40【最後の夜】~朝比奈航~
玉竜旗大会で、優勝候補、九星学院高校戦に勝利した航たち。だが、その夜、なぜか浬は沈んでいた。
明日の試合、負傷した毛利の代わりに出るのは――?
まだまだ続く、玉竜旗大会。一日目の夜のお話を、航視点でお送りします。
九星学院との試合が終わったあと、航たちは織田から指示をもらって、先に着替えを済ませてから、一階のロビーで斎藤たちと合流した。市立船戸高校は、今大会の優勝候補であった、九星学院高校を打ち破り、四回戦へと進むことになったわけだが、ひとまず、初日の試合はここまで。四回戦からは明日に持ち越されることになっている。
斎藤たちは、市立船戸高校が使用していた観客席の荷物を片付けたあと、使用したスペースの掃除、確認を済ませ、帰り支度を済ませてくれたようだ。楓と大地は荷物をたくさん持ちながら、重そうに階段を下りてきたが、航を見つけるなり、興奮したようにすっ飛んできた。
「航っ!」
「航、おつかれ!」
「あっ、こらぁ! お前ら、走んなッ!」
駆け寄ったふたりを斎藤が叱っているが、ふたりはたぶん、まったく聞いていない。斎藤はぶつぶつと文句を言ってから、羽柴や雑賀に、それぞれ荷物を渡している。一方、楓と大地は、航の肩や尻を散々に叩きながら、航たちの活躍と、劇的な勝利を喜んでくれた。
「すっげえなー、航! 相手、優勝候補だぞ!」
「あぁ。でも、まだまだ、明日もたくさん試合あるから」
「まーたぁ、謙遜しちゃってぇ。あっ、浬もおつかれ!」
「あっ、うん……。おつかれさま」
トイレから戻ってきた浬が、笑みを見せ、楓と大地に手を振る。だが、その表情はどこか堅く、こわばっているような気がした。航は首を傾げる。
「浬、どうした?」
「え……?」
「よくわかんないけど……、なんか、あったか?」
「い、いや? べつになにもないけど……」
「そっか……」
どことなく、浬の元気がないような気がしたが、航のカン違いだろうか。だが、思えば浬は、九星学院との試合以降、いつもよりも口数が少なかったかもしれない。そして今、見れば見るほど、明らかに彼の表情は堅い。九星学院に勝ったというのに、まるで、その勝利にすら戸惑っているような感じだ。
あとで、ふたりになったときにでも、訊いてみるか。
もしかしたら、また、あの熱血漢な父親がなにか言って、ケンカでもしたのかもしれない。――とはいえ、ひとまずは、彼が「なにもない」と言うので、気にしないでおくしかなさそうだ。航は、みんなと揃って織田の運転するマイクロバスに乗り込み、ホテルへ戻った。
「いいかぁ、夕食の時間は七時だ。それまで、ストレッチとマッサージ。今日、試合出た奴は特に念入りにやっとけよ」
「はい!」
「ノートは九時まで。九時半からはミーティングをするからな。くれぐれも、寝落ちしないように。それじゃ、解散!」
「はい! ありがとうございました! 失礼します!」
ホテルのロビーで解散し、航は荷物を持って、部屋へ戻る。しかし、気になるのはやはり、浬のことだ。彼はバスの中でも、ずっとなにかを悩んでいるような、浮かない顔をしていた。ちなみに、浮かない顔をしているのは、浬だけではない。羽柴もまた、九星学院との試合後から、覇気がなかった。ただし、羽柴の浮かない顔の理由は、だいたい察している。察してはいるが、航は彼にどう声をかければいいのかわからなかった。
羽柴先輩が、こんなに落ち込んでるの見たのは、はじめてかも……。
「なぁ、斎藤。悪いんだけどさ……」
「はい?」
「ちょっと頼まれてくんないかな」
静かなエレベーターの中で、不意に市鷹が斎藤に声をかけた。ビジネスホテルのエレベーターの中は狭く、今、ここには荷物を持った航と斎藤、市鷹と将鷹の四人しかいない。羽柴と毛利、佐伯は先にエレベーターを使って部屋へ戻っていて、楓と浬、大地はこのあとのエレベーターを待つと言って、ホールに残っていた。なぜ今、このメンバーで乗っているのかは、正直なことをいって、謎だ。いつもなら、こういうときには、羽柴や斎藤がまず先に三年生に順番を譲るのに、今日はなぜか市鷹が、羽柴や毛利に先に順番を譲って残っていた。彼の視線の先にいたのは、斎藤だ。
「なにを……、ですか?」
「ヒロをさ。ちょっと、貸してほしいんだよね」
「え……」
その言葉で、航は察する。市鷹は、羽柴を心配しているのだ。羽柴はさっき、九星学院との試合で、大将の大友と戦っていた。大友は、上段の構えを使う強い選手で、彼は九星学院高校の主将でもあった。結果は一本負けだったが、ただし、航は彼が力及ばずに負けたとは思っていない。同じチームメイトだとか、慕っている先輩だとか、憧れだとか、そういう感情はもちろんあるが、彼をひいきにして、そう思っているのとは違う。誰がどう見ても、羽柴は大友と、互角に戦っていた。むしろ、航の頭の中では、羽柴の試合で、九星学院との試合はもう終わっていた――と、思ってしまうくらいだ。
最初の片手面は、たしかに打たれてた。でも、逆胴は入ってたと思う……。それから、時間切れになったけど、最後の左小手も……。
結果としては、一本負けでも、羽柴が勝ってもおかしくない試合だったと、航は思っている。それほど、大友との試合で、航は羽柴の強さを感じた。しかし、羽柴自身はそう思っていない。彼はたぶん、今、自分を責めている。付き合いが長い分、航は彼の思考が嫌でもわかってしまうのだ。
「大丈夫っすか……。ヒロのヤツ、今、けっこう落ちちゃってるっぽい、ですけど……」
「だからだよ。あいつがなに考えてるかは、おれもわかってるつもりなんだ。だから、ふたりで話がしたい。ストレッチ、マッサージの相手、代わってもらえるか?」
「はい……」
返事をしたものの、斎藤は少し心配そうだ。おそらく、彼もまた、羽柴がさっきの試合のことで、落ち込んでいることを察している。きっとこのあと、羽柴と話をするつもりだったのだろう。彼らは同じ部屋だし、夕飯まではまだかなり時間があるから、シャワーを浴びて、ストレッチとマッサージをしながらでも、十分に話せる時間がある。そして市鷹は、それを見越して、斎藤に話をつけにきた、というわけだ。
「悪いな。ありがとう」
「いえ……」
「あとで、シャワー浴びたら部屋に行くから。――あぁ、ヒロにはべつになにか言わなくていいからな」
「はい……。そしたら、マサ先輩のストレッチ、マッサージは、オレがやりましょうか」
「おう、助かる」
これは、俺に出る幕はなさそうだな……。
羽柴のことは、航も心配しているが、航が動かなくても、市鷹と斎藤がいれば、きっと大丈夫だろう。それに、航はやはり、羽柴にどんな言葉をかけたらいいかわからない。ただ「先輩は強かったです」とか、「あの技は一本だと思いました」とか、そんなことを言っても、彼が喜んでくれるとは到底思えないのだ。
たぶん、そういうんじゃないよな……。羽柴先輩が欲しい言葉は……。
きっと航にはかけられない言葉を、市鷹なら、かけてあげられるのだろう。主将として、彼は今、羽柴と話すことに使命感すら持っているかもしれない。そう思った時、航はまた、浬の浮かない顔を思い出してしまった。
「そういえば、毛利先輩は?」
ふと、斎藤が訊く。すると、それには将鷹が答えた。
「あいつはシャワー浴びたあと、先生んとこ呼ばれてるよ」
「足の、ことっすかね……」
「まぁ……、当分はあの足じゃあ、試合なんか出られねえだろうからな」
「やっぱ、そうっすよね……」
それから、ほんの数秒、沈黙があった。エレベーターがボタンを押した階につくまでは、せいぜいそれくらいだったはずだが、なぜか、とてつもなく長く感じた。航は市鷹と将鷹、斎藤の顔を順番に見つめる。
「あの、明日の試合って……、どうなるんですか?」
航は、気になってたまらずに訊ねた。試合直後のミーティングでは、織田は毛利の足のことも、代わりに出場する選手のことも、なにも言っていなかった。ただ、「お見事。いい試合だったな」と、そう言って、満足そうに笑っただけだ。思えば、あれほどに短いミーティングははじめてだったような気もするが、毛利が足をねんざした状態で、明日の試合に出られないことは当然で、彼の代わりに誰かが出なければならない、ということも明らかだ。気になるのは、誰が試合に出るのか、というところだった。
「……そりゃあ、浬か雑賀だろ」
斎藤がエレベーターの開ボタンを押して、そう言った。航は廊下へ出て、振り返り、眉をひん曲げる。そんなことは航だってわかっている。
「それはそうでしょうけど、その……、俺はどっちが出るのかな、と思って……」
「浬じゃないか?」
今度は市鷹がそう答えた。だが、彼が頭を悩ませるふうでもなく、あまりにさらりとそう答えたので、航は驚いて市鷹を見た。それは、斎藤も同じように思ったようだった。
「どうして、浬だと思うんですか?」
廊下を歩きながら、斎藤が訊く。すると、市鷹は少し立ち止まって考えてから、肩をすくめた。
「どうしてって……、なんとなくかなぁ」
「え……、なんとなく?」
「そう。……じゃあ、あとで。頼んだからな、斎藤」
「あぁ、はい……」
ひらりと手を振り、市鷹は将鷹と一緒に部屋へ入っていく。航は斎藤と一緒に彼らを見送り、呆然としたまま顔を見合わせた。
「なんで、浬なんだろうな?」
「さあ。テキトーに言ったんですかね」
「いやぁ、なんかしら理由があるだろ。テキトーに返事するなんて、イチ先輩らしくねえし」
「たしかに」
「それに、浬はまだ一度も大会に出たことないだろ。雑賀のほうが、ブランクはあるけど、経験豊富だし、上段だし……、適任って感じはするけどな……」
「たしかに……」
雑賀は強い上段使いだ。航はそれを、稽古で実際に彼と戦い、また練習試合で彼の試合を見て、知っている。以前、佐伯が話していたように、雑賀はバツグンの安定性と、的確な判断能力、また鋭い技を持つ強者だった。もちろん、浬の強さとポテンシャルもまた、航は知っているが、ふたりの経験値を比べれば、やはり織田は雑賀を選ぶのではないか、と思えてならなかった。
もしかして、浬は……、明日の試合のことでなんか考えてたのかな……。
「まぁ、どっちにしたって、明日の相手はもう決まってるんだ。先のことより、まずはその対策に特化した布陣にしたほうがいいよなぁ」
「そうですよね……」
明日、戦う高校はすでに決まっている。都立三ノ森高校。その名の通り、東京の公立校だ。まだ一年生の航も、その名前は聞いたことがある。錬成会では顔を合わせることが多い強豪で、なんでも、去年の関東大会では、惜しくも兜山高校に敗れ、準優勝だったらしい。その強さは、結果が示す通りだ。
そして、おそらくだが、こちらが彼らの情報を多少なりとも持っているように、向こうは向こうで、市立船戸高校の情報を持っている。特に、市鷹たち三年生のことは、よく知っているだろうから、なにかしらの対策を立てられていても不思議はない。明日もまた今日と同レベルか、それ以上に厳しい戦いになる、ということは間違いなかった。
優勝候補を倒せば、もっと優勝が近づくものだと思ってた……。でも……、なんて遠いんだろう……。
今日、九星学院高校との死闘の末、奇跡を起こしたように彼らに勝って、まるで航たちは、明日に決勝戦を控えているような気分でいる。だが、実際にはまだ、三回戦を突破しただけ。明日は、四回戦だ。まだ、決勝トーナメントへも届いていない。
さらに言えば、明日、航たちが三ノ森高校に勝ったとして、その次に上がってくるのは、おそらく阿蘇南。去年のインターハイ優勝校だ。彼らに勝たなければ、決勝トーナメントには上がれない。
遠すぎる……。
航は思う。この大会で頂点を目指して戦って、やっとここまで勝ち抜いて、優勝候補だといわれた九星学院高校をなんとか破っても、道のりはいまだ、途方もなく遠い。必死に頑張るとか、あきらめないとか、そういう単純な根性論だけで辿り着けるとは到底思えないのだ。いったいあと、何回。あんな強豪校を相手に、戦って勝たなければならないのか。それを思うと、月より遠い星を目指すような気持ちになる。そして、実感した。自分にはまだ、足りないものばかりだということを。
インターハイに行きたい。だから、兜山を倒したい。それが、俺の目標だった……。でも、それでいいのか……。それで……。
「んじゃ、あとでなー。航」
「あっ、はい……」
斎藤の声で、ハッと我に返り、部屋へ入る。胸の奥には、今まで感じたこともなかったかすかな不安がわだかまっている。だが、ひとまず、航は部活ノートを書きながら、浬が来るのを待つことにした。
それから、ほどなくして。浬が遅れて部屋へ戻ってきた。しかし、彼はやはり様子がおかしい。やけに覇気のない声で「ただいま」と言って、航とは目も合わさず、「おれ、先に風呂入るね」と言って、さっさとシャワー室へ入ってしまったのだ。
やっぱり、浬のヤツ、変だよな……。
どうも訊きにくいが、やはりここは思いきって訊き出したほうがいいだろう。明日、もし、浬が試合に出るようなら、尚さら、余計な心配ごとや不安は取り除いておかなければならない。そんなものを抱えたまま試合に出て、活躍できるほど、この大会は甘くないからだ。もっとも、今は航もまた、人のことをとやかく言える立場ではないわけだが。
よし。とにかく……、シャワーから上がってきたら、すぐ訊くぞ……。
航は再びノートを書きながら、浬が出てくるのを、今か、今かと待ち構える。ところが、それから数分ほどして、航と浬の部屋へ、大地と楓がそろってやってきた。訊けば、彼らは航と同じく、浬の様子が気になったのだという。航の憶測は、確信に変わった。
やっぱり、あいつ……。なにかあったんだ……。
「ふぃー、あちィー……ってあれ、大地と楓じゃん。どうしたの、みんな揃って……」
「浬ッ! お前、なにがあった!」
「は――……」
「言え! どっか調子悪ィのか? 誰かになんかされたんなら――わっ」
パンツ一丁でシャワー室から出てきた浬に、楓が真っ先に迫る。浬はギョッとして、楓の顔にバスタオルを投げつけた。
「ビッ……クリしたぁ……。なんだよー、急に……。楓のスケベ!」
「な……っ、スケベってなんだよ、お前……っ!」
「……浬。楓は、お前を心配してるんだよ。わかるだろ」
航の言葉に、浬はびくりとして、すぐに目を逸らした。そうして、さっさとTシャツを着て、ハーフパンツを穿き、床に落ちたバスタオルで、黙って髪を拭きはじめる。その姿はまるで、航や楓、大地とも、目線を合わさないようにしているかのようだ。やはり、彼の様子は変だった。
「それからな、俺もちょっと気になってる。大地も同じだ」
「なに……? みんなして、変なの。どうしたの……」
「どうした、じゃない。九星学院との試合が終わってから、お前、なんか元気ないだろ。全然しゃべらないし、ぼーっとしてるし……。最初は俺の気のせいかと思ったけど、幼馴染の楓が言うんなら、やっぱりなんか――」
「わかったから……! もう……、ちょっと待ってよ……」
浬は苛立ったように声を荒らげる。彼がこんなふうに感情的になるのは、珍しい。航は彼の顔を窺うように、名前を呼んだ。
「浬……?」
「さっきさ、ちょっと言われたんだよ……。試合のあと、着替えて、トイレ行ったときに、陰口、的なやつ……」
浬の声が、ぼそぼそと尻すぼみになっていく。だが、消えていくその語尾に、「陰口」という言葉だけがはっきり聞こえて、航は訊き返した。
「陰口……?」
「うん、ほかの高校の人に。九星学院と阿蘇南の戦いが観たかったのにって……。今年はまぐれのくせ者が出てきたせいで、台無しだなだって……」
「まぐれのくせ者って……」
「おれたちの、ことだと思うよ……」
浬の言葉で、楓の表情が一変した。
「んだよ、それ……! どこの連中がそんなこと――」
「知らないよ! はじめて見る顔だったし……。でも、言葉がおれたちみたいな感じだったから、関東の人、かも……」
浬の声は、震えていた。悔しそうな表情で、拳を握りしめ、バスタオルをベッドへ向かって投げつける。やはり、普段の浬からは、想像できない感情的な姿に、航は驚いていた。あの熱血漢な父親と口論していたときよりもずっと、今の彼は激しい感情をあらわにしている。普段はポジティブで、穏やかな浬にこんなに激しい一面があるなんて、意外だったが、かけられた言葉を思えば、無理もなかった。
「あの人たち……、直接、おれに言ってる感じじゃなかったけど、おれのジャージ見て、急にその話になったから……。わざと聞こえるように話してたと、思うんだ……。たぶん……」
浬はそう言って、重いため息を吐いた。タチの悪い連中だ。悲しげに浬の瞳が伏せられ、航は悔しさに奥歯を噛み締める。わけもわからず、知らない人間に嫌がらせを受けて、少なからず浬は傷ついたのだ。
「くそ……っ」
「そーんなの、気にしなくっていいって! ほら、すげえ奴には、誰しも嫉妬しちゃうもんなんだからさ――……」
大地がすぐにそう言って、場を明るくさせようとフォローをしたが、浬の表情は変わらなかった。
「おれだって、気にしたくないけど……、でも、プレッシャーにはなった。おれ、たぶん……、明日、毛利先輩の代わりに出るから……」
「え、そうなのか……?」
航が訊ねると、浬はこく、と頷いた。
「うん。イチ先輩の試合が終わったあと、先生が言ったんだ。浬、整えとけよ……って。雑賀先輩も、そのとき一緒にいてさ。肩、叩いてくれたよ」
航と楓は思わず、顔を見合わせる。おそらく互いに、思っていることは同じだ。
「そっか……」
明日、浬と……、一緒に、試合に出られるんだ……。
「言われたときは、ちょっとびっくりしたけど、でも、試合に出られるのは嬉しいんだ。おれ、まだ大会には出たことなかったし。三年生の先輩たちがいるうちに、出られたらいいいな……とも、思ってたから」
「よかったじゃん、浬。浬が団体に出るのなんて、子どもの頃の……、市民大会以来だもんな」
「うん……」
「がんばれよ」
「ありがと……」
楓の言葉に、ほんの少し、浬の表情がやわらいだ。やはり、こういうとき、幼い頃から兄弟のようにそばにいる楓の存在は大きいようだ。航は少しだけホッとして微笑んだが、すぐに浬はまた、表情を曇らせてしまう。
「でも……、あの人たちにくせ者だって言われて、思ったんだ。おれたち、九星学院の人たちの分と、九星学院に期待してた人たち、みんなの思いを背負って、戦わないといけないんだなって。試合に出られるって、浮かれてる場合じゃないんだって」
「そりゃあ……。でも、くせ者ってのはさすがに……」
「……邪魔だって、ことでしょ。九星学院に勝っておいて、これで、次の三ノ森に負けちゃったら、きっと、みんなは思うんだ。やっぱり、市立船戸じゃなくて、九星学院が勝てばよかったのに……って」
「なんだよ、それ……。じゃあ……! 浬は今日、先輩たちや航が……、勝たなきゃよかったって、そう言いてえのかよ!」
楓が声を荒らげる。だが、浬は大きくかぶりを振った。
「違うよ! ただ、そう思う人たちがいるってことは確かで、悔しいから……。だから、明日は絶対、勝ちたいと思ったんだ。みんなが、九星学院と戦って勝ったことを、関係ない人たちにとやかく言われたくない。市立船戸高校はちゃんと強かったんだってことを、証明したいから……!」
「浬……」
「だけど、おれは毛利先輩みたいに強くない……。大会の試合も出たことないし……、経験値もないし……。だから、明日、ちゃんと自分の仕事ができるか……、みんなの足を引っ張らないか……、それを考えると、めちゃくちゃ不安なんだよ……。おれのせいで、みんなが、くせ者呼ばわりされたら、どうしよう……って」
浬の言葉は重かった。九星学院に期待していた人が、どれほどたくさんいたのかは、航も嫌というほどわかっている。歓声の大きさと、どよめきが、それを示していた。本当にたくさんの観客が、今日、彼らに期待していたのだ。その中には、阿蘇南との対決を、楽しみにしていた人も多かったことだろう。
だが、勝負は確かについている。航たちは全力でぶつかって、戦って、勝った。それを、関係のない人にふさわしくないとか、おもしろくないと、とやかく言われる筋合いはない。だが、浬の悔しさや不安もまた理解できるからこそ、航はなにを言ってやればいいのか、ためらっていた。
気にすんな……、なんて、そんなこと言ったって……。薄っぺらくって、届かないよな……。
それから、しばらく沈黙が続いた。だが、やがて――。大地が口を開く。
「カイちゃん……、その陰口叩いてた人ってさ、三ノ森の人なんじゃないの?」
「え……っと、わかんないけど……。なんで?」
「だって、そもそもだよ。フツウ、こんなデッカい大会まで来て、そんなめんどくさい嫌がらせする? なんかしらメリットがないとやらないでしょー」
大地はカンタンな問題を解くようにそう言った。航もそれにはハッと気付かされる。だが、浬と楓は、彼がなにを言いたいのか察しがまるでつかない、とでも言うように、眉をしかめた。
「それ、どういうこと……?」
「まぁ、これはあくまでもオレの憶測だけどさ、三ノ森高校だって、明日、しょっぱなでオレらと当たることは、もうわかってるわけじゃん。しかも、オレらはあの、優勝候補の九星学院高校を破ったんだよ。向こうにしてみりゃ、脅威以外の何者でもない。だから、なるべくなら、コケさせておきたくなるんじゃないかなってこと。対決する前に、相手チームのメンタルにヒビ入れといたら、ちょっとだけ有利になるからね」
あいかわらず、大地はそういう人間の腹の中を探るのが素早い。ただ、言われて、航も同感だった。陰口を言った人が、九星学院のファンだった可能性もあるだろうが、それにしたって、浬に嫌がらせまでするだろうか。しかも、浬の言う通り、彼らが関東の人間だったとしたら、尚さら、なんのメリットもないのに、いたずらにケンカをふっかけるようなマネをするのも妙だ。
メンタル潰し……。三ノ森か……。
証拠もないまま、憶測で疑いたくはないが、可能性はある。なによりも、大地の予測が大きく外れるようなことは、たいていの場合、ほとんどないのだ。
「それにさぁ、勝負の世界なんか、そんな大番狂わせ、いくらでもあるっしょ。いちいち目くじら立てるほうがナンセンスだよ。そんなに決まりきった順当勝負が観たいんなら、テレビの前でヒーローアニメでも見てろって話」
大地の軽い口調は、重苦しかった空気をさらっていくようだった。航は大きく頷く。彼の言う通りだと思った。陰口なんか、捨て置けばいいのだ。
そうだ……。それこそ、邪魔だ。俺たちは今、上を目指すのに必死なんだ。ヤジを気にしている場合じゃない。
「浬」
航が声をかけると、浬はまだ少し不安そうに顔を上げた。航はそんな彼の肩にぽん、と手を乗せて言う。
「外野には、いろんなことを言う人がいるよ。でもさ、俺たちは、今、俺たちの信じてるものから、目を離さないようにしよう。一緒に上を目指す。それでいいと思う」
「おれたちの、信じてるもの……」
「うん。織田先生と、イチ先輩たち。このチームのみんなで、もっと上へ行くんだ。九州の人たちは強いから、どこまで行けるかなんてわからないけどさ。行けるところまで、全力で勝ちに行こう。今は、それしかできないよ」
「そっか。そうだね……」
航の言葉に、浬はようやく頬を緩ませて、頷いた。彼の笑顔を前に、航の心を覆っていた靄も晴れていく。浬に言ったその言葉を、航は自分自身にも言い聞かせ、気付かされていた。
俺たちの力が、この大会で、どこまで通用するかなんて、わからない。わからないから、全力でぶつかっていくしかないんだ……。目の前にいる相手が誰だとしても……。
インターハイも、玉竜旗も。強豪だらけの大会で勝ち上がるのは、カンタンじゃない。それは、果てしなく遠く、険しい道のりだ。目標を作って、必死になっても、そこに到達できるかどうかなんてわからない。それは、誰にでも同じことが言える。だからこそ、誰になんと言われても、航たちにできることは、ひとつしかなかった。
「そうだ、そうなんだ……。それでいいんだ、今は……」
思わず、ひとりごとを呟き、グッと拳を握った。その様子に、楓と浬が不思議そうに航を見つめている。
「航……?」
「浬、楓、大地! 明日……、まずは絶対に、三ノ森を倒すぞ! そのあとは阿蘇南だ。阿蘇南に勝てば、次は決勝トーナメントだからな!」
「お、おう!」
「うん! 明日、絶対勝とう!」
航は頷き、グッと握った拳を上へ掲げた。すると、三人も釣られたようにそれぞれ拳を握り、上へ掲げる。その瞬間、胸の奥が熱を持った。そして、それは浬もまた、同じだったようだ。
「うわあぁー! なんか……、おれ、すっごい熱くなってきた! ぐちゃぐちゃしてた頭ん中もスーッとしたし……!」
「よかったねぇ、カイちゃん」
「うん。みんなに話してよかったぁ……! ね、ストレッチ、マッサージしよう! 楓、お願いしていい?」
「おう、任せろ!」
浬の調子がようやく戻ってきて、航は大地に目配せをする。大地はにっと歯を見せて、親指を立てて見せ、航の背中を強く叩いた。
その後、航はシャワーを浴び、ストレッチとマッサージを済ませた。そのあとは、夕食の時間までノートを書くことになったが、浬はあいかわらず、ノートでの分析が苦手なようで、まったく進みが遅い。楓もまた、書きはじめた直後から、唸り声を上げながらノートとにらめっこを続けている。大地は大地で、いつまでもノートに向かって、今日の分析を書き進めていた。いったい、そんなになにを書くことがあるのか、と呆れてしまうが、おそらく彼のことだ。マネージャーとしての目線で見て気付いたことを、事細かく、まるで、全員を解剖するかのように、分析しているに違いなかった。
ヒマだ……。
航は少し先に書きはじめていたこともあって、今日の分は書き終えてしまっていた。静かな部屋の中、楓の唸り声と、浬がシャープペンをノックする音、そして大地がひたすらノートにシャープペンを走らせる音が響いている。ここで誰かに話しかける気にもなれず、かといって、ただ、じっと待つのもひどく退屈だ。航は静かに立ち上がった。
「俺、ちょっと飲み物でも買いにいってくるわ……」
「へーい」
「いってらっしゃーい」
「あ、航。オレの分も買ってきて。甘い系のやつね」
大地にそう言われて、航はわざと下唇を突き出してみせる。だが、彼は「よろしくー」と言うだけで、知らんぷりだ。
「……わかったよ。行ってくる」
ヒマを持て余したせいで、ちゃっかり大地におつかいを頼まれ、航は部屋を出る。大地の注文はいつになく雑だったが、「たぶん、アレだろう」と、好みがわかってしまうところは、ちょっとだけ悔しかった。ただ、ひとまずは用事ができて、航は足早にエレベーターへ向かう。ところが――。
「あ……!」
「おっと、悪い。大丈夫か」
「はい……」
廊下で、ちょうど、部屋から出てきた市鷹とぶつかりそうになった。避けた勢いで転びそうになったところを、市鷹がうまいこと支えてくれたが、礼を言うのも忘れて、航はハッと顔を上げる。市鷹が出てきたそこは、羽柴の部屋だ。
「あぁっ! あの、イチ先輩っ……!」
「ん?」
「羽柴先輩と、話したんですか?」
市鷹はそれを聞くなり、すぐに穏やかな表情で頷いた。そうして、航の頭をぽんぽん、と撫でる。
「あぁ、話したよ。航にもずいぶん心配させたって、ヒロのやつ、すごい気にしてたぞ」
「え……! お、俺はべつに……」
「ヒロは、お前が心配そうに見てるの、わかってたんだよ。でも、もう大丈夫だから。安心しろ」
「よかった……!」
航ははあっと安堵のため息を吐く。さすがは市鷹だ。きっと、羽柴が一番欲しかった言葉を、市鷹は知っていて、ちゃんと彼の心に届くように話したのだろう。だが、航は市鷹がなにを話したのか、羽柴のメンタルをどうやって持ち直したのか、気になった。
「あいつ、他人には甘くて優しいくせに、自分には本っ当に厳しいからなー」
「あの……、イチ先輩、羽柴先輩になんて言ったんですか?」
「え?」
「俺も、羽柴先輩が自分を責めてるんだろうってことは、わかってたんです。でも、俺は先輩になんて声をかけたらいいのかも、わからなかったんで……」
「ふうん……。それで、おれが、ヒロになにを話したのか、知りたいって?」
「はい!」
市鷹は、ふふ、と笑みをこぼして「どうしようかなぁ」ともったいぶる。だが、そのうちにポケットのケータイで時間を確認すると、航をホテルのロビーへ誘った。
「ヒロはさ、主将ってもんをちょっと重く受け止めすぎなんだよ」
一階のロビーの、隅のソファに座り、市鷹は言う。航はその向かい側に座った。
「そうなんですかね……。でも、主将ってなると、やっぱり軽くは考えられないし……」
「もちろん、テキトーじゃ困るさ。ただ、主将はべつに完璧でいる必要はないし、みんなに弱さを見せてもいい。おれはそう思ってる」
「弱さを見せても……」
「そうだ。弱さを見せるってことと、実際に弱いということは違うだろ。日本中、いろんな高校があって、いろんなチームがある。その数だけ、いろんな主将がいるだろうけど、おれは主将ってのは、あんまり強すぎないほうがいいと思ってるんだよ」
航は眉をしかめ、市鷹の言葉を反芻して頭を巡らせた。だが、妙だ。主将が強いに越したことはない。現に市鷹だって、このチーム内での強さは、ずば抜けているわけだ。
「強すぎないほうが……って、それ、どういうことですか……?」
「主将には、どうしても強さを求められるイメージがある。チームを引っ張っていくような、がむしゃらな強さがな。でも、そういう仕事は、実際にはそんなにない。もちろん、よそにはそういうチームもあるだろうけど、うちは、マサや毛利がその役をやってくれてたってのもあるだろうけど、柔らかい部分を整えるような仕事が多いんだよ」
「柔らかい、仕事……」
「そう。今年は、大地が入ってきてくれたおかげで、だいぶ楽になった感覚があるけど、主将ってのは、チームメイトの体調とか、メンタルとか、そういうものをいつも気にして、声をかけたりして、バランス整えて、いつもチームが万全の状態をキープできるように、考えてなきゃならないんだ。おれは、そういうときの主将の立ち位置が重要だと思ってる。有能で強い人は、みんなより先も周りも見えているから、つい、チームを引っ張ろうと一番前を歩いてしまいがちになるけど、主将が立つべきなのは、そこじゃない。みんなの後ろなんじゃないかなって、思ってるんだ」
そう言うと、市鷹は立ち上がり、航の背後に回って、ぽん、と背中を叩いた。航はハッとして振り返る。その表情を見て、市鷹は嬉しそうに笑みを浮かべ、頷いた。後ろにいれば、こうして背中を叩いてやれるだろ――と、彼はそう言った気がした。
「同じチームにいても、みんなが違う人間だ。それぞれ多かれ少なかれ、悩みを抱えてる。おれは主将として、みんなのことをしっかり見て、声をかけて、話して、みんながなにを考えてるのか理解しながら、支えていきたい。だけど、いつも強くて、完璧に見える人間を相手に、自分の弱さを話すっていうのは、ちょっとハードルが高いんじゃないかな、と思うんだ」
「だから、弱さを見せる……ですか?」
「うん。そうじゃなきゃいけないってわけじゃないけど、相手が自分と同じ温度で、共感してくれるって思えたほうが、話しやすいことってあるだろ」
市鷹の言葉に、航は深く頷いた。ガツガツとみんなをリードする強い主将も、かっこいいのかもしれない。けれど、航がついていきたいと憧れた羽柴は、中学の頃からそういうタイプではなかった。いつも冷静で、穏やかで、市鷹の言う通り、いつも後ろから見守ってくれ、ときには導いてくれる。そんな先輩だった。そして彼が目標として追いかける市鷹もまた、同じだった。
「それなら、羽柴先輩は適任ですよね」
「おれもそう思う。でも、ヒロが自分に求めてるのは、強さだ。それも、得点力。もちろん、それも大事だけど、それだけがすべてじゃない。ヒロは、主将にふさわしい強さが欲しいって言ってたけど、それは、やわらかい部分にあると、おれは思ってる。得点力とか、技術とか、技とか。そういうのとはもっと違うところだ」
「やわらかい部分……」
「うん、人のやわらかい部分。すごく、繊細なところだ。そういうところに気付くためには、人間の弱さをちゃんと知ってなくちゃならないし、あんまり強すぎると、他人のそこに気付けない。おれは、そう思う」
「な、なるほど……。柔らかい部分か……」
航は頭を巡らせる。さっき、浬の話を聞いていたとき、自分はなにを言ったか、思い出していたのだ。だが、どうも自分の言葉が、浬の柔らかい部分に届いたという自信はない。思えば、航はいつも、言葉がすんなりと出なかった。気を落とすチームメイトに声をかけたくても、言語化するのに、とにかく時間がかかるのだ。だからこそ、それができる市鷹には憧れを抱いた。
やっぱり、イチ先輩はすごい……。そんなところまで深く考えてるなんて。
そして、そんな市鷹に認められ、次期主将という決して軽くはない役割を担う羽柴にも、同じ思いを持った。中学時代から追いかけてきた背中に、改めて憧れたのだ。
「航」
「はい」
「ヒロは来年、きっとおれよりはるかに強い主将になるよ。だからこそ、今、焦って強さを求めて、そればっかりになってほしくない」
「はい」
「ヒロを、支えてやってくれな。……おれたちは、泣いても笑っても、明日で終わりだ。遠征はあさってまであるけど、今夜が、現役最後の夜になる。……あと、頼んだぞ」
「はい……!」
航の返事に、市鷹は満足げに笑みを浮かべ、また背中を叩く。そうして、またケータイの画面を見て、伸びをした。
「さてと……。そろそろ、夕飯の時間だな。みんなを迎えに、エレベーターまで行こうかぁ」
また、返事をしようとして、気付く。結局、市鷹が羽柴に、なにを話したのか。それをまだ聞いてはいない。だが、すでに航はそれを聞かずとも、想像することができた。市鷹が羽柴に話したこと。羽柴のモチベーションを再び上げた言葉。明日へ向けたエール。それはおそらく、今ここで、市鷹が航に話してくれたすべてだった。
きっと、俺に話してくれたのと同じように、イチ先輩は羽柴先輩に話したんだろうな……。
そのとき、市鷹と話した時間は、ほんの十分くらいだろうか。本当にわずかな時間だった。だが、その十分は、航にとって特別な時間になった。市鷹の言葉は、そのひとつもこぼれずに、航の胸の奥に響き、体じゅうに染み入っていた。
その後、夕飯を食べ終えたあと、航は大地に頼まれていたジュースを買おうと、ふたりでホテルのロビーの自販機を物色していた。
「ったく……。航はオレの大事なジュースを忘れて、どーこほっつき歩いてたんだかー」
「だから、ほっつき歩いてたんじゃないって」
「ほんとかよー? どっかの福岡美人でも見つけちゃって、ついてったんじゃあ……」
にやけ顔で、航をからかう大地だったが、ふと、なにかを見つけて足を止める。その視線の先にいたのは、市鷹、将鷹。そして、毛利だった。彼らはロビーの隅のベンチに座り、なにか話しているようだ。その表情は明るく、だが、なぜかいつもよりも少しだけ、大人びて見えた。
「先輩たち、なにしてんだろ……。もうすぐ、ミーティング始まるのに」
航がつぶやくと、大地は呆れ顔でため息を吐く。
「そりゃあ、大人の男の密会でしょ」
「大人の男? なんだそれ。先輩たち、まだ高校生じゃん」
「あー……。まぁ、航もあと二年くらいしたら、嫌でもわかるんじゃないの? つよつよルーキーの航も、その辺はまだまだおこちゃまだねぇ」
「なんだよ、大地はわかるのかよ」
「さーあねー」
大地はそう言うと、またにやけ顔で、エレベーターホールへと向かう。航は眉をしかめた。あと二年経ったら、嫌でもわかること。今はまだ、わからないこと。けれど、同い年の大地はたぶん、知っていること。それは、いったいなんなのだろう。航は市鷹たちに振り返りながら、大地に文句を言いたい気持ちをひとまず呑み込んで、彼のあとを追った。
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