リリア逃亡
今日はリリアが勇者と一緒に剣術を学ぶ日だ。
リリアが剣術を教わっているのは、引退した前の勇者である。
現在の勇者ではない。
リリアにとって、前の勇者は憧れの存在だった。そんな人物から直接剣術を教わることができるのだから、指導の日を楽しみにしているのも当然だった。
リリアの元に訪れた現在の勇者は、いつものように彼女を迎えに来ていた。
「今日もいくわよ」
「はいお嬢様」
リリアは張り切って屋敷を出る。
今日も前の勇者から剣術を教わる予定だ。
現在の勇者は、その付き添いという立場になっている。
勇者という肩書きを持っているのに、リリアが会いに行く相手は自分ではない。
そんな複雑な立場にも、少しずつ慣れてきていた。
屋敷を出ると、エレナに会った。
「リリアさんどこかにお出かけですか」
「ちょっと勇者様に会いに」
リリアが答える。
ここでいう勇者様とは、もちろん引退した前の勇者のことだ。
現在の勇者は、すぐ隣にいる。
しかし、リリアが「勇者様」と呼ぶのは、いつも前の勇者だった。
勇者は涙目だ。
勇者は僕なのに。
自分も勇者なのだが、リリアにとっては前の勇者こそが勇者様なのである。
引退した相手に、その呼び名を譲られているようなものだった。
「私も行きましょうか」
エレナが言った。
リリアは内心で顔を引きつらせた。
来ないでくれ。
そう言いたかった。
しかし、言えなかった。
リリアはエレナが苦手だった。
エレナが悪い人間というわけではない。
ただ、実力も立場も圧倒的で、どうにも逆らいにくい相手なのだ。
断る理由も思いつかない。
結局、仕方なしに一緒に向かうことになった。
リリアとしては、前の勇者に剣術を教わるだけの予定だった。
それなのに、エレナまでついてくる。
何も起きなければいいのだが。
そんな不安を抱えながら、リリアたちは前の勇者のもとへ向かった。
到着すると、リリアはさっそく声をかけた。
「勇者様また来ましたわ」
「勇者は引退したんだけどな」
前の勇者は苦笑した。
本人としては、すでに勇者を引退している。
それでもリリアは、相変わらず勇者様と呼んでいた。
現在の勇者が隣にいるというのに、である。
「今日もお願いします」
リリアはいつものように頭を下げた。
前の勇者も、そんなリリアを見て頷いた。
「では素振りを見せてもらおうか」
リリアは剣を構え、素振りを始める。
前の勇者は、その動きを注意深く観察していた。
剣の振り方だけではない。
姿勢や足の運び、重心の移動にも目を向ける。
剣術は、ただ力任せに剣を振れば身につくものではない。
地道な鍛錬を積み重ねることで、少しずつ上達していく。
リリアもそれを理解しているからこそ、こうして指導を受け続けているのだ。
その様子を見ていたエレナに、前の勇者が声をかけた。
「エレナは今日はどうした?」
「あなたの様子を見に来たのよ」
エレナはそう答えた。
前の勇者が今どのように過ごしているのか。
後進の育成をしているという話も聞いていたため、実際の様子を見に来たのだ。
「後進の育成?」
「そこまでたいしたことをやってるつもりはないけど」
前の勇者は肩をすくめた。
本人としては、頼まれた相手に剣術を教えているだけだ。
大げさに考えているつもりはなかった。
だが、勇者として長年戦ってきた経験は、そう簡単に得られるものではない。
リリアにとっては、十分すぎるほど価値のある指導だった。
前の勇者はエレナに目を向けた。
「この後の模擬戦はお前が相手してみるか?」
「そうね今の勇者パーティーの実力を見せてもらおうかしら」
エレナはあっさりと応じた。
現在の勇者パーティーの実力を見る。
その言葉を聞いたリリアは、そっと周囲をうかがった。
エレナが相手をする模擬戦。
それがどういう結果になるのか、リリアには想像できた。
エレナは聖女だ。
しかし、回復や支援だけを担当する後衛職だと思っているなら、大きな間違いである。
リリアはエレナの実力を知っていた。
できることなら、巻き込まれたくない。
リリアはそっと逃げ出した。
誰にも気づかれることなく。
素振りをしていたはずのリリアは、いつの間にかその場から姿を消していた。
前の勇者もエレナも、現在の勇者パーティーも、リリアが逃げたことに気づいていない。
リリアは心の中で安堵した。
自分は剣術を教わりに来ただけだ。
エレナと模擬戦をする予定などない。
ならば、逃げるのが正解である。
一方、その場に残った現在の勇者パーティーは、一人ずつエレナに模擬戦を挑むことになった。
相手は聖女。
普通なら、近接戦闘では前衛職に分があると考えるだろう。
だが、エレナはそんな常識を簡単に覆した。
勇者パーティーの面々は、それぞれ自分の得意な戦い方で挑む。
しかし、攻撃は通じず、反撃を受ければ体勢を崩される。
力で押し切ろうとしても、技術で勝とうとしても、エレナには通用しなかった。
そして、模擬戦が終わる頃には、勇者パーティーは一人ずつ膝をついていた。
「勇者が聖女に近接戦闘に負けるなんて」
現在の勇者は項垂れていた。
勇者という立場にある自分が、聖女との近接戦闘で負けた。
しかも、自分だけではない。
仲間たちも次々と敗れている。
その事実は、勇者にとって簡単には受け入れられないものだった。
エレナは、そんな勇者パーティーを見渡した。
「あなたが勇者に任命された時に近い実力はありますね」
つまり、現在の勇者パーティーは、勇者に任命された当時の勇者に近い実力だということだ。
弱いと言われたわけではない。
しかし、今の自分たちがまだ成長の途中にあることを突きつけられたようなものだった。
前の勇者も元から今の強さがあったわけではない。
勇者に任命された当初から、今のような実力を持っていたわけではなかった。
長い年月をかけて戦い、経験を積み重ねてきた。
その積み重ねが、今の強さにつながっている。
現在の勇者たちも、これから経験を積めば、さらに強くなれる可能性はある。
しかし、それとこれとは別の話だった。
「でも聖女お前はおかしいだろ」
勇者パーティーの総意だった。
自分が強くなるまでには、長い年月が必要だった。
それなのに、目の前の聖女は近接戦闘でも勇者パーティーを圧倒している。
回復や支援を得意とする聖女が、前衛職を相手にしても勝ってしまう。
勇者パーティーからすれば、納得できない部分もあるのだろう。
エレナは特に気にした様子もなかった。
そして、模擬戦を終えた現在の勇者パーティーは、しばらく項垂れたままだった。
一方、リリアは――。
誰にも気づかれずに逃げ出したことを、心の底から正解だったと思っていた。




