12【インターハイ県予選・準決勝・県立兜山高校】〜朝比奈航〜
インターハイ予選、準決勝。優勝候補の県立兜山高校と対戦するお話。
航視点でお送りします。
「はじめ!」
「うらぁぁあああっ!」
試合が始まった途端、毛利の声が響き渡る。第一試合場には、これまでにないほどの観客の目が集まっていた。航は今、市立船戸高校の控え選手として場外に設置されている畳の上に座っている。ここにいるのは選抜メンバーのサポートや応援をするためであり、航が試合に出る予定はない。それなのに痛いほど観客の視線を浴びて、まるで頭の先から足の裏まで、じっくりと観察されているようだった。もっとも、優勝候補チームを相手にしているのだから無理もなかった。今日、この会場にいる観客のほとんどが、市立船戸高校と戦う兜山高校を観に来ているかのようでもあった。
去年の総体みたいだな……。
そう思うと途端に悔しくなった。我が市立船戸高校剣道部をそう簡単に倒せると思わないでいただきたいものだ。大番狂わせが起きて、会場がざわつくのを、航は想像する。天地がひっくり返るようなそのシーンを、早く見たくてたまらない。
「いいか。渋く行けよ……」
隣で市鷹が懇願するように言った。毛利の相手は、多田という選手だった。なんでも彼はまだ二年生でありながら、ほかの三年生を退けて選抜メンバーになったのだそうだ。『来年の主将は間違いなく多田だろうな』と、試合直前に将鷹は呟いていた。
「……胴ーーーーッ!」
鍔迫り合いの後、鈍い音がしたのと同時に、多田は下がりながら残心を取っていた。しかし、明らかに当たっていなかったにもかかわらず、観客席からは「おおっ!」と声が上がる。
「忌々しいな。ったく、あの応援のせいで大していいとこがなくても、兜山のペースになっちまうんだ」
将鷹はそう言って、向かいの観客席を睨みつける。市鷹も眉を上げ、肩をすくめた。おそらく、兜山の応援組は注意喚起を受けない、ギリギリのところを狙っている。そうやってホーム試合のような雰囲気を作り出し、会場中を巻き込んで無理やりにでも兜山高校のペースにしてしまうのだ。
しかし、それは決して応援として間違いではない。ギリギリでもルールを守っているということでは問題はないし、全国制覇を狙う強豪というのはたいていがそういう応援スタイルだった。
「そうイライラすんな、マサ。向こうの思う壺だぞ。それにああいう学校は全国区行きゃいくらだっている。ああいう奴らを黙らせない限りは、そこへは行けないってことだ」
織田が正論を言った。将鷹をはじめ、そこにいる全員が、仕方なしに返事をした。市立船戸高校が同じことをしても、兜山高校には応援では敵わない。そもそも人数が倍以上いるのだ。拍手の音だけでもそれは大きく違っていた。
「大事なのは惑わされないようにすることと、惑わせることだ」
「惑わせる……んですか?」
「そうだ。応援組も選手も人間だからな。思った通りにいかないと不安になるのはオレたちと同じだ。向こうをそういう精神状態にするためには、イチが言った通り、渋い試合をするしかない。八重高んときの逆だ」
逆、か――。
航は「渋く行け」と言った市鷹の言葉を真に理解した――が、ちょうどその時だ。兜山高校の先鋒、多田が一足一刀の間合いから飛んだ。
「面りゃぁあああッ!」
「小手ぇッ! 小手だぁぁあああッ!」
「おおっ!」
毛利と多田の声が響く。面に飛び込んだのは多田。その出鼻を狙ったのは毛利である。これでもかというほど声を張り上げ、毛利は残心を取っていた。しかし、一本にはならない。その隙に多田は、勢いをつけて毛利に迫る。
「まずい……!」
このまま攻められることを許せば、絶好のチャンスを相手に与えるのと同じだ。しかし、毛利はそこから素早く体勢を立て直した。迫る多田に対して深く一歩攻める。
「メーーーーーンッ!」
「おおしっ!」
毛利と多田は互いに面に飛び込んだ。相面だ。航は思わず声を上げ、拍手を送る。ふたりが残心を取るが、上がったのは赤い旗が一本。白い旗が一本。主審は相打ちだと判断したのか、旗を上げずに左右に振っている。
「くっそぉ……」
「相面、良かったですけどね……」
「さすがにここまでくると旗が重いな……」
斎藤も市鷹も悔しそうに毛利の試合を見つめながら、膝に置いた手を強く握っている。隣では織田が一度だけ唸り声を出して、腕を組み直していた。
なかなか旗が上がらないことを、剣道界では『旗が重い』と言うことがある。剣道の審判は人間だ。機械ではないので、まれに間違いが生じる。それを防ぐためか、公式戦で勝ち上がって行けば行くほど、一本と認められる基準は厳しく、且つ慎重に判断される傾向があった。
「できれば、ここで一本が欲しいんだがな……」
不意に織田が言う。そうなのだ。この兜山高校の要は次鋒、中堅、大将の三人。それ以外の先鋒と副将のふたりだって、さっき対戦した八重木高校以上の強者だが、要の三人よりは幾らか一本を取りやすい。こちらとしては、その三人をなんとか潰して、先鋒と副将で勝ち点を取りに行きたいところだった。
「せぇぇやぁぁあああ!」
「うらぁぁあああッ!」
鍔迫り合いで声を張り上げるふたりを見つめ、航は生唾を飲む。もう半分ほど時間は過ぎた頃だろうか。いや、もっと経っているかもしれない。
「面ッ! 面だぁぁあああッ!」
「小手ぇッ!」
互いに引き技を打って双方が分かれ、再び間合いからの攻防が始まった。毛利は相手を刺すように攻める。多田も攻める。ふたりの距離が近づく。だが、一瞬互いの動きが止まった。次の瞬間だった――。
「メーーーンッ!」
「小手ッ、コテぇぇえええッ!」
「おおっ!」
面に飛び込んだのは、多田だった。それに対して毛利が狙ったのは出小手。打突の瞬間、バグッ! といい音がしたのを聞いて、誰しもが一本だと信じた。しかし、旗は上がらない。いや――ほんのひと呼吸あってから、一本上がった。見れば主審は白い旗を上げている。副審の一人は先ほどと同様、旗を下ろしたまま横に振っているが、もう一人は白い旗を上げた。
「小手あり!」
「っし……!」
思わず航は声を上げる。毛利の出小手が一本と認められた。市立船戸高校にとって、今この一本が認められるか認められないかは、重要なのだ。この後の試合展開にも、チームの勢いにも、なにもかもに影響がある。
「よし。もうあと、一分もないはずだよな」
「はい。三十秒も怪しいです」
「よし、このまま行ってくれ! 毛利先輩!」
航は斎藤とともに時間切れの機械音が鳴り響くのを待つ。ほどなくして、待ち焦がれた高い音が鳴ると、観客席からは拍手が降るように聞こえてきた。航ももちろん、割れんばかりの拍手を送る。
「やった……っ!」
「すっげえ! 毛利先輩、兜山の先鋒に勝っちゃったよ!」
「斎藤」
浮かれる航と斎藤だったが、不意に織田が斎藤を呼んだ。斎藤はきょとんとして織田の方を見る。航は、もしや「騒ぎすぎるな」と叱られるのではないかと肩をすくめたが、織田はこちらには目もくれずに話し出した。
「多田はまだ二年生だ。斎藤、お前と同じ歳だ」
「は、はい……」
「あいつは来年もいる。そのとき、やり合うのはお前かもしれないんだ。あとでビデオ見てしっかり研究しとけよ」
「は、はい……」
斎藤は急にしょぼんとして、ため息を吐いた。航も織田の言葉には恐怖を感じざるを得ない。今、毛利がほぼ互角で戦い、死に物狂いでやっと一本を取った選手、多田は、まだ二年生。来年もまだ選手として活躍しているのだ。
今だってめちゃくちゃ強いのに……。バケモノみたいになってそうだな……。
間違いなく彼は稽古を積み、成長してさらに強くなっているだろう。それを思うと、航は手放しで喜んでもいられない。
「勝負あり!」
毛利と多田が開始線に戻り、蹲踞をして、試合場を去っていく。その直後、入れ替わりに伊達と兜山高校の次鋒、秋山が試合場へ入っていった。まもなく、次鋒の試合が始まる。会場中がざわついていた。誰も予期しなかった市立船戸高校の勝ち点獲得には、観客も相当、戸惑っているのだ。しかし、これは非常に耳に心地良かった。どうだ、市立船戸高校は強いんだ、と胸を張ってひとり、ひとりに言って回りたくなるほどに、航は誇らしい気分だった。
「はじめ!」
主審の声で、次鋒の試合が始まる。航は先ほどよりも期待感を膨らませて、伊達と秋山の試合に釘付けになった。最初に打ち込んだのは秋山だった。
「小手ッ、面ッ!」
「おおっ!」
観客席と、兜山高校のメンバーから一斉に声が上がる。先鋒の試合では途中からずいぶんと大人しくなっていた彼らだったが、次鋒の試合から、また気を取り直したかのように派手な応援をし始めていた。当たってもいない技でも大げさに反応して、まるで一本であるかのような拍手を送る。全く鬱陶しいことだ。
伊達は足を巧みに使いながら、秋山を攻めている。いつもより念入りに、慎重に間合いを詰めているようだ。一方で、秋山は伊達をじっと見据えているかのように間合いを取っていた。
「昔から思ってたんですけど、秋山先輩って小さいですよね」
「うん。たしか、百六十……三とかだよ」
「ですよね。だって明らかに、浬より小さいですもんね」
だが、その身長の低さも全く気にならないほど、彼は中学時代から強かった。もちろん、高校に入ってから多少は背も伸びているだろうが、それでも小柄であることには違いない。しかし、なぜだろう。威圧感をこんなにも感じる。ここは試合場外だと言うのに。
俺がここで、これだけの威圧感を受けてるってことは、伊達先輩はもっと感じてるってことだよな……。
伊達もまた、さほど背丈は高くない。だが、浬と同じくらいはあるはずだから、秋山よりは背が高いはずだ。それでもきっと感じていることだろう。秋山の持つ迫力と威圧感を。
伊達がダンッ、ダンッ、と足で床を鳴らす。すでに間合いは一足一刀にまで近づいているので、ここで相手の反応を窺っているのかもしれない。しかし、秋山は目立った反応は見せないで、攻め返すようにして伊達の竹刀をぐっと押さえた。
「小手ぇッ!」
押さえられた竹刀の反動を使って、伊達が小手を打ったが、それは簡単に竹刀で受けられてしまう。そのまま伊達は、秋山の懐に潜り込むようにして近付き、鍔迫り合いになった。
なにが恐ろしいかと言えば、近間で動きを止めてしまうことだ。このレベルの相手となれば、近間という中途半端な間合いで戦うことは非常に危険なので、そうなった場合は間合いを一旦切るか、あるいは近づいて鍔迫り合いの状態にした方が良い。だからおそらく、伊達は秋山に近づいて、鍔迫り合いになったのだ。ところが、次の瞬間。秋山が大きく振りかぶった。
「……ドォォオオーーーーッ!」
「おおっ!」
パァンッ! と乾いた音とともに、響き渡ったのは秋山の声だ。その直後、会場中から歓声が上がり、拍手が送られる。あっという間にライン際まで残心を取りながら下がっていく秋山に対し、ひと呼吸遅れて伊達は彼を追ったが、三本の赤い旗はほぼ同時に上がっていた。
「胴あり!」
主審の声で、伊達は秋山を追いかけるのをやめる。振り向き、三人の審判がそれぞれ赤い旗を上げていることを確認すると、静かに開始線へ戻っていった。
「あのタイミングでフェイントかけてからの引き胴、か……。完全にやられたな」
織田がぼそりと呟く。伊達は開始線へ戻って構える一瞬、織田の方をちらりと見たが、織田は頷いただけだった。
「二本目!」
「せぇぇりゃぁぁあああッ!」
試合が再開され、伊達は気迫のこもった声を張り上げる。一方で、秋山は冷静だった。もっとも、彼は先に一本を取ったのだから当然なのだろうが、航は悔しくてたまらなくなる。鬼気迫るほどの伊達の気迫に全く動じていないで、堂々としている秋山が今、航の目には途方もなく強い剣士に思えたからだ。
これが、全国レベルなのか……。
不安感に襲われて、奥歯を噛み締める。一本取ったあとだというのに、あいかわらず、わずかにも隙を見せない秋山から一本を取るなんて、どうやればいいのだろう。航には想像もできなかった。
「くっそー……! 鍔迫り合いになった瞬間に振りかぶられたら、やっぱり咄嗟に面を防いじゃうよなぁ……」
隣で悔しそうに斎藤が言う。航は頷いた。自分もおそらくはそうするだろう。鍔迫り合いで、相手が大きく振りかぶると、どうしても引き面を警戒してしまう。そうして、手元が少しでも上がれば、胴は完全に無防備になってしまうわけだ。
「俺もたぶん……、打たれてたと思います」
そう答えた。伊達が鍔迫り合いの状態になったとき、航は一瞬、ホッとしていたから、もし、航が対戦していたとしたら、反応の仕方は伊達と同じだったかもしれない。秋山が振りかぶった瞬間に打たれることを察知はできただろうが、きっと反射的に面を防いでしまっていただろう。大きく振りかぶって打つ引き技から連想されるのは、どうしても面の印象が強い。しかも……。
「なにせ鍔迫りになった瞬間、ですからね」
航が言うと、隣で織田が口を開いた。
「あそこは一番気が抜けやすくなるところだ。たとえ、相手が秋山じゃなくても、近間だと打たれる危険性は高い。だからさっき、伊達はすぐ距離を詰めて鍔迫り合いになった。秋山はそれを見て逆に鍔迫り合いになった瞬間を狙ったんだ。まったく、よく観察してるよ」
「取り返せますかね……。伊達先輩」
航が訊く。ここで嘘でも「当たり前だろ」と言ってくれれば安心もできたが、織田は低く唸った。
「そう簡単には打たせてくれないだろうな……。残りの時間で一本、取れるかどうかだ」
伊達は今、秋山に対して積極的に攻めている。足を使って動きながら隙を探している。間合いの攻防を続けながら、おそらくは懸命に一本を取る方法を考えているのだ。
「伊達先輩……、ファイト!」
「もう残り一分切ってるぞ」
斎藤が隣で言う。二本目の試合が始まってからも、それなりに時間は経っていた。一本を狙うにしても、そんなに多くのチャンスは期待できない。だが、きっと本人が一番それをわかっているだろう。固唾を飲んで航たちが見つめる中、伊達は秋山に対して、一足一刀の間合いまで詰めたあと、スッと半歩、右足を前に出した。
「面――ッ」
「胴ーーーーッ!」
抜き胴……!
パァンッ! と乾いた音がした次の瞬間、副審の一人が赤い旗を上げる。伊達はすぐに胴を打たれたと気付き、手元を下ろして秋山が残心を取るのを防いだ。そのおかげで、主審ともう一人の副審の旗は上がらず、秋山の抜き胴は一本にはならなかった。だが――。
不意にピーッ、と高い機械音が鳴り響いた。「やめ!」という主審の声がかかる。会場中いっぱいに、割れんばかりの拍手が鳴り響く。
「勝負あり!」
伊達と秋山が開始線へ戻り、蹲踞をして、試合場から去る。次鋒の試合が終わった。市立船戸高校対、県立兜山高校の試合は一対一で、中堅へと引き継がれた。
「はじめ!」
「うらぁぁあッ!」
「せやぁぁああッ! ――面りゃぁッ!」
「おおっ!」
拍手とともに、中堅の試合が始まる。将鷹の相手は元鴨川南中、横田である。彼も秋山と同じく、相当な強者だ。横田は試合が始まってすぐに、将鷹に打って出た。その後、またすぐに鍔迫り合いから技を出して、間合いを取る。これまでの選手と比べて、彼は攻撃のテンポがまるで違った。
「速いな……」
「ですね……」
斎藤の言葉に同調する。横田は攻撃を仕掛けるまでがとても速い。考えているよりも、先に手が出ている感じだった。しかしその技の一つ、一つは決して闇雲ではなく、おそらくはしっかりと組み立てられている。
「元々、横田先輩は中学の頃から頭の回転が相当速いって言われてたんだ。ここに来て、さらにスピードに磨きがかかってる気がするな……」
斎藤はそう言って、膝の上に乗せた拳を強く握りしめている。この試合で、勝利することがいかに難しいことか、彼のその反応で航はそれを悟ることができた。
「小手ぇぇ――ッ! お小手だぁぁああッ!」
「おおっ!」
横田の小手だ。一本にこそならなかったが、鋭い打ちだった。観客席からは当然のごとく歓声が上がる。そのせいか、否か。一番そばにいた副審の一人も、ビクッと赤い旗を上げかけた。
「まずいな……。さっそく向こうのペースになってるぞ……」
織田の表情は厳しい。当然だ。今、市立船戸高校は先手を取ったものの、取り返されて五分の状態にある。ここからどう戦うか、ペースを作れるかどうかは、勝利への重要な鍵だった。
将鷹もそれを理解している。将鷹と横田は今、一足一刀の間合いからしきりに攻め合っていた。横田の鋭い攻めに堪えながらそれに屈せず、将鷹は果敢に攻め返す。彼は必死だ。
「マサ先輩……!」
航は祈るような気持ちで将鷹を見つめる。ダンッ、と床を踏み鳴らして威嚇する将鷹に、ほんの一瞬、横田が反応した。横田は手元を上げて下がり、距離を取りながら構え直す。再び遠間になったところで、将鷹が動いた。
「メーーンッ! 面だぁぁああッ!」
「おぉっ!」
遠間から将鷹が打ち込んだ。担ぎ面だった。横田は体を反るようにしてそれをかわすが、将鷹の面は遠間からでも十分に届く。大砲そのものだ。
一本だ……!
「面だ!」
航と斎藤、それに市鷹も思わず声を上げて、拍手を送る。みんなが、将鷹の一本を信じて疑わなかった。だが。
「嘘だろ……」
「旗が……上がらない……」
主審と二人の副審は旗を下ろしたまま、左右に振って一本を無効とした。将鷹は残心を取っていたが、彼らの反応を見てすぐさま切り替え、再び構えて攻め始める。愕然とする航だったが、審判の下した判断を肯定するように、織田は言った。
「面金だ」
面の有効打突は、面金よりも深くなければならない。面革飾りの部分、つまり脳天に竹刀が乗っかるくらいでなければ、剣道では、たとえ当たっていても一本にはならないのだ。先ほどの将鷹の面はわずかに打突が浅く、面金だったというわけである。
「惜しかったのに……」
「惜しい技じゃダメなんだ。誰がどう見ても一本だと思える技を出さなきゃならない」
「はい……」
「相手が優勝候補と言われている強豪で、全国レベルなら尚さらだ」
そうなのだ。これはインターハイ県予選の準決勝。ただでさえ審判の旗は重く、判定は厳しくなっている。それに加えて相手が格上なら、誰がどう見ても文句のない技と打ちでなければ、決して一本にはならない。
「そう、ですよね……」
「ただし、今のマサの面は意味がないわけじゃないぞ」
織田はそう言って、見てみろ、と言わんばかりに顎をしゃくる。今、再び、将鷹と横田は果敢に攻め合っているが、横田は少し警戒し始めているのか、先ほどまでの勢いを失っているようだった。
「マサ先輩の方が押してる……!」
一足一刀の間合いまで攻め切った将鷹が、横田の竹刀をぐっと押さえ込む。すると、横田が一度、剣先を下げた。将鷹はその一瞬を狙う。
「面だぁぁああッ!」
「おぉっ!」
バグンッ! と鈍い音がした。将鷹の面が横田の脳天を打ったのだ。しかし、横田は打たれた瞬間、咄嗟に将鷹に対して体を当て、将鷹はその反動で後方にひっくり返った。
「マサ先輩……!」
ダーンッ、という音が会場中に響き渡る。将鷹は試合場の中央付近で仰向けに倒れていた。すると、すかさずそこへ横田が打ち込む。審判は三人とも、白い旗を上げていたが、主審がすぐに「やめ!」と声を上げた。
「マサ……!」
市鷹は心配そうに将鷹を見つめていた。倒れたときは、床が割れたのではないかと思うほど大きな音がしたが、幸い大事には至らなかったらしい。将鷹はすぐに起き上がった。一方で横田は、すでに開始線に戻って構えている。
おそらく彼は、相手が倒れるのをわかっていてわざと体当たりをしたのだ。打ってくる将鷹に全力でぶつかれば、その勢いで将鷹は明らかに体勢を崩す。彼が残心を取るのを防げるだろう、と。
「今のって、わざとですよね……」
「かもな。今のマサの面は一本になり得る打ちだった。咄嗟に防いだんだろ。最悪、反則を取られても一本になるよりはずっといいってことだ」
織田の言葉に、航は奥歯を噛み締める。そんな戦い方は剣道というスポーツにふさわしくないと思った。剣道は武道なのだ。打っても打たれても、相手を敬うことは決して忘れてはならない。それは剣道を始めるとき、一番初めに誰もが習うはずだ。相手の技を潰そうとしてわざと転ばせるような行為が、果たして許されていいものだろうか。第一、良心は痛まないのだろうか。
「そうまでして勝って、嬉しいんですかね……」
「航、お前の言いたいことはわかるが、正攻法ばかりじゃ上に勝つことは難しいぞ。スポーツってのはみんなそうだが、相手の嫌がることを上手にできる奴が強いんだ」
織田の言うことも、もっともだった。だが、それを素直には聞けない。将鷹の一本をこんな汚い手で潰されて、横田のやり方もまた一つの方法だ、とは思えなかった。理屈はわかる。けれど感情がついてこないのだ。
「先生……」
「ん、なんだ」
「横田先輩は強いし、全国へ行くのにはそういうこともできないといけないのかもしれないけど、でも俺は、ああいうふうにはなりたくないです」
それをはっきり言った。すると、織田は笑みを浮かべる。
「困ったな。うちにはそういう真っすぐでバカ正直な奴ばっかりだ」
そう言いながら、織田はどこか嬉しそうだ。試合場では、将鷹が開始線まで戻り、構えている。航は将鷹の一本は先の転倒によって無効となり、再び試合が開始されるものだと思っていた。ところが、主審が旗を両手に持って高く上げた。合議、である。
「合議!」
途端に会場中がどよめいた。横田と将鷹は試合場のライン際まで下がり、その場にしゃがみ込む。三人の審判は試合場の中心に集まってなにか話し合っているようだ。残念ながら航たちのいる畳までは聞こえてこない。だが、なぜ合議を起こしたのかはわかる。
「もしかしたら、もしかするぞ、これ」
期待感いっぱいにそう言ったのは、斎藤だった。航も同感だ。
「さっきの、反則になりますかね」
「それもだけどさ、マサ先輩の面も一本になるんじゃないの?」
どうかそうであってほしい、と祈りながら、将鷹を見つめる。やがて、審判の三人が元の位置へと戻り、将鷹と横田が開始線は歩みを進め、構えた。次の瞬間、主審は白い旗を高く上げる。
「面あり!」
……っしゃあ!
航は思わず拳を握る。横田は反則を取られることはなかったが、将鷹の面は見事一本と判定された。もっとも、あの体当たりがなければ、将鷹の面は確実に一本だったわけだから、それは当然だとも思える。しかし。
「二本目!」
「せぇやぁぁあッ!」
気合の声を上げて、横田が攻める。一本を取られた横田は、これまでにないほど勢いを上げて、将鷹に猛攻撃をしかけ始めた。
「小手ッ、胴ーーーッ!」
「おぉっ!」
横田の勢いが増したのと同時に、観客席も湧き上がり、応援の声が大きくなる。彼らに背中を押されるようにして、横田はほぼ休みなく、技を繰り出している。将鷹は横田が繰り出す技をかわしながら防ぎ、隙があれば必死に攻めていた。だが、かなり苦しそうだ。もちろん、あの横田が本気になって残りわずかな時間の中で一本を取ろうとしているのだから無理もない。しかし、ここで取り返されることはできれば、防ぎたいところである。
「マサ先輩……」
「たぶん、あと一分もない。もうちょっとだ……、もうちょっと……」
斎藤も懇願するように言う。鍔迫り合いをしながら、技を出そうと駆け引きをするふたりを、航は祈るような気持ちで見つめた。ところが。
「小手ェッ! コテぇぇーーッ!」
バグッ! という鈍い音がしたのとほぼ同時に、横田の声が響いた。横田が打ったのは引き小手だった。とてつもないスピードで、彼は将鷹から距離を取る。赤い旗が三本、きれいに揃って上がる。
「小手あり!」
どうしようもなかった。横田の引き小手は、文句なしの一本そのものだった。
「くっそぉ……!」
斎藤と航の声が揃う。だが、おそらくは将鷹が一番悔しい思いをしているに違いなかった。将鷹と横田は息がかなり上がっているようだ。どちらも肩を上下させて開始線へ戻り、構えていた。ほぼ休みなく互いに攻め合って、技を次から次へ繰り出し、また一方ではそれを防ぐ。それは、将鷹が一本を取ってから約一分近く行われていた。
日頃、苦しい稽古を積み重ねて、鍛えている彼らが息を上げなければならないほど、この試合は激しいものだった、ということである。
「勝負!」
審判の声で最後の一本勝負が始まった。将鷹と横田は再び互いを攻め合う。しかし、間もなく時間切れを告げる機械音が鳴った。
「引き分け!」
主審の声とともに、将鷹が試合場を去り、羽柴が一礼をしてから開始線まで歩みを進める。航は息を呑んだ。残るは二試合のみ。いまだどちらもリードを許さないまま、市立船戸高校と県立兜山高校は副将の試合を迎えようとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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いなば海羽丸




