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21【身になる】〜朝比奈航〜

遠征二日目の夜。織田に呼び出され、話をする航のお話。

航視点で、お送りします。

 遠征二日目、最初の練習試合が終わった日の夜のこと――。午後八時半を回った頃、航は織田に呼ばれて、彼の部屋へ向かっていた。いったい、なにを言われるのか、それを想像しすれば緊張で体がこわばる。しかし、彼に呼び出されるようなことをした覚えはない。


 まさか、部活ノートがまずかったのだろうか。航はふとそう思い、自分が書いた内容を思い出して、だがかぶりを振る。自分が織田の怒りに触れるようなことを書いたとは思えない。しかし、なににせよ、わざわざ時間まで指定して呼ばれたのだ。雑談でないことだけは確かである。

 浬はずいぶんと心配してくれたようだったが、一緒に後あとからついてくるわけにもいかず、おろおろしながら航を見送ってくれた。


 航は織田の部屋の前で立ち止まる。部屋のドアは少し開いていて、ストッパーが掛けられている。念のためにノックをすると、すぐに中から声が答えた。


「おー、入れ」

「失礼します」


 部屋の中には当然だが、織田しかいない。織田はツインの部屋をひとりで使用していた。と言っても、なにもひとりで無意味に、広々と部屋を使っているわけではなく、部屋の中にはビデオカメラやアタッシュケースなどの荷物が置かれている。要するに、この監督部屋は荷物置き場を兼ねているということだ。それはおそらく、選手をなるべくゆったりと休ませるための、織田の気遣いだった。


「あー……、まぁ、そこ座れ」

「はい……」


 言われるまま、航はテレビ横に置いてある椅子に座る。織田は缶コーヒーを冷蔵庫から取り出して開け、航には缶のオレンジジュースをくれた。


「いただきます……」

「おう。……お前を呼んだのはな、ノートのことだ」

「ノートのこと……?」

「そう。ノートの、この最後の数行だ」


 航は「あっ」と声を上げる。そこには遠征へ来る前に、父親に言われたことを書いたのだった。自分がなぜ剣道をやる必要があるのか問われ、あのときは答えられなかったが、この遠征でそれを見つけられればいい、そして、一日目にはその答えには辿り着かなかったことを書いていた。


「お前、父ちゃんと仲悪いのか?」

「いえ、仲が悪いわけではないと思います。そもそも普段、そんなに接触することもないですから……」


 その時、織田の(まゆ)がひん曲がり、顔が引きつったのがわかった。自分が今、言ったことが少しおかしいことはわかっている。しかし、事実だ。


「すいません、うちちょっと変わってるんで」

「まぁ、いい……。んで、父ちゃんに言われたのか。剣道をやらなくてもいいだろって?」

「はい、そんなに頑張る必要はない、と言われました」

「そうか……。母ちゃんは」

「母は外資系の会社で働いてて、今は海外勤務なんです。たまに帰ってきます」

「あ、そう……。航は……あれだよな。剣道やりたいと思ってやってんだよな?」

「はい」


 すぐに返事をすると、織田はホッとしたように頷き、缶コーヒーを口にする。


「……ならいい。航、部活ってのはやりたい奴がやるもんなんだ。航が剣道が好きで、やりたいって思ってるならそれは立派な理由だよ。それから、これは今話してもなかなか難しいことかもしれないけどな、頑張ってる奴にしか見えないもの、わからないものってのはどうしてもあるもんだ」


 織田の言った言葉がすぐには理解できなくて、航は頭の中でもう一度その言葉を反芻(はんすう)した。織田はさらに続けて言う。


「たとえば、誰かにそれを笑われて、無意味だと言われることもある。そういう人に理解してもらうのは……ちょっと難しいかもしれない。それは自分とは見てるものが違うってことだからな。でも、これだけは言える。お前が今、一生懸命考えて、毎日、汗水流してやってることに無意味なことなんか一つもない。剣道で教わることも、高校生活も、部活動も、いつか全部がお前の身になる。こうやって悩んでることも全部だ」

「身に、なる……」

「そう。食いもんみたいなもんだよ。それは意味がないようなもんでも、みんなちゃんと身になっていく。だから今、剣道を続けることや頑張ることに対して、意味を無理に探さなくてもいい。それはみんなお前の身になって、結果として意味のあるものになっていくから」


 身になる。それを航は頭の(すみ)にメモ書きした。なにひとつとして、意味がないことはない。剣道も、部活も。すべてが無駄ではない。織田の言葉に航は途方もない安心感を得る。体中の力が一気に抜けていくようだった。


「はい……」

「航の頑張ってる姿を見てりゃ、そのうち、父ちゃんにもわかるかもしれない。今は見えなくても、航と同じものがきっと見えてくるさ」


 約一時間ほど経って、航は織田の部屋をあとにした。自分でも驚くほど体が軽く感じる。織田がくれた言葉は、航が想像していた答えとは少し違っていたが、十分だった。もし今度、父の良治に「そんなに頑張って剣道をやる必要はない」と言われてしまっても、「今はこれでいい」と胸を張って言える気がした。

 浬はきっと今頃、部屋でひとりで、心配をしているだろう。叱られたわけじゃなかったと、早く教えてやらなければ、と思いながら航は彼の待つ部屋へ戻る。ところが、部屋にはどういうわけか、大地と楓までが(そろ)って、航の帰りを待っていた。


「航! おかえり!」

「ただいま。……どうしたんだよ、みんな(そろ)って」

「いやぁ、楓と遊びに来たら、航、先生に呼び出しくらったって聞いたからさ。帰ってきたら慰めてあげようかなーと思って待ってたんだよ」

「大丈夫だったのか? 航、先生になに言われたんだ?」


 大地だけではない。楓までもが航を心配してくれている。しかも、彼は浬と大地に釣られたのか、いつの間にか『朝比奈』ではなく、『航』と呼んでくれていた。それが妙に新鮮で、航は思わず笑ってしまった。


「なに笑ってんだよ……?」

「いや、なんでも」


 名前で呼んでくれるんだな、などと言い出したら、彼はきっと恥ずかしがって、もう二度と下の名前でなんか呼んでくれないかもしれない。もっとも、そんなことは航としてはどちらでもいいわけだが、その変化は嬉しいものだった。これは彼が心を開いてくれているなによりの証拠だ。このまま知らんぷりをしていれば、彼は自分でも気が付かないまま『航』と呼び続けてくれるかもしれない。航はそれを期待した。ただし、楓がそうならば、航もそれに応えたくなるところではある。


「楓、俺のこと心配してくれてたんだな」


 お返しに、というわけでもないが、航も嬉しくなって楓を名前で呼んでみる。すると、彼はそれに気付いたのか、顔を耳まで真っ赤にさせて「別に心配してたわけじゃねえよ」と口を尖らせた。


「ねぇ、それで? 先生の話はなんだったの? 航、怒られた?」


 浬はふたりが名前で呼び合うようになったことなど、気にも留めていない。きっとそれよりも今は、織田の話がなんだったのか気になって仕方ないのだろう。航は彼らに余計な心配をかけないように、なるべく軽い口調で、織田と話した内容を彼らにも話すことにした。







「そうだったんだ……」


 かなり軽く話したつもりだったのだが、浬は航を心配そうに見つめている。大地は航の家族関係や良治のことも幼い頃からよく知っているので、たいして驚いてはいない。むしろ納得していた。楓は――もしかすると、大地からなにか聞いていたのかもしれない。彼は驚いているふうではなく、ただ、淡々と話を聞いていた。


「まぁ、航んちの父ちゃんなら言いそうなもんだよな」

「そうなの……?」

「そうそう。あの人は感情がね、どっかいっちゃってるから。航の家は凪子姉ちゃんで持ってるようなとこあんだよ」

「そっか……」


 確かにそうだ。大地が言ったのは決して大げさではない。航が中学の頃から剣道部に入って、剣道を当たり前にできているのは、姉の凪子のおかげだった。毎日の弁当や試合の応援など、彼女は子どもに興味のない父や母の代わりに、両親役を懸命に(こな)そうとしてくれていた。良治は金銭が必要だと言えば出してくれる。しかし、それだけのことだ。今回の九州遠征もそうだった。


「うちの父さんと母さんは、あんまり子どもに興味ないんだと思う。母さんは仕事楽しくてしょうがないみたいだし、父さんは早く仕事から帰ってきても、メシ食ったらすぐ書斎入っちゃうしな」

「話したりしないのか」

「しないな。必要なことがあれば、つかまえて話すけど」

「たとえば?」

「部活で遠征費が要るとか。金だけは出してくれるんだ」


 楓が(まゆ)を上げる。航もまた、改めて自分で口に出してみると、なんてひどい家族だろうか、と嘲笑したくなる。しかし、同時に織田の言葉を思い出した。すべてが身になる。全部、無駄じゃない。彼の言葉を、航は反芻(はんすう)する。すでに航の中でそれは、安定剤のようなものになっていたのかもしれなかった。






 午後十一時近くなって、大地と楓は部屋へ戻っていった。航と浬はベッドに横になってごろごろとしていたが、そのうちにそれぞれが布団の中に潜る。今、隣のベッドからはごそごそと布団とシーツがこすれる音がしていた。暗がりの中、浬が隣のベッドで寝転がったままこちらに向き直ったのがわかり、航も彼の方を向く。


「航……? 寝てる?」

「いや、起きてるよ」

「そっか。あのさ、航。……さっきの、話……なんだけどさ」


 浬が言いにくそうにぽつり、ぽつりと話し出す。航は良治の話を三人にしてから、彼がずっとなにか言いたそうにしていることは感じていた。


「父さんのこと?」

「うん……。おれさ、少しわかるよ。航の気持ち」


 航はなにも返さなかった。航の気持ちがわかる。浬はそう言ったが、とても本当だとは思えなかったからだ。彼の両親の場合、子どもに興味がないとは考えられない。なにしろ、彼の家族は全員剣道をやっているのだから、そこには日常的な会話も生まれるだろうし、それぞれが深く興味を持つはずだ。しかし、浬は続けて話した。

 

「うちの父さんは、航の父さんの逆っていうか、過干渉なほうなんだけどさ。うちって周りから剣道一家なんて呼ばれて、おれも剣道がやるのがずっと当たり前で育ってきたでしょ。だからなのかなって思うんだけど、おれ、いまだに自分が剣道好きでやってんのかわかんないし、中学の頃は特に、なんで自分が剣道やってるのか、わかんなかったんだよね。でも、父さんは頭ごなしにやれって言うの。話しても話しても全然わかってくんなくてさ。そういうの、結構つらかったんだ」

「そっか……」

「父さんとはずいぶん喧嘩したし、剣道やれって言われるのも、やるのも嫌だったよ。でも、航と出会ってさ、また剣道やって、今は本当に楽しいし、良かったと思ってる」

「うん」

「正直言うとさ、おれはこの先、兄ちゃんたちみたいにずっと剣道やるのかどうかわかんないんだ。時々、そういうの考えて不安になることもあるよ。今は楽しいけど、それってずっと続くのかなって。こんなこと、父さんに言ったら大変だろうなって思って、そしたらまた、喧嘩ばっかすんのも嫌だなって思ったりする。でも、今は満足してるし、剣道が楽しい。そういうのは、全部航が思い出させてくれたんだ。だから……、その、なんていうか……ありがとう」

「あぁ、いや……」

「航の父さんさ、いつかわかってくれるといいね。航の剣道見てさ、頑張ってるの見て、変わってくれるといいね」

「うん。浬の父さんもな」

「うん……」


 返事をしたあと、浬はふわあ、と大きなあくびをした。


「眠いなら、もう寝たほうがいいよ。浬」

「うん……。寝る。話聞いてくれて、ありがと……」


 それはこっちのセリフだ。そう言おうと思ったが、ほどなくして、彼の静かな寝息が聞こえてくる。航は頬を(ゆる)めた。浬は航を元気づけるために自分の話をしてくれたに違いなかった。状況は違っているが、彼もまた悩んでいたのかもしれない。

 航が剣道をやっているおかげで、今の自分がいる。だから、そこに意味がないことは絶対にない。浬がそう言ってくれているように感じたのは、気のせいではないはずだ。


「ありがとな、浬……」


 もう眠ってしまった彼にそう言って、航は目を閉じる。明日の朝も早く起きなければならない。明日こそチームで一勝挙げような。航は心の中で、浬にそう言ってから、ゆっくりと眠りがやってくるのを待った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。


いなば海羽丸

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