38【同い年】~羽柴洋輝~
玉竜旗三回戦。市立船戸高校対、優勝候補、九星学院高校。
副将・羽柴対、大将・大友の試合。
羽柴視点でお送りします。
「はじめぇッ!」
主審の声が、しん、とした静寂を破った。対大将戦、大友との試合が始まり、割れんばかりの拍手が湧く。羽柴は、蹲踞の体勢から立ち上がり、煩わしい緊張を打ち消そうと、思いっきり声を張り上げた。
「うらぁあああッ!」
「せぇやぁあああッ!」
だが、その瞬間。目を瞠る。羽柴の声に対抗するように、大友も声を出したが、その声は今、羽柴には届いていない。
やっぱり、上げるとデカく見えるな……。
今、脳内に響くのは、面をつけている途中、不意に羽柴を呼んだ織田の声と、彼の言葉だった。
――羽柴、気をつけろよ。大友って大将、もしかしたら……。
その言葉のあと、羽柴の心臓がドクン――と震えた。途端に呼吸が浅くなる。同時に、面紐を握る手指の先が、冷たくなっていくのを感じた。
――……そうなんですか。了解しました。
――上げたばっかりで、大会での実戦はまだ一度もないらしいから、まさかこの試合で使ってくるはずがないと思ってたんだが、なんか嫌な予感がする……。いいか、立ち上がりで面食らうな。
――わかりました。
――無理しなくていいから、いつも通り行けよ。
平静を装い、面紐をもう一度、ぎゅっと締めたものの、明らかに動揺してしまっていた。どうしてもっと早く教えてくれなかったんだとか、どうして今なんだ、とか、織田に文句を言いたくもなった。だが、彼のことだ。ここ一番というタイミングで、みんなの士気を下げないために、不安要素になり得る情報は、あえて口にしなかったのかもしれない。
おれが織田先生なら、伝えるのには、どうしただろう。やっぱり悩んだのかな……。
大友がどんな選手で、どんな剣道をするのか。彼の出番が回ってこないことには、それをじかに確認することなどできない。だが、去年まで、この九星学院というチームがどうだったか。または、先の公式戦ではどうだったか。それを情報として知ることはできた。織田は九星学院と当たる可能性を事前に考慮し、内部事情を、知り合いの顧問に聞いて回り、できる限りの情報を集めていたはずだ。その中に、大友という選手の情報もあっただろう。ただし、その情報はきっと、とてもあいまいなもので、噂に近いものがあったのだ。チームを不必要に不安にさせる可能性が高いうえに、あり得ない、と織田は判断したに違いない。羽柴はそう理解した。
こんなことなら、朝のアップで雑賀と地稽古でもしとくんだった……。
羽柴は一度、大友の喉元へ真っすぐ向けた竹刀の剣先を、やや右上に移し、構えをわずかに右に開いた。直前のタイミングで知らされたとしても、あらかじめ聞いているのと、そうでないのとでは、やはり違う。大丈夫。落ち着いている。いつも通りだ。羽柴は心の中で、唱えるように自分自身にそう言った。
この剣先が向かうのは、大友の左小手。大友は今、竹刀を握る手を面の上に掲げ、左足を前に、右足を後方にした状態で、羽柴の隙を狙っている。彼は、上段使いだったのだ。
上げたばっかりで、このタイミングでのデビューって……。完全に、なめられてるような気がするけど……。
羽柴は、ぎり、と奥歯を噛み締めた。織田の言った、「上げたばっかり」とは、つまり。中段から上段に変更して、まだ間もない、ということを意味している。彼にとって、その最初の大会が、おそらく今回の玉竜旗だったのだろう。こんな局面がデビュー戦なんて、ちょっと信じられないが、きっと、彼らはそれだけこの試合に勝算があるのだ。
負けるはずがない試合。カンタンに勝ち進める相手。羽柴はそう思われているのかもしれない。実際の状況は、市立船戸高校が有利でも、九星学院に残っている選手が、大将の大友ひとりであっても。ここは途中経過だと。
くそ……!
羽柴は足を動かしながら、果敢に攻めた。剣先で、相手の左小手を差すようにして、少しずつ距離を詰めていく。正直な話、上段の選手と戦うのは、やっと最近慣れてきたところだ。一年生の夏から、構え方を上段に変更した雑賀がいてくれるおかげで、対上段の稽古は日常的だったが、彼が冬に突然、部活を休むようになってからは満足にできなくなった。普段の稽古メニューの中に、元立ちが上段で構える、対上段の技稽古はあったが、それは実戦とはほど遠いもの。それ以外には、週に一度、道場で上段構えの先生に稽古をつけてもらうしかなかった。だが、夏前にケガで休んでいた毛利とともに、雑賀が復帰してからは、再び実戦に近い対上段の稽古ができるようになっていた。
慣らし試合になるほど、おれは弱くないぞ……。この先へは、絶対に行かせない。
織田の話によれば、大友は去年まで――いや、もっといえば、先の公式戦でも中段構えだったようだ。だが、彼は密かに、上段の稽古をしているのではないか、という噂があったらしい。なんでも、錬成会前のアップ時だけ、彼は上段で稽古をしていたというのだ。羽柴は、控え場所で織田にそれを聞いたとき、本当に驚いた。
フツウ、上段に変えるときってのは、そんなに段階を踏むものじゃないんだと思ってたけど……。
大友は上段の構えを使うようになるまで、おそらくは、ある程度の時間をかけていたのだ。はじめはトレーニングと稽古だけ。それを少しずつ広げていき、最初に錬成会で解禁したのち、地方大会で解禁。最終的には、来年の公式戦に照準を合わせてくる――といったところだろうか。それにしたって、二年生の夏から上段へ変更するなんて、ちょっと変わっている。
雑賀だって、一年生からもう上げてたよな。なんでそんなに時間かけてたんだ……?実戦は多い方が強くなるはずなのに……。
それが九星学院の顧問のやり方だったのか、ほかになにか事情があったのかはわからない。ただし、はっきりしている。今、大友は上段で構えているということ。そして、この大友を引き分けで抑えるか、あるいは一本を取って勝たなければ、大将同士の戦いになるということ。
どのみち、おれはこの人を止めなきゃならない。じゃなきゃ、またイチ先輩に頼ることになる……。それじゃだめだ……。おれはこの遠征が終わったら、主将……。もう誰にも、頼れなくなるんだから……!
ここまでの戦況は、航と毛利の勝ち点や、将鷹が引き分けで抑えてくれたおかげで、市立船戸高校が一歩リードした状態にある。羽柴の相手、大友は大将。彼を抑えれば、市立船戸高校は優勝候補である九星学院に勝利する。だから、無理に勝とうとする必要はない。引き分ければいいだけだ。実際、織田にも言われている。「無理はするなよ」と。だが――。
無理はしなくていい。引き分けでいい。言葉にすれば、今、羽柴に課せられている役目はいたってシンプルで、容易く聞こえる。しかし、それは実際にはシンプルでもカンタンでもなく、たぶん、奇跡に近い。おそらく、この会場にいるほとんどの人も、この状況を想定していなかったはずだ。今、観客はみな、困惑すらしているのではないだろうか。まさか、あんな名前も聞いたことないような高校が、このまま九星学院に勝ってしまうのか――と。少なくとも、そう羽柴には見えていた。だが、その中で、ひとつ下の後輩の航は、先鋒として立花と戦い、勝ったのだ。
航、お前は……、本当に強いんだな……。あの立花と互角に戦って、二本も取ったなんて……。
羽柴は、航の強さと同時に、自らの弱さを痛感していた。もし自分が彼だったら、同じように活躍ができただろうか。羽柴には、想像もできなかった。優勝候補と期待された高校の、エースともいえる立花。この試合まで、当然のように五人抜きをくり返している彼を、航は止めるどころか、二本勝ちを果たし、次鋒、宗像と引き分け、市立船戸高校の、勝利へ続く流れを作った。しかも本来、彼に合っているのは後衛だ。今回は前衛も前衛。先鋒という慣れないポジションで、レギュラーとしては初出場だったというのに。彼は、活躍した。
すごいよな……って、こんなときに、なにを劣等感に浸ってる。相手は、あの九星学院の大友なんだぞ。
羽柴は、大友の左小手を刺すようにして、なおも攻める。決して足を止めず、距離を少しずつ詰め、大友の動きを観察する。目線、手、足の動きと彼の反応に、瞬時で反応できるように、最大限にまで視界を広げる。
対上段での攻め方は、これが一般的。且つ、最も有効だ。通常の中段構えと比較すると、一見、ごくわずかな変化に見えるが、これによって上段からすれば、中段の面、小手が防御された状態になり、そこを打ちにくくなる。これが、平正眼の構え。上段の選手と戦うときの、最もポピュラーで、効率性のいい必勝法だ。
大友は、果敢に攻める羽柴の脳天に、じっと狙いを定めるかのように、竹刀を振りかざした状態でじりじりと攻めてくる。羽柴もまた攻め、距離がだんだんと近づいていった。
もうあと少しで、届く……!
羽柴はダンッ、と足を踏み鳴らしたあと、半歩入る。その瞬間、大友の左小手が、ほんのわずかに動く。羽柴はひと呼吸待ってから、左小手めがけて飛び込んだ。
今だ――……ッ!
「小手ぇぇええッ!」
手をめいっぱい伸ばしたが、当たった感触はない。羽柴はしっかりと距離を取ってから、再び大友の左小手に剣先を向け、足を止めずにすぐさま攻めた。大友は、まるで猛禽類が小動物を狙うかのように、じっと羽柴を目で追って距離を詰めてくる。静かに、音もなく。だが、たしかに迫ってくる。その凄まじい威圧感といったらなかった。
ちゃんと距離をとっているのに。なんつープレッシャーだ……。
彼は、今にも竹刀を振り下ろしてきそうな雰囲気だ。だが、怖気づいている場合ではない。羽柴は足を止めず、続けて攻めた。まずは、左小手を狙われる恐怖を大友に感じさせること。そして、そこに意識を向けさせ、彼の体勢を崩し、隙を作り、打ち込むこと。
それができなければ、おそらく羽柴は打たれる。彼を相手にして、四分間もこの狭い試合場の中で逃げきれるわけがない。
そうだ……。引き分け狙ったって、無事に逃げきれるような相手じゃない。おれと大友じゃ、実力も、経験も違う……。でも、だからこそ、攻めて一本を狙いに行かないとだめだ……!
「小手ぇぇええッ!」
「……面りゃあああッ!」
「おおッ!」
「いいとこ!」
抜き面を狙われ、咄嗟に頭を竹刀で防ぐ。そのまま、近間になりかけたところを、羽柴は慌てて距離を詰め、鍔迫り合いに入った。その瞬間、全身をぶつけるようにして、大友の体をいなす。だが、それも難なく防がれてしまった。
くそ、だめか――……。だったら、もう一度挑むまで……!
再び間合いの攻防になって、果敢に攻める。素早く足を動かし、左小手を狙う。距離の詰め方も、テンポも、パターンが単調にならないように注意しながら、視界を最大限に広げていき、さらに攻めていく。
集中だ、集中……! 相手は大友。あの九星学院の大将で主将で、去年の玉竜旗で三位入賞したメンバーのひとり。だけど……! この人はおれと同い年で、おれと同じ、高校二年生なんだ……!
羽柴は、自分に必死にそう言い聞かせた。大友は強い。もしかしたら、これまで市立船戸高校の壁となって立ちはだかってきた、あの兜山高校よりも強いかもしれない。だが、人間だ。羽柴と同じ、高校二年生。鬼でもなければ、バケモノでもない。それに、全国レベルの大会へ行けば、このレベルの選手しかいない。その選手と戦って勝たなければ、勝ち抜きトーナメントだろうが、リーグ戦だろうが、上へは進めない。
ここを抑えられないで、大友を止められないで……。なにが次期主将だ……!
羽柴は、左小手を集中的に狙いながら、ひたすらに大友の隙を探す。打ったあとは近間にはならないよう、しっかり距離を取り、動きにはメリハリをつける。そうしなければ、もれなくこの脳天めがけて、大友の片手面が振り下ろされるからだ。
しかし、大友の体勢はまるで大きな岩のように、崩れるどころか、びくともしなかった。とはいえ、そんなに彼は大柄というわけでもない。大友の背丈は羽柴と同じくらいだ。体つきも、筋肉質ではあるが、それだってさほど差は感じなかった。それなのに、どうしてこんなにもどっしりと、重く、大きく感じるのだろう。彼はやはり、九州の強者なだけあって、体の鍛え方もレベル違いだということだろうか。
おれの攻め方が甘いのか……。でも、上段相手に、あまり近すぎ過ぎると危ないしな……。
このまま、時間だけ過ぎ去ってくれるのなら、それでもいいのかもしれない。実際に、刻々と時間は過ぎている。少なくとも、もう半分くらいは費やしているはずだが、しかし、大友がこのまま、羽柴との試合を引き分けで終えてもしかたない、と思っているはずはなかった。どんなに逃げ回って、時間稼ぎをしても、逃げられない。彼が、逃がしてくれるはずがない。そもそも、上段の構えは火の戦法。攻めに特化した構えなのだから。
一本を取りに行かなきゃ、取られる……。攻め方のテンポを上げていこう。大友の体勢を崩すにはそれしかない――……。
羽柴は、攻めるスピードをさらに上げて、左小手を狙う。すると、さっきよりも少しだけ、大友の構えがブレたように見えた。羽柴はこれを逃さず、ダンッ、と足を踏み鳴らし、タイミングを計り、大友の左小手を目がけて、再び飛んだ。
「小手だぁああッ!」
「おおっ!」
「いいとこー!」
よし……。いい感じだ……!
飛び込んだ一瞬、大友が後方へ引き、技を避けた。かすかに当たった感触があったが、わずかに浅い。惜しくはあったが、これだけ攻めて、タイミングを見て、精一杯飛んで、まだ浅いということは、もっと距離を飛ぶか、近くまで入り込まなければならない、ということだ。残心をとり、距離を取りながら、羽柴はすぐに体勢を戻す。
おれはこれ以上、距離を伸ばして飛べない。かといって、近くに入り込めば一本を取られる。
ただし、ここまで執拗に左小手を狙われて、今、そこに注意が向かないわけもない。大友は変わらず攻め続けてくるが、おそらく次に羽柴が飛んだとき、彼はきっと後方へ引くはずだ。そして、一度後方へ体を引けば、それは必ず戻ろうとする。羽柴はそう推測した。
今なら、後方へ引いた瞬間を狙えるかもしれない……!
羽柴は再び、大友に向かって構えた。剣先を彼の左小手へ向け、狙いを定め、足を使って攻める。次第にテンポを速め、間合いを詰めていく。大友は静かに諸手を掲げ、構え直した。そうして、羽柴を威圧し、着実に近づいてくる。羽柴は、まだやや遠い間合いから、一歩大きく入り込み、ぐっと体を沈み込ませた。その瞬間、大友はわずかに上段の構えを崩し、左小手を後方へ引く。
ここだ……! 引いた体が元に戻る瞬間。そこを狙えば、確実に左小手に届く――!
「……小手ぇぇえええっ!」
「メンりゃあああーーーッ!」
だが、飛び込んだ瞬間、脳天に雷が落ちたような衝撃があった。羽柴は目を見開き、振り返る。大友は、片手で竹刀を掲げ、残心を取っていた。目の前では、赤い旗が三つ。一斉に上がった。
「面あり!」
「おおぉ―ッ!」
「いいとこ!」
「もう一本!」
片手面……。まさか、合わせられたのか……?
一本を取られたとわかった途端、やけに呼吸が浅くなった。羽柴は開始線へ戻りながら、頭の中を整理し、必死に巡らせる。死ぬほど悔しいが、今は感情的になっている場合じゃない。気持ちを切り替えて、一本を取り返さなければ、このまま負けてしまう。
そうしたら、また……、おれは、イチ先輩に頼ることになる……。あの人なら、大友に勝てるかもしれない。だけど……。
――よくやったな、羽柴。あとは任せろ。
だけど、いつまで……、いつまで、そう言わせるんだ……!
羽柴はかぶりを振った。これでは、大友に本当に慣らし試合をさせてしまう。大歓声の中、羽柴は開始線へ戻り、構えた。残り時間は一分あるか、ないかだ。この試合で市立船戸高校を勝利へ導くには、なんとしても羽柴は、残り時間内に大友から一本を取り返さなければならない。
立て続けに狙って、意識させた左小手が引けば、また元の位置に必ず戻る。その瞬間を狙うのは、上段使いと戦うときのセオリーといってもいい。だが、大友はまさにその瞬間を狙っていたのだ。
本来であれば、上段使いは左小手への攻撃を嫌がり、怯むものなのに、それを逆手にとり、飛び込んだ羽柴の動きに合わせて、片手面を打ち込んできた。振り下ろすそのスピードが、どれだけ速かったかを、羽柴は思い知らされる。
セオリー通りにはいかないってことか……。だったらおれは、もっと突飛な策で、安定を取り払って、リスクを負うくらいじゃなきゃ、大友から一本を返せないってことだな!
「二本目!」
「うらぁああああッ!」
「せぇえりゃあああッ!」
二本目が始まった。羽柴は構えを右に開き、剣先を左小手へ向ける。そうして、すぐに一歩大きく前へ出た。
「小手ぇぇええッ!」
「面りゃあああッ!」
左小手を打ち、すぐさま懐に入る。鍔迫り合いになった瞬間、大友の体を強くいなした。だが、重い。とてつもなく重い岩を無理やり動かすような感覚に、羽柴は打とうとした引き技を、一度ためらったが、フェイントを使い、もう一度いなす。だが、今度は逆にいなされた。
「小手ぇえええっ!」
「おおっ!」
大友は引き小手を打ち、残心をとった。羽柴は、そこをすぐさま追う。近間では、上段使いの選手も、中段の構えで戦うことになる。上段相手に一本を取るよりも、中段で打ち合ったほうが、まだ可能性があるかもしれない。羽柴は、剣先が一足一刀よりも近い距離で交わり合ったところまで入り、思いきり飛び込んだ。
「面だぁあああッ!」
「面りゃあ……ッ!」
「おぉっ!」
相面になり、互いに残心を取る。視界の隅で、赤い旗が上がったのが見え、途端にヒヤリとさせられるが、主審ともうひとりの副審は旗を下げたまま、左右に旗を振っていた。羽柴はひとまず安堵する。そうして、大友に向かい、構え直した。すでに大友との距離は遠間よりも離れ、彼は再び上段の構えで羽柴に近づいてくる。
今の相面……、大友より遅れたような感覚は、おれにはなかった。相打ちになったか……。
わかってはいたが、旗はそうカンタンには上がらない。地区予選でなら、上がっていたかもしれない技も、この試合では打って変わって重くなる。どこの誰がどう見ても一本でなければ、たぶん、認めてもらえない。市立船戸高校は、無名のチームだから余計だろう。
誰が見ても納得の一本……、絶対にとってやる。
間合いは一度離れ、仕切り直しとなった。羽柴は再び平正眼の構えで、果敢に大友を攻める。中段同士の試合のときよりも、攻めのテンポが圧倒的に速いせいで、運動量も増えるため、いつも以上に体力を消耗しているが、息を整えているヒマなどない。
おれには、航やマサ先輩みたいな面は打てない……。イチ先輩みたいな引き面も、毛利先輩みたいな小手や胴も。自信があるのは、軸の安定くらいだ。必殺技なんかない……。でも……!
「うらぁあああッ!」
だから、この人に勝てないと、負けると……、そう決まったわけじゃない……!
気合いを入れ、声を張り上げた。だが、目の前にいる大友の威圧感に、たちまちぞわっとさせられる。大友の威圧感、気合い――……いわば、それは覇気のようなものだろうか。とはいえ、残り時間もわずか数十秒。ここでなんとしても一本を返さなければ、ここまで前衛が必死に保ってきた有利なペースが、水の泡だ。
羽柴は、剣先を左小手へ向け、足を動かして果敢に攻めながら、最後のチャンスに望みを懸けて、一歩、前へ出る。そうして、ダンッ、と足を踏み鳴らすと、もう一歩、大きく前へ出て、右に振りかぶった。
「……胴ォオオーーーッ!」
「面――ッ!」
羽柴は一瞬で大友の腹を、右上から斜めに打ち抜いた。その瞬間、パァンッ! と、乾いた音が鳴り響く。直後、大友の片手面が振り下ろされ、脳天にずしん、と衝撃が乗ったが、問題はない。羽柴は先に逆胴を打っている。
よっしゃあ、一本――……!
「おおーーーっ!」
「いいとこ!」
「胴! 胴だ!」
「胴!」
航たちの声が聞こえる。一本を返したと確信するも、やけに大きく聞こえる歓声には、妙な違和感を覚えた。羽柴は審判を確認しようと、振り返る。だが――……。
上がって――……ない……。
副審のひとりは、白い旗を上げている。だが、主審と、もうひとりの副審は旗を下ろしたまま、左右に振っていた。逆胴は無効だということだ。絶望感に襲われ、羽柴は途端に思考が止まったが、大友はもう攻めてきている。
まずい……っ!
「小手やぁああっ!」
「面――ッ!」
大友は、やや強引に片手小手を打つ。だが、拳だ。羽柴は接触する瞬間、慌てて引き面を打ち、距離を取った。だが、近すぎたせいか、有効部分には当たらない。それでもなんとか遠間まで大友を遠ざけ、構える。もう時間がない。あと一回、飛び込めるかどうかも怪しい。
これがたぶん、最後のチャンスだ……!
羽柴は再び、平正眼の構えで攻める。大友の左小手に剣先を向ける。テンポを一気に速めていく。だが、やはり大友の体勢はほとんど崩れなかった。このまま飛び込んでいって、一本を取れるようには思えない。それでも確信している。ここで、もし、まごついてなにもしなかったら。きっと、一生後悔する。
これは公式試合じゃないし、この試合が終わっても、おれはまた、次の大会も遠征もある。来年、また夏がくる。でも……、あの人たちは……。
脳裏には、毛利、将鷹、市鷹の顔が浮かんだ。中三の春休みから、今まで。必殺技もなく、なにも取り柄のない剣道だと、どこか劣等感を感じていた羽柴を、ときにやさしく、ときに厳しく導いてくれた頼もしい背中。どんな試合をしても、「あとは任せろ」と言ってくれる声。この遠征が終われば、もう彼らはいなくなる。
あの人たちと一緒に戦えるのは……、この大会が最後なんだ……! しっかりしろ、おれ……!
これまで以上に素早く、鋭く攻め、テンポを速め、一歩入り込んだ。その時。わずかに大友の左小手が怯んだように見えた。いや、見間違いだったかもしれない。ただ、彼が待っているのだけは、わかった。羽柴が飛んでくるのを、待っていることだけは。羽柴の全身の意識が、大友に集中する。
時間制限が迫っている中で、合わせの片手面が飛んでくる可能性は少ない。この試合でリードはしていても、今、崖っぷちにいるのは、羽柴ではなく、大友。彼がここで一本を守りきり、さらにこの後の試合で、市鷹に勝たなければ、彼はチームを守れないからだ。
おそらくだが、大友はなるべくリスクを負わずに対処できる技を考えているだろう。そして、ここで上げたばっかりの上段使いが、リスクを負わずに対処できる技は――限られている。
大友は、おれが打ってくるのを待ってる――……。たぶん、出てきたところを、打つ気だ。だったら……、そこを逆に利用するしかない……!
羽柴はそう予測して、タイミングをわずかに待ってから数歩、攻めた。その時、大友の左小手はわずかに後方へ動く。羽柴はその瞬間を狙って、左小手目がけて思いきり飛び込み、手を伸ばして打ち込んだ。直後、剣先は大友の左小手を捉え、その感触が手元に響き、バグッと鈍い音がする。全身にはぶわぁっと鳥肌が立った。
届いた――……!
「小手ぇぇえッ! 小手だぁあああッ!」
「おおーっ!」
「いいとこーッ!」
だが、同時に――いや、もしかしたら、少しだけ早く。高いブザー音が鳴り響いていた。羽柴は、その音を無視して残心を取る。竹刀を握るこの手に、大友の左小手を打った感触が、たしかにあったからだ。これを一本に決めれば、この勝負は引き分け。市立船戸高校の勝利が確定する。しかし、次の瞬間。羽柴は無慈悲にも、現実に引き戻された。
「やめ!」
主審の声が響き、羽柴は動きを止めた。歓声と拍手が湧く。自チームの控え場所に目をやれば、彼らの雰囲気と表情で、悟るしかなくなった。
間に合わなかった……。
奥歯を噛みしめ、呼吸の苦しさを思い出しながら、静かに開始線へ戻る。すでに大友は開始線で中段に構え、羽柴を待っていた。開始線へ戻って構えると、主審がゆっくりと赤い旗を上げる。
自分が情けない……。おれは……、また、なにもできなかったんだな……。
「勝負あり!」
蹲踞をして、竹刀をおさめ、後方へ下がる。すると、下がったところで、ぽん、と肩を叩かれた。安堵感をくれる、馴染みの感触だった。
「よくやったな。羽柴」
「イチ先輩、すみませ――……」
「あとは、任せろ」
すれ違いに試合場へ入っていく背中が、羽柴の言葉を遮るようにして、そう言った。羽柴は試合場の外でその背中に一礼する。悔しくてたまらず、もう今にも叫び出しそうになるのを必死でこらえる。だが、控え場所に戻る途中、こらえていたはずの声が零れた。
「すみません……、あと、お願いします……!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
よろしければ、続きをお楽しみいただけると幸いです。
いなば海羽丸




