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18【九州へ】~朝比奈航~

九州遠征へ向かう、市立船戸高校のお話。

航視点でお送りします。

 夏といえど、午前四時はまだ薄暗い。この薄暗さはどこか夕暮れのようにも思えるが、真っ暗で静まり返った校舎や体育館、人気(ひとけ)のない気味悪さのせいで、今は夜中と朝の間なのだと、確認させられる。ここは普段の学校とはまるっきり違う場所のようだ。

 夏休みが始まってから約数日が経った七月の下旬。やっと空が白んできた明け方、市立船戸高校剣道部は、校内の駐車場でマイクロバスに荷物を詰め込んでいた。防具袋に竹刀袋、アタッシュケース。その他、約一週間分の旅の荷物が、顧問の織田の分も含めて十二人分。


「おーい、荷物積み終わった奴からさっさと乗れよー」

「あっ、はい!」


 まだ朝方のせいか、市鷹の声が少しかすれている。無理もない、なにしろ今は、午前四時なのだ。航は自分の荷物を後ろのトランクへ入れると、バスに乗り込んだ。

 いつも通り、運転するのは顧問の織田である。一番前の座席にはおそらく市鷹が、その後ろには将鷹と毛利が座る。さらにその後ろには羽柴、斎藤、佐伯、雑賀と続く。航たち、一年生が座るのはそのまたさらに後ろだ。航は佐伯と雑賀が並んで座っている座席の後ろが空いていることを確認すると、そこへ座った。

 この遠征に、やはり伊達は参加をしなかった。それどころか、夏休みに入ってからというもの、彼は一度も道場へ顔を出していない。なんでも、国立大学の医学部を目指しているのだそうで、この休み中は予備校に通うらしかった。


 航にはそういった経験はない。しかし、彼がこの春に受験戦争を(ひか)えて忙しくなるのだろう、ということは漠然(ばくぜん)とではあるが、想像できた。

 部員の中には伊達がいない寂しさを口にする者も少なくなかった。もちろん航もそこは同じだ。もう二度と彼がこの道場で稽古をする姿は見られないかもしれないと思うと、途方もなく寂しくなる。けれど、これは彼自身が望んで選択した道だ。彼以外の人間がそれに対してとやかく言う権限などない。航たちにできるのは、彼を見守り、応援してやること。ただ、それだけだった。


「航!」


 不意に、明るい声がバスの中に入ってくる。浬だった。彼はまだ明け方だというのに、まるで昼間のようなテンションで航に声をかけた。


「ね、隣、座っていい?」

「あぁ、うん。いいよ」


 航が頷いてそう答えると、浬はたちまち嬉しそうに笑みを見せて、隣に腰を下ろした。それに釣られて、航も頬を(ゆる)める。

 彼はずいぶんと楽しそうだ。まだ一ミリも動いていないバスの窓から外を(のぞ)いて「明け方の学校ってなんか気味悪いねぇ」などと言いながら笑っている。窓から見えるのは明らかに見慣れた風景なのに、そのすべてを初めて見るかのように、浬ははしゃいでいた。


「……浬、窓際(まどぎわ)来るか?」

「いいの?」

「うん、いいよ」

「やった! あ、でも……、ずっとそっちじゃつまんなくない? 途中で交換にしようか? それかじゃんけん!」


 目の前で拳を振っている浬を見て、航はくくっ、と笑った。首を横に振る。それから立ち上がって窓側へ移るように(あご)をしゃくった。


「俺はいいから、こっち座っていいよ」


 航が言うと、浬は少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめ、だが、素直に従った。もっとも、この席に一人で座るなら、窓側にいた方がきっと退屈しないでいられる。なにしろこのマイクロバスは、ここから大阪まで走るのだ。


「でも、ずっとそっちじゃ飽きちゃうでしょ?」


 その通り。大阪までの道のりは、気が遠くなるほどに長い。しかし、浬が横にいれば、航はそれだけで退屈しないだろう。座る場所は関係ない。きっと珍しい風景や有名な観光地を通るときなんかは、彼が気付いて、逐一教えてくれるに違いないし、そのたびに彼は好ましい反応を見せてくれるはずだ。


「俺はいい。浬見てるだけで飽きないし」

「そうなの?」

「うん」


 浬が少し照れくさそうに、へらっと笑う。そうして、再び窓の外を満足げに眺めはじめた。やがて、大地と楓がバスに乗り込んできて、航たちのすぐ後ろの席に座った。これで全員が(そろ)ったはずだ。市鷹は航たちの席までやってきて、指差し確認をすると、織田のいる運転席へ向かって、まだかすれている声を張った。


「先生、これで全員です!」

「よーし、そんじゃあ出発するぞ! 途中、何度か休憩するけど、トイレ行きたい奴は早めに言えよ。高速乗ってるときはすぐ降りられないからな」

「はい!」


 航たちが声を(そろ)えて返事をすると、バスのエンジンがかかり、昇降ドアがビーッという音を出して閉められる。浬が(のぞ)いている窓の外の景色がゆっくりと動き出し、だんだんとスピードを上げて校内を出る。航たちを乗せたマイクロバスは、まず、大阪に向けて出発した。


 さて、大阪までの道のりは遠いとわかってはいたが、これが本当に遠かった。もうずいぶん走ったはずだと思いながら、今、現在バスが走っている場所を特定しようとケータイのマップで確認すると、まだ関東圏からも出ていないのだ。やっと神奈川県に入った辺りだとわかり、航は小さくため息を吐く。

 織田の話では、この先の海老名サービスエリアで一度、休憩を取るということだったから、ひとまずそこまでは我慢だ。そういえばそろそろ昼どきで、腹も減ってきたところだった。


 学校から出発して数時間経った今、バスの中はにぎやかだった。部員たちのしゃべり声が聞こえている、ということももちろんあるが、誰よりも織田が市鷹や将鷹に話す声が一番大きく響いている。彼もまた、初めての九州遠征に興奮を隠しきれないのかもしれない。

 浬もまた、はじめのうちは窓の外を見てはしゃいでいたが、やがてバスが高速道路に入ると、景色も特段珍しいものはなくなったせいか大人しくなっていた。しかし、そのうちに彼はなにかを思い出したように「あっ」と声を上げる。


「ねぇ、航? そういえばさ、おれ、いっこだけ今回の遠征でよくわからないことがあるんだけど」

「なに?」

「持ち物の中に、水着って書いてあったじゃん。あれってなんに使うのかな?」


 なんに使うのか、と聞かれても、航もこの遠征ヘは初めて参加するわけで、知るはずもない。考えられることと言えば、トレーニングに使う、ということぐらいだった。


 今回、玉竜旗剣道大会の前日には錬成会が行われるが、その前々日、つまり二日前からは、福岡海城(かいじょう)学院高校との練習試合が予定に入っていた。聞けば、そこでは織田の大学時代の先輩が剣道部顧問を(にな)っているらしく、今回の玉龍旗大会への招待も、実はその人物が一枚噛んでいる、というのだ。


 練習試合といってもその内容は実に様々で、高校によっては稽古の後に試合をしたり、一緒にその高校のトレーニングに参加したりすることもある。だから航はおおかた、その高校ではプールでのトレーニングを予定していて、水着が必要なのではないか、と予想した。

 そうは言っても、航もこの遠征準備をする際、持ち物の中に『水着』があったのには首を傾げた。おそらくそれには誰もが戸惑っただろうが、きっと、福岡海城学院高校にはプールがあって、トレーニングでも予定しているのだ、と思えばなんとなく納得した。いや、むしろそれ以外は考えられなかった。


「俺もよくは知らないけど、プールトレーニングでもあるんじゃないのかな」

「なんだぁ、トレーニングかぁ……。おれ、海水浴に行けるのかと思った」


 浬のあまりに能天気な発想に、航は思わず笑みを引きつらせる。たしかに、航たちがこれから訪れようとしている場所、福岡は海には近いが、さすがに遠征に海水浴の予定もないだろう。


「それはないだろ。さすがに……」

「そっかぁ。ちょっと期待してたのにな」

「海水浴?」

「うん」

「プールトレーニングだって同じようなもんだよ。水着で泳ぐんだから」

「そうかなぁ……。でも海の方が楽しいじゃん。カニとかヤドカリとか、生き物がいるし。プールにはいないもん」


 浬はしょぼくれてため息を吐いている。ちょっとかわいそうになってしまうが、それでも「もしかすると、海水浴かもね」とは言えない。そもそも航たちは九州に泳ぎに行くのではなく、剣道の試合をしに行くのだ。


「まぁ、遠征なんだし仕方ないって」

「うん……」


 すると、不意にその会話の途中、後方から笑い声がした。航は立ち上がって後ろの座席を(のぞ)く。


「なに笑ってんだよ、大地」

 

 笑っていたのは大地だった。大地は口元を手で押さえて、必死に笑いをこらえているようだったが、笑い声はしっかり漏れていた。きっと彼は、航と浬の話に耳をそばだてていたのだ。


「いやいや。カイちゃんって可愛いなぁと思っただけ」

「浬はほんと、能天気すぎるよな。頭ん中に絶対、花咲いてるだろ」


 楓もそう言って(あき)れている。航もそれには同感だった。浬は楽観的で、能天気で、(あき)れるほどポジティブだ。だが、そういうところがある彼だからこそ、一緒にいてホッとする。不安なとき、落ち込んだときも前向きになれる。航はそういう浬が大好きだった。


 隣にいる浬に目をやる。浬は口を尖らせて「どうせおれは能天気ですぅ」と不服そうにふてくされている。航は子どものようにヘソを曲げる彼の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。

 そのうち、バスは車線を左に変更し、スピードを落とした。そのままゆっくりとカーブを曲がる。織田が声を張った。


「海老名だ。ここで昼メシ食うぞー!」


 ようやっと海老名サービスエリアに到着したらしい。ひとまず、腹ごしらえだ。航はまだ少し不機嫌そうな浬の肩を叩いて立ち上がった。


 海老名サービスエリアを出て、約数時間バスに揺られ、市立船戸高校剣道部一行は、大阪港へと到着した。時刻は夕方の四時半を回っている。航は(まゆ)を上げた。夕方の四時半。つまり、このバスに乗ってからすでに十二時間が経過している、ということだ。途中いくつかのサービスエリアで休憩をとったと言っても、これはとんでもない長旅だった。

 ただし、今回このルートを取らなければならなかったのには、おそらく織田の気遣いがある。そう話していたのは航の姉である、凪子だ。

 この遠征では旅費や宿泊費を、すべて部費からは(まかな)えない。不足分は、生徒の保護者が負担してくれている。そのため、金額が高くなればなるほどその負担は増えてしまう。織田は金銭的な負担を減らす策として、あえて新幹線や飛行機は使わずに、車とフェリーという最安で旅費を抑えられる交通手段を選んだのではないか、と彼女は話していた。


 大阪港から出港するフェリーの乗り口には、大勢の乗客が並んで待っている。その半数が航たちと同じ高校生だった。彼らはおそらく剣道部だろう。みんな、背中や腕に高校名の入った(そろ)いのジャージに身を包んでいる。あまり聞いたことのない高校名もあったが、その中には全国的に有名なスポーツ強豪校の名前も多かった。明らかにがっしりとした体つきの彼らを見るたび、航は途端に緊張した。みんな、航たちと同じく、玉竜旗剣道大会へ出場するためにここにいるのだ。


「航、後ろ見て。TL学園だ」


 耳元で、浬が(ささや)く。浬も彼らの存在に気が付いていた。すぐ後ろでは、高校野球などでよく知られる強豪校、TL学園の剣道部が乗船を待っていた。


「みんな一緒にこれに乗るんだね」

「そうだな」


 航たちのジャージの背中にもまた、市立船戸高校剣道部と書かれている。全員同じ紺色のジャージだ。これを見れば航たちが誰なのか、なんのためにここにいるのか、彼らにもわかるだろう。気のせいか、否か。彼らの視線が背中に向けられている気がして、航は浬と顔を見合わせて肩をすくめた。



 やがて航たちは列に並んでフェリーに乗船した。船の中は意外にも広く、レストランや売店がある。聞けばゲームセンターや大浴場もあるということだ。航はフェリーというものに乗ったのはまるっきり初めてだったが、まるでホテルのようなそれには感心してしまった。

 まずは宿泊する部屋へ行き、荷物を置く。部屋は八帖ほどの広さがあったが、天井が妙に低く感じた。もっとも、船室というものはよほど高級な部屋でない限りは、こういうものなのかもしれない。


「いいか。夕食は十八時半からだ。十分前になったらレストラン前に集合。それまでは自由時間な」


 各自、荷物を部屋に置いたあと、市鷹がみんなを集めて言った。どうやら夕食はさっき(とお)ってきた、あのレストランで食べるらしい。航はみんなと声を(そろ)えて返事をする。ところが、その直後。


「自由ですか?」


 浬が()いた。見れば彼は、目をキラキラさせて市鷹を見上げていた。市鷹は頷いたが、すぐに怪訝(けげん)そうな顔をして、まるで浬の行動を抑制するように言う。


「言っておくけど、ゲームセンターはだめだぞ」

「ゲームセンターに行きたいんじゃありません。船のデッキに出たいんです。行ってきていいですか?」


 それを聞くなり、市鷹はホッとしたように頷く。


「なんだ、デッキか。いいよ」

「やった……! 航、行こ!」

「――えっ」


 思わず声をあげた。だが、浬はそう言うが早いか、航の手を取って二階へ続く階段を駆け上がる。航は彼を制止することもできず、手を引かれるまま船のデッキへ出た。


 デッキへ出ると、すでに船は動き出し、港をあとにしていた。夕暮れの海は沈む太陽に照らされて、キラキラと輝いている。もう梅雨も明けているというのに、吹く海風は爽やかで気持ちがいい。まだ港に近いせいだろうか。波が飛沫(しぶき)をあげても、潮の匂いはほとんどしてこない。


「気持ちいいー! 見て、どんどん港が遠くなってくよ!」


 浬は次第に小さくなっていく港を指差し、はしゃいでいる。航は海の上、行く先を見つめた。自分たちはこれから、全国的にレベルの高い剣士たちが多いとされる地を目指すのだ。そこで行われる錬成会や大会で、自分たちの力がいったい、どれほど通用するのかわからないが、とにかくがむしゃらに戦ってみるしかない。いや、たとえ通用しなかったとしても、なにかしら学ぶことができればいい。そもそも、これはそういう遠征であるはずだ。結果を出すために行くのではない。少しでも強くなるために、経験を積む。それはおおいに意義のあるものだ。

 しかし、そう思いながらも、航には頭から離れない声があった。それはこの遠征への参加希望を出したい、と父の良治に話したときのことだ。





「なに、九州に遠征?」

「うん。今回はちょっと金がかかるんだけど、行きたいんだ。……出してもらえないかな」


 航はあの日、仕事を終えて帰ってきた良治に遠征の予定表を見せて言った。良治はそれをちらりと目にすると、一瞬、(まゆ)を上げ、ほとんど表情を変えないまま()いた。


「ふうん……。金は出してやるけどな、いい加減にしてよく考えろよ、航。今、その高校で剣道を頑張ることになんの意味がある? なにもないだろ」


 それを聞いて、はい、はい、すみません、わかっています、お金を出してください、と言えば、彼の小言はほんの数分で済む。ちょっと我慢すればいいだけのことだ。しかし、航はそれを大人しく聞き流してはいられなかった。


「父さん、意味はあるよ。俺はこの高校で剣道やって、全国に行くって目標があるんだ。今はやっとチームもまとまって――」

「あぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。父さんはな、剣道なんか頑張ってやって、なんになるんだと聞いてるんだ。剣道はオリンピックにもない競技だろ。頑張ったあとはどうするんだ。警察官にでもなるのか?」

「そういうのはまだ決めてないけど……」


 航は将来のことまで見据(みす)えて剣道をやっているわけではなかった。ただ、剣道が好きで、稽古も楽しくて、憧れの先輩の背中を追いかけて、浬や大地、楓たちと最高のチームを作って、てっぺんを目指したい。その夢があって続けている。その先のことは、今はまだなにも考えていなかった。

 良治はそういう答えが返ってくるとわかっていたのか、お前はそうだろうな、と言わんばかりに頷いていた。


「頑張るのはなにも悪いことじゃない。でも、そんなに頑張ったってしょうがないと言ってるんだよ。お前が高校で結果を残したって、それがなんになる? 将来的にそれが自分の就く仕事に直接的に繋がるわけでもない。高校でちょっとだけ剣道を頑張った子も、全国へ行くまでものすごく頑張った子も、みんな警察官になれるんだ。まぁ、警察官に限らず自衛隊でもいいし、学校の先生でもいいが、とにかく強くなることに意味はない。そういうスポーツだろう、剣道というのは」

「意味がないなんて、そんなことない!」


 強くなることには意味がない。そう言われてしまえば、航も黙っていられなかった。しかし――。


「なら、剣道で強くなれば、それで食べていける道があるのか?」


 良治はとても穏やかに、じっと航を見つめて()いた。彼はきっと航がなにも言い返せないことを知っていただろう。今、航が剣道に打ち込むことで、将来的にはそれを仕事にすることができるのか。そうでなければ、なぜそこまで頑張る必要があるのか。そこになんの意味があるのか。航はその答えを知らない。だから、答えることもできない。父にはそれを見透かされていたのだ。






 剣道を頑張る、意味――か。


「航? ねぇ、航?」


 しきりに名前を呼ばれて、航はハッとする。そして、ここが今、海の上だということに気付いた。飛沫(しぶき)を上げる波をぼんやり眺めていると、意識がそこに吸い込まれてしまいそうで、だが、そうしているのもなぜか悪い気分ではなくて、航はぼんやりと考えていた。隣には浬がいて、航の顔を不安そうに(のぞ)き込んでいる。


「なに?」

「なにじゃないよ、急に下向いて黙り込んじゃったから、気分悪いのかと思って心配しちゃった」

「ごめん、ちょっと考えごとしてた」

「考えごと?」

「うん」


 良治は約束通り、ちゃんと遠征費を出してくれた。しかし、金銭的な協力はしてくれてもそれだけだった。茶封筒に『遠征費』とだけ書かれたそれを渡されたとき、航は良治に「好きにしろ」とでも言われているように感じた。間違いなく彼に応援されてはいないことだけはわかった。


「考えごとってなに?」

「いや――。別にたいしたことじゃないんだけどさ……」

「そうなの?」


 浬はまだ心配そうだ。航は小さくため息を吐いた。全く、どうして自分はこんな面倒な考えごとをこの遠征に持ってきてしまったのだろう。こんなものは家に置いてくるべきだったのだ。悩むのは遠征が終わった後にするべきで、家に帰ってから、そういえばそうだった、と思い出して考えればいい。これでは遠征中、試合をするにも稽古をするにも邪魔になってしょうがない。

 けれど、いくら振り払おうとしても、良治に言われた言葉は、航の頭の中に張り付くようにしてこの遠征についてきていた。あのとき、なにも言い返せなかったことが悔しくてたまらなくて、忘れられないのだ。


「ねぇ、なんかあったの?」


 顔を(のぞ)き込んでいる浬を見て、ふと考える。親にこんなことを言われるのは自分だけなのだろうか。浬や楓、大地や羽柴。ほかの仲間もみんな、一度は同じような質問をされてここにいるのだろうか。あるいはそのとき、親が納得させるだけの答えを出した者はいるのだろうか。たとえば浬は、どうなのだろうか。


「……俺、浬にさ、ちょっと()きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「浬は今、なんのために剣道頑張ってるかって聞かれたら、なんて答える?」

「えぇ? なんのためって、そりゃあ航たちと全国行くために決まってるじゃん」


 浬の答えは、航が良治に言ったそれと全く同じだった。それには少し安堵(あんど)しながらも、悟る。彼は両親に「剣道を頑張る意味はなんだ」などという質問は受けていないのだ。そもそも彼は、小笠原家の人間だった。赤ん坊の頃から当たり前に剣道に関わりのある環境で育ってきて、剣道を頑張る意味もへったくれもない。


「……そうだよな」

「どうしたの? 急に」

「ううん、なんでもない。よかった、俺も同じだった」

「そっか。頑張ろうね、玉龍旗!」


 浬がその大会名を口に出したとき、周囲からの視線を一斉に受けた気がした。しかし、今はそれに構わずに頷く。

 航が剣道に打ち込む意味はある。それは、浬をはじめとした仲間がいるからだ。みんなと同じ目標を持っているから。その先のことはわからなくてもいい。そう自分に言い聞かせる。この考えごとは、良治の質問に対する答えは、今は捨て置こう、と。


 だが、いくらそう思ってみても、頭の片隅にある良治の声は決して消えてくれなかった。やはり、この考えごとは九州まで持って行くしかないようだ。せめてこの遠征の途中、その答えが見つかればいい。デッキの上で沈んでいく夕日を見つめながら、航は思う。


 剣道を頑張る意味……。俺にはまだその答えがわからないけど、でも、絶対にある……!


 船は海風を受け、波しぶきを上げ、穏やかな瀬戸内海を迷いなく進んでいた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。


いなば海羽丸

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