39【譲れない】~浅井市鷹~
玉竜旗大会、三回戦、九星学院戦。
大将の市鷹のお話。市鷹の視点でお送りいたします。
歓声と拍手が沸く中、市鷹は歩みを進める。大友と向かい合い、開始線まで三歩。ゆっくりと蹲踞をした。不思議なもので、胸の奥が心地よく高鳴っている。体が熱い。だが、やはり心地いい。体の中は緊張感と興奮、いうなればワクワク感がいい塩梅で混ざり合っているような感覚だ。頭の中も自分でも驚くほどスッキリしている。コンディションは、これ以上ないといっていいほどに、良好だった。
うん、すごくいい感じだ……。
「はじめぇッ!」
「せぇりゃぁあああっ!」
主審の声の直後、大友が気合いの声を張り上げ、立ち上がる。同時に、市鷹も立ち上がった。無言のまま、竹刀を大友の左小手に向け、ほんの少し、右に開く。同時に、足を素早く動かし、数歩前へ攻めた。大友との間合いは一気に近づいていく。そうして、さらに一歩攻めた瞬間。市鷹は、左足を思いきり蹴って飛んだ。
「……小手りゃぁああっ!」
「おおっ!」
「いいとこ!」
大友は、一瞬で後方へ下がるようにして避けたが、それでも、わずかに当たった感触があった。やはり今、この体は最高に調子がいい。市鷹は面の中で口角を上げる。
ヒロ……。お前の気持ちはちゃんと理解してる。だけど、おれは今、すごく嬉しいんだ。チームの勝利を懸けて、九星学院の大将と戦えるのが。
戦況はよくない。だが、悪くもない。――いや、よくないように見えたとしても、今の戦況は予想よりもはるかによかった。勝ち抜き戦のこの大会で、優勝候補を相手に、自分たちがここまで互角に渡り合っただけでなく、一歩リードした状態で大将戦まで繋げられるというのは、可能だと思ってはいたものの、予想以上にいい展開だった。副将戦でポイントを返され、大将同士、対峙するまで追いつかれてしまったが、それでも、ここまでみんなが繋いでくれた勢いはまだ、殺されていない。
航が作ってくれた流れは、毛利とマサ、それにヒロがしっかり、おれに繋いでくれた。追いつかれたって、この流れはまだ、切れていない。おれに繋がってる……!
羽柴は四分間、たっぷりと使って大友と戦った。白熱した試合だった。無名の高校対、九州の強豪校とはとても思えないほどに、羽柴は大友と互角に戦った。少なくとも、市鷹の目にはそう見えていた。実際のところ、一本になってもおかしくない技はあったし、最後の小手技も、あと数秒、残り時間が多く残っていたら、確実に一本になった技だった。結果は一本負けではあるが、羽柴が大友を相手に、いい試合をしたことは確かだ。そして、そんな羽柴の戦いを間近で観ていた市鷹に、彼の思いが届かないはずがなかった。
――おれも、もうすぐ主将ですから。イチ先輩を立たせないように、頑張ります。
白波高校との試合で、羽柴に言われた言葉を、市鷹は思い出していた。そうして、彼の言葉と、一年前の自分の言葉が自然と重なる。一年前、まだ市鷹が二年生だったとき。当時、副将を任せられていた市鷹は、主将だった三年生に同じことを言ったのだ。
――おれも、もうすぐ主将ですし、丹羽先輩に楽してもらえるように頑張ります。
だが、それは達成できなかった。去年のインターハイ予選で、市鷹は最後まで、一つ上の丹羽に楽をさせるどころか、彼に頼るばかり、励まされるばかりで、負担を背負わせることしかできなかった。自分で立てた目標も達成できず、チームとしての目標だった、県大会優勝も達成できないまま、準々決勝の手前であっけなく散ったのだ。あのときの悔しさと、無念さは、今も忘れられない。
だから、わかる。今、羽柴がなにを考えているのか。控え場所で面を取りながら、どんな気持ちで市鷹の試合を見ているのか。手に取るようにわかる。きっと、羽柴は今、どうしようもない悔しさを抱え、自分を責めているはずだ。
ヒロはおれに似てるんだよな。性格も、剣道のタイプも。一年前のおれも、ヒロと同じ立場にいて、同じことを言って、同じように考えてた。ただ、ヒロは、おれよりもちょっとだけ、繊細で、真面目で、それなのに、嘘を吐くのが妙にうまいんだ。
市鷹は大友を攻め、彼の隙を探しながら、思う。この試合だけは負けられない、と。大友にここで負けてしまったら、羽柴はきっと自分を責めるだろう。誰になにを言われても、たとえ「お前のせいじゃない」と言われて励まされても、自分を責め、それを罪のように抱えてしまうだろう。
……でも、そんなこと、おれがさせない。
市鷹には、いつもそばに将鷹がいて、不安を抱えれば見抜かれ、荒々しくもその不安を一緒に背負ってくれた。自分を責めれば、やはり荒々しくもその罪を払拭してくれた。だが、それは市鷹と将鷹が双子の兄弟で、彼がいつもそばにいたからできたようなものだった。そのせいで、昔から悩みを抱え込むクセはあっても、すぐに気持ちを切り替えて、楽観的になれるところがあったのだ。しかし、羽柴は違う。
羽柴はひとりっ子なのだと聞いている。また、常に軸のブレない彼は、普段から落ち着きがあって聞き分けがよく、失敗もほとんどない。ついでに勉強の成績もいい。言うなれば、優等生だ。しかし彼は、ああ見えて、どちらかといえばネガティブでもある。他人にはどこまでも優しいくせに、自分には相当厳しい。そのため、悩みや不安を抱え込みやすい一面があるのだ。そもそも他人を頼るのはたぶん、苦手なのだろう。そんな彼は今、きっと自分を責めているに違いなかった。
もうすぐ新しいチームだってときに、変な罪悪感とか劣等感とか、そういうことであいつに悩んでほしくない。ふさぎこんでほしくない。そんなスタートをきってほしくない。ヒロのためにも、この試合は、絶対に勝つ……!
今、市鷹はチームのためだけではなく、羽柴のためにも、この試合に勝ちたかった。勝って「最後までおれはこのチームの大将なんだから、ちゃんと頼っていいんだ」と言ってやりたかった。それから、主将だからといって、全部責任を背負おうとしなくていいことや、主将としてのプレッシャーを、ひとりで抱え込まなくていいことも、もう一度、時間をかけて、彼に話しておきたかった。
ただし。この試合で負けてしまったら、羽柴は心を閉ざしてしまうだろう。あれこれ話してみたところで、安易な励ましくらいにしか聞こえず、笑顔を見せながら、自分を責め続けるかもしれない。だから、なにがなんでも市鷹は、この試合で大友に負けるわけにはいかないのだ。
幸いなことに、大友は羽柴と四分間、しっかり戦ったおかげで、多少なりとも体力を削られている。それだけでも、市鷹は有利だ。ついでに、もうひとつ。有利とまではいかないが、市鷹は上段と戦うのは、俄然、好きだった。
丹羽先輩を思い出すからかな……。上段と戦うのって、ワクワクするんだよな……。
上段使いと戦うのは、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。それは、慕っていた先輩であり、市鷹のメンターでもあった前主将、丹羽が、上段だったということが大きい。上段の選手を見ると、市鷹は必ず思い出すのだ。彼の隙のない構えや、攻めに特化した勇ましい戦い方、彼のくり出す技のキレを。いつだって彼の姿に憧れながら、日々の稽古では、彼から一本を取ることに夢中だったが、当然ながら、そうやすやすと取らせてはもらえるはずもない。校内試合でも、地稽古でも、彼は本当に手強かった。
将鷹や毛利は、上段とは戦いにくいとか、一本を取りにくいというが、市鷹はもともと、さほど苦手意識を感じていなかった。むしろ、上段使いの選手と戦うのは楽しいと思っていたほどだ。ただし、上段の選手は、中段の選手に比べて圧倒的に少ない。いたとしても、五人のうちに一人いるか、いないかだ。当然、滅多にあたることもないわけだが、だからこそ、あたったときにはいつにも増して、気合いが入ってしまう。それもあって、今、市鷹は不思議なほど気が昂っていて、負ける気など微塵にも感じていなかった。
ヒロ。お前の打った技は、ちゃんと活きてるぞ。勝ち進んだとか、負けたとか、勝敗は関係なく、しっかり効いてる。おれが今から、それを証明するからな……!
市鷹は大友の左小手を攻めながら、距離を詰めていく。攻撃のタイミングを予測できないように、テンポを細かく変えながら、少しずつ、少しずつ。そうして、不意をつくように、右に大きく振りかぶった。すると、大友は素早く右小手を竹刀から放し、胴を抱えるようにして守る。思った通りの反応だ。市鷹はそのまま素早く距離を詰め、鍔迫り合いに入った。
やっぱり。ヒロの逆胴は、はたから見てても相当、いいとこだったからな……。
旗が上がらなかったのはまったく残念だが、強豪相手に戦うときにはよくあることだ。ただし、しっかり打たれていれば、それは一本にならなくても、決してなかったことにはならない。打たれた方は、必ず、そこを警戒するようになるからだ。ここは間違いなく、狙いどころになる。市鷹は頭を巡らせながら、鍔迫り合いを続け、何度か彼の体をいなした。
鍔迫り合いは……、硬い感じだな……。こりゃあ、そう簡単には崩れないか……。
どっしりとした岩を動かしているような感覚は、ひどく煩わしい。だが、ここは市鷹も得意分野なので、狙わない手はない。市鷹は得意の引き面を狙った。だが――。
「面――ッ」
「小手ぇぇええッ!」
「おおッ!」
引き面を打つ瞬間を、狙っていたのだろうか。大友は引き小手を打ち、残心を取った。途端に九星学院の応援席には歓声が湧き、審判はその返事をするかのように、旗を下げたまま、左右に振る。触られてはいないものの、たしかに、今の大友の引き技の選択も、タイミングも、悪くなかった。引き面を打つ瞬間、必然的に上がる手元を狙った引き小手は、稽古の中でもよく取り入れられるが、素早い反射神経と、並大抵ではない集中力が求められる技だ。
もうちょっと仕掛けたのが遅かったら、触られてたかな……。さすがだ。
だが、暢気に感心している場合ではない。市鷹は急ぎ、残心を取る大友を追った。追いながら、心臓が急激に高鳴っていく。ここは間違いなく、最高のチャンスを作れるところだと、確信があるからだ。そのイメージが一気に脳内に浮かんで、集中が高まっていく。
狙える――……!
大友は、残心を取って市鷹との距離をあけ、一度、中段に構えた。だが、その遠さを確認して、もろ手を上げ、上段に構え直す。その瞬間、市鷹が再び右に振りかぶると、大友はすぐさま手を下ろした。
もらった!
「メンりゃあああああッ!」
「おおぉーーーーーッ!」
市鷹は、右に振りかぶったあと、すぐに大友の脳天めがけて思いきり飛び込み、残心を取る。竹刀を握る手には、確かな衝撃が走った。途端に歓声が上がり、拍手が湧く。同時にどよめきが聞こえた。その歓声の大きさとどよめきが、市鷹に教えてくれる。今の面はまぎれもなく、誰がどう見ても一本だということを。
「面あり!」
主審の声が響く。思わず、ガッツポーズをしそうになったが、溢れるような感情をこらえて、市鷹は自チームの控え場所に振り返る。そうして、拍手をくれるチームメイトと、羽柴に向かって一度だけ、頷いた。
ヒロ……、わかるか。今のはお前が仕掛けた技だ。ちゃんと、使わせてもらったよ。
羽柴としっかり目が合った瞬間、市鷹は心の中で、彼にそう言った。大友は、前の試合で、羽柴にばっくりと逆胴を打たれている。残念ながら一本にはならなかったが、それでも、大友が打たれたことは確かで、あの逆胴は、一本になっても不思議はないくらい、打突が深かった。市鷹は、次の試合に切り替わってからも、その技が必ず影響してくると、推測したのだ。
一本になっても、なっていなくても。どのみち、打たれた意識があれば、それはそのあとに必ず影響する。打たれた場所は、警戒したくなる。試合が切り替わっても、そういう意識ってのは、続くもんなんだ。
案の定、大友は胴を守ろうとして、咄嗟に手を下ろした。中段の構えが崩れたところを見る限り、相当警戒していたのだろう。試合開始直後の、最初のフェイクも、地味に効いたのかもしれない。
市鷹は開始線へ戻り、すでに構えて市鷹を待つ、大友に向かい、構えた。面金の奥の瞳は鋭さを増し、猛烈な悔しさを含んでいる。無理もない。この勝負にはチームの勝敗が懸かっているし、そうでなくても、彼らを応援する人は、市立船戸高校の三倍はいそうだ。しかし、そうはいっても、市鷹だってここは絶対に譲れない。
大友くん。君らが優勝候補だろうと、九州の強豪だろうと、たくさんの人に期待されていようと、おれたちは君らのシナリオ通りにはならない。おれは、まだここで負けるわけにはいかないんだ。
「二本目!」
「うらぁあああッ!」
「せぇえりゃあああッ!」
引退間近の三年は……、君が思うより、しぶといぞ!
試合が再開され、二本目が始まると、互いに気合いの声を上げた。同時に、大友が攻めてくる。明らかに、さっきよりも攻めのテンポは速く、その攻め方は、やや強引にすら感じられた。気のせいではないだろう。今は互いに最後の砦。一本を取られた大友は、猛烈な焦りを感じているに違いない。そして今、この状況は、市鷹にとってはまさに待ち望んでいた形でもある。
……焦りは、必ず綻びを作る。その綻びは、ほんのわずかであっても命取りだ。おれは、身をもってそれを経験してきた。
一刻も早く、一本を取り返さなければならないとき。もうあとには引けないとき。そういう断崖絶壁に立たされているときこそ、大将は冷静さを忘れてはいけない。
先に一本を取られれば、焦りを感じ、ペースが自然と上がっていくのは無理もないことだ。しかし、そういうときには決まって、満足のいく戦い方はできなくなるものだった。むしろ、焦れば焦るほど、自分らしい剣道などできずに、相手に支配されていく。
つまり、大友が焦りを感じてペースを上げている今、この勝負は市鷹にとって、有利になりつつある、ということだ。大友が焦り、その綻びを市鷹が掴めば、勝負はあっさり決まるかもしれない。ただし、相手が相手なので、そうカンタンにはいかないことも、市鷹は覚悟している。なんにしても、油断は禁物だ。
残り時間はちょうど半分くらいか……。ここからおれが守りに入ったところで、大友がすんなり逃がしてくれるわけない……。けど、なにがあっても、この一本だけは、絶対に守りきる……!
さっき、市鷹が打った面は、羽柴が打った逆胴があってこその、面。羽柴が大友に胴を警戒させたからこそ、打てた技だった。そういう意味では、羽柴と市鷹がふたりで打った技だといっても過言ではない。それをあっさり取り返されるのは、あまりに悔しいし、癪だ。
そして、一本を守るために、逃げ回る戦法も、得策ではない。相手は全国レベルの強者なのだから、逃げ回って逃げきれるほど甘くはないだろうし、もっといえば、市鷹はそんな情けない剣道をしたくはない。選択肢はひとつだ。
残り時間で、もう一本を狙っていく……!
大友の鋭い攻めに、負けじと市鷹も攻め返す。間合いの攻防はどんどん激しさを増し、距離があっという間に縮まっていった。まさに一触即発の状態だ。
「……面だぁあああッ!」
「おおッ!」
片手面を打ちこまれたが、市鷹は竹刀で技を受けた。大友の片手面は、伸びがあって鋭く、打突は重く、まるで長い槍を投げられているかのようだった。
すごい面だな……。さっき、ヒロの試合見てても思ったけど……、大友は本当に上段になったばっかりなのか……?
上段の技は、右手を放し、左手のみで打ち込む技が多く、そのどれにも相当な腕力が必要不可欠になる。もちろん、必要なのは腕力だけではない。全身の体幹はもちろん、背中、腹。そして、足も、同じことがいえる。特に右足だ。上段は、中段とは逆の足――つまり、右足で飛ぶことになるため、右足の筋肉強化は必須になってくる。満足に技を出せるようになるまでは、どんな人間でも、ある程度の時間がかかるはずだ。
上段に変更する場合、中段の選手以上に地道なトレーニングは避けて通れない。だが、大友の技、動き、構えを見る限り、彼はとても上段になりたてとは思えなかった。まず、彼からは不安定さを感じない。むしろ、ずっと長いこと鍛え続けてきた、強健さと、軸の安定を感じるくらいだった。
まさか……、この一年間、大友はずっと上段になるために、鍛えてた……?
上段への変更は、まず中段での正しい構え、動き、技を身に着けた上でなければ、許されない。だが、一般的に、上段への変更が二年生の夏というのは、どう考えても妙なのだ。現役期間を残り一年切ったところでの上段変更は、いくらなんでも遅すぎる。
ケガかなにかあったのかと思ったけど、見た限りはそんなふうに感じない……。だとすれば、彼にとってこの一年は、単純にトレーニング期間だったってことか……?
彼はこの一年で、中段構えとその戦い方を極めながら、上段を学び、筋力トレーニングを継続してきたのかもしれない。それを思えば、彼の強さにも、このタイミングでの上段デビューも、納得がいった。
やっぱり、すごいな……。でも、おれだって三年間、死ぬ気で稽古してきたんだ!
市鷹は、鍔迫り合いになったところで、息を吐く間もなく、彼の体を全身をぶつけるようにして、いなした。すると、大友は咄嗟に避けようとしたのか、大きく体を反らす。その瞬間、市鷹は得意技を打ち込んだ。
「面りゃぁあああッ!」
「おおーッ!」
引き面は惜しくも面金だった。乾いた音が響き、視界の隅では審判が旗を下げたまま左右に振る。それを確認する様子もなく、大友は、残心を取る市鷹を追ってくる。市鷹は中段に構え直し、迫ってくる大友を待ち構えた。
「小手ぇえええッ! 小手だぁああッ!」
「いいとこー!」
もろ手小手……、やっぱり打ちが速いな……。だが、このまま――。
片手ではなく、両手で打ち込む小手技を打ち込んできた大友の勢いを利用して、市鷹は彼の重い体をライン際でいなした。大友は場外を意識して、わずかによろける。市鷹は、そこを逃さず、全身の力を使って押した。ここで場外を取っておけば、このあとも有利に戦える。竹刀を落としたり、再び場外に出たり、そのほか、なんらかの理由で反則が取られることは、試合ではよくあることだ。そして反則は、二つ取れば相手に一本が入る。だが、大友は半歩下がっただけで、びくともしなかった。
重い……! こいつの体幹、いったいどうなってんだ……!
「やめ!」
主審の声がして、市鷹は開始線へ戻る。赤い旗が、低いまま横に出されていれば、場外に出たことになるわけだが、審判は三人とも、旗を出していなかった。要するに、反則判定はされていない、ということだ。
くそ……、だめだったか……。
試合中、ライン際で場外へ押すのが許されるのは、一度だけ。二回目、三回目の体当たりで場外へ出ても、反則にはならず、試合は止められ、開始線から仕切り直しになる。それが、剣道のルールだ。
大友、本当に岩みたいな奴だな……。
「はじめぇッ!」
腹の中に、大きな岩でも入っているのではないか、と思うほど、大友の体は重かった。やはり、彼の体幹はフツウじゃない。フィジカル勝負は、分が悪そうだ。市鷹は再び、平青眼の構えで攻めはじめる。そうしながら、集中を高め、視界を広げていった。残り時間は、おそらくあと一分、あるか、ないか。――と、いったところだろうか。
できれば、得意技である引き面を狙いたいところだが、鍔迫り合いで彼の体勢を崩すのは、そうカンタンではなさそうだ。市鷹は間合いの攻防の中で、大友を攻めながら頭を巡らせる。
崩せないなら……、間を作る……!
市鷹は間合いから左小手を攻め、距離を詰めていく。足を止めず、少しずつ近づき、ダンッと足を踏み鳴らし、また近づく。そうして、素早く大友の懐に入り込み、鍔迫り合いに持ち込んだ。
よし……。
鍔迫り合いになってからも、足を休めず、動き続ける。右に、左に、素早く横跳びをするようにして、大友の正面ではなく、斜め前に立つような感覚で動きながら、そのまま下がる。その瞬間、大友と市鷹の間には、微妙な間ができあがった。
ここだ――……!
「面りゃぁあああッ!」
「おぉッ!」
素早く下がりながら、引き面を打って、残心を取る。だが、当たったのは大友の面ではなく、竹刀だった。大友は市鷹の動きをすでに読んでいて、竹刀で面を防いだのだ。
くそ……ッ。これはお見通しか……。
大友は残心を取る市鷹を追ってくる。間合いが一気に近づき、市鷹は再び平青眼の構えで大友に向かい、体勢を整えた。だが、先手を取って攻めようとした、次の瞬間――。
来る……!
「小手ぇええッ! 小手だぁああああッ!」
「おおッ!」
「いいとこーッ!」
追ってきた勢いをそのままに、もろ手小手を打ち込まれ、バグッと音がした。かろうじて防いだので、打たれたのは拳だったが、いかにも深い打突で打たれたような音が響いたせいか、視界の隅で、副審の一人が赤い旗を上げ、もう一人が旗を下げたまま、内側にひねるようにして重ねている。これは、「見えなかった」という表示だ。
まずい――……ッ!
市鷹はヒヤリとしたが、主審は旗を下げた状態で、左右に振っている。なんとか一本にはならずに済んだようだが、ホッとする間も与えられず、大友は続けて打ち込んでくる。市鷹はそれをまた竹刀で防ぎ、隙を探して、負けじと技を打ち込んだ。しかし、打ち合いが続けば続くほど、大友は勢いを増していく。
これじゃ、かかり稽古みたいじゃないか……。だけど、なんとかしないと……。このままじゃ、本当に打たれる……!
市鷹は、技を打つその都度、残心をめいっぱいに取り、わざと間合いを切っていった。そうすることで、数秒は時間を稼げるし、大友が追ってくる前に、自分の体勢を整えることができる。おそらく、もうそんなに時間は残っていないのだ。少なくとも、大友はそう感じて、ラストスパートをかけている状態なのだろう。ここが正念場だ。
ここは譲れない。なにがなんでも、守りきる……!
再び、間合いの攻防に入り、市鷹はこれまでになく集中を高めた。足を素早く動かし、細かくテンポを変えながら攻め、時折、脅かすように足で床を踏み鳴らし、また攻める。大友もまた、市鷹を威圧し、狙いを定めている。
「……面だぁあああッ!」
「おおっ!」
だが、大友が片手面を打ち込んできた、直後。ビーッとブザーが鳴った。直後、ほんの一瞬の静寂が訪れる。だが、すぐに拍手と歓声、それをかき消すようなどよめきが一斉に起こった。主審は「やめ!」と号令をかけたが、その声すら、聞き取るのがやっとだ。
どこからか、「やべえ、勝っちゃったよ……」とか「聞いたことない高校だよな……?」と、疑念を持つような声が、あちこちから聞こえてくる。市鷹も同感だった。優勝候補と云われた、九州の強豪校、九星学院高校。全国レベルの強者である彼らに、無名の市立船戸高校が勝ってしまったのだから。
ここが合戦場だったら……、おれたちは全員、名乗りすら上げられない、歩兵みたいなもんなのかもな……。
名もなきサムライが、九州の猛将を打ち破り、歴史を変えてしまった。今、そんな奇妙で、都合のいい夢を見ているような感覚がある。だが、これは現実だ。まごうことなき、勝利。市立船戸高校の勝利だ。
すごい……。おれたちが勝った……! 九星学院に、勝ったぞ……!
市鷹は心の中で、誰に言うでもなく、何度もそう叫んだ。そうして、はあっと息を吐き、開始線へ戻る。目の前で、大友は悔しそうに肩を上下させながら、天を仰いでいた。その姿に、この勝利の重みを感じながら、市鷹は改めて勝利を実感する。
「勝負あり!」
主審の号令で、市鷹は大友と息を合わせ、蹲踞をする。背後では、拍手をしながら近づいてくる、四人の足音がする。市鷹が振り向くと、毛利と将鷹が同時にそれぞれ、市鷹の頭と胴を叩いて、整列した。航は毛利の隣で、笑みをくれる。遅れて、羽柴が市鷹の隣に並んだ。だが、その表情を見るなり、市鷹は思わず彼の尻を叩く。
「なんて顔だよ。しっかり前見ろ」
そう言うと、羽柴は小さく「はい」と震えた声で返事をした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。
※10話との矛盾点があり、またキャラ同士の名前が似ていて煩わしかったので、前主将の名前を変更、統一しました。申し訳ありません。




