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30【玉竜旗大会二回戦・白波高校】~朝比奈航~

玉竜旗大会、二回戦。白波高校、先鋒、次鋒と戦う航のお話。

航視点でお送りします。

「うらぁぁあああッ!」

「ぃやぁぁさぁあッ!」


 主審の声が聞こえたのと同時に、航は立ち上がった。気合いの声をめいっぱい出して、相手を威嚇(いかく)し、すぐに一歩、前へ出て攻める。対する安田は、(せわ)しなく足を動かしては、少しずつ間合いを詰めていた。毛利の話にあった通り、安田はいかにもトップバッターらしいタイプで、その攻め方は鬱陶(うっとう)しいほどに勢いがある。すぐに間合いは一足一刀まで近づいた。すると途端に、安田が動く。


「小手っ、面やぁあッ!」

「おおっ!」


 航は竹刀で安田の技を受け、鍔迫(つばぜ)り合いに入った。少々、大げさな歓声とともに、拍手が鳴り響いている。当たるどころか、かすりもしていない技だったのに、応援がやけに騒がしいが、こういう学校は少なくない。県大会以上のレベルが集まると、応援の声は自然とにぎやかになるものだった。大事なのは、それに影響されないことだ。

 航はまだまだ鳴り響く拍手を、ひとまずは大人しくさせてやろうと、安田の体を強くいなした。


 ここだ……!


「……っ小手ぇぇえっ!」

「おおっ!」


 いなした瞬間、わずかに上がった手元を狙い、引き際に小手を打った。航はそのまま、勢いよく残心を取って下がる。拍手は止み、代わりに自チームのみんなが拍手をくれる。航の引き小手はわずかに外れ、拳に当たっていたので、一本にはならなかったが、航は口角を上げた。


 好感触だ。すぐ反応してくれた……。


 ひとつの反応だけでも、それは有益な情報だ。そこから、複数の作戦が練られるし、技の組み立てを考えられる。手元が上がりやすいのであれば、小手はもちろん、胴も狙いやすい。剣先が逸れるので、相面になっても有利だ。

 一方で安田は、余裕などわずかにも与えたくないと言わんばかりに、追いかけ、迫ってくる。航は体勢を直して構え、近づいてくる安田の攻めに備えた。仕切り直しだ。


 よし。まずは一本……! 


「航、ファイト!」


 不意に、毛利の声が聞こえた。同時に航は、試合直前の、彼の言葉を思い出す。


 ――お前の流れで、おれに繋いでくれ!


 左手を、ぎゅっと握り直した。白波高校との因縁を聞いて、自分に課せられた役目を理解して、つい興奮して一気にギアが上がってしまいそうになるが、ここはほどほどに自重して、確実に流れを作りたいところだ。航はじっと安田を見つめ、剣先に意識を集中させた。


 来い……。


「ぃいやぁさぁぁあああッ!」


 安田は気迫たっぷりに声を出し、威嚇(いかく)してくる。だが、航は無言のまま、まだ遠間にいる彼を見据(みす)え、足を一歩、二歩、前へ運んだ。ふたつの剣先が触れそうになって、思わずごくりと生唾を飲む。もうすぐ、もうすぐだ。もうあと、ほんのわずかでも距離が近づけば、航の大得意な間合いになる。通常、この間合いはまだ遠間で、比較的、安全だと判断されることが多い。技を出すにはまだ、やや遠く感じるのだ。しかし、航にとっては十分な射程距離になる。


 ここまでくれば、届く……!


 航は、歩幅を慎重に整えて、半歩。右足を前に出した。ところが、今、まさに技を仕掛けようとした、次の瞬間。


「……っ手ぇッ!」

「おおっ!」


 まだ一足一刀の間合いになるか、ならないか。際どい距離で、安田が打ってきた。しかも、また小手だ。航は(まゆ)をしかめ、再び鍔迫(つばぜ)り合いに入る。


 完全に狙われてるみたいだな……。


 今のはどう見ても、(しび)れを切らして、思わず技を出してしまったように、航には見えた。おそらく出鼻の小手を狙っていたところ、タイミングが合わなかったか、(こら)えが利かなくなったのだろう。それにしても、彼はよほど、出小手に自信があるようだ。


 もう打ちたくって、しょうがないって感じだな……。


 航は鍔迫(つばぜ)り合いから、安田を再びいなしてみる。すると、また。手元がわずかに上がって、航はすかさず引き小手を打った。ところが――。


「小手ぇぇえええっ!」

「……面やぁあああっ!」

「おぉーっ! いいとこ!」


 航の引き小手に合わせて、安田が引き面を打った。おそらく、打つ瞬間を狙われ、合わせられたのだろう。航は残心を取りながら、審判を確認する。三人の審判は旗を下げたまま、左右に振っていた。今の技は無効だ。航はホッとして、安田に向かって構え直し、再び距離を詰めていく。もっとも、今、航が打った引き小手は拳、また、安田の引き面も、航の面金(めんがね)をかすった程度だったので、まさか、一本にはならないはずだが、タイミングと音、審判の位置によっては、運悪く旗が上がってしまうこともある。


 今の……、タイミングだけ見れば、安田さんのほうが優勢な感じだった……。相手がイチ先輩だったら、完璧に打たれてたかもな……。


 航は気を引き締め直し、安田に近づき、攻める。白波高校の拍手と歓声が湧く中、そのまま一足一刀まで入り込んだ。しかし、航が動くよりも早く、安田は打ち込んでくる。


「小手ぇッ、面りゃぁっ!」

「……面ッ、小手ぇぇええっ!」

 

 近間で打ち合ったあと、航が引き小手を打ち、安田と距離を取る。打った瞬間、ガシャン、と音がしたから、当たったのは鍔元(つばもと)だろう。安田は残心をとる航を逃さないとばかりに追ってくる。航は、素早く構え直した。


 技の展開ペースがどんどん速くなってる……。先鋒ならではって感じだけど、この人のペースは特に速く感じる。……嫌だな。


「ぃいやさぁぁああッ!」


 安田が気迫たっぷりに声を上げる。剣先を小刻みに震わせ、もう彼は今にも打ち込んできそうな雰囲気がある。航はその剣先を払い、中心を取ろうと試みるが、安田はそうやすやすと思い通りにはなってくれない。だが。


 間合いでの勝負なら、俺は負けない……。安田(このひと)を、自分の間合いに誘い込めば。絶対に負けない。その自信がある……!


 航は勢いをつけて向かってくる安田をじっと見つめ、静かに足を前へ運んだ。遠間にいた安田はすぐに攻め始め、あっという間に距離が近づく。動きはあいかわらず(せわ)しなく、剣先を震わせ、もう今にも打ち込んできそうな雰囲気だ。だが、おそらく彼は待っている。航はやはり黙ったまま、剣先に意識を集中させ、もう一度タイミングを探った。


 カンだけど、安田さんが得意な出小手を狙ってるとすれば、ここで面に出ていくのは、絶対に危ないよな……。


 出小手に対処した技を出すなら、小手面か、小手返し面か、あるいは抜き面がいい。その三つなら、航は自信を持って打ち込める。だが今、果敢に攻める安田を前に、なんともいえない違和感に襲われていた。


 でも、それはなにか違ってる。そんな気がする……。


 そうして、気付かされる。この思考は、今日で二度目だ。さっき、日野原高校の真崎と戦った一本目、航は打たれてしまった。航は相小手面、真崎は面。そのときと今は、酷似している。あのときも、航は面を警戒されていると感じて、出小手に対処する技を選んでいた。打たれないために、そうしていた。だが――。


 だめだ。それじゃあ、また打たれる……。いや、技だけ変えたって、打たれる可能性なんてのは、いつだってあるんだ。それを確かなものにしていくための、間合いじゃないか……。


 ――お前の流れで、おれに繋いでくれ……!


 航は毛利の言葉をもう一度、思い出し、静かに深く、呼吸をした。面打ちを得意とする剣士にとって、出小手を狙われるのはもちろん、それを得意とする剣士と戦うのは、怖い。無理に勝負をしなくても、対処する技の選択だけ考えて、無難に一本を取れるなら、その方がずっと楽だと思う。 

 だが、勝負をするとき、どんなに対策を練ったとしても、打たれない可能性をゼロにすることはできないのだ。タイミングを合わせて、相手を予想して技を出したって、予想が外れていれば、打たれるかもしれない。さっきの試合がいい例だった。その予想の精度を上げるには、やはり、相手の状況と間合いを観察するしかないわけだ。


 一回戦で当たった、日野原高校の真崎との試合。俺は自分の間合いを作れていなかった。相手の攻めに合わせて、なにを打ったらいいか、技の選択肢ばっかり気にしてた。……だから、打たれた。でも、今度は……!

  

 迷わずに真っすぐ、安田と勝負がしてみたい。自分の一番、得意な技で。相手が誰だろうと、出小手が得意だろうと、関係ない。勝つのは、技の勢いと強さが優れていて、且つ自分で作った、最高の間合いを作れたほうに決まっている。


 ……そうだ。最高の間合い取りと、最高の面で作った一本。それが、俺の作る、一番いい流れだ!


 航は覚悟を決める。すでに間合いは一足一刀だ。剣先で中心を取ると、安田がダンッ、と床を踏み鳴らし、威嚇(いかく)した。そんなことで(ひる)む航ではないが、この間合いでは近すぎる。航は一歩前に出て、そのまま素早く相手の(ふところ)に入り込むようにして近づき、鍔迫(つばぜ)り合いに入った。そうして、その瞬間、すぐにいなす。すると、安田は反射的に、防御の体勢を取ったが、さっきよりも(すき)ができた。展開のスピードを速めたせいだ。


 空いた……!


「面りゃあぁぁッ!」

「おおっ!」

「いいとこ!」 


 剣先はたしかに安田の面に当たった感触があるが、おそらくやや打突が浅かったのだろう。航は残心を取りながら、審判旗を確認した。三つの旗は、下げられたまま、左右に振られている。航は口角を上げる。


 大丈夫。……十分だ。


 ここは、安田とできるだけ距離を取っておきたい。安田は、ここが勝負とばかりに追ってきている。たぶん、彼は次の展開で、(こら)えきれずに、勝負をしかけてくるだろう。それを予感して、航は構え直し、重心を前に、体勢を整える。


 そろそろ、勝負したい……。そう思ってるのは、きっと俺だけじゃないよな……。俺の面と安田(あんた)の出小手で……、勝負だ!


 剣先が近づいてくる。距離はまだ遠い。航は大きく一歩入り、一瞬ぴたりと動きを止めた。すると、安田もまた動きを止め、右に振りかぶる。その瞬間、航は飛んだ。


「メンだぁあああッ!」


 左足を蹴ったあと、体はまるで飛び道具のように、安田に向かってすっ飛んでいく。ほんの一瞬、面金(めんがね)の奥の目と視線がぶつかった。直後か同時か。剣先が安田の面に深くめり込むような感触と鈍い音に、ゾクゾクと全身の肌が粟立ち、そのまま航の体は、安田の体にぶつかった。


「面あり!」

「……おぉーっ!」

「航、いいとこ!」


 主審の声と一緒に、歓声と拍手が聞こえた。航は脳天の上に上げていた両手を下げ、構え直して浅く頭を下げる。一方で、安田は呆然とこちらを見つめていた。


 出小手を狙われてたって、関係ない。対処技だって潰して、打ち抜ける。それが俺の差し面だ……!


「白波高校、安田くん。開始線に戻って」


 その場に立ち尽くしたまま、なかなか開始線に戻らなかった安田に、主審が声をかけた。安田はハッと我に返ったように、慌てて開始線に戻ってくる。航は、そんな彼をじっと見つめ、密かに安堵(あんど)していた。この試合は、ひとまず勝てそうだ、と。


 このままいけば、毛利先輩との約束通り、俺の流れで繋げられそうだ。


 だが、そう思った時。安田は面金(めんがね)の奥の瞳を細め、口角を上げた。


 笑ってる……? 


「二本目!」

「……うらぁぁあああッ!」

「ぃいやさぁぁあああッ!」


 見間違いだろうか、と思いながらも、主審の声で、航は頭を切り替えた。気迫たっぷりに声を上げれば、安田もまた負けじと声を上げる。互いに剣先で中心を取り合いながら、だんだんと距離を詰めていき、間合いはやがて、遠間から一足一刀の間へ一気に近づいた。安田は一本を取り返そうと躍起になっているのだろう。ダンッ、と床を踏み鳴らし、威嚇(いかく)しては、果敢に攻めてくる。


「小手ぇっ! 面やぁぁぁっ!」

「おおっ! いいとこ!」


 さらに攻撃のスピードを増した安田に翻弄(ほんろう)されないように、航は自分に何度も「落ち着け」と言い聞かせ、制御する。そうして、じっと安田を見つめ、二本目の作戦を練った。


 惑わされるなよ……。二本目は、焦らず、無理せず、だ……。


 一本を先取したあとは、無理にもう一本を取りに行く必要はない。攻めは最大の防御ともいうが、過度に二本勝ちを意識すれば、そこにはどうしても(すき)ができ、打たれやすくなる。せっかく取った一本が、あっという間に返されて、五分(ごぶ)になるのはもったいない。


「航、じっくり!」


 不意に浬の声が聞こえて、航は頬を(ゆる)める。彼と航は今、全く同じ思考だ。その事実が、こんなにも自信をくれる。この感覚も、作戦も、なにも間違っていない、大丈夫だと。そう迷いなく思える。


「うらぁぁあああッ!」

「ぃいやぁああさぁあああッ!」


 気合いを声に出せば、安田もそれに返すように声で威嚇(いかく)してきた。安田は一本を取り返そうと必死で、攻めるスピードを格段に上げている。航はそんな彼のペースに呑まれないように注意しながら、懸命に間合いを取った。


 勢いが、さっきと全然違う……。ちょっとでも気を抜けば、カンタンに取り返されそうだ……。


 一本目があまりに気持ちよく決まったものの、白波は強豪チーム。そして安田は、そのチームの先鋒だ。一本を先に取ったからといって、油断はできない。たぶん彼は、このまま守って、勝ち逃げできるような相手ではないのだ。


 このままじゃ、打たれるのも時間の問題かもしれない……。


 航は、さっき先取した一本の重みと、この試合で、二本勝ちする難しさを感じていた。このまま、防戦一方で逃げ切れるとは思えないし、安田は同じ技が二度、通用する相手でもない。つまり、航の戦い方としては一択だった。


 なんとか、この攻撃をかわして、地道に(すき)を狙っていくしかないけど……、同じテンションでやり合うのは危ないよな……。くそぉ、強い人ってはのは、ほんと厄介だ……。


「小手ッ、小手だぁああッ!」

「おおっ!」


 果敢に攻められるが、航は次々にその技を竹刀で防いだ。一本を先取された方は通常、取り返さなければ負けてしまうので、必死になって攻めてくるのは当然。だが、安田が打つたびに、どんどん大きくなっていく白波の応援は、航をひどく苛立(いらだ)たせた。ここは、彼の技のスピードに負けないように、連続技でも仕掛けてみたい気分になるが、しかし、それではおそらく、相手の思うツボだろう。


 だめだ、こらえないと。そう簡単に、五分(ごぶ)に戻されるわけにはいかない……。


 航は何度も何度も、自分に言い聞かせる。残り時間をたっぷり使って、自分のペースで戦えばいい。一本目よりも、さらにじっくり自分の間合いを作って、攻めればいい。たとえ、このまま時間切れになったとしても、航の一本勝ちで、次鋒との試合に進むことができるのだから。


 落ち着け……。落ち着け……。


 航は激しく攻める安田の竹刀を、懸命に払いのけながら、中心を取り返す。そうして、安田の動きをじっくりと観察した。だが。


「面りゃぁああッ!」

「……ッ!」


 だめだ……、全然、間合いを作れそうにない……。これじゃあ、まるで……、俺はかかり稽古を受けてる元立(もとだ)ちみたいだ……。


 航は防戦する一方になっていくのを感じながら、苛立(いらだ)ちを抑え、それでもなお、めげずに打つ機会を狙った。残り時間は、あと一分くらいだろうか。安田からしてみれば、一本取られた状況での残り一分は、決して十分な時間とはいえない。その焦りゆえか、安田の打ちには、やや(あら)さが見え始めた。


「胴ーーッ!」

「……っ!」


 ……ッてえ……っ!


 鍔迫(つばぜ)り合いから打った安田の胴打ちが大きく外れ、剣先は航の太ももにえぐるように当たった。(はかま)を穿いて、さらに垂れをつけているとはいえ、渾身の一撃が生身に当たれば、痛みは強烈だ。だが、航はこらえ、歯を食いしばる。今、安田にはだんだんと(すき)が見え始めているのだ。この流れを切りたくない。


 安田さんは明らかに焦ってきてる。もう少しこらえれば、絶対、チャンスを作れる――……!


 間合いは遠間。そこからじりじりと、一足一刀に近づく。互いに剣先で中心を取り合い、パンッ、パンッ、と竹刀を弾き合う。激しい攻防の中で、安田が荒く呼吸をしながら、ダンッと足で床を踏み鳴らした。しかし、航は動じない。ここで下がれば、その瞬間を狙われる。かといって、中途半端に打つのもまた危うい。


 仕掛けてみるか……。さっきの面で取った一本がまだ効いてたら、たぶん、反応してくれるはずだ――……。いや、でも待てよ……。


 体勢は互いに、整っている。一足一刀の間合いで、安田はなにか狙っているように、面金(めんがね)の奥からじっと航を見つめていた。この近さなら、安田の背丈であっても、技の選択はしやすいはずだ。今、面でも、小手でも、胴でも、彼は打ってくる可能性があった。航はぎゅっと左手を握り直す。


 ここはまだだ。まだ、選択肢が広すぎる……。


 不意に、安田が剣先を下げた。その瞬間、航はハッとして、前へ出る。なぜか、妙な違和感を覚えたのだ。


 なんだ……、今の感じ……。小手を狙ったみたいだったけど……。


 咄嗟(とっさ)に前へ出て素早く近づき、距離を詰め、そのまま鍔迫(つばぜ)り合いに入る。違和感を感じはしたものの、振りかぶり方から察するに、おそらく、彼は小手狙いだったのだろう。


 もう残り時間も少ないしな……。得意技の出小手を狙ってくるのは当然か……。


「面やぁああッ!」


 安田が引き面を打って、下がる。航はそれを竹刀で防ぎ、残心を取る安田をすぐに追った。一時的に距離はできたものの、間合いはあっという間に遠間まで近づく。勝負のタイミングを察して、ドクン……と、心臓が高鳴る。


 ここ、来るな……。


 ゆっくりと、二つの剣先が近づいて、交わるところで止まった。その瞬間。安田の剣先が再び下がる。


 やっぱり、出小手……! だけど、この間合いなら、有利なのはこっちだ……!


 勝利の予感に、ぶわっと全身が粟立(あわだ)つ。その感覚に背中を押されるように、航は左足を蹴って飛んだ。


「メンだぁぁああッ!」

「面やぁあッ!」


 直後、手には確かに衝撃が伝わってくる。剣先が、安田の面を深く打ち抜いたのだ。同時に(にぶ)い音がした。航は確信する。この打突なら一本だ。得意な差し面で、二本勝ち。だが、航の脳天には、同時に衝撃が乗っていた。


 面を打たれた……!


「面あり!」


 主審が白い旗を上げている。二人の副審は、一人が赤。もう一人が白だ。それを見た途端、サアッと血の気が引いた。汗ばんだ体が一気に冷たくなっていく。白い旗が上げられたということは、つまり、この一本は白波高校の安田に上がったということになる。


 打たれた……? いや、面だったとしても、今のは俺の方が速かったはずだ……。


 歓声とどよめきが合わさって、織田が不満げに立ち上がった。だが、主審はすぐに白い旗を下げ、赤い旗を上げ直す。どうやら主審が旗を上げ間違ったようだ。航はホッと安堵(あんど)して、開始線に戻る。一方で、安田は悔しそうに天を仰いでから、力なく肩を落とし、同じく開始線まで戻ってきた。


「勝負あり!」


 航はドキドキと高鳴る心臓をそのままに、蹲踞(そんきょ)をして、一度、試合場の端まで下がる。向かい合った安田と息を合わせて一礼をする。安田が試合場を出ていく。それを見送った途端に、安堵(あんど)するあまり、深く息を吐いた。まずは白波高校の先鋒に勝った。これで次鋒に進める。だが――。


 面だった……。絶対、小手が来ると思ったのに……。しかも今、安田さん、たぶん……、裏から打ってきた気がする……。


「航、グッジョブ!」


 背後から明るい声がして、航はハッと我に返る。振り返ると、そこには毛利がいて、嬉しそうに目を細めていた。


「毛利先輩……」

「航らしい試合だったな。さすがじゃんか」

「はぁ……、あの……」

「ほらほら。次の相手がお待ちかねだぞ」


 そう言われて、試合場の方へ向き直ると、白線の外には、すでに次鋒が立っていた。


古川(ふるかわ)か……。あいつって、一年だっけか」

「たしか、そうだった……と思います」


 航は、対白波高校戦が始まる前に見た、大会パンフレットを思い出し、答えた。白波高校のレギュラーは、安田、妻木、石森が二年。古川が一年。それから、溝尾と藤田が三年生と記載されていた。


「ふうん……。まぁ、一年だろうが、二年だろうが、お前らしく戦ってくればいい。次も勝ってこいよ。スーパールーキー!」

「いっ……て!」


 毛利にバシッ! と背中を叩かれて、航はジトっとした目で毛利を(にら)み、姿勢を正して向き直った。ほどなくして、白波高校の次鋒、古川が、試合場の白線の内側に入ってくると、航は彼と呼吸を合わせ、一礼をする。そうして、ゆっくりと蹲踞(そんきょ)をした。


 次鋒、古川……。一年だとしたら、ここは穴か。


「はじめぇッ!」

「うらぁぁあああッ!」

「やぁああさぁあああッ!」


 二回戦、市立船戸高校の先鋒対、白波高校の次鋒の試合が始まった。航はまだ高鳴る胸をそのままに、遠間から攻める。古川は細身で長身の選手だ。長身といっても、航よりは低い。おそらく、百七十五センチ以上、百八十センチ未満といったところだろう。一年ということもあってか、彼は先鋒、安田に比べると、ずいぶんと華奢(きゃしゃ)な印象で、筋肉質というよりも、全体的に骨ばった感じだった。


「やぁぁさぁあああッ!」


 古川もまた、ダンッと足で床を踏み鳴らし、威嚇(いかく)しながら攻めてくる。遠間からなにか仕掛ける様子はないようで、間合いはすぐに一足一刀まで近づいた。ところが、剣先が何度か触れ合ったあと、不意に航の竹刀は、剣先でパンッと弾かれた。次の瞬間。


「面やあッ!」

「おおっ!」


 古川が面を打ち込んでくる。航はそれを竹刀で受け、鍔迫(つばぜ)り合いに入った。拍手がなかなか鳴り止まない。白波高校の応援はあいかわらずで、技が惜しくてもそうでなくても、当然のように歓声を上げる。まるで、それが一本だとアピールするような感じだ。


 最初はかなり鬱陶(うっとう)しかったけど、さすがに慣れてきたな……。


 古川との最初の鍔迫(つばぜ)り合い。航はじっと面金の奥の瞳を見た。古川に関しては、一年ということもあり、情報が圧倒的に少ない。市鷹や将鷹、毛利も、彼がどんな剣道をするのか知らなかった。


 鍔迫(つばぜ)り合いは、普通って感じだけど……、崩せるかな……。いなしてみるか……。


 ひとまずは、反応を見たいところだ。しかし、航がそう思ったとき。ほぼ同時に、古川の呼吸音がわずかに聞こえた気がした。途端に、全身の肌が粟立(あわだ)つ。これはチャンスだ。


 もらった……!


 航の体は、意思よりも速く反応し、動いていた。古川の体をいなし、振りかぶる。すると、古川は大きく体勢を崩した。航はがら空きになった古川の面を、脳天めがけて振り下ろす。


「……メンりゃぁあああああッ!」

「おおーッ!」

「いいとこぉーっ!」


 バグンッ、という鈍い音が響き、赤い審判旗が三つ、一斉に上がる。焦った表情で、古川が追ってくる。剣先から一瞬で手指に伝わってくる衝撃と、自チームの歓声が気持ちいい。古川は航を追ってくるのをやめ、首を傾げていた。間違いない。航の引き面が一本になったのだ。


 よし……!


「面あり!」

「航、いいとこ!」


 歓声に混じって、浬の声が聞こえた。航が振り向き、小さく頷くと、浬は手元でこっそりと、親指を立てて見せてくれる。航は頬を緩め、開始線へ戻り、しっかりと構えて古川を待った。


 やがて、とぼとぼと古川が開始線まで戻ってきて、航と向かい合い、構える。面金(めんがね)の間から見えている目はすっかりしょぼくれていた。その表情で、航は確信する。


 この試合も、いける……!


「二本目!」

「せぇぇやぁああああッ!」

「うらぁぁあああッ!」

「小手ぇッ、面やぁッ!」

「おおっ!」


 二本目。古川はすぐに間合いを詰め、打ってきた。航は古川の技を竹刀で防ぎ、そのまま、鍔迫(つばぜ)り合いになる。そうして、さっきと同じように古川の体勢をいなし、崩そうとした。だが、さっき引き面で一本を取られたばかりで、さすがに警戒しているのだろう。二度、同じ技では打たれまいとばかりに、古川は面と小手を防ぐ格好になって航の打ちをかわすと、そのまま素早く離れた。


 まぁ、そりゃそうだよな。同じ手はさすがに通じないか……。


 さっき、古川は鍔迫(つばぜ)り合いになった途端、ふぅっと息を吐いていた。その呼吸音が聞こえて、航は思わず引き技を狙ったのだ。鍔迫(つばぜ)り合いになった瞬間というのは、相手との距離がなくなるせいで、間合いを取り合っているときよりも、気が抜けやすくなる。いわゆる、ボクシングでいえば、クランチのようなものだ。

 まだ経験の浅い選手は、ここで気合いの声を出したりもするが、しかし。強者はまさにチャンスとばかりに、その瞬間に技を狙ってくる。声を出しているときや、息を吐いた瞬間というのは、どうしても初動が遅くなるものなのだ。


 武田は、いつもそうだったよな……。


 当時、鴨川南中の大将で、今は兜山高校の部員となった武田は、いつも鍔迫(つばぜ)り合いになった瞬間に技を出してきたし、船戸剣武館で稽古をつけてくれる大人たちもみな、鍔迫(つばぜ)り合いで息を吐くことなどしなかった。緊迫した試合であればあるほど、鍔迫(つばぜ)り合いになった瞬間のゼロ距離は、最も集中が途切れやすいところ。つまり、絶好のチャンスになるからだ。


「うらぁぁああッ!」

「せぇりゃぁあああッ!」


 再び間合いの攻防が始まり、航は素早く攻めた。竹刀はまだ触れ合っていない。ここは遠間だ。だが、すぐに一足一刀まで近づく。


 航は、竹刀をパンッと払ったり、剣先をわずかに下げたりして、古川の反応を観察した。そうして、小手を打つと見せかけるフェイントを使ってみる。すると、古川は反射的に右に体重をかけ、剣先を逸らした。理想的な反応だ。航は思わず胸を高鳴らせた。


 対処技で狙うつもりかな。仕掛けてみるか……。


 航は一度下がった古川との距離をさらに詰めていく。古川はじっとこちらを見つめて、また下がる。航はその距離を詰める。古川は明らかになにか狙っているような感じだが、むしろ好都合だ。


 たぶん、さっきの反応だと返し面かなんかを狙ってる感じだよな……。


 航は大きく一歩入り、前のめりにフェイントで左に振りかぶる。そうして、その場で床を踏み鳴らす。すると、さっきと同じく、古川の剣先が左に逸れた。


 ここだ!


「……メンりゃぁああっ!」

「おおっ!」


 古川が右に体重をかけ、剣先を逸らした、その瞬間か同時か。いや、それよりもわずかに早かったのかもしれない。航はもう飛んでいた。さっきと同じ、バグンッ、という鈍い音と衝撃が手指に伝わってくる。一斉に湧く、自チームの歓声と拍手が全身に響いて、たちまち鳥肌が立つ。航は残心を取りながら確信する。これは文句のない一本だ。もう審判旗を確認する必要すらない。打突もタイミングも作戦通り。我ながら、完璧な技だった。

 

「面あり!」


 っしゃあ……! 二本勝ち!


 赤い旗が三つ、(そろ)って上がっている。航は開始線へ戻り、構えた。古川は天を仰ぎ、航に向かって一度、構えてから、開始線へ戻ってくる。


「勝負あり!」


 古川の瞳と、しっかり目が合う。主審の声で、航は古川と息を合わせて蹲踞(そんきょ)をしたあと、試合場の(はし)に下がった。次鋒、古川との試合は航の圧倒的な勝利で終わった。これで二勝だ。残るは三人。主審から、息を整えるように合図され、航は大きく深呼吸をした。


「おい、航! やったな、これで二人抜きだぞ」

「……はい!」


 背後から、毛利が声をかけてくれる。航は振り向き、軽く頭を下げた。すると、その瞬間に彼は背伸びをして、小手をしたまま、拳で航の脳天をぽんぽん、と叩く。


「次鋒戦の二本はどっちもバックリだったじゃん。いやぁ、お前の面はほんと、見てて気持ちいいな! ()()れするよ」

「あ、あざっす……!」

「そんで、次は中堅か。妻木だな……」


 面金(めんがね)の奥に見えている毛利の目が、急に真剣な眼差しになって、航は試合場の反対側に目をやった。そこにはすでに、白波高校の中堅、妻木が準備を終えて立っていた。彼は二年生だ。がっしりとした体格や高い背丈、使い込まれ、色褪(いろあ)せた胴着、袴、防具を見る限り、明らかに強者だとわかる。


 妻木先輩……。古川とは明らかに違う、気がする……。なんというか……、すごい迫力がある……。


 二年生ということもあるだろうが、妻木の雰囲気を見る限り、次の試合は簡単に勝たせてもらえそうにない。中堅を任されるほどの選手なのだから、強さは当前だが、それにしても彼は先鋒の安田や次鋒の古川とは、明らかにレベルが違う気がした。


「しっかり、仕事してきます……!」


 航はやや緊張しながら、自分に言い聞かせるようにして言った。すると毛利は、航の背中をばしんっと叩く。


「あんま固くなんな。まぁ、妻木はちょっと手強(てごわ)いかもしんないけど、お前はただ、思ったようにやってくればいいって!」

「はい」

「よし。行ってこい!」


 航は頷き、真っすぐに妻木を見て、一礼した。それから、一歩、二歩、三歩前へ出て、開始線の手前で止まり、ゆっくりと蹲踞(そんきょ)をする。


 毛利先輩、勝ってこいって言わなかったな……。きっと、俺がこの試合で、思い通りに戦うことが、どれだけ難しいか、わかってるんだ。たぶん、妻木先輩はそう簡単には打たせてくれない。それはわかってる。だけど――……。


「はじめ!」


 俺だって、そう簡単に打たれたくない……!


「うらぁぁあああッ!」

「せぇやぁあああッ!」


 航と白波高校の中堅、妻木との試合が始まった。航は真っ先に攻めようと、一歩入り、剣先で妻木の竹刀を払う。すると、妻木はそれを嫌がってか、素早く後方へ下がった。航の優勢での遠間。ドクン、と心臓が高鳴る。早速だが、ここはチャンスだ。


 よし……、先手必勝。


 狙うは得意技の差し面だ。航は技を仕掛けようと、右足を前に進め、ほんのわずかに間合いを詰める。まだ、剣先は触れ合わない。この微妙な遠間は、航の得意とするところだ。航は足幅を狭めて、思い切り飛び込めるように体勢を整えた。そうして、タイミングを図る。ところが、次の瞬間。


「……メンやああぁぁッ!」

「……っ!」

「おおっ!」

「いいとこー!」


 妻木が飛んできた。ほぼ同時に、ずしん、と、まるで殴られたような重い衝撃が脳天に降ってくる。妻木は航の体をすり抜けて、残心を取っている。航は呆然(ぼうぜん)として、その場に立ち尽くし、その姿を見送る。追いかけなければいけないのに、足がまったく動かない。


「面あり!」


 審判の声に、ハッと我に返る。見れば、主審は白い旗を上げていた。慌てて反対側へ振り返ると、ほかの副審のふたりも、そろって白い旗を上げている。それを見て、航はやっと状況を理解していた。


 打たれた……!


「いいとこー!」

「もう一本!」


 白波高校の歓声が、拍手が、これでもかというほど沸き立っている。妻木が落ち着いた足どりで開始線へ戻っていく。航は釣られるようにして数歩で開始線へ戻り、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じて、一度、ごくん、と唾を飲んだ。まだ試合が始まってから、わずか数秒ほどしか経っていないはずなのに、やけに息が上がっている。


 どうなってんだ……。俺は今、たしかに先に攻めたじゃないか。攻めたのに……。


 ゆっくりと構え直し、ゆっくりと呼吸をしてみる。だが、息がどうにも整わなかった。焦りと悔しさで、心臓がバクバクと波打っている。たぶん、自チームからも声援が送られているのだろうが、なにを言われているのか、聞き取れない。それなのに、白波高校の歓声ばかり、聞こえてくる。航は悔しさあまりに、奥歯を噛み締めた。


 落ち着け……。一本取られたら、取り返せばいい。残り時間はまだ、たっぷりあるんだから……。


「二本目!」


 主審の声を合図に、航は前に出て攻める。そうして、無理やりに脳内を切り替えた。試合開始、わずか数秒で、一本取られたからといって、いつまでも戸惑っているヒマなんかない。ここで一本を取り返さなければ、航は潰される。白波高校の要の一人であろう妻木を、先へ進ませてしまう。


 たとえ勝てなかったとしても。せめて、引き分けで試合を済ませたいところだ。いや、百歩譲って、このまま一本負けで終わっても、時間はたっぷり使って、彼の体力を消耗させるくらいのことはしておきたい。


 そうじゃなきゃ、俺はここでなんにもできないで、ただ負けることになる……。せっかく勝ち抜いてきたってのに……。そんなかっこ悪いことあるか……!


「うらぁああああッ!」


 自らを鼓舞しようと、航は気合いの声を上げる。妻木は静かにこちらを(うかが)って、じりじりと距離を詰め、時折、竹刀をパンッと払ってきた。彼は冷静だ。航は負けじと攻めるが、妻木にはまったく効いているようには思えない。しかし、そこで気付く。


 あれ、ちょっと待てよ……。この人、まさか……。


 さっき、航は自分から素早く攻めて、妻木との距離を縮めた。しかし、そう思い込んでいただけなのかもしれない。実際は、攻めていたつもりになっていただけ。妻木は航が攻めて、距離を縮まっていくのを、ただ待っていただけだったのかもしれない。


 さっき、俺が攻めるのを待って、タイミングを合わせてきた……?


 だとすると、妻木は対安田戦、対古川戦を見ながら、航の攻め方や差し面のタイミングを覚えて、出る瞬間を狙った可能性がある。


 くそ……。じゃあ、さっき一度引いたのは、フェイクか……。なんで気付かなかったんだ……。


 二試合分、観察したからといって、すぐに相手のタイミングに合わせるのも、先に打ち込むのも、容易ではない。やはり妻木は強敵だ。それでも、自分の武器をうまく使えば、必ず勝機はあるはずだと信じて、航はさらに攻めた。すると、また。妻木はわずかに下がる。


 さっきは、ここで下がったところを打ち込もうとして、打たれた……。要注意だな。 


 だが、そうは言っても大得意の間合い、距離、タイミングで、ここで打てば、これまで気持ちよく一本を取ってきたのに、それを封じられるのはかなり痛い。航は攻めながら、技の選択に迷っていた。迷って出す技は勢いがなく、どうしても中途半端になる。ここで苦し紛れに出せば、おそらく潰されてしまうだろう。


 今まで、試合してきて、こんなこと初めてだ。俺は今、この人に打ち込める気がしない……。


 どこをどう狙えば、妻木の体勢を崩せるのだろう。どこを打てば、一本を取れるのだろう。頭を巡らせ、ほんの数秒、足が止まった。だが、その瞬間。妻木が飛んでくる。


 まずい……!


 航は咄嗟(とっさ)に手元を上げ、竹刀で面を守った。しかし、その上がった手元、航の右手首を、妻木の竹刀が叩くように打つ。衝撃とともに乾いた痛みが走る。


「コテやぁああああ!」

「おおっ、いいとこ!」


 歓声が湧き、妻木が残心を取っている。航は焦り、すぐに追いかけた。だが、妻木は追ってきた航に身構えることもなく、さらりとかわしてから、ライン際で構え直している。航は無我夢中で、勢いをつけ、体ごと飛び込んだ。


「面りゃぁあああッ!」

「やめ!」


 だが、不意に飛び込んできた主審の声で、航は振り返る。その瞬間、目に映ったのは、三つの旗。それらが素早く、同時に上げられる。その光景を見たとき、航は絶望感に襲われた。


 白い旗……。


 主審も副審も、みんなが揃って白い旗を上げている。航は呆然(ぼうぜん)と彼らを見つめた。脳内は真っ白になって、歓声がどんどん遠くなっていく。全身に力が入らず、感覚もなくなっていく。それなのに、打たれた右小手だけがヒリヒリとした痛みと、熱を持っている。


「小手あり!」


 妻木が開始線に戻り、構え直している。航もまた、静かに開始線へ戻った。妻木の(するど)い眼差しと目が合ってから、航はゆっくりと、なにも考えられないまま、習慣のように構える。


「勝負あり!」


 主審の声を聞くなり、蹲踞(そんきょ)をして、後方へ下がり、試合場を出る。白線の手前まで来て、一礼をする。


「……あとは任せろ」


 背後から優しい声がして、肩を軽く叩かれる。そのとき、ようやく悔しさが(にじ)むようにして腹の奥から湧き上がってくる感覚に襲われ、航はぐっと拳を握りしめた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。


いなば海羽丸

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