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22/23

第二十二話

 祝祭の喧騒がようやく凪ぎ、王宮が深い静寂に包まれ始めた夜だった。

未曾有の王位継承式から一週間。

完成したばかりの噴水広場からは、風に乗って微かに音楽の余韻が届いている。

それすらも夢の残り香のように淡く、穏やかな静けさが、私たちのいる部屋を満たしていた。

カイルの私室のテラスに立ち、夜風を頬に受ける。激動の日々が嘘のようだった。

ふと、手すりに置いた指先に、かすかな違和感が走る。

ほんの一瞬。

けれど確かに――“疼いた”。思わず自分の手を見つめる。

痣もなければ腫れてもいない。

けれど、胸の奥底に沈めていたはずの“記憶”が、音もなくひび割れた。

(……今のは)


 それは単なる思い出ではなかった。

もっと深い場所から、魂を直接引きずり出されるような感覚。

――ずきり。何も触れていないはずの指先が、内側から焼かれるように痛む。

握ろうとしても力が入らず、思うように動かない。

関節が膨れ上がり、形を変え、自分の体ではない何かに侵食されていくような錯覚。

何度も、何度も繰り返した、あの絶望的な痛み。

(ああ……また、動けなくなったらどうしよう……?)

心臓の音が速くなる。あの頃の私は、ただ耐えることしかできなかった。

好きなものに触れることも、大地を歩くことも叶わず、

ベッドの上で摩耗していく時間を見送るだけの日々。

それでも、耳で聞く物語や、映像の中で煌めく遠い世界の建築だけが、

私をかろうじて“外”と繋ぎ止めていた。


「……バイオレット?」

不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。

「もしかして、手が痛むの?」

「え?」

振り返ると、カイルがこちらをじっと見つめていた。

「もしかして、またずっと前のこと考えているの?」

「どうしてそれを?」

「バイオレットが、たまに不思議なことを話す時の顔してるから」

カイルの瞳があまりに真剣で、温かくて――私は、もう逃げられないと悟った。

誰にも話したことはない。話す必要もないと思っていた。

けれど、今、目の前にいるこの人にだけは、私の魂の成り立ちを知ってほしかった。

「……カイル。少し、不思議な話をしてもいい?」

「どうしたの。顔色が悪いよ」

私は迷いながらも、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。

「私……今よりずっと前に、長い間、手が自由に動かせなくなっていったの」  

かつての世界の話。転生前、日本で若い頃に患った重い病のこと。


「お仕事を始めたばかりで、上司の名前で絵を描く仕事をしていたある日。

手足が激痛と共に腫れ上がって、変形していくのを繰り返したの。

すぐに仕事も辞めさせられて、強い薬を注射で打ち続け、布団の重みすら指に響くほどで。

ベッドから動けない時間が、何年も続いたの」

カイルは黙って、私の言葉を一滴も溢さないように聞き入っている。

「身体は動かなかったけれど、その世界にはね、

遠い国のお城や歴史的な建物の講義を、動く絵で見られる装置があった。

私はそれをお守りのようにして、膨大な情報を頭に詰め込んだの。

その時は何の役にも立たないと思っていたけれど……

いつか、何かの形で誰かの助けになれたらいいのにって、それだけを強く願っていた」

一気に話し終え、私は少し照れくさくなって笑った。


「ふふ、ごめんなさい。変なことを言って。これは前世の記憶なのよ」  

笑い飛ばそうとした私を、カイルは遮るように、強く、強く抱きしめた。

「君は……今まで、たった一人でその記憶を抱えていたのか?」

私の肩に顔を埋めた彼の瞳から、大粒の涙が溢れ、服を濡らしていく。

「全然、信じなくていいのよ」

「いや。本当のことだって、わかるよ。……全部、繋がっていたんだね。

君がどれほどの痛みに耐えて、その知恵を宝物のように守ってきたか。

そのすべてが今、この国を救い、僕を救ってくれたんだね」

カイルは震える声で、言葉を噛みしめるように言った。

「君が学んでくれたことで、この国は幸せに包まれた。

僕も王宮も、新しく生まれ変われたんだ。本当に……本当にありがとう、バイオレット」

「そう言ってくれて……嬉しいな」

彼の温もりに、胸のしこりが解けていく。けれど、まだ一つだけ、言えていないことがあった。


「……でも、まだ、心配なことがあるんだね。僕にも伝わってくるよ」

「……ええ。私は、一人娘だったから」

脳裏に浮かぶのは、病室の窓辺に立つ影。

「病気がわかってから、母は一人で私を支えてくれたの。

仕事か看病か、そのどちらかしかない毎日で。

若いたった一人の娘が動けなくなって死にゆく中で、必死に励ましてくれたわ。

……あんなに優しかったあの人が、今、幸せでいてくれたらいいのに。

そう思わずにはいられなくて」  

とめどなく涙が溢れ出した。

死にゆく子の手を温め続け、未来を失った私に、毎日笑いかけてくれた母。

きっとまだ若かったはずの彼女の、真剣で優しい横顔が、どうしても忘れられない。

「君のお母さんは、君がこうして笑っていることが、何よりの幸せだと思うよ」

「……そう、かな」

「そうだよ」  

カイルは迷いなく、私の目を見て即答した。

「バイオレットのその願いは、きっと届いている。

絶対に、お母さんも幸せになっているはずだよ」

彼の揺るぎない確信が、不思議なほど真っ直ぐに胸に響いた。  

私はそっと目を閉じ、遠い空の向こうへ祈った。

(……いつか、どこかで。幸せな母に、会えますように)


祈りを終えた私の手を、カイルがそっと持ち上げた。

そして、跪くように身を屈めると、ゆっくりと、深く、私の指先や、手の甲へ口づけを落とした。

それは今までのどのキスよりも静かで、圧倒的に重い誓いだった。

「この手があったから、僕は今、生きている」  

唇を離さぬまま、もう一度。

「この手があったから、この国も平和も守られた」  

慈しむように、さらに一度。

「この手があったから……僕は、君を好きになった」

止めようとしても、涙が止まらなかった。

そんな私を見つめ、カイルは静かに息を吸う。

その瞳には、一国の王としての威厳と、一人の男としての至純な愛が宿っていた。


「バイオレット」  

彼は私の手を離さないまま、ゆっくりとその場に跪いた。

「僕は、この国の王になる。けれどそれ以上に――君の隣に立つ、ただ一人の人間でいたい」

月光が彼を照らし、王としての覚悟が、その輪郭をより鮮明に縁取っていく。

「君のその手で、これからもこの国を、そして僕を支えてほしい。

僕の人生のすべてを、君に預けたいんだ」

彼は最後にもう一度、私の手に、誓いの接吻を捧げた。

「――僕と、結婚してください」

 ――その言葉を、すぐには理解できなかった。

指先に残るぬくもりが、じわじわと胸の奥へと沈み込んでいく。

何度も、何度も、この人は私の手に触れてきた。

守るように、確かめるように。

けれど、今のそれは、今までのどれとも違っていた。

それは、本当に真っ直ぐで、揺るぎない誓いだった。


 視界が滲む。言葉にしようとするほど、胸の奥に溜まっていたものが溢れて、うまく息ができない。

(……この人と、歩いていく未来が、あっていいの……?)

 前世で、叶わなかった未来。痛みに縛られ、手を伸ばすことすらできなかった日々。

それでも、いつか誰かの役に立てたらと願い続けた、あの時間。

そのすべてが、今、この人の言葉に繋がっている気がした。

震える指先で、彼の手を握り返す。

「……はい」

 ようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。

けれど、それでも確かに届いたのだろう。

カイルの瞳が、息を呑むように揺れる。

「――私で、よければ」

 そう続けた瞬間、彼の表情が、崩れた。

王としてではなく、ただ一人の男として、どうしようもなく安堵したように。

優しい笑顔に変わっていった。


 次の瞬間、強く、引き寄せられる。

「ありがとう……バイオレット」

耳元で囁かれる声は、少し震えていた。

そのまま、彼はもう一度ゆっくりと、私の手の甲に口づけを落とす。

それは先ほどよりも、深く、長く――まるで、この先の人生すべてを刻みつけるかのように。

あんなに怖かったはずの指先の疼きは、いつの間にか、彼の熱い体温にかき消されていた。

私はその温もりを、逃さないように、ぎゅっと握り返した。


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