かに、語り始めた。
「むかし、あったずもな」
その言葉に、場の空気が変わった。
東京とは違う時間が、ゆっくりと流れ始めた。
まず遠野物語のオシラサマの話だった。
あるどごさ、貧しぇ百姓ぁ居だど。
嫁ぁ早ぐに死んでまってな、残ったのはべっぴんな娘っこ一人だけだぁ。家さは馬ぁ一匹居でな、この娘っこ、その馬ぁたいそう可愛がってだど。
朝も昼も一緒、夜んなっと厩うまやさ行って寝るほどだったんだど。
んで、そのうぢ娘っこと馬ぁ、夫婦みてぇになってしまったぁ。
父親ぁ最初ぁ知らねがった。んだども、ある晩見てしまったど。
『こりゃならねぇ』ってなって、次の日、娘っこさは何も言わねぇで、馬ぁ連れ出した。
桑の木さ吊るして、殺してしまったぁ。
夜になって娘っこぁ厩さ行ったども馬ぁ居ねぇ。
父親さ『馬ぁどごさ行った?』って聞いだば、父親ぁ隠しきれねぇで話したど。
娘っこぁもう、泣いで泣いでなぁ。
桑の木の下さ走ってって、吊るされた馬の首さ抱ぎついて、いつまでも泣いでだぁ。
父親ぁそれ見で、気味悪ぐなったんだべなぁ。
斧ぁ持って後ろがら近づいで、馬の首ぁ断ぢ切ったど。
したっけ――。
娘っこぁ、その馬の首さ抱いだまんま、ふわぁっと天さ昇ってったぁ。
誰も手ぁ届がねぇ高ぇどごまでなぁ。
オシラサマぁ、それがら生まれた神様だって、おひで婆さまぁ語ってけだ』
……ほんでな。
馬ぁ吊るした桑の枝で、オシラサマの像ぁ作ったど。
三体、作られだっけぁ。
一番最初の姉神ぁ、山口の大同の家さあった。
二番目の中姉神ぁ、山崎の権十郎の家さ渡ったども、家ぁ絶えでしまって、神様もどごさ行ったかわがらねぇ。
んで最後の妹神ぁ――
附馬牛の方さ、今もあるって話だぁ。
どんどはれ。
老婆の語りは、本読んだ話と同じだったが、全然違う重みがあった。文字で読んだ話が、声になった途端に、違うものになった。
そして老婆は、少し間を置いた。
それから言った。
「今のが、オシラサマの起源の話です。最初は三つだったオシラサマも、色ぉんな人の家に広まり、遠野の守り神になったんだど。
それでは、オシラサマの話でもうひとつしましょうかね。
これは遠野物語には記されてない、昭和の頃の話なんだど」
遠野物語は明治に編纂された民話集だ。確かに昭和の逸話は記されてはいない。
「これは、上郷の佐々木さんから聞いた話です。むかぁし、とは言えないかもしれない。でも、これも遠野の話だから」
老婆の目が、細くなった。
そして語り始める。
上郷さ、佐々木っつう養蚕家があった。
その家ぁ、この辺でもだいぶ羽振りよぐてなぁ。蚕ぁ飼って、絹ば取って暮らしておった。
そこの跡取り息子に、健之助っつう男ぁいたんだど。
盛岡さ出で働いでだ菊池祐介っつう若ぇ衆が、久しぶりに戻って来た折に、
「仕事ぁねぇが」
っつうて頼まれてな。
健之助ぁ、「だったらうぢで働がねぇが」っつって、離れさ案内したんだと。
ほしたらそこにいたのぁ、白ぇ娘っこだった。
雪みでぇに白くてなぁ。
髪ぁ長ぐて、肌も白ぐて、まるで生ぎだ人形みでぇだったど。
けんども、その娘っこぁ、目も見えねぇ。
口もきけねぇ。
立って歩ぐことすら、ろぐにできねぇ。
まゆ、っつう名だった。
祐介の仕事ぁ、そのまゆの世話だったんだと。
身体ぁ拭いでやって、飯ぁ食わせでやって、着替えさせで。
けんども娘っこぁ、ほとんど反応せん。
まるで木偶人形みでぇでなぁ。
楽ぁ楽だども、張り合いのねぇ仕事だったべな。
それで祐介ぁ、仕事中にラジオ持ぢ込んで聞ぐようになったんだと。
歌だの浪曲だの流しながらな。
ほしたら不思議なごどに、その娘っこぁ音に反応したんだ。
歌が流れると、なんとも気持ちよさそうな顔ぁする。
落語なんか聞がせっと、声ぁ出さんでも、くすくす笑ったような顔ぁする。
祐介ぁ、「ああ、この子ぁちゃんと心ぁあるんだな」って思ったんだど。
それから本ぁ読んで聞がせたり、文字ぁ教えたりしてな。
少しずつ、少しずつ、二人ぁ近しぐなっていったんだと。
……ほいで、ある時だった。
娘っこぁ、口から糸ぁ吐いだ。
白ぐて細ぇ、絹糸みでぇなのを、するするするするってな。
祐介ぁ腰ぁ抜がすほど驚いで、健之助さ知らせだ。
ほしたら健之助ぁ驚ぐどごろか、
「……ようやぐ始まったが」
っつって、ほっとした顔ぁしたんだと。
それで初めて教えられだ。
まゆぁ、人間ではねぇ。
佐々木家で祀ってるオシラサマの娘なんだと。
蚕の化身。
絹ぁ生む神様。
そんでもって、そりゃぁそりゃぁ上等な糸ぁ吐ぐんだど。
白ぐて、美しくて、丈夫でなぁ。
昔ぁその糸で、佐々木家ぁ大層儲げだって話だ。
けんどもなぁ。
その娘っこぁ、一人じゃ生ぎでいげねぇ。
飯も食えねぇ。
歩げもせん。
誰が世話ぁしねぇば、生ぎられねぇ。
まるで家蚕だ。
人間に飼われるためだけに生ぎる虫っこみでぇにな。
……祐介ぁ、その時に思い当だる。
蚕が最後どうなるかを。
絹糸ぁ取る時ぁな。
繭の中身ぁ、生ぎたまんま煮るんだ。
蛾になって出で来っと、糸ぁ切れで価値なくなるからなぁ。
つまり――。
まゆも、いずれそうなる。
祐介ぁ、その晩に娘っこぁ背負って逃げだ。
山さ。
雪解げ水流れる、暗ぇ山道ぁな。
健之助ぁ、それぁ見でだ。
見でだども、止めなかった。
ただ黙って、二人ぁ逃がしたんだと。
けんども当主――健之助の父親ぁ違った。
「逃がすなァ!」
っつって山狩り始めだ。
提灯持って、猟師まで集めでな。
山ぁひっくり返すみでぇに探し回ったんだと。
二人ぁ山ん中ぁ逃げ続げだ。
昼も夜もなく。
沢ぁ越えて、木の根っこぁ掴まって。
ほしたらな。
山ん中に、一軒の家ぁ現れだ。
灯りぁついでで、囲炉裏ぁ燃えでで、誰もいねぇのに飯ぁ並んでる家だった。
マヨイガだ。
迷った者だけが辿り着ぐ、不思議な家。
二人ぁその家さ入った。
追っ手たちぁ、すぐそこまで来てだはずなのに、誰一人その家ぁ見つげられなかった。
雪の上の足跡まで、途中でふっつり消えでだと。
……それっきりだ。
祐介とまゆぁ、二度と戻らなかった。
遠野の誰も、その後の二人ぁ見でねぇ。
ただなぁ。
今ぁ養蚕ぁほとんど廃れでしまった。
佐々木家の者たちも、そこで働いてた者たちもみんな妙な死に方したって聞ぐ。
首ぁ吊った者。
川さ落ぢだ者。
顔ぁ潰れだみでぇに曲がって死んだ者も多くいたって話だ。
けんども不思議なごどに、健之助だけぁ無事だった。
なんでだべなぁ。
逃がしたがらだべか。
それとも、最初がらオシラサマぁ怒らせねぇようにしてだがらだべか。
……わからねぇ。
ただ今でもな。
山ぁ深ぐ入るど、白ぇ娘っこぁ見だって話ぁある。
木立の向ごうさ、じっと立ってるんだと。
そんで、その隣さぁ、男もいる。
父親だべか。
兄だべか。
それとも――夫だべか。
それぁ、誰にもわからねぇんだと。
どんどはれ。
囲炉裏の火が、また揺れた。
語りが終わり、観光客が散り始めた。
私はしばらく、その場を動けなかった。
「……先生」と香里が言った。小さな声だった。「これって」
「ああ」
「白い糸と、蚕と……全部、繋がってる?」
「繋がっているかどうかは、まだわからない」
しかし――確かに、かぼそい糸が通じている……そんな気がした。
弥子ちゃんは、語りの間ずっと黙っていた。
終わってからも、黙っていた。
囲炉裏の火を、じっと見ていた。
「弥子ちゃん」
私が声をかけると、弥子は少し間を置いてから顔を上げた。
「……この話、知っていましたか」
弥子ちゃんは頷いた。
「確かに、市販の遠野物語にも、遠野物語拾遺にも載っていない話ですけど。遠野の人ならば知っています。よく聞かされました」
遠野物語拾遺とは、柳田國男が1910年に発表した遠野物語に続き、約20年後の1935年頃に発表した続編的な説話集だ。
遠野物語のの全119話に対し、さらに299の物語が収録されており、佐々木喜善らから聞き取った遠野の怪異や風習がより生活に根ざした視点で描かれている。
では、今老婆が語った物語は――さしずめ、新・遠野物語……とでも言ったところなのだろうか。あるいは、昭和遠野物語か。
そう、民話と妖怪の地、遠野では――明治を過ぎ昭和になっても、怪奇怪異は起き、語られていたのだろう。
そして、もしくは――この令和の世でも。
「さて」
桐也が静かに言った。
「件の職人……千葉さんのところへ行こうか」




