28【因縁の相手】~朝比奈航~
ミーティング後、突然、どこからともなく浬の父が登場するお話。
航視点でお送りします。
市立船戸高校対、佐賀県立日野原高校との試合は、羽柴と市鷹が残る形となり、市立船戸高校が勝利した。将鷹は日野原高校の大将、村上と互角に戦い、先に一本を取られたものの、すぐに得意の面打ちで一本を取り返し、そのまま引き分けで試合を終えたのだ。
九州勢をはじめとした、全国の強豪が集まる、この玉竜旗大会。市立船戸高校剣道部は、まず、第一試合を突破した。しかし今、試合後のミーティングには笑顔がない。市鷹や将鷹をはじめ、織田の表情までも硬く、やけに緊張感が漂っている。航はその妙な雰囲気に気付き、首を傾げる。
「……よし。次の相手は神奈川の高校だ。県立白波。イチとマサ、毛利はよく知ってるな」
「はい」
揃って返事をした三人の表情はやはり険しかった。市鷹の隣にいる羽柴も、眉をしかめている。彼らを見れば、白波高校を警戒すべきだということは、そのチームをよく知らない航にもすぐにわかった。
「うちは、白波とは比較的、相性はいいほうだ。錬成会じゃ何度か当たってるが、勝率も圧倒的にいい。ただ、この前みたいなこともあるからな」
「はい」
「いいか、こっちが向こうを知ってるってことは、向こうもこっちのことをよくわかってるってことだ。油断すんなよ」
「はい」
「それじゃ、次の試合まで待機。会場内は冷房ガンガンのところもあるからな、体冷やさないようにしとけ」
織田はそう言って、試合会場を出ていく。それを見送って頭を下げると、航はすぐに羽柴に訊ねた。
「羽柴先輩、白波高校って強いんですか」
「あぁ……、まぁ、弱くはないよ。こういう地方の錬成会とか行くと、白波は絶対いるんだ。だから、よく見かけるし、よく当たるし。なんつーか、お互いに顔見知り……みたいな感じ、かな」
「へえ」
「剣道も、うちとちょっと似てるっていうか……、あそこの、白波の明智先生が織田先生の昔の知り合いらしくてさ」
「昔の知り合いって? 友だちとかですか?」
航の背後にいた浬も、会話に割って入ってくる。彼もまた、白波高校がどんな高校なのか、気になったのだろう。しかし、チームメイトとか、クラスメイトではなく、友だち、という言葉を選ぶ辺りが、なんとも暢気で、浬らしかった。
「うーん……。友だち――なのかもしんないけど、高校の、後輩だったかな? たしか……」
「元チームメイト! じゃあ、織田先生と白波の先生、仲いいんですね!」
「悪くはないんじゃないか? ただ、お互いに相手のことよくわかってる分、裏の裏を読まなきゃいけない、みたいなのはあるだろうけどね」
「なるほど……」
浬と航の声が揃って、互いに顔を見合わせる。チームメイトとして、友だちとして、普段から良好な関係を築いていても、勝負となれば話は別だ。剣道は個人競技なので、同じチームに所属していても、自分以外はライバルになる。稽古だとしても、勝てば当然嬉しいし、負ければものすごく悔しい。次は絶対に負けたくない、とも思う。普段は友だちとして、仲間として過ごしていても、結局はどちらかが土俵を下りるまでは戦わなければならない。チームメイトとはそういうものだ。
同じチームで、学生時代を過ごした織田と、白波の顧問、明智。ふたりはきっと過去も、今も、よき友であり、ライバルでもあるのだろう。航はふと、そんなふたりを自分と浬に重ねながら、彼を見つめた。
俺と浬も、いつかそんなふうになったりすんのかな……。
「航……? どうかしたの?」
「あぁ、いや……」
浬が不思議そうに航に訊ね、首を傾げている。将来のことなんて、そんな遠い未来、航は考えたこともない。浬だって、たぶん同じだ。せいぜい、航と浬が考えられるのは、来年こそインターハイに行く、このチームで県内最強とうたわれる兜山高校に勝つ、という目標だけ。だが、その先もあるとすれば――。
俺たちも、いつか――。
航は想像する。たとえば、大人になっても、浬との関係は、友として、ライバルとしてずっと続いていく。稽古で、試合で、本気の勝負を何度も重ねて、やがてはその形を変えたとしても。それを思うと、航の胸は確かに高鳴った。
なんか、かっこいいな……。そういうの。
「さぁーてと、ここは邪魔になるから、ひとまず廊下に出るぞ」
「はい」
市鷹がそう言って、面と竹刀を持ち、みんなを会場の外へ促した。航はハッとして、そのあとに続く。織田と、白波高校の明智の話を聞いて、脳内が一瞬、脱線してしまったが、今は次の試合に集中しなければならない。
「羽柴先輩」
航は、もう一度、羽柴を呼んだ。白波高校はどんな高校で、どんなチームなのか。どんな戦い方をするのか。航としては、戦う前にできるだけ、彼らの情報を仕入れておきたいところだ。織田の話だと、前回の大会ではなにかがあったようだが、それも詳しく知っておきたい。本来なら、白波高校の前の試合を見て、情報収集もできるのだが、残念なことに彼らはトーナメントのシード校になっている。つまり、次に行われる航たちとの試合が、初試合なのだ。
「どうした、航」
「あの、織田先生の言ってた、この前のことって、あれ、なんですか?」
「あぁ、あれは――……」
それを訊ねると、羽柴は言いにくそうに目を逸らして言葉を濁らせてしまう。彼の視線の先を追うと、市鷹、将鷹と目が合った。
「去年な、地方の大会で当たったとき、オレらは負けたんだよ」
「あ……、そうなんですか……。えっと……」
これは訊かない方がよかったのかもしれない、と思いながらも、試合内容が無性に気になってしまう。市鷹たちに限って、普段から勝率のいい相手だからといって、油断して負けるようなことはあり得ない。しかし、できることはすべてやって、実力を出しきって、それでも負けてしまったのだとしたら、白波高校がそれだけ強かったということなら、航は余計に、できるだけ彼らの情報を頭に入れておかなければならなかった。
「錬成会じゃ、うちが全勝してたんだけどな。去年、はじめて大会で当たって、すっげえ渋い試合させられて、そんで……、代表選で負けたってわけ」
将鷹が、ふてくされたように口を尖らせる。しかし、妙だった。その言い方はまるで、将鷹が代表選に出たような口ぶりだった。通常であれば、大将を担っている市鷹が出るはずなのに。
「もしかして代表戦、マサ先輩が出たんですか?」
「なんだよ。悪いか」
「あっ、いや――……」
「マサじゃなくて、おれが出てたら、あっという間に負けてたよ」
市鷹は竹刀の点検をしながら、そう言って申し訳なさそうに笑った。どういうことか理解できずにぽかんとしていると、市鷹はその当時を説明するかのように話してくれた。
「ちょうどあの頃、おれは足を痛めてたんだ。軽い捻挫で、たいしたケガじゃなかったし、テーピングしながらやってたんだけど、全然調子が上がらなくてさ。勝率も、試合内容もイマイチよくなかった」
「イチ先輩でも、そんなことあるんですね……」
「まあな。ちょっとしたスランプだよ。それで、代表戦になったとき、織田先生と相談して、そのときはマサに頼んだんだ」
「マサ、あのとき、カッコよかったよなぁ。安心しとけ、イチの代わりに勝って帰ってきてやるからな! ってさ」
毛利がそう言った途端、将鷹はかあっと顔を赤らめた。
「……だぁーーーっ、もう、いいから! あんましゃべんなよ……。それで負けて帰ってくるって、カッコ悪すぎんだろ……」
「そうかな? おれはあの言葉、嬉しかったし、マサはちゃんといい試合してたし、十分カッコよかったと思うけど」
「だとしたって、オレは負けたんだ。……カッコよくはねえ」
「結果はしかたないよ。白波だって、たぶん、ずっとうちの研究してたんだ。おれだってあのときは、全然打たせてもらえなかったし」
市鷹がそう言うと、将鷹は悔しそうにため息を吐く。そんな彼らの様子を見て、航は焦りを感じずにいられなかった。将鷹がいい試合をしていて負けたのなら、それは相手の実力にほかない。白波高校はつまり、明らかに強い剣士が集まった強敵チーム、ということになる。まだ一年生で、大会の経験も乏しい航が、カンタンに勝たせてもらえるとは思えなかった。
それはもう、弱くはない、どころの話じゃないんじゃ……。
「まずいじゃないですか! ど、どんな剣道するんですか、白波!」
思わず声を張ってしまった。すると、市鷹は「航、静かにしろ」とひと言返し、続けて言う。
「だから、これからそれを共有するんだってば」
「は……」
「オレたちが前回負けて、なんにも考えてないと思ったか?」
市鷹と将鷹がにやりと口角を上げる。毛利もくす、と笑みを零し、「リベンジチャンスが、まさか玉竜旗になるとはね」と言って、航の肩をぽん、と叩いた。
航たちはそのあとすぐに、廊下の隅に移動し、部員のみでのミーティングを始める。といっても、次の試合まで、あまり時間はない。市鷹はパンフレットを開いて床に置くと、すぐに左端を指差した。
「いいか、航。白波の先鋒は、安田っていう二年生だ。タイプは――……そうだな。毛利とか、浬と似てる。いわゆる、典型的な前衛タイプだ」
「前衛、タイプ……」
先鋒やってれば当たり前の話だけど、タイプ的には完全に真逆だな……。
戦い方のタイプでいえば、安田は前衛タイプ。一方で航はというと、中学の頃から、中堅より後ろを担うことが多かった。自分でも、前衛よりも後衛の方が戦いやすいし、向いているとも思っている。だが、織田は今回、航を先鋒に指名していた。
「あの、俺……、ちょっと気になってることがあるんですけど」
「どうした?」
「織田先生は、どうして今回、俺を先鋒にしたんですかね。俺は、どっちかっていうと後衛タイプなんじゃ……」
「おっ、気づいたか。実はそれこそが、織田先生の作戦なんだよ」
市鷹がそう答えると、将鷹と毛利、そして羽柴までもが深く頷いた。どうやら、この四人は最初から、なにもかもわかっていたようだ。
「作戦……。俺はてっきり、まだ一年だから、大失敗したとしても、次鋒からすぐ軌道修正できるようにトップバッターなんだと思ってました」
「あぁ、もちろん、それもあると思う。でも、航はそれ以外でも、安田には効果的なんだ。お前、基本的に試合中、相手に影響されないし、ブレないだろ。安田は、かなり足使って、積極的にうるさく攻めてくるから、ついこっちはそのリズムに合わせたくなる。そうしてるうちに、だんだん余裕がなくなってきて、その隙をばっくり打たれるんだ」
「そう、そう。あのやかましい攻め方がほんと厄介なんだよ」
市鷹の説明のあと、毛利もそれに同調しながら頷いた。
「航はいつも通りでいいから、落ち着いて、しっかり相手の動きを見ること。自分の間合いに連れ込んで、自分のタイミングで隙を狙うんだ」
「はい……」
「それから、手元には気を付けろよ。安田の得意技は出小手だ。毛利も、去年の地方大会のとき、しょっぱなで出小手を取られてるからな」
「イチ……。よく覚えてるなぁ……」
毛利は笑みを引きつらせて、市鷹をジトっと睨んだ。だが、市鷹はにこりともせずに言う。
「当然だろ。あの一本は、白波の変化を宣言する一本だった」
自分に言われているわけではないのに、背すじがぞわりとした感覚に、航は思わず肩をすくめる。市鷹にしては、いつになく厳しい言葉だったのだ。表情も、声色も。いつもの優しく穏やかな彼とはどこか違っている。だが、すぐに市鷹自身もそれに気付いたのだろう。すぐにハッと我に返ったように続けた。
「あ……っ、カン違いするなよ! べつに、おれは毛利を責めてるわけじゃないから!」
「えー……」
「ほんとだって! ただ……、あの一本は、なんていうか……、特別だった。あのとき先鋒が誰でも、毛利でも伊達でも、おれとマサでも……、打たれてたと思うよ」
「……そうだな。誰が先鋒に出ても、市立船戸と白波が戦って、一本を先に取られることなんか、なかったもんな」
将鷹が眉をしかめて、悔しそうに言う。すると、毛利が申し訳なさそうに頭を掻いて、深くため息を吐き、ゆっくりと話し出した。
「……安田は去年、まだ一年だった。はじめて戦ったのは、夏の館山遠征だ。あのときのあいつはなんていうか、経験も少なくて、これといった得意技もなくて、特段、強くも弱くもない。ものすごく……平凡だった。少なくとも、夏の錬成会で一番多く戦ったおれの目にはそう見えてたし、試合したって、負ける気なんかしなかったよ。でも、その二ヶ月後……、十月の神奈川遠征で、あいつは化けてたんだ」
「化けて……?」
思わず、浬と声が揃って、顔を見合わせた。毛利は頷く。
「明らかに強くなってた。間合いの攻防も、打突も、鍔迫り合いも、引き技も。安田だけじゃない。ほかの奴も、みんなひと皮もふた皮もむけて、レベルが格段に上がってた。あいつら、去年の夏はもっと本能的に動いて、勝手に戦ってるような感じだったのに、いつの間にか、個々が頭で考えて仕事するようになってたんだ」
「うちの戦い方と同じですね……」
「やっぱり、先生たちは元チームメイトだったし……。作戦とかも、似てるのかな……」
浬が言う。すると、市鷹はかぶりを振った。
「いや、ある程度のレベルまで勝ち進めるような、強いチームはみんなやってることだよ。前も話したけど、団体戦は、個々の勝敗の数で、チームの勝敗が決まる。早い話、個人、個人がそれぞれ勝てばいいんだ。もちろん、相手と圧倒的な実力差があるときは、それで十分なのかもしれない。でも、強いチームと対戦するときは、それじゃ絶対に勝てない。後ろの仲間にどうすればより楽させてやれるかを頭で考えて、自分の仕事を見つけて、熟して、はじめて勝負になる」
「はい……」
「去年の夏の時点では、白波はまだそれができていなかった。だから、わりとすんなり勝ててたんだ。白波はそういうチームだって、おれたちはずっとそう思ってた。それが、去年の秋、見事にひっくり返されたってわけだよ」
白波高校は、チームとして戦う術を学び、会得したのだろう。織田の後輩、明智の指導のもと、市立船戸高校をはじめとした他校の研究、日々の稽古メニューの見直し、課題の発見と克服。それを地道に重ねて、稽古をして、その成果が出たのが、おそらく秋の地方大会だったのだ。
毛利は去年の試合を思い出しているのだろう。わしゃわしゃと頭を掻きながら、唸り始めた。
「ぬぁぁああ……、クッソぉ……。思い出すと腹立ってくる……。……航!」
「は、はい……!」
「安田は今回も、最初の一本から、相手を自分のペースに巻き込んで流れを作ろうとするはずだ。いいか、最初の一本がカギだ。最初の一本を、絶対に向こうに渡すな」
「わかりました」
「そんで、お前の流れで、おれに繋いでくれ!」
毛利の目がさらに鋭くなり、きらりと光る。意外だった。どんなに切羽詰まった場面でも、穏やかな表情をなかなか崩さなかった毛利だが、まるでずっと狙っていた獲物を前に殺気立ったような目と表情に、航は頷くより前に、ごくんと生唾を飲んだ。
ミーティングのあと、市鷹たちはそれぞれ隙間時間を埋めるのに解散していった。気分転換に、トイレや自販機コーナーへ行ったり、他校の試合を見に行ったり。その場に残ったのは、航と浬のふたりだけになった。
「意外だったなぁ……」
売店へ向かう毛利の背中を見つめ、浬が小さく呟く。
「なにが?」
「だってさ。さっきの話聞いてると、兜山以上に、白波の方が、先輩たちにとっては因縁ってカンジじゃん」
「あぁ……、たしかに……」
それは航も感じていたことだ。兜山高校と戦ったインターハイ県予選、航は補欠として、レギュラーメンバーの中にいた。兜山高校と対戦したあと、市鷹たちは間違いなく悔しそうな表情をしていたし、誰もが本気で臨んだ一戦だったと記憶している。だが、白波高校に対しては、それとはまた違う、重い執念のようなものを持っているような気がした。
玉竜旗は、勝ち進んだって、負けたって、そのあと、デカい大会に繋がってるわけでもなんでもない。しかも、次の試合はまだ二回戦で、決勝でも、準決勝でもないのに……。
「なんか、先輩たちがあんなにぎらついてんのはじめて見たっていうか……。ちょっとびっくりした、よな……」
「うん。……航、大丈夫? 緊張してる?」
「まあ……、あの話を聞いちゃうと、ちょっとね。でも、相手の流れに合わせないのも、自分のペースで間合い取るのも、苦手ではないから」
「そっか。さすがだね」
浬がホッとしたようにそう言って、拳を差し出す。航はその拳にこつんと自分の拳を合わせて、笑って見せた。白波高校の安田がどれほど強いのか、本当に最初の一本を航が取れるのか、やってみなければそれはわからない。だが、毛利や市鷹に頼まれたオーダーは、航にとっては得意な分野だ。さらに――。
「あとさ、浬も近くにいるし」
「え? おれ?」
「なんでかな……。俺さ、浬がそばで応援してくれるの、すっげえ心強いんだ。なんか、一緒に試合出て、戦ってるみたいな感じがする」
浬が口を半開きにして、航を見つめる。だが、すぐにかぶりを振った。その頬がかあっと赤く染まっていく。
「いっ、いるよ! おれ、ちゃんと見てるからね!」
「うん。サンキュ」
「スコア表も、忘れないようにちゃんと書く!」
「おう」
互いに笑みを零したが、航はちょっと照れくさくなって、頬を掻いた。浬がいてくれるだけで、絶対的な相棒が背中を守ってくれているような気分になるのは、本当に不思議だ。実際に一緒に試合に出るわけでもなく、応援席からの声も、拍手も、聞こえてくれば、それは誰のものであっても、たしかに背中を押される感覚にはなるのに、そばで聞こえる浬の声は、航に特別な頼もしさを感じさせてくれる。しかし、やはり緊張は――しないはずがない。
「あー……ちょっとだけ、竹刀振りたいな……」
「おれ、元立ちやろっか?」
「うん、頼む」
航は竹刀を持ち、浬は自分の竹刀袋から竹刀を一本取り出す。少しでも体を動かせば、多少は気も紛れるだろう。ところが、竹刀を頭上まで振りかぶった、その時だった――。
「ほお。君が、朝比奈くんか」
「え……?」
「……げぇっ!」
突然、聞き慣れない声がして、航は竹刀を下ろし、振り返る。目の前には、いつの間にかひとりの男性が立っていた。背丈が低く、小柄で、髪は白髪交じり。ただ、そこに立っているだけなのに、やけに勇ましい風格がある。
誰だ……っけ?
同時に浬が妙な声を上げたのも気になったが、目の前にいる初老の男のほうが気になってしまって、航は呆気にとられる。しかし、よくよく見れば、その顔をどこかで見たことがあるような気もしてくる。
あれ、ちょっと待てよ……。この人ってたしか……。
「いやあ、実に恵まれた体格をしてるな! 先天的な要素は羨ましいもんだ」
「はぁ……」
「と、父さん……っ!」
父さん――……。
「なにやってんだよ!」
「なにって、応援に来たに決まってるだろうが。浬、お前はいつ出るんだ?」
「だから! おれはまだ一年なんだから出れないってば!」
「朝比奈くんだって一年だろう。なんでお前は出られないんだ」
「航とおれは違うの!」
こんなに浬が声を荒らげて、感情的になっているのは珍しい。――いや、はじめて見る。周囲を見れば、他校の生徒たちの怪訝そうな目と視線がぶつかった。こんな所で大声を上げて、いったい何事だろうかと思っているに違いない。航は思わず、浬の肩を揺すった。
「ちょ、ちょっと待った……。浬、あんまここでは騒がないほうが……」
「あ……。ごめん、つい……」
浬は我に返ったように口を噤み、だが、すぐにまた男を睨みつけた。間違いない。浬がこんなふうに怒りをあらわにするのは、ごく親しい相手にだけだ。航や大地にだって、彼はまだこんなふうに感情的になることはほとんどない。たぶん、家族か、幼馴染の楓くらいなものだろう。
「まーったく、お前は。ぎゃあぎゃあ騒いで、いつまでも子どもだな」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「あのさ……、浬。この人は……」
もう訊くまでもないのだが、なんとか喧嘩を制止しようと、航は会話に割って入る。すると、浬はまたハッとした表情をしたが、すぐに仏頂面になって口を尖らせた。
「おれの……、父親」
だよな……。
航が思った通りだった。この男は、小笠原志郎。南部剣の師範の長で、浬の父。そして、航の父の因縁の相手でもある。もしかすると、彼は父が小笠原家を毛嫌いするように、朝比奈という苗字だけで嫌悪感を覚えているかもしれない。だが、航はひとまず、頭を深く下げた。相手は地元有数の道場の大先生だ。
「はじめまして……! 朝比奈です!」
「どうも。うちの浬がいつも世話になってるようだね」
「いえ、こちらこそ……!」
「次もがんばってくれよ。なにしろ君は、浬の選んだ宿敵なんだからな!」」
「はっ……? しゅく……?」
宿敵……?
「父さんっ、なにわけのわかんないことを――」
「あっ、もうやだ、ちょっと! お父さん……っ!」
浬の言葉を遮るように、どこからともなく女性がひとり、すっ飛んできて、大慌てで志郎の腕を掴む。彼女は航ににこやかな笑顔を見せ、ぺこ、と頭を下げると、そのまま志郎を引きずるようにしてすぐ近くの階段を上って行った。
「待っててって言ったのに、どうしてすぐ消えちゃうの! 探しちゃったじゃない!」
「そんなこと言ったってな、浬が近くにいるのが見えたから……」
「だから、だめだって言ったでしょう! もう、あなたって人は……」
浬はふたりのやり取りを眺めながら、深いため息を吐いている。航はそんな彼をちらちらと気にしながら、静かに竹刀を仕舞った。おそらく、あの女性は浬の母親だろう。きっと、両親は浬に、応援に来ることを報せていなかったせいで、浬を驚かせてしまったのだ。
「行きますよ、ほら!」
浬の母親らしき女性が、階段の上で振り返り、申し訳なさそうに笑みを見せながら手を振り、視界から消えていく。だが、浬は不服そうに、ふん、と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。彼はたぶん、とても怒っている。
「浬……、大丈夫か?」
「あぁ、うん……。平気。ごめんね、両親がうるさくして……」
「いや」
なんだか突然やってきた嵐が、猛スピードで通り過ぎていったような感覚だ。おかげで、体は妙に脱力してしまって、緊張もほぐれるどころか、すっかり平常心に戻っている。だが、一方で浬は、拳をぐっと握りしめ、いつまでもその場で立ち尽くしていた。
浬……。
航は心配になって、その顔を覗き込んでみる。と、途端に――。
「ぶ……っ!」
「え……」
思わず噴き出してしまった。浬は、まるで子どものようにぷうっと頬を膨らませ、眉をしかめていた。
「浬……っ、すげえ顔!」
「な……っ、だって! おれは怒ってんだよ!」
「まぁ、気持ちはわからないでもないけどさ。それにしても、さすが小笠原家だよなぁ。すげえパワフル!」
「恥ずかしいよ……。ほんと……、こんなところまでついてきて、騒いでさ、なに考えてんだか……」
苛立った口調と、暗い声色は別人のようだ。浬は「もう散々だ」と言わんばかりに、何度も深いため息を吐いている。航は浬のこわばった表情と前に、どう返したらいいかわからなかった。そういえば、志郎は航のことを、浬の宿敵と言っていたが、それもどういうことなのかわからない。
「あー……、なぁ。親父さん、俺が浬の宿敵、とかって言ってたけど……」
浬が、家族にそう話したりしたのだろうか。しかし、だとすれば宿敵、というのは少し寂しいし、穏やかではない。どうせなら、相棒とか、仲間と呼ばれたほうが嬉しいものだ。だが、浬は言う。
「あぁ、あれね。気にしなくていいよ。父さんは思い込みが激しいから。勝手にそう思って、言ってるんだ」
「そっか……」
「うん。ごめんね、航。調子狂わされちゃったよね……」
「いや、全然。むしろ、緊張してたのもみんなどっかいったし。浬の父さんと母さんのおかげで、平常心になったくらい」
「ほんと? ……なら、よかった」
浬が笑みを零す。しかし、その笑顔はひどく力ない。
浬……、両親が来たことが、そんなに嫌だったのかな……。
「おーい、航、浬! 前の試合、展開早そうだ。航はもう面つけとけってさ」
「あっ、はい!」
羽柴が、駆けてやってくる。航がその場に座り、面をつけ始めると、浬は「おれ、毛利先輩呼んでくるね」と言って、その場を離れていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。
いなば海羽丸




