第三話:クエスト
ギルドの外に出た瞬間、街の喧騒と眩しい太陽に照らされ、ようやく私の脳が冷静さを取り戻した。
(……ちょっと待って。私、今、何した?)
隣を歩く青年の、流れるような歩調と完璧な横顔を盗み見る。
私は、これからやるべき内容も、報酬がいくらなのかも、そもそも相手が何者なのかも確かめずに、「よろしくお願いします」と言ってついてきてしまった。
(社会人としてありえない……)
自分に対する猛烈なダメ出しが止まらない。相手が超絶イケメンだったから、なんて言い訳は、私のプライドが全力で拒絶している。
私は努めて落ち着いて、隣の青年に話しかけた。
「あの……。今更ですけど、具体的に私は何をすればいいんでしょうか?」
「ああ、やるべきことですね。明日の朝、他のメンバーと合流して、街の近くにあるFランクのダンジョンへ行こうと思っています。初心者向けですから、心配はいりませんよ」
青年――アルスは、事もなげに言った。
「ダンジョン……。私、武器も何も持っていないんですけど」
「そうですね。さすがに今の服装でクエストはできませんから、まずは装備を整えに行きましょう。案内します」
案内されたのは、大きな看板が掲げられた装備店だった。
「あの、アルスさん。非常に申し上げにくいのですが……。私、お金を持っていません」
一文無し。最初にかかる費用が、完全に予算オーバーだ。
すると、アルスは振り返り、困ったように眉を下げて笑った。
「お金なら気にしなくていいですよ。今回の仕事をこなせばすぐに入りますから。とりあえず僕が立て替えておきます。あとで返してくれればいいですから」
「……っ」
まぶしい。
顔立ちもさることながら、その懐の広さがまぶしすぎる。
普通、魔力ゼロの素性の知れない女に、なんの保証もなしでお金を貸す人がいるだろうか。
(……怪しい。怪しすぎる。けど、今の私に断る勇気なんてない)
結局、彼に選んでもらった動きやすい革の防具一式を、まるごと借金して購入することになった。
支払いの際、彼がさらりと出したのは数枚の銀色の硬貨――「銀貨」だった。
(ええと、銀貨が一枚で100G。……今の装備代で、だいたい五百G。日本円で五万円くらいの借金ってとこか)
脳内の計算機が、無慈悲に負債を積み上げていく。
さらに問題は続く。太陽が傾き始め、街に影が落ち始める。
「さて、今日はもう遅いですし、僕が泊まっている宿へ行きましょう。凜さんの部屋も取っておきますから。もちろん、これも貸しということで」
……宿泊費まで。
私は、彼の背中を追いながら、頭の中の「借金リスト」にさらに数字を書き加えていく。
連れていかれたのは、ギルド近くの酒場が併設された宿屋だった。
「ここです。明日の朝、一階の食堂で他のメンバーと待ち合わせています」
通された部屋は、決して広くはないけれど、掃除が行き届いていて「異世界の宿」としては合格点だった。
一人になると、ようやく重い溜息が出る。
「……とりあえず、屋根がある場所で寝られるだけマシか」
鏡に映る私は、見慣れない装備を身に纏っている。
明日はついにダンジョン。しかも「魔力ゼロ」の私が、初対面のメンバーたちにどう思われるか。
(明日の朝までに、なんとか自分が役に立てそうなことを考えなきゃ……)
私は、慣れない硬いベッドに身を沈め、明日をどう生き延びるか必死に作戦を練りながら、深い眠りへと落ちていった。
◇◇◇
翌朝。一階の食堂に降りると、そこにはアルスともう二人、見慣れない冒険者が座っていた。
「おはようございます、凜さん。紹介しますね。今回のパーティメンバーです」
アルスの隣にいたのは、熊のようにガタイの良い大男と、眼鏡の奥で冷徹な瞳を光らせる女性だった。
「新人はこいつか? 魔力ゼロだって聞いたが……おい、足だけは引っ張るなよ」
大男――バルカスが、私の装備を品定めするように見て鼻で笑う。
「……もっとマシな冒険者はいなかったのかしら」
女性魔術師のミラも完全に私を見下している。まあ、無理もない。
(……キックオフ・ミーティングからこの空気。プロジェクトのチームビルディングとしては最悪ね)
私は営業用のスマイルを張り付かせ、「よろしくお願いします」とだけ短く返した。
今回のクエストは、新しく出現した『Fランク』のダンジョンの実態調査。魔物も弱く、地形を確認して戻るだけの簡単な案件。
街を出て、ダンジョンへ向かう道中。私はあの自称・女神に聞けなかったことを、アルスに教えてもらうことにした。
どうやら私が転移させられた場所は、この世界のレイヴァルト王国。魔力の強さがそのまま身分や職業の選択肢に直結する、徹底した能力主義の国だという。
そして、昨日から絶望しているあの件について――。
「大丈夫ですよ。魔力は鍛錬で磨くことができますから」
「ほ、本当ですか!? よかったあ」
「ゼロからだと、少し大変かもしれませんが」
「うっ……」
「ですがそのお歳で、この国、いえ、世界のことについて本当に何もご存じないのですね?」
「あ、いや、実は……記憶喪失で……」
ほかの世界から転移してきたなんて言えるわけもなく、私は苦い顔で嘘をついた。
街の外に出て三十分。私たちは目的の洞窟に到着した。中は薄暗く、湿った土の匂いが鼻をつく。
「よし、サクッと終わらせるぞ。ほら、そこどけ新人!」
バルカスが大きな斧で、行く手を阻むスライムを叩き潰していく。ミラも退屈そうに指先から小さな火球を放ち、魔物を処理していく。私はただ、アルスの後ろをついて歩き、スライムの落とした魔石を拾っている。
(……足元はぬかるんでいるし、虫は飛んでいるし。やっぱりスローライフには、まともな環境構築が不可欠だ)
そんなことを考えていた、その時だった。
ドクン、と。心臓を直接掴まれたような、悍ましい圧力が空間を支配した。
「……なっ、なにこの魔力……!?」
ミラの声が震える。洞窟の奥から現れたのは、漆黒の鱗に包まれた巨大な多頭蛇だった。その存在感だけで、ここがFランクなどではないことが理解できた。
「嘘だろ……なんでこんなところに、Sランクの化け物が……ッ!」
バルカスが叫び、斧を構えた次の瞬間。ヒュドラの巨躯が、閃光のような速さで動いた。
「がはっ……!?」
一撃だった。バルカスの巨体が紙屑のように吹き飛び、岩壁にめり込む。即死だった。
「あああああ!!」
ミラが叫びながら魔法を放とうとするが、ヒュドラの咆哮一つで魔法が霧散する。そのまま巨大な牙が彼女の体を貫いた。わずか数秒。さっきまで私を馬鹿にしていた二人が、物言わぬ肉塊に変わった。
「…………え?」
あまりの光景に、思考が止まる。目の前には、血に濡れた巨大な化け物。そして、隣には剣を抜いたアルス。
(嘘。何これ。私、昨日この世界に来たばっかりなんだけど)
ヒュドラの目が、私を捉えた。逃げ場はない。アルス一人でどうにかなる相手でもないことは、素人の私にもわかった。
(ここで、死ぬ? 私が? 卓也への不満もぶちまけてないし、何より、理想のスローライフなんて一秒も送ってないのに?)
恐怖の限界を超えた時、私の中で何かが弾けた。
「……ふざけないで。ありえない。こんなの、絶対にありえない!!」
死ぬなんて、一ミリも認めていない。私は、腰に差していた、借金で購入したばかりの安物の剣をひったくるように抜いた。
「私は死なない! こんな汚い場所で、あんたみたいなブサイクな化け物に殺されるなんて、私の『完璧な計画』には入ってないっつうの!!」
無我夢中で、剣を大きく振り下ろした。魔力ゼロの、初心者の、ただのヤケクソの一撃。
その瞬間。
「私のスローライフを邪魔すんなああああ!!!!」
私が死を拒絶し、振るった剣から、真っ白な光が溢れ出した。ヒュドラの巨体が、その光に触れた瞬間――。まるで最初から存在していなかったかのように、一点の塵も残さず、消滅した。
静寂。洞窟の中には、呆然と立ち尽くす私と、抜いた剣を止めたまま私を見つめるアルスだけが残された。
「……え?」
私の手の中で、安物の剣が「パキン」と音を立てて砕け散った。




