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10

どこかで強く名を呼ばれ、古城の地下でレンブラントは顔を上げる。


「呼ばれている」

「呼んでいるな」

イーサンが身体の奥で同調する。

「お前の…王子の子孫の声だ」


レンブラントは少しだけ考える。

なぜ自分の名前を知っているのか…俺を知っているのか…


それはアレクシスが遺した情報に違いなかった。

有事には俺を頼れと、そう伝えていたのかもしれない。

腑抜けた思考だとイーサンは鼻白んだが、レンブラントは親友の子孫を見てみるのも悪くないと思った。

既に式魔達はネイフンから逆順に数日前から装置に入り始めていた。最後にアンを入れたら、あとはレンブラント本人が小さくなって入るだけだ。長い指が銀色の丸い寝床を撫でる。

混乱は起きないだろうが、子孫とやらに、これからこの国に起こる事象を説明しておくのも良いだろう。


「会いに行こう」


まるで近所に買い物に行くみたいに軽く言って、レンブラントは空間を飛び越えた。





「!!!」

自室に突如現れた男に、マウリッツは瞠目する。

「やぁ、お前がアレクの子孫か」


なんと綺麗な男だ…

透き通るような肌、さらりとそよぐ長い髪、宝石のような深い群青の目玉…

指先の動きひとつまで一瞬で自分を魅了した男は、まさにアレクシスの手記に書かれた魔物そのものの姿をしていた。

「本当に…年を取らない…不死身なのか…!」

「不死身なのかは知らないなぁ。死んだことがないから」


レンブラントは黒い靄に座り、唸り声をあげるイーサンを宥めるように撫でる。

「なぜ俺を呼んだ」

「………」


マウリッツは押し黙り、足元を見る。

議会は連日紛糾し、いよいよ三国の独立日が決定した。独立の条件は一方的で、一時金しか払われず、その後の関税も『もとは同じ国だったのだ』と都合のいい親子関係を謳われてこちらからの関税率は殆どかけられなかった。数百年の歴史は相互に家族を生み、互いの国への行き来や通貨の価値も国民感情を恐れて大した敷居を作れなかった。


ゴッソリと減る三国からの納税に代わって国内向けの税率を上げる策を練ったが、この策が早い段階から不況を引き起こして国民生活が軋み始めた。


マウリッツには何が悪かったのかわからない。

この大国を回していくためには、減った分の金はどこからか捻出しなければならない。

働いている国民から少しずつもらうのは当然の方策だったはずだ。

売り上げから少し、所得から少し、物を買うときから少し、身体がよくなった時から少し…どのタイミングからも少しずつ。


だけどおかしなことに、税率を上げると失業者が増えだした。

皆に働いて金を出し合ってもらうはずが、皮肉にも職を奪われる状況が作り出された。マウリッツにはわからない。経済に通じた大臣や学者がいるから、彼らの意見を取り入れたのに。どこで間違えたのか皆目見当がつかなかった。


数日前から、王都には国中から恐ろしいほどの人が集まりだしている。

頭上にプラカードを掲げ、シュプレヒコールを繰り返し、王城に向かって泥団子や小石を投げる国民達。


「…外にいる国民と関係があるのか?」

妖艶に笑う男が騒めく窓の外を見る。


「今日がデモの本番だと…続々と人が集まってきている…恐ろしい…恐ろしいことだ」

マウリッツが老いた手で顔を覆った。

「怒りが渦を巻いている。こんな空は見たことがない。王都は魔の巣窟のようだ」

レンブラントが見上げる空には黒い靄が巨大な渦を巻き、朝だろうが昼だろうが真っ暗だった。兄弟達が興奮し、血沸き肉を躍らせて地に這う人間達が巻き散らす悪意に舌なめずりをしている。どこもかしこも魔物だらけだ。

「レンブラント、助けてくれないか」

「何から?」

「国民から、私を」


ふふふ、と愉快そうにレンブラントは笑った。実際おかしかった。おかしなことを言う。


「名は何という」

「マウリッツ」

「マウリッツ…国民はお前を殺しに来るのか」

「いや、殺されはしまい」

「では何から助ける」

「民はこのままでは私に全ての責任を押し付けるつもりだ。王座から引きずり降ろされる。私の息子達も随分前から国を見限り十年近く帰ってこない。国が滅びてしまう!! アレクシスとお前が作ったこの大国が! だが、だがお前の力があれば、全てが好転する、そうだろう?」

「例えば?」


もう喰ってやるとイーサンが吠えているが、耳の後ろを掻いて黙らせる。


「独立を画策している三州の民を数人、灰にしてくれ。そうすれば独立を諦めるだろう。不平等な条約を拒否しても、目の前で民が灰になれば州長も目が覚める」

「ほう。しかし、それでこの目下のデモが終わるだろうか」

「終わる!哀れな羊が居れば、人は己の不幸を我慢できるよう作られている。例えばたった一枚の金貨しか持っていなくとも、隣に一枚の銀貨しか持たぬ人がいれば、優越感に浸れる。それが人間だ」

「だが、その一枚の銀貨すら人の為に使う人間もいる」

「……それは立派な人だ。確かにそんな立派な人間もいるのかもしれない」

だけどたった一枚しかない銀貨を人の為に遣ってしまう奴は計画性がなく愚かなだけだ。だから銀貨一枚しかない。何百年と生きている癖にまだそんなこともわからないのか。マウリッツは目の前の魔物にがっかりした。


レンブラントは感情を浮かべない瞳で王を見た。

「マウリッツ、お前は何日も食べずに腹をすかせたことがあるか」

「有るわけがない。私は生まれながらに王になる予定だった」

「腹がすくのは辛い」

「当り前だろう。無駄話はいい、お前の力を俺に貸してくれ!」

「………」


口を閉ざしてしまった美しい魔物に代わるように、窓の外からはガラスも震える轟音が明確な音をともなって聞こえ始める。


おうをおりろ

わたしたちのくにをかえせ


「始まった」

悲壮な顔をしてマウリッツが両頬をかきむしる。

「ああ! 頼むレンブラント!助けてくれ!」

「………」

「お前、アレクシスと私を幸せにする約束をしたのだろう」

「お前を幸せに?そんな約束はしていない」

「馬鹿言うな!この国の人全てを幸せにする約束だ、私だって含まれる」

「お前はずっと、おかしなことを言う」

首を傾げる魔物の言葉に、マウリッツは怪訝な顔をする。

「さっきからお前は助けてくれと言うが」

「ああ、そうだ!!」

「お前は助ける方だ。助けられる方じゃない」

「……そ」

「アレクシスは俺に教えた。民を助ける為に戦をするんだと。あの頃の敗戦は不平等条約の押し付け合いが主流で、負ければ国ごと奴隷になった。独立する三州も、始めは向こうからイグリアスを蹂躙しようとした。それを回避するために戦をした」

「アレクシスは運が良かった。お前がそばにいたから。だがレンブラント、あいつは大義名分を掲げてお前を使い倒した!アレクシスが民を助けたわけじゃない!助けたのはお前だろう!?挙句、無理難題をふっかけてお前を放り出した」

「別に無理難題ではない」

「ははは。全員が幸せになれるなど馬鹿らしい。誰かの幸せは誰かの不幸になることもある。犯罪者や裏切った恋人の幸せが喜べるか?そんなのは幻想だ、不公平の極み!端からお前を謀るつもりで頼んだに過ぎない。アレクシスとは卑小な奴なのだ」

「誰かの幸せは誰かの不幸…」

レンブラントは呟く。


これから彼女に訪れる幸福。自分ではない男に大切にされて、宝石のような魂を抱いて死にゆくその一生。


彼女の幸せが俺の不幸になりうるのか?


レンブラントはゆっくりと首を振った。

「マウリッツ、ひとつ教えておいてやろう。アレクが俺を騙したことは一度もない」

「はっ!お前が知らぬだけだ」

「魔は…俺達は悪意が好物なんだ…誰かが自分を謀ろうとすれば、上手い匂いがして食欲が湧いてくる。だが、友からそんな悪意のある嘘の匂いがしてきたことなど一度もない」

「馬鹿な。アレクシスは晩年お前より子供をとった。お前は監視され、城から追い出された!」

「知っている。だが、あいつの子は可愛かった。見せてもらったんだ!友の子を。魔物より我が子をとって何がおかしい?普通だろう。我が子を想う親の愛を俺は否定しない」

親でさえ魔物の自分を捨てた。レンブラントに一ミリも思う所はない。

ただちょっと、自分もそうされたかったと思っただけで。


けれどもう、今は違う。

温かったケイティの胸の中と頬へのキスを思い出して、レンブラントは知らず口角を上げる。


「アレクに友は俺しかいなかったし、俺にもあいつしかいなかった。そこに嘘はない」

共に眠った寝台は温かった。寒い日の朝、王子は自分にくっついてきたものだ。ケイティには遠く及ばないが、彼の魂も美しい色をしていた。


「だけどマウリッツ、お前は噓つきだな」

ギクリと王は身体をこわばらせる。

「お前から美味い匂いがする…なぁ、イーサン」

マウリッツの周囲に黒い靄がとぐろを巻きだした。王から汗が噴き出してくる。

「嘘などついていない」

「そうか。またひとつ嘘をついたな。ははは、いい香りだ」

「食べないでくれ!!殺すな!!」


「お前のことは殺せない。友との約束だ…俺は誰のことも、法を犯して殺さない」

黒い靄が離れていく。レンブラントの言葉に大きく脱力して、マウリッツが膝をついた。


「だがひとつ、お前に魔法をかける」

「魔法?助けてくれるのか!?」

「そうだ。お前に『餓え』を教えてやろう」

意味が分からず、マウリッツが魔物を見る。美しい男の指先がぱちんと音を立てた。


「知識と経験は違う。民を大切にしろ、アレクの子…ではな」

突然腹が鳴り出して、マウリッツを底知れぬ空腹が襲う。

「えっ、えっ!? 待て、レンブラント!」

「あ、そうだ。これから毎日一度、空からキラキラが降る。天変地異ではない。念の為教えておく」

黒い靄と共に美しい魔物が掻き消えた。


腹を抑えた国王が轟音響く部屋に残された。



****


どこもかしこも人で埋まり、熱気が王都を包んでいる。

「すごいですね」

朝早くに家を出て、乗り心地の悪い大型の資材運搬用の荷車に詰め込まれ王都まで移動してきた病院のスタッフ達も持ってきたプラカードを掲げ、シュプレヒコールに参加する。

「一体何万人が集まっているのかしらね!?前代未聞じゃないかしら」

医師達ですらキョロキョロと周囲を見渡し、このデモの成り行きに想像もつかない。

「ひとまずはここで私達も声を上げ続けましょう」


医療費の値上げに反対します

完治後の生活を脅かすな


医師会の連合が陣を張る王城東側エリアにはそんな垂れ幕が並ぶ。

南側は商工会や腕っぷしに自信のある男たちが集められているエリアもあり、やや不穏な雰囲気もある怒号が王城に向かって放たれていた。

「泥団子を投げているわよ」

「まぁ、本当だわ」

王城の壁は黒く汚れ、指示を受けておらず身動きしない衛兵達の脇から民衆が泥団子を投げつける。


王を降りろ、という声がひときわ多く叫ばれて、静かな王城からの返事を待つが、中からは一向に音沙汰はない。


皆熱気の中で汗をかき、声を上げ、手を打ち鳴らした。ケイティは初めてのことながら、人々に混じって真似をして声を上げた。同じ掃除仲間のキャロルはシフトが被ることがないので久しぶりにお喋りしたり、皆で並んで医師達から配られる食糧や水を飲み、意外に和気あいあいとした時間を過ごした。

「昼過ぎには全ての参加者が到着予定なの。医師会長と商工会長と、あと他にもいーっぱい団体が参加しているみたいだから、各団体の長が集まって署名を持って王城へ行く段取りよ。一回目の回答はその時貰えるはず」

女医のフィリシアが説明してくれて、他人事のように頷き、昼食の後にまた声を上げる。そこからは長丁場になることを見越し、皆が座り込んでいた。


やがて王城へ代表者達が入って行った知らせが届く。

民衆達は真剣な顔で代表者たちの戻りを待った。


小一時間が経った後、怒りに顔を赤くした代表者達が現れる。

騒めいていた民衆は、王城の門前で震える代表者の一人が口を開けようとするのを察し、水を打ったように静まり返った。


「王は来なかった」


その一言で、怒号が飛び交う。

ケイティは状況が分からず、隣のキャロルと顔を見合う。

「なんて?」

「来なかったって言った?」

「国王は来なかったらしいよ!」

「来なかったの!?」

「どうして!」

皆が同じ表情で怒りを露わにし、理解が出来ないと確認し合った。

「こんなに沢山の民が集まっているのは初めてなのに」

「代表者達と会いもしない」

「俺達の声を聞く気なんてないんだろう」

「なぜ出てこない」


口々に疑問が叫ばれたが、そこに答えはない。

苛立ちは最初、再び泥団子を握らせた。

瞬く間に泥団子が生成されて、次から次へと投げつけられる。王城は見る間に真っ黒に染まった。そのうち、カツンと音が変わるようになった。


泥団子は石になった。

最初は小さな石だった。だけど次第に大きな石へと質量を変えていく。

止めようとした衛兵達が引きずり回されて縛られた。


人々の目には見えなかったが、辺りに黒い靄が立ち込め始めた。

気が付けば、大きな石ばかり投げこまれる王城から、王立軍の兵隊達が難しい顔をして民衆の許へ降りてくる。

代表者達が走り寄って何かを伝えたけれど、首を振って突き飛ばされた。

それが合図になった。


きゃー!と黄色い声が辺りに響く。


兵隊達と前列にいた強そうな男たちの取っ組み合いが始まった。

流石に剣は抜かれなかったが、圧倒的な戦闘能力の高さに対してまた圧倒的な民衆の数で、勝敗は全く見えなくなる。

「もみくちゃになってる」

「危ないわ」

「あっ」

人波がギュッと集まったり広がったり、数万人が密集する王城の周りはおしくらまんじゅうのように自らの足で立つ場所の確保さえ難しくなった。

医師会の団体も、次第に群れが散り散りになっていく。

「ケイティ!」

「キャロル!先生!」

ケイティが後ろから上がってくる屈強な男達が作る波に揉まれ、前列の方向へ押し流されていく。伸ばし合った手は届かず、皆と離れ離れになっていく。

「押さないで!」

「痛い!足が」

あちらこちらから悲鳴が上がった。

「今、どっちが優勢なの?」

「わからない、なにも!」

ケイティは随分と前列の方まで来てしまった。来るつもりなどなかったのに、騒ぎの最前線のような場所へ。少しずつ後ずさりして身体を捻って隙間をかいくぐり、前列群の最後尾辺りへと何とか逃れた。その時トントン、と横から肩を叩かれ、知らぬ男からケイティに大きく丸い石が渡される。

「あんたも持っておきな!」

「……え」

震える手で石を抱えた。

これを投げればいいの?誰に?兵隊は敵なの?

迷いの中どう扱っていいのかわからず、石を思わず落としてしまう。


いけない、落としてしまった!

足元にしゃがみ込んで、石を拾おうと手を伸ばした。

もみくちゃになった足元に転がる石。

なんなの、これは。

いったいどうなっているの。


太陽は隠れ、空一面に重たく黒い雲が垂れ込める。靄が自然に人々の隙間を泳ぎ出す。

続々と王立軍が列をなして王城の後ろから出てくる。馬に乗って装甲を固めた騎馬まで出陣してきた。

「俺たちは敵兵じゃない!」

「なんで王の味方なんだよ」

「帯剣しているぞ!」

混乱が混乱を呼ぶ。

お前たちはもう帰れ、と騎馬の上から兵士の一人が叫んだ。

前列に向かって騎馬兵達が押し出てくる。馬には敵わない。わぁ、とたたらを踏んだ一部の群衆が後ろにぶつかって、そこからスローモーションのように、ゆっくりと将棋倒しが起こった。

「あ」

石を抱えたケイティが顔を上げた時、雪崩のように崩れていく人波で、屈強な男達が自分に向かって大きな黒い波のように倒れてくる所だった。



ケイティには何層にも護りが施されている。何人たりとも悪意を持って彼女に近づくことは出来ない。そこに悪意を持っていれば。




****


母が出立した朝、ネロはいつも通りに学校に向かった。

昼食を食べた後の授業も終え、家路に着く。友達とも別れ、木の棒を振り回しながら歩いた。


「王都はどんな様子なんだろう…ママは大丈夫かなぁ」

「見る? ネロ。いっぱいお仲間がいるから、見れるよ」

アイデンの声に頷くと、王都にいる魔物の目を通した記憶が見えてくる。

「すご~い! みんな同じこと叫んでいるね?」


「言いたいことを言いに行ったからね。そりゃ叫ばないと」

「なるほど!」

「レンブラントがいるみたいだよ」

「えっ、王都に?」

「うん。回線は切ってしまってるけど…イーサンの声がする」

「本当だ。なんか怒ってない?どうしたんだろう?」

「どうしたんだろうね」


呑気にアイデンとお喋りしながら家に帰りついて、玄関の扉を開けるとネロはギクリとした。どっと冷や汗が背中を伝う。同様に身の内で総毛立つアイデンに話しかける。


『アイデン…』

『ネロ、これは…すごいやつだ…』


家の中に静かに、レンブラントの術をまともに押して居座る気配があった。

玄関で立ち尽くしたはずのネロが、その意に反して操り人形のように居間へ引き寄せられる。


「お前はあの日に生まれた息子だな」


ソファに腰かけた褐色の男が黄金色の目を眇めてネロを眺める。

「なぁ、これはなんだ? この気に入らない護り。王都が楽しそうだと聞いて久しぶりにイグリアスに来てみた。ついでに俺の魂に会いに来てみれば、印が消えているどころかこの家にもなかなか入れなかった」

「お前は、ママの」

「そうだ。お前、ずっと死にそうだったのに。上手く(それ)と混ざったようだな」


つまりはこの男がケイティを襲った張本人、本当の本当にネロの父そのものだった。

はっきりと形を成し、意思疎通をしてレンブラントのかけた護りを消せずとも割ってこの家に入って来れるほどの力。

ネロは首の後ろがチリチリするのを感じる。


「お前のかけた護りじゃないのはわかる。毛色が違う」

男は整った面立ちの頬へとまるで人間のように手をやり、レンブラントの気配漂う家を調べているように見えた。

「誰がやった?俺が唾を付けたのに、あの女の印もわからなくなった!横取りは許されない」

「………」


ネロはひたすらに男を睨み、口を噤む。

この家での記憶は三人と一人の記憶にしかない。アンもレンブラントもネロ自身も、ケイティに関する記憶を絶対に他の魔に見せたりはしなかった。


「言わないなら、お前の頭を覗くしかない」

男が立ち上がり、痺れるネロの身体に近づいてくる。


大人の身体で長い腕を上げ、子供の額に向かって突っ込もうと指を向けた。

「ネロに触るな!!」

牙をむきだした大蛇が周囲の靄から飛び出てくる。

それを拍子に身体の縛りも切れ、ネロは咆哮をあげながら大きく腕を振り上げた。


どん!


侵入者とネロの力がぶつかり合い、家の中に大きな爆発が起こる。

「ふん。死にかけていたわりに使える。流石に人だ」

「お前に用はない!帰れ!!ママは…ケイティはお前の獲物ではなくなったんだ!」

「獲物を横取りされて怒らぬ魔物はいまい。ましてあの魂を。俺はあの女を最高の時に喰らうと決めている。あの日からずっとそれを夢見ている」

うっとりした気持ちの悪い顔を見せる褐色の男に向かって、アイデンを突撃させる。

「噛みつけアイデン!ケイティを喰わせるか!帰れったら、帰れ!」

家中あちらこちらで稲光が閃いた。焦げた匂いが鼻をつく。

力は拮抗していた。押して押される手応えは同じ。拮抗していたはずだった。

「その魔力は大したものだ。私の身に器があれば…だがな」


言いながら、あちらの力がフッと消えた。

「経験が違う」

ネロが放った力の反発がなくなって、一瞬コントロールを失う。ハッとネロが気が付いた時には、足元を絡めとったあちらの黒い靄から力が吸い取られ、同時に天井から巨大な稲妻が降ってくる所だった。


「ネロー!!」

光より速くアイデンがネロを覆い、二人まとめて圧し潰される。床にべしゃりと血飛沫が飛んだ。

「ぐ………」

アイデンの身体がネロの頭上で真っ二つに裂けていた。大蛇は次第に線が薄くなり、身体を保っていられなくなる。ネロは『戻れ』と念じてアイデンを仕舞った。アイデンを貫通してさらに裂けた頭部から流れ出る血に視界が染まる。経験のない痛みと吐き気が身体を襲う。


立てない。見えない。


何とか半身を起こそうとしたが、そこまでが限界だった。無傷の男が大股で近づいてくる音がする。

「さぁ、俺の獲物を横取りした奴をおしえろ」

「俺だな」


ぱちん! 


指が鳴る音が聞こえた。



「ネロ、よく頑張った。えらいぞ」

床に寝っ転がった視界の先で、革のサンダルが見えた。

ネロはゆっくり目を閉じる。


「お前はレンブラント…!なぜ俺の邪魔をする」

「俺のことを知ってるのか」

突如現れた強大な魔力の塊に、褐色の男は苛立った。

「お前を知らぬ魔はおらぬ」

「ふぅん」

「あの女を返せ…返してくれ」

「だめだ。喰いたいのか?」

「俺が最初に見つけた。俺のだ!」

群青の瞳がおっとりと瞬く。

「そうだな…お前がまだ若い彼女を…」

「なんだ、それだけ巨悪な魔の癖に。何が言いたい」

「…しかし、お前を滅しても彼女の傷は癒されないな」

レンブラントは完璧な唇を指で撫で思案する。

「傷など喰らうときのスパイスにしかならん。どうでも良かろう」

「だから、こうしよう。お前を、俺にする」

「え」


再び渇いた指音が鳴ると、もう褐色の男は形を保てなくなっていた。意思も溶けてグズグズになり、『あー』とか『うう』しか聞こえなくなる。褐色の身体から黒い靄が散らばっていく。レンブラントは手をかざして、全ての靄を吸収した。


「これで、もうレンは本当にネロのパパだね」

いつの間にか現れていたアンが、ネロの頭を抱きしめて、ふふふと笑う。

「正真正銘のな」

「ありがとう、父さん」

「傷は治した。どこか痛む所はないか」

「ううん、もう大丈夫だよ。アイデンも元に戻った」

「怖かった!!」

にゅるりと現れたアイデンが泣きながらネロに頬ずりをする。

「ネロ、ネロ!」

「泣くなよ。もう元気だから」


大蛇の涙を皆がおかしそうに笑っていたその時、びくりとレンブラントが身を震わせた。

「ケイティ」


呟いたレンブラントの姿が掻き消える。ネロとアンも慌てて後を追った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 「例えばたった一枚の金貨しか・・・」「お前は助ける方だ。助けられる方じゃない」この会話のくだりが寓話のようにも見えて印象に残ります。 また、レンブラントが王に断罪ではなく飢餓感を与えるのも…
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