16【泣け】〜浅井市鷹〜
悔しさをこらえきれなくなった、浅井兄弟のお話。
市鷹視点でお送りします。
いつも通る学校からの帰り道の途中で、市鷹は自転車を漕ぐのをやめて、立ち止まった。弟の将鷹は、市鷹の前を走っていたが、すぐにそれに気づいたようだ。彼もまた自転車を漕ぐのをやめ、振り返る。
「イチ?」
「……ごめん。おれ、ちょっと寄り道して帰るわ」
無理やり、笑みを作ってそう言った。そうしなければ、きっと将鷹に心配をかけると思ったのだ。だが、そんな必要はなかったのかもしれない。
「オレも付き合う」
「……悪いな」
「別に。寄り道くらい、いつものことだろ」
彼の返した言葉には静かでありながら、強い念のようなものを感じた。それは、絶対に拒むことを許さない、とでも言うような彼の強い眼差しのせいかもしれない。
今、どこへ向かっているのか。市鷹が説明する必要はない。市鷹がなにをするために、なにを考えて寄り道をすると言ったのか、おそらく将鷹はそれをよく知っている。まだ子ども用の竹刀すらまともに持てない頃から、一緒に剣道に携わってきた双子の弟の彼には、心の内の隅々まで見透かされているのだ。
「ありがとう……」
そう答えて、再び自転車に乗った。今度は市鷹が将鷹の先を行く。国道を走り、いつも曲がる方向とは逆の道に入る。緑溢れる桜並木の先、急な坂道を下りていくと、大きな湖に出る。そこは、昔からふたりがよく釣りに出かけた、馴染みの遊び場だった。
「最近、バス釣りも行ってないな」
「そんなヒマなかったろ」
「だよなぁ」
市鷹は自転車を止めて、湖のほとりまで歩く。将鷹はそのあとを追うようにしてついてくる。小学生の頃、ここではよくブラックバスを釣って遊んだ。ザリガニ釣りもしたし、仕掛け網を作って大量に小魚を獲ったこともある。
しかし、中学からふたりは釣りを楽しんでいた時間のほぼすべてを剣道に費やした。元々通っていた道場の稽古と、中学校の剣道部での活動に明け暮れたのだ。
「ここ数年は、ずっと剣道三昧だったもんな」
「あぁ」
「ふたりで全国まで行こうって言ってたのにな。……ごめんな」
こらえたのに、言葉の最後が震えた。気付かれてしまっただろうか。そう思って、隣に立つ将鷹の顔を窺う。すると、彼の鋭い眼差しと視線がぶつかった。
「なんで謝んだよ」
「なんでって、おれのせいだからさ」
「は……?」
チームが負けたのは、俺のせいだ。なんとしてもあのとき――。俺が勝たなくちゃいけなかったんだ……。
兜山高校との準決勝、大将戦。市鷹が勝ちを取りにいかなければならなかったのに、みんなが必死で繋いでくれたものを、市鷹は勝ち取れなかった。ところが、将鷹は不満気げに眉をしかめている。
「バッカやろう。えらそうに言ってんじゃねぇよ」
「マサ……」
「チームが負けたのは、オレらのせいだろ」
強い口調だった。彼は、さも当然だと言わんばかりだ。
「ひとりでかっこつけてんな、バカ」
負けたのは、お前のひとりじゃない。彼にそう言われた気がした。だから市鷹が、お前だけが背負い込む必要はないんだ、と。将鷹はあいかわらず口が悪いが、それが彼の優しさだということを、市鷹がわからないはずがない。
「お前なぁ……。人のことすぐバカって言うなよ……」
「バカだからバカって言ってんだ」
「バカって言った方がバカなんだぞ」
「そうかよ。じゃあオレもお前も、ふたりでバカやろうだな」
彼はああ言えばこう言うし、口が悪くて、けれど、すこぶる優しい。昔から変わらないこのやり取りが、途方もなく心地良かった。市鷹はくす、と笑みを零す。
「そうだな。ふたりでバカだ」
「今日、負けたのはツートップのオレらが一勝もできなかったせいだ。オレが流れを変えて、もっと羽柴には安心させて試合させるべきだったし、お前が代表戦に持ち込むべきだった」
「あぁ……」
「でも、オレらは負けた。最善を尽くして、精一杯やって、届かなかった」
その通りだ。悔しさのあまり、拳をぐっと握る。兜山高校も、武田も確かに強敵ではある。しかし、倒せないことはない。市鷹はそう信じていた。勝てる可能性も、方法も、それだけの力も、確かにあるはずだ、と。だから、最後の一秒まで諦めずに戦ったのだ。それでも、兜山高校には敵わなかった。市鷹はため息を漏らしたが、将鷹は続ける。
「でもさ、今日負けたおかげであいつらは来年、全国へ行けるかもしれない」
「負けたおかげで?」
「そうだ。悔しい思いした奴は絶対に強くなる。羽柴を見てろ、来年あいつはすげえいい部長になって、きっと最高のチームを作る。オレらが行けなかったところまで、行ってくれるって」
「……そうだな」
市鷹は頷いた。羽柴をはじめ、剣道部員の誰もが三年生の思いを引き継いでくれる。その気持ちは今日、航や浬たちの目を見ても、確かに伝わってきた。
また、春先から心を閉ざして部活に来なくなっていた雑賀が今日、大会の応援に来たことも、彼が次の稽古から復帰することを約束してくれたことも、それを物語っている。
「みんなに、気持ちは繋がった……かな」
「当たり前だろ。うちはそういうチームだよ」
将鷹はそれからしばらく黙って、湖面を見つめていた。市鷹もそうしていた。沈黙が流れる中、互いに次に言おうとしている言葉は同じであると市鷹は察している。しかし、それを口にすれば今にも泣けてきてしまいそうで、ためらっていた。
「まぁ、そうは言っても、めちゃくちゃ悔しいけどな。全然、負ける気なんかしなかったしよ」
「……あぁ。悔しいけど、でも……、楽しかったよ」
市鷹は言う。咄嗟に将鷹は天を仰いだ。彼がどうしてそうしたのかをすぐに理解して、目頭は急激に熱を持つ。
「そうか」
「マサと一緒に……、ここまでやってきて……さ」
声が震えたが、懸命にそれを伝える。顧問である織田や、チームメイトたち全員に伝えるそれとは少しだけ重みのある言葉を、市鷹は将鷹に言わなければならなかった。
「……ありがとうな、マサ」
そう言った途端、将鷹が鼻をすすった。おかげでこらえていた涙は、一気に溢れ出てしまった。その様子に気付いたのだろう。将鷹は市鷹に振り返り、すぐに市鷹を抱きしめた。
「ごめんな……。オレ、勝てなくてさ……」
「マサ……」
「最後、だったのに……」
涙声で言う将鷹の腕に、力が籠められている。少し痛みを感じるほど、その力は強かった。
「なんだよお前……、急に謝るなよ……。泣けてくるだろ」
そう言って、笑った。しかし、とうに涙は溢れ出ている。それは止まることなく頬を濡らしていく。本当のことを言うと、泣けてきてしまうのは将鷹のせいでもなんでもない。彼が泣くよりもっと前から、市鷹は泣きそうだった。試合が終わってからずっと悔しくて、泣きたくて、けれど必死にこらえていたのだ。
「オレは……、流れを変えたかったんだ。絶対、変えて羽柴とお前に繋ごうとしたんだ……!」
「わかってる、ちゃんとわかってるよ……」
「クソぉ……っ!」
しがみつかれるような感覚で抱きしめられ、市鷹は将鷹の頭を撫でる。互いに泣きじゃくって抱きしめ合うその光景を道行く人が見れば、変な誤解をされてしまうのかもしれない。好奇なものを見るように、囁かれてしまうのかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。誰かになにを言われようと、変な目で見られようと市鷹は今、将鷹を、必死で戦った弟を、抱きしめてやらなければならなかった。
「イチと、全国行きたかったよ……!」
「おれも。お前と行きたかった……」
全国――。頑張れば、すぐに手に届くように思えたけど……。実際は、ものすごく遠かった……。
将鷹の頭を撫でながら、市鷹は思う。幼い頃から将鷹は変わらない。人一倍負けず嫌いな彼は、試合で負けると、必ずこうして泣いた。他人の前はおろか、両親の前でも気丈にして強がっているというのに、市鷹とふたりきりになると途端に、彼は泣き虫な弟になる。
「マサ、あいかわらず泣き虫だなぁ」
「るせー……っ、イチだって泣いてんじゃねーか……!」
「うん。だって泣きたかったろ?」
将鷹はこく、と頷いた。市鷹は頬を緩ませる。今日、市鷹が寄り道をした理由には、それもあった。たいてい、自分が泣きたいときには将鷹も同じ気持ちだと知っている。しかし、ふたりきりにならなければ、将鷹は泣けない。だから、彼が思う存分泣けるように、市鷹は寄り道をする必要があった。
さらに言えば、将鷹はおそらく、市鷹がそこまで考えていることをも理解している。心の内側でなにを思っているのか。市鷹と将鷹は互いにそれを知っているのだ。
「おれも、ずっと泣きそうでやばかったよ」
「わかってる……」
「今のうちに、いっぱい泣いとけよ。マサ」
「イチこそ、泣けよ……」
将鷹が負けじと返す。市鷹は「そうするよ」と言って、再び将鷹をきつく抱きしめた。こんなに泣いたのも、悔しいのも、本当に久しぶりだ。
「くそお……っ!」
夏の夜。梅雨のこの季節は、昼間の日差しは強くとも、夜風にはまだ涼しさがある。だが、その風が頬を撫でてくれても、ふたりの涙が渇くのには時間がかかった。市鷹は将鷹とともに、溢れ出る悔しさを解き放つように涙を流しながら、彼を何度も、何度も強く抱きしめた。
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いなば海羽丸




