17【朗報】〜小笠原浬〜
インハイ終了後の、市立船戸高校剣道部のお話。
浬視点でお送りします。
インターハイ県予選、男子団体の部の決勝戦は、兜山高校の圧勝で終わった。敗れた桂浜高校は兜山高校相手に、四ポイントも勝ち点を取られてしまったのだ。先鋒から副将まで一本ずつ綺麗に取られ、桂浜高校は無残にも敗北した。
唯一、一本を取ることができたのは、大将の細川だけである。彼はあの武田を相手に一本を先取し、その後取り返されたものの、そのまま引き分けていた。それはいかに彼が強者であるか。その証としては十分な結果だと誰もが信じて疑わなかったはずだった。
一方で、その翌日行われたインターハイ県予選、個人の部は、市鷹が三位入賞、将鷹がベスト八、毛利と伊達は二回戦敗退という結果で幕を閉じた。市鷹は準決勝で桂浜高校の主将、細川と対戦することになったが、三度の延長戦のすえに惜しくも敗れてしまった。また、将鷹は兜山高校の武田とあたり、準々決勝で敗れる、という結果になった。
激しい闘いのすえ、市鷹に勝利して決勝へ進んだ細川の相手は将鷹を負かした武田だった。彼は先にも述べた通り、前日の団体戦でも武田と互角の戦いを見せていたが、準決勝での市鷹との三度の延長戦がよほどこたえたのか、実に呆気なく武田に一本を取られてしまった。前日よりもさらに激しい戦いになる、と思われて期待されていた決勝戦だったが、思いのほか、短時間で終了してしまったのである。
そういうわけで、個人戦でインターハイへの出場権を得たのは、千葉県立兜山高校の武田だ。それはおそらく、誰もが想像していた通りの、順当な結果だった。
インターハイ県予選が終わったあとも、学校での稽古はこれまでと同じように行われた。
市鷹の号令で稽古が始まり、将鷹や毛利や伊達がいてくれる。大会前となんら変わらない稽古風景のせいなのか、浬もおそらくは航も、もちろん楓や大地も、三年生がもう間もなく引退してしまう、ということを実感できないでいた。しかし、六月が終わる頃。学校ではどの学年も、期末テスト期間に入る。梅雨明けも間近になり、夏らしい晴れの日が続くようになれば、着実に夏休みが近づいている気配を誰もが感じるようになる。夏休みが来れば、三年生は引退だ。それを思えば、漠然とした焦りはおそらくは誰もが、否が応でも感じるようになった。
ところが、テスト一週間前を切った、ある日の放課後のこと。織田は稽古のあと、部員たちを集合させてある報告をした。それは思いもしなかった朗報だった。
「突然だが、七月の後半に遠征の予定が立ったので、参加者を募りたいと思う。この遠征への参加は自由だ。行きたい奴だけ申し出てくれ」
織田の言葉に誰もが動揺していただろう。これまで、遠征があればそれに参加するのは剣道部員であれば当然だった。よほどの理由がなければ「行かない」という選択肢はなかったわけで、希望すれば参加できるという形は例がなかったのだ。それにはおそらく市鷹たち、三年生が一番驚いていた。
「三年生は特に、この先は受験シーズンに入るだろうから、無理はするな。本来は予定にはなかったことだからな。出場する大会名は玉龍旗大会。場所は九州、福岡だ」
九州……!
玉龍旗剣道大会という名前は父の志郎から話に聞いたことがあった。それは九州で行われる大会で、全国から強豪が集まる非常にレベルの高い大会らしい。
今現在、剣道会で強者が多く出ることで有名なのは九州である。開催地が近いということも無きにしもあらずだろうが、玉龍旗剣道大会に参加する高校は、比較的、地元である九州の、しかも、強豪校が多い。
まさにそれは、全国レベルの大会なのだ。しかも、大会の前日には錬成会が開かれるので、それに参加するだけでも貴重な経験を積むことができる。
「今から配るプリントを回してくれ。これが一応、予定している遠征スケジュールだ。申し訳ないが、今回は遠征費を少しみんなに負担してもらわなきゃならない。親御さんにしっかり話をして、相談して決めてくれ」
「はい……!」
部員のほぼ全員が返事をした。浬は回ってきたプリント用紙の一枚を取り、隣にいる楓に渡す。それには、七月下旬から約一週間に亘る遠征のスケジュール、費用などが書かれていた。
「初日は早朝に出発、移動にはいつも通りマイクロバスを使う。その日の夕方には、大阪に到着する予定だ。大阪から福岡までは、フェリーでの移動となる。福岡到着は翌日の朝だ」
ここまで遠方へ赴くのは、初めてだった。浬は、家族旅行でも本州を出たことはなかったし、中学時代の修学旅行だって、西方面へは京都と奈良くらいまでしか行ったことがない。
すごい……。九州遠征……!
九州へ行く。それだけで浬の胸は高鳴っていた。しかも、この遠征に三年生が参加するとなれば、錬成会や大会の団体戦にもまた、一緒に出場できるということだ。
最後にもう一度、先輩たちと一緒に戦えるんだ……! 絶対行きたい……!
ふと隣を見ると、航もまた目を輝かせて配られたプリント用紙を見つめている。彼もまた、浬と同じ気持ちなのだ。
「航」
声をかけると、彼はすぐに浬に振り向いてしっかりと頷いた。
部活が終わったあと、浬は航や楓、大地と一緒に帰路についた。途中、よく寄り道で利用するファストフード店へ入り、ハンバーガーやポテトを注文して、空腹を満たしながら話し込む。話題はもちろん、九州遠征についてだ。
「まさかこんなタイミングで遠征が決まるなんて思わなかったね!」
「しかも玉龍旗だもんな」
「ねぇ、大地は知ってたの?」
「いや、オレも知らされたのは昨日の夜だよ。壮一さんが電話くれてさ」
「そっかぁ」
浬は楽しみで仕方なかった。参加できるかどうかは、まず帰宅して両親に話してからでなければわからないが、きっと承諾してくれるはずだ。むしろ心配なのは「応援についていく」なんてことを、志郎が言い出さないかどうかだ。
「先輩たちも、きっとみんな行くよね! 早く当日にならないかなぁ」
そう言った途端、目の前に座る航の表情が曇った。そういえば彼はさっきからずっと難しい顔をしていて、口数も少なくなっていた。
「ねぇ、航も行くよね!」
「あぁ、うん……」
「どうしたの、航。もしかして不参加希望?」
大地が訊いた。浬は、まさか、と不安になったが、航がすぐにかぶりを振ったのを見て、ホッと安堵する。
「俺は行くよ。でも、先輩たちが全員行く……とは限らないと思う」
「なんで」
楓が訊いた。彼は頬杖をついて面白くなさそうに航を見つめているが、彼がなぜそう言ったのか、それの理由については関心があるようだった。
「俺、この前のインハイの個人戦でさ、伊達先輩の付き人したろ。そのとき、ちょっと話したんだけど、伊達先輩はもう大学では剣道やらないって言ってたんだ」
「そうなの? なんで?」
意外だった。先日聞いた話では、市鷹と毛利は大学への進学を希望していた。ふたりは大学へ行っても剣道部に入部するつもりらしい。また、将鷹は警察官になるため、警察学校を受験するのだという。みんな、高校を卒業したあと、進む道は違っているようだったが、しかし剣道を続けるということでは共通していた。だからてっきり、伊達もそのまま剣道を続けるものだ、と浬は思っていたのだ。
「燃え尽きたって言ってた。それに、ここまでやってきたのはイチ先輩たちがいたからで、みんなでインハイに行きたくて、それだけで頑張ってきたけど、剣道そのものが好きっていうのとは先輩は……、ちょっと違うかもしれないってさ」
「でも、それって、団体の翌日だろ。試合に負けたあとで単純にそういう心理状況になってただけじゃないの?」
大地が言う。さすが、ごもっともな意見だ。自分の敗北を受け止めきれなくて、一時的に剣道に対して、否定的になっている可能性はおおいにあり得る。しかし、航はかぶりを振った。
「そういうわけでもないみたいなんだ。知ってるか? 伊達先輩のお父さんって、開業医なんだって」
「へぇ。……あ、そういうこと」
「開業医だと、なんなんだよ」
また、楓が突っ込んで訊いた。楓以外の浬と大地は、すでに航の言葉の意味を理解していたのだろう。ふたりは揃って楓に説明を始める。
「開業医ってことはさ、伊達先輩もお医者さんになるってことだよ、きっと」
「そうそう。父親のあとを継ぐんじゃない? オレもよく知らないけど、医者ってのはそういうもんらしいよ」
「ふうん……」
説明はされたものの、楓はなにかまだ腑に落ちないようだった。
「でも、お医者さんになるんじゃ伊達先輩、受験大変そうだね。医学部目指すってことでしょ。さすがに遠征行ってる場合じゃないか」
浬は受験戦争を想像し、肩をすくめる。医学部に入るとなれば、生半可な勉強量では無理だ。きっと来る日も来る日も受験勉強に明け暮れ、予備校に通い詰めなければならないだろう。その名の通り、春までは戦争だ。それくらいは浬にもわかる。
「……だろうなぁ。だから、この前、燃え尽きたって言ってたのは、一時の感情だけじゃないと思うんだ」
「航が実際に先輩と話してそう思ったなら、きっとそうなんだろうね」
「なんとなくだけど、寂しそうだったからさ。剣道は高校までって、俺たちが入学するよりも前から、先輩は決めてたのかもしれないな」
航と浬、大地が話しているのを楓はじっと見つめて不服そうに鼻を鳴らす。このところ、彼が航に対して異常に突っかかることは少なくなってきたように思っていたが、まさか、また始まってしまったのだろうか。浬は楓をジトッと睨む。すると、楓も浬に怪訝そうな目を向けた。
「なんだよ……。睨むなよ」
「楓こそ。なんでさっきからそんな仏頂面してるの」
「仏頂面?」
「そうだよ。イライラしてるじゃん」
「別にそういうんじゃない。たださ……、あのメンバーで大会に出られるのは最後になるわけだろ。医者になるとか、受験とか、そういうのも大事なのかもしれないけど、これで本当にこのチームで戦えるのは最後だってのに、それを辞退するなんて、普通しないだろ」
楓はそう言って鼻を鳴らす。そして「オレなら、受験よりチームを優先するけどな」と呟いた。それにすぐ反応したのは大地だった。
「おやぁ? 珍しいんじゃない? 楓の口からチームがどうの、なんて話が出るの」
大地はニヤリと口角を上げる。航はきょとんとした顔で楓を見つめながら、ストローに口をつけていた。一方で楓は、かあっと顔を赤く染めている。確かに、彼の口からチームを重んじるような発言を聞いたのは初めてかもしれなかった。
「そりゃ……、オレだってこの前の大会でぼーっとしてたわけじゃねえよ。チームの大切さはわかってる。高校入ってから、先輩たちにそればっかり言われてるしさ」
彼の言葉で、浬は察する。楓が変わろうとしていることを。――いや、半年前、入学当時に比べて彼にはすでに明らかな変化があった。羽柴に諭されて、佐伯や雑賀の話を聞いて、市鷹たち三年生の背中を見て、彼なりに考えてきたことがあるのだろう。個人競技と言えども、団体戦はあくまでチームで戦う、ということや、チームメイトとの関係性、絆がいかに大切か。航へのつまらない嫉妬や悔しさという感情に支配されてはいけない、このままでいいはずがないと、彼も理解しているのだ。
「そうだよね。楓、前に航とはちゃんと話したいって言ってたもんね」
この機を逃すものか、と浬はあえて笑みを見せてそう言った。途端に航は、飲んでいたジュースを噴き出して咳き込み、楓は顔を一層赤くして浬を睨みつける。大地はというと、ニヤニヤしながら楓の隣で彼の脇腹辺りを突いている。
「そうなんだぁ。楓はホントにかわいいとこあるよねぇ」
「浬、お前なぁ……!」
「なにィ? だって言ってたじゃんか」
「それはその……、考えるって言っただけで、オレは別に――ッ」
「だから考えてたんでしょ。航と仲良くできるようにはどうしたらいいか」
「ばッ、ばか! 仲良くしたいなんてオレはひと言も――」
「……北条」
咳き込みながらも、浬と楓のやり取りを見ていた航が静かに楓を呼んだ。大地は頬杖をついてあいかわらずニヤついた笑みを見せて、それを眺めている。浬は楓と目を見合わせたが、楓は顔を赤くしたまま、すぐに顔を背けてしまう。しかし、航は楓から目を離さない。彼の目は真っすぐに楓を見つめていた。
「俺もだ。俺も、お前とちゃんと話したいと思ってた」
迷いのない口調だ。楓はただでさえ赤くなっている顔をさらにかぁっと赤くして彼から目を逸らし、窓の向こうを見つめている。
「そ、そうかよ……!」
「うん。北条、頼む。今は先輩たちもまだたくさんいるけど、いつかは俺たちでチームを作っていかなきゃいけない。そこにお前が必要なんだ」
浬はごくりと唾を飲んだ。航がこんなに真剣な目で楓を見るのは初めてで、話しているのを見たのも初めてだった。大地は――というと、ずいぶんと余裕ぶった表情で目を伏せ、何度も頷いている。
それからしばらく四人は黙っていた。航も楓の返事を待っているのか、なにも言わなかった。ところが――。
「まぁ、そりゃ……、剣道は五人いないと団体には出られないもんな。補欠だって必要だし、辞められても困るしな」
「楓……!」
吐き捨てたような言葉だった。なんだって彼はそういう言い方をするのだろう。浬はこの期に及んで、まだ航に嫌味を言う楓を鋭く睨む。しかし、航はそれでも冷静に、浬を宥めるように言った。
「その通りだ。北条は間違ってないよ」
「航……」
「俺たちはきっとそのうち、同じチームで戦うことになると思う。そのときには北条が頭数としても、戦力としても絶対に必要になるよ。俺は今、お前のことをあんまりよく知らないし、正直、別に好きでもない。だけど……」
大地が笑みを引きつらせた。なんて口下手なのだろう、と呆れているのかもしれない。この状況で決して言わなくてもいいことを、航は今、口に出してしまっている。案の定、楓はいつもの調子で航をバカにしたように笑った。
「は……っ、そうかよ! オレだってなぁ、お前のことなんか――」
「だけど俺は、一緒に戦う仲間のことは、好きになりたいと思ってるんだ!」
航の声が、店内に響き渡る。それまでほかの客の話し声で騒がしかった店内は突然しいん、と静まり返った。もちろん、浬と楓、大地の三人も言葉を失っていた。周囲の客の視線が浬の体のそこかしこに刺さっている。きっと航も楓も、大地も、みんな同じように感じているはずだ。厨房の奥では、ポテトが揚がったのを知らせるアラームが鳴り響いている。
すぐに店内にはにぎやかさが戻ったが、四人はいずれも口を開かなかった。――いや、唯一。楓だけが呆気に取られて口を半開きにして、航を見つめていた。やがて、航は続けて言った。
「だからさ、俺はお前のことちゃんと知りたい。ちゃんと話して、俺にどっか気に入らないところがあるならそれを直したいし、チームメイトとして、信頼してもらえるようになりたいし、俺も信頼したい。そういう仲間が集まらないと、強い奴らには勝てないと思う」
航はそう言うと、ストローに口をつけ、再び黙って楓を見つめる。言いたいことは言った、あとはお前だ、とでも言っているかのように浬は感じて、楓に目をやった。楓はあいかわらず顔を真っ赤にしていたが、ほどなくしてふうっと深く息を吐いてから、静かに話し出した。
「……そういうとこがムカつくんだよ」
「そういうとこ?」
「いつも冷静で、なんでもわかったような顔してさ。本番に強ぇのかなんだか知らねえけど、お前、試合に出りゃ調子が狂うことなんかほとんどないだろ。中学の頃から、お前を見ると勝ち目ないって思わせられて、いつもムカついてた」
そんなに前から彼を勝手にライバル視していたのか、と浬は呆れる。彼はよくも悪くも一途だ。いや、執着心が強い、と言った方が正しいかもしれない。昔から浬を幼馴染として大事に思ってくれているように、彼は中学時代から一度ライバルだと決めつけた航の存在を飽きもせず、追いかけているということである。
「楓……。そんなにずっと、航に執着してたんだ……」
「うるさいな……! だけどオレだって、チームメイトとしてやっていかなきゃいけないってのは、もうわかってるっつってんだよ! 先輩たちにも散々諭されて、半年考えたんだ。だからその……、オレも……、お前と同じだよ……!」
顔を耳まで真っ赤にさせながら頬を掻く仕草で、彼がやっと航と向き合おうとしていることに、浬は確信を持つ。大丈夫だ。楓は変わる。これでチームの全員が同じ方を向いて、ひとつになる。強くなれる。しかし、浬としてはもっと具体的な言葉を彼から聞きたいところだった。
「同じって?」
「同じは同じだよ!」
「なにがどう同じなの?」
「だから……っ、オレも朝比奈のことちゃんと、その……っ」
「その?」
浬と大地が冗談めかして煽る。そうしなければ、彼はきっと肝心なことは言わないままだ。それをおそらく、大地もわかっているのだろう。
「だから……っ、好きになってやってもいいってことだよ!」
大地はひゅうっと口笛を鳴らす。浬はやっと素直になった楓を見て安堵し、眉を上げた。四人は再び周囲の客の視線を浴びるが、彼らはすでに慣れてしまったようにおしゃべりを続けている。――いや、どこからか、くすくす笑う声が聴こえているので、もしかしたら多感な高校生たちだ、と囁かれているのかもしれない。
楓はもうその場にいるのも堪えられなかったのか、カバンを持って席を立つ。浬はそれを慌てて引き留めた。
「ちょっと、楓……! どこ行くの」
「うるさい! もうオレは帰る!」
「おい、ちょっと待てって」
航が慌てて追いかける。だが、楓はそのまま一度も振り返らず、そのまま店を出て行ってしまった。まるで彼は、こんな辱めを受けてこの場にいられるか、とでも言うようだった。
「あーあ、行っちゃった……」
「だねぇ。カイちゃん、追わなくて大丈夫?」
「大丈夫でしょ。あれ、恥ずかしがってるだけだろうから。それより、楓が変わってくれそうでよかったよ」
浬は心底ホッとしている。年がら年中イライラしている楓も、楓の当たりの強さにじっとこらえている航も、見ているのは本当につらかった。同学年がたった四人しかいないチームメイトの中で、雰囲気が悪いなんて最悪だ。だいたい、そんなチームは強くなれるはずがない。
「ほんと、助かったよなぁ。オレ、九州行ってまでギスギスしたふたりの仲介役とかやりたくないもん。絶対面倒くさいじゃん」
「おれもー!」
浬は大地と顔を見合わせ、冗談めかして笑う。航は席へ戻って名残惜しそうにガラス張りの窓の向こうを眺めていた。
「良かったね、航」
浬が言う。航は笑みを零して嬉しそうに頷いた。
その日の夕方、浬は自宅へ戻ると真っ先に台所へ行き、母の洋子に遠征の予定表を見せた。洋子は二つ返事でそれを承諾してくれた。こういうとき、父の志郎がいると大騒ぎになって大変面倒なのだが、幸い、彼は道場の稽古に出かけていた。
「九州に遠征なんてすごいじゃない。やっぱり強豪校は違うねぇ」
「すごいよね! しかも玉竜旗に行くのは今年が初めてなんだって!」
「へえ。でも遠征ってみんなでずっと一緒にいるんでしょ? 楓くんと朝比奈くんは大丈夫なのかしらね?」
洋子にはふたりが――というよりも、楓が一方的に航に突っかかっている、ということを話してあった。洋子はそれを聞いて「あの子らしいわ」と笑ったあと、「楓くんは昔から人一倍、負けず嫌いな子だったからねぇ」と、幼い頃を懐かしむように言った。それから少しだけ心配そうな顔をした。しかし、もう大丈夫だ。彼はすでに航を仲間と認め始めている。浬が含み笑いをすると、洋子は眉をしかめた。
「なにかあったの?」
「それがね、今日、楓もやっと素直になってくれてさ、航と仲良くなりたいって言ってくれたんだよ!」
「あら! よかったじゃない。――でも、楓くんのことだからどうせ仲良くなってやってもいい、なんて強気な言い方したんでしょ?」
浬は笑みを引きつらせる。さすがは洋子だ。赤ん坊の頃から浬と一緒にいる彼の成長を、そばで見てきただけのことはある。
「まあね……。でも楓もさ、ずっと航に突っかかってたけど、これからはチームメイトとして仲良くするって言ってたし、とりあえずこれで、ひと安心だよ」
「それじゃ遠征楽しみだね。――あ、父さんには一応話しておくけど、ちゃんと自重するように言っておくからね」
「ありがとう!」
そこは重要である。まさかとは思うが、父、志郎ならそれをやり兼ねない。浬の応援に九州まであの大旗を持ってついてこられるのだけは勘弁していただきたいものだ。
「父さんがついてきたりしたら、みんなにも迷惑かけそうだから、しっかり言っといてね」
「そうだね……! 任せて」
くすくす笑いながら洋子は頷き、ガスコンロの上で鍋を温めている。やがてツンと鼻をつくようなスパイスの香りが部屋中に広がった。今夜はカレーだ。思い出したように、腹がぐう、と情けない音を出している。帰り道の途中、ファストフード店に寄ってハンバーガーとポテトをしっかり食べたというのに、そんなことはまるでなかったことのように、浬は今、腹ペコだった。
「お腹減ったぁ……」
「もうちょっと待ってね。今日はいっぱい作ったから、おかわりもできるよ」
「やった! あ……、ねぇ、夏休みさ、兄ちゃんたち帰ってくるって?」
「さぁ……。なにも聞いてないけど、お盆休みには帰ってくるんじゃない? どうしたの、突然」
「ううん。ちょっと聞きたいことがあったからさ」
浬はそう言うと、洗面所へ手を洗いに向かった。浬には兄が二人いるが、どちらもすでに家を出ている。現在大学四年生の長兄は遠方の大学へ通っているので、寮生活だ。また、大学一年生の次兄も彼を追うようにして同じ大学へ入学したので、同じく寮に入っている。
彼らは当然のように剣道を続けている。おそらく彼ら自身、好きでそれを続けている。ただし、この家にはたとえ剣道を嫌いになっても、辞める、という選択肢はないし、一度、浬のようにそれから離れたとしても、結局は切っても切れない縁がある。浬にはちょうどそういう自分と、開業医の家に生まれた伊達が似ているように感じていた。
彼は開業医の家に生まれたから。医者になることが当たり前だから。親の跡を継がなければいけないから医学部を目指す。医者になる。それを辞めることは許されない環境にいるのだ。もし、それから無理やり離れたとしても、結局は家族と血が繋がっているように、当たり前にその縁があるのだろう。おそらくだが、伊達はそれをあらかじめ覚悟した上で、剣道部に入ったのかもしれない。期限を決めて、部活動に打ち込んでいたのかもしれない。
では、我が兄たちはどうなのだろうか。彼らはただ剣道を好きで続けているように見えても、どこかこの家に生まれたことで、諦めや覚悟を[[rb:陰 > かげ]]でしてきたのだろうか。浬はそれを聞いてみたかったのだ。
航と一緒に全国へ行く。それが今の浬の目標である。――いや、今や航だけではない。楓や大地、羽柴や佐伯、雑賀たち、顧問の織田。みんなと、このチームで、上を目指したいと浬は思っている。だが、その先は決まっていない。二年後、この部を引退した後も剣道を続ける理由が見つかるのかどうか、今はわからない。
――伊達先輩は、イチ先輩たちと一緒に全国行くってだけで頑張ってきたけど、剣道自体が好きっていうのとは違うと思うってさ。
航がそれを話していた時、内心でドキッとした。それはいずれ、自分の口から出る言葉であるような気がしたからだ。しかし、浬には剣道というスポーツと切っても切れない縁がある。彼とは違う。続けることが当たり前なのだ。彼が医者にならなければいけないように。嫌になって逃げたとしても、結局は剣道が自分の人生にかかわってくる可能性は大きい。
兄ちゃんたちは、そういうのどう考えてきたんだろう……。本当に剣道が好きで続けてるのかな……。
「浬ー! なにしてるの、カレー冷めちゃうよ!」
「あ……っ、ごめん! すぐ行く!」
洋子の声がして、ハッと我に返る。慌てて返事をして、まだ濡れたままだった手を拭く。リビングに駆けていく。ひとまず、今は腹ごしらえだ。それが終わったら九州遠征のことを考える。そう頭を切り替えて、浬は食卓についた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。
いなば海羽丸




