20【部活ノート】~小笠原浬~
部活ノートを始める、市立船戸高校剣道部のお話。
浬視点で、お送りします。
ホテルの部屋に荷物を置いたあと、腹を空かせた市立船戸高校剣道部の一同はロビーへ集まった。そのまま織田に連れられ、ホテルから歩いて数分のとあるラーメン屋へ入る。
入り口付近から、むわっと鼻をつくような異様な匂いがして思わず呼吸を止めたが、店内へ入ると不思議なことにその匂いはさほど気にならなかった。あとから聞いたが、この匂いは豚骨ラーメンの店では割と普通なのだそうだ。店内はまだ昼どきとあってにぎわっていたものの、幸い奥の座敷の大テーブルが一つ空いていて、一行はその席に着く。
テーブルの上には割り箸と、紅生姜と、なにやら黒っぽいおしんこのようなものがサービスで置いてある。大地がそれを高菜だと教えてくれた。大地の祖父は、福岡県福岡市内に住んでいるらしく、高菜にも豚骨ラーメンにも馴染みがあるらしかった。
「替え玉は無料だぞ。どんどん食えよ」
織田が言った。替え玉、というものがどういうものなのか、浬はよく知らない。だがなんとなく、麺のお代わりのことだろう、と予想する。ほどなくして織田はメニューをろくに見ないまま、手を挙げた。
「おねえさん、すんませーん。豚骨ラーメン、十二個お願いします。あと餃子六人前ね」
「はぁい、どうもね。お待ちくださぁい」
年配の女性が注文を取りに来て、それから驚くほど早く、ゆらゆらと湯気の立った黒いラーメン鉢が、次から次へと運ばれてくる。織田は、運ばれてきたそれに、すぐに紅生姜と高菜をこれでもかというほど入れた。これが博多ラーメンに入れると抜群に合うのだそうで、浬も織田の真似をして入れてみる。市鷹や将鷹も、みんな同じく、紅生姜と高菜をラーメンに入れている。
「いただきます!」
全員の声が揃った。浬はすぐに麺をすする。以前テレビで、ラーメンを食べるときはまずスープから飲むべきだと、ラーメン好きの芸能人が話していたが、今はそんな余裕もない。浬はもう腹ペコだった。固めストレートの細麺と、濃厚な豚骨スープが絡んで、これが実にうまかったが、うまいと言葉にするのも忘れて、夢中ですすっては食べる。やがて、麺を食べ終えようかという頃になって、隣にいた航が言った。
「先生! 俺、替え玉したいです!」
「え……。航、もう食ったのかよ? はえぇな……」
「航。お前、ちゃんと噛んでるか?」
斎藤と羽柴が笑みを引きつらせている。航は、ほんの少しだけ首を傾げ、頷いた。
「……たぶん!」
「たぶん、かよ」
途端に笑いが起こった。見れば、航はもうすっかり麺を平らげてしまって、餃子に箸を伸ばしている。それを見て、織田は満足げに笑みを見せた。
「よおし、食え、航! おねえさん、こいつに替え玉してやってください。あとオレもね」
「はいはい。やっぱり大きい子はいっぱい食べるねぇ」
「せ……っ、先生、おれも! おれも替え玉します!」
航に負けじと浬も声を上げる。すると、年配の女性が奥から「はいはい、替え玉、全部で三人ね」と言って、ラーメン鉢を持っていった。
結局、浬と航は二回、それ以外はみんな、一回の替え玉をした。一行は満腹になってラーメン屋を出る。
「おなかいっぱいだ……」
パンパンに膨らみ、重くなった腹をさすりながら、浬は航と同じだけの量を食べたことに勝手に満足していた。航に憧れを抱き、彼に近づきたい浬にとって、その背丈は本当に羨ましいもので、彼と同じ量を食べれば、背も少しは伸びてくれるような気がしたからだ。ただし、やはりちょっと調子に乗って食べ過ぎたかもしれない。
「浬、胃袋すっげえ出てるな」
航がくすくす笑っている。浬は頬を膨らませ、航の脇腹をくすぐった。「おい、ふざけんのやめろよ」と言いつつも、航は負けじとくすぐってくる。そうして、ふたりで歩きながらじゃれ合っているうちに、後ろを歩いていた雑賀に厳しいお叱りを受けた。
そうこうしながら、一行はホテルのちょうど目の前までやってきた。時刻はまだ午後三時半だ。
このあと、なにするんだろ……。今日はトレーニングもなさそうだし、ミーティングでもするのかな……。
と、そう思った時。織田が「あっ、そうだ」と声を上げた。
「おい、ちょっと全員集合」
「はい……」
こんなところで、突然どうしたのだろうか、と市鷹をはじめ、全員が不思議そうな顔をして、織田の周りに集まる。浬も航と顔を見合わせて眉をしかめた。
「いいか、お前ら。今までと同じことを今まで通りやっていたら、同じ結果しか出ない」
織田は突然、そう言った。やはり話の意図がわからず、浬はひたすらに織田を見つめ、彼の言葉を待つ。
「イチ。お前はたしか、稽古の日記、つけてたよな?」
「はい。マサもつけてました」
「そうか……。よーし、今日からみんな、部活ノートをつけるのを習慣にすること。ノートに毎日の稽古を振り返りながら分析したり、反省を書くんだ」
「……はい」
やや間があったのは、織田の提案があまりに突然で、あまりに面倒そうだと思ったからだろう。実際、浬も同じように思った。しかし、市鷹と将鷹が分析ノートをつけていたことを知って、それが決して無理ではないということと、ノートをつけていれば彼らのように強くなれる、という保証はされているような気はする。
「ノートはオレがあとで用意して持って行くから。一、二年生は今日の夜九時までに提出。――あぁ、三年生はいいからな」
「はい……!」
「市鷹と将鷹に書き方をよく教わっとくんだぞ。七時の夕飯までは自由時間にするが、ストレッチとマッサージ、よくしておけよ」
「はい!」
返事を聞くなり、織田は先にホテルの部屋へ帰っていった。残された一同は、市鷹と将鷹の顔を不安げに見つめる。
「イチ先輩、部活ノートってなんですか?」
浬は訊く。稽古の日記、と織田は言っていたが、それが具体的にどんなものなのか、想像もつかない。航もまたそれは同じように思ったようで、浬と同じくきょとんとして市鷹を見つめていた。市鷹は将鷹と顔を見合わせ、それから同時に頷いた。
「そうだな……。とりあえず、みんなおれたちの部屋に集合しようか。そこで説明するよ。きっと先生がノート買ってきてくれたら、おれんとこに渡しにくるだろうしさ」
「わかりました」
そういうわけで、ひとまず剣道部一同は市鷹、将鷹、毛利の部屋へ向かうこととなった。市鷹たち三人の部屋に着くなり、市鷹と将鷹はカバンの中を漁り始める。その中からそれぞれノートを取り出して、三つ並んでいるベッドのうち、真ん中のベッドの上へそれを置いて開く。浬たちは自然と円形になって市鷹と将鷹を囲うように座った。三人用の部屋は案外広く、剣道部員全員がいても、さほど窮屈には感じなかった。
「部活ノートってのは、簡単に言えば日記だ。おれたちはまず、日付と天気を書いて、最初に今日習ったことを書く。ここは注意されたことでもいい。次に、改善するにはどうしたらいいかを分析して書く。最後に今日一日の感想を好きなように書く。――そうだなぁ。言ってみれば、日記とレポートを足したみたいな感じかな。全体的にはこの最後の感想が、一番割合として多くなってくると思う。なにか質問あるか?」
市鷹は自分のノートを広げ、指を差しながらそう説明してくれた。真剣に聞いていたものの、まだ頭で十分に理解できず、なにを聞けばいいのかわからない。しかし、その隣で大地は、待ってました、とばかりに手を挙げた。
「あの、イチ先輩!」
「はい、大地」
「オレはなにを書いたらいいんですか?」
確かに、と浬は思う。彼はマネージャーなのだから、剣道を習うわけではない。みんなのサポートをするだけだ。書くことはあったとしても、みんなに比べて圧倒的に少ない。それは部活ノートを書いたことのない浬にもなんとなく想像できた。しかし、市鷹は言う。
「大地はそう言うと思ってた。織田先生は、三年生は書かなくていいって言ってたけど、大地に関してはなにも言ってなかっただろ。ってことは、大地には書いてもらいたいって思ってるんだよ」
「やっぱ、そうっすよね」
織田は大地にとって部活の顧問であり、叔父でもある。彼が大地にも書いてほしいと思っていることは、わかっていたようだ。
「たださ、先生はあえて大地になにも言わなかったんじゃないかな、って思うんだ。そこをまさに考えてほしいっていうか、先生が指示するものを書くんじゃなくて、マネージャーとしての考えを見たい、やり方を見たいって思ってるんだよ」
「マネとしての、やり方か……」
大地は難しい顔で首を捻る。すると、今度は将鷹が言った。
「要するに、お前は相当、信頼も期待もされてんだよ。なにも言わなくても、自分で考えてあれこれ書いてくるだろうって思われてんだ。変に考えないで思ったこと好きに書いてみればいい。これは正解を考えて書くようなもんじゃないんだから」
将鷹が言うと、大地は「はーん」と納得したように声を出した。浬も同様に納得し、頷く。そうだ。確かにこれは正解を導き出して書き、提出するような宿題ではない。書く内容は自分自身のこと。つまり、大地の場合はみんなをサポートすること、そういう自分と向き合って書けばいいだけのことだった。航は大地の隣でニヤリと口角を上げた。
「お前の得意なやつじゃないの?」
「っぽいね。ついに、オレの実力が試されるときが来たってわけだ」
「……大地の得意なやつってなに?」
「いやいや、なんでもないよ」
「こっちの話」
ふたりの会話の意味がイマイチわからず、浬は口を尖らせる。すると、航は浬に「あとで話すから」と耳打ちをした。
そのあとも、疑問があった者はそれぞれ挙手をして市鷹に質問を続けた。部活ノートがどういうものなのか、なんのために書くのか。質疑応答の中で、浬たちは少しずつ理解を深めていく。
「今日の稽古を振り返るってのは、今日の自分と向き合うことと同じだ。強くなる上でそれはすごく大事だと思う。反省点を見つけるのも、失敗を成功に繋げるためにはどうしたらいいか、その方法を見つけるのもそうだけど、その日の自分と向き合って考える必要がある。でも、それを自然に、当たり前にできる奴は少ないだろ。このノートは考えて向き合うことを習慣づける、訓練みたいなもんだって思っておけばいいよ」
「なるほどな。イチとマサの強さの秘訣はそれだったんだなぁ」
毛利が感心したように言う。しかし、マサが首を横に振った。
「いや、正直言うと、オレらだって毎日つけてたわけじゃない。余裕ないときは寝ちゃって書かなかったことなんかいくらでもあるんだ。別に強制されてやってたわけじゃないしな。でも羽柴たちはこれから毎日だろ。慣れるまでちょっと大変だろうけど……、しっかり頑張れよ」
「そうだなぁ。でも、続けてればそれは、絶対になにかになる!」
「そうそう、そうだ! 毛利、いいこと言うじゃんか!」
書かなくていい、と言われた三年生はみんな、余裕たっぷりだ。それを恨めしそうに見ながら、「いいっすよねぇ、先輩たちは気楽で」と斎藤が口を尖らせる。彼はきっと面倒な宿題が出された、それも毎日、とでも思っているのだろう。その気持ちは浬にもわからなくはなかった。しかし、不意に航が言う。
「斎藤先輩の今日のテーマは、ムラがあるのはどうすれば治るか、ですよね」
「航……っ! お前な……」
「斎藤、航の言う通りだぞ。お前今日、一本も取ってないんだからな」
「う……」
羽柴の口調は冗談のようにも聞こえたが、彼はおそらく、大真面目に言ったのだ。そもそも、それは事実だった。今日の斎藤は全くいい場面がなく、織田は彼の試合中、ずっとため息を吐いては首を傾げていたのだから。
「わかってるよぉ……。ちょっと調子出なかったの、今日は」
「そういう所を直すのに、どうするのか考えなきゃいけないんだろ」
「へいへい」
斎藤は次期副部長と決まっている。もう、この九州遠征が終わってしまえば、三年生は本当に引退し、稽古には来なくなる。遠征にも練習試合にも参加しなくなる。その後、彼は羽柴と一緒にこの部を引っ張っていかなければならない存在になるのだから、もう少ししっかりしてもよさそうなものだが、彼はあいかわらず自由で、どことなくふわふわしたところがあり、試合にはいまだにムラが目立っていた。
「じゃあ、ノートが来たらみんなしっかり書けよ。そうだな……、羽柴がまとめて九時までに先生の部屋に持って行った方がいいかもな」
「わかりました」
「くれぐれも、夕飯食べたあと、ノート書くの忘れて寝たりしないようにな」
「はい」
「特に斎藤」
市鷹に言われて、斎藤が肩をすくめる。その数分後、織田は大学ノートを八冊買ってきて、市鷹の部屋に届けてくれた。
さて、ひとまず浬たちには自由時間が訪れたが、誰しもがそれを喜んではいられない。一人一冊、ノートを持ち、それぞれは神妙な面持ちで各部屋に戻ることになった。
夕食の時間までの自由時間、浬と航はそれぞれのベッドにうつ伏せになり、部屋で部活ノートを書いていた。ふたりは同じ部屋だ。さっき、市鷹に説明された通りに日付から書き始め、今、約一時間が経過している。終わったら互いに声をかける約束をしたものの、まだどちらもそれはできずにいた。
「ねぇ、航」
「んー?」
「どんくらい書けたぁ?」
「今、一ページ弱……かなぁ」
「えっ、もうそんなに書いたの!」
浬は慌てて起き上がり、航のノートを覗いた。そこには、間合いの攻防や、福岡海城学院高校の素早い攻め方等について細かく書いてある。浬はため息を吐いて、自分のノートに目を移した。
「いいなぁ。おれまだ半ページもいってないよ……」
「浬は戦績良かったからな。書くことなくて困るんだろ」
「違うって。おれ、文章書くの、そもそも苦手なんだよねぇ」
そう言って、再び自分のベッドに戻り、シャープペンでペン回しを幾度かしてから、続きを書く。九州勢の間合いの速さや技のキレに驚いたことや、技の選択よりも、その前の間合いの攻防が大事だとわかったこと。明日は彼らのスピードにもっと慣れて、チームとしての勝利を得たいと思ったこと。しかし、そこまで書いてやっと一ページ弱である。
「もうこんな感じでいいかなぁ……」
「俺は終わったよ」
得意げにそう言って、航は浬の隣にやってきてノートを覗き込んだ。自分が書いたものを見られるのは少し恥ずかしい、とは思ったものの、見せてもらった手前、彼に見るなとは言えない。浬は真剣に自分のノートを読んでいる航の顔色を窺った。
「……どう?」
「なんだ、全然書けてんじゃん。こんな感じでいいんじゃないの?」
「そうかな。おれ、ちゃんと分析できてる?」
「できてる、できてる。な、あとで大地たちんとこ遊びに行こうよ。俺、あいつのノート見たい」
「そうだね! おれも大地のノート気になる」
さっき航は「大地の得意なやつ」の詳細を教えてくれた。彼は幼い頃から分析力に長けているらしく、趣味は人間観察だと言っても過言ではないらしい。小学生の頃、自由研究で人間観察日記を書こうとして家族の大反対を受け、アリンコ観察日記になってしまった話はちょっと笑ってしまったが、それを見事に書き上げて賞まで受賞したとは驚きだった。
おそらく、大地はマネージャーとしての意見や感想、それに部員の気になった様子などを事細かに書いているに違いない。また、選手としてではなく、マネージャーという立場での彼の考え方には、浬自身、興味があった。
ふたりは揃って大地と楓の部屋へ向かう。ところが、大地も楓もとうに書き終わっていて、すでに羽柴にノートを渡してしまったと言うから落胆してしまった。仕方なく大地のノートは戻ってきてから見せてもらうことにして、ふたりは羽柴の部屋へ行って、ノートを提出する。
「これが毎日続くって考えると、結構大変かもしんないけど、慣れたら当たり前になるのかなぁ」
「かもな」
いつか部活ノートを書くことが当たり前になって、自分を分析し、向き合うことに苦を感じなくなったとき、自分はどれほど成長しているのだろう。今よりも強くなっているだろうか。それを想像しながら、浬は航と部屋へ戻る。だがその途中、不意に航が言った。
「なぁ、浬。あのノートさ、先生は読んでくれるんだよな」
「そりゃそうじゃない? なんで?」
「いや、返事とか書いてくれたりすんのかな……って思って」
「どうなんだろね? わかんないけど……。航、返事が欲しいの?」
「あぁ、いや。別にそうじゃないけどさ。どうなのかなって思っただけ」
織田が自分たちに部活ノートを書けと言って、しかもそれを提出するように言っておいて、読まないなんてことは絶対にない。それは聞かずともわかりきっていることのはずだ。航にしては妙なことを聞く、と浬は首を傾げたが、彼はそれ以上なにも言わなかったので、特に気にもしなかった。
「ねぇ、返事書いてくれたらさ、部活ノートも案外楽しいかもね。ほら、先生と交換日記するみたいでさ」
浬の冗談に、航は笑みを見せる。だが、気のせいだろうか。その時の彼の笑顔はどこか、いつもとは違って、硬く見えたような気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。
いなば海羽丸




