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10【インターハイ県予選・準々決勝・八重木高校】〜羽柴洋輝〜

インターハイ予選準々決勝、八重木高校との対戦のお話。

羽柴視点でお送りします。

 桜学園高校に、圧倒的勝利を果たした市立船戸高校は、織田の言った通り勢いづき、順調に勝ち進んでいた。次の試合は準々決勝になる。つまり、三位掛けだ。相手は織田が最初に予想していた通り、県立八重木高校だった。


「ベスト八か……。ここまでは順調だな。八重高(やえこう)の様子はどうだった? 佐伯」

「はい。さっきの試合を見てた感じでは、かなりコンディションが良さそうでした。これ、八重高対、海王大岬(かいおうだいみさき)の試合結果です」


 織田は佐伯に八重木高校のスコアを取るように頼んでいたようだ。佐伯から手渡されたそれに目を通すと、織田は(まゆ)をしかめて(うな)った。


「なるほど。圧勝だな……」

「はい。特に……上段の氏家(うじいえ)は安定してて、相当仕上がってます。稲葉(いなば)と、それから――」

安藤(あんどう)、か……」

「はい」


 また、織田が(まゆ)をしかめる。航は、その会話のすべての意味を理解できないようで、時折(ときおり)、首を傾げながらも、どうにかそれを理解せんと、懸命に耳を傾けている。織田はそれに気付いたようだった。


「航、どうした」

「あ、いや。その安藤って人、強いんですか」

「そうだなぁ。まぁ、弱くはないな。八重高は地区予選をトップで通過してきてるし、安藤はそのチームの主将だ。ちなみに、地区予選の個人戦でのトップは奴らしいぞ」

「おぉ……」


 八重木高校は、氏家という上段の選手と、稲葉、安藤という三人が要になっている。安藤は主将で大将。氏家は上段構え、稲葉は羽柴と同じ二年生だが、癖の強い剣道をする選手だ。羽柴は苦手な相手だった。


「だがな、船高(ウチ)だって戦績はそんなに変わらない。勝てるだけの実力は十分にある。イチ、安藤とやるのはお前だからな。奴の雰囲気に()まれんなよ」

「はい」

「羽柴は稲葉を潰せ。勝てとは言わない。潰せばいい。わかったな」

「……はい」


 潰す――というのは、つまり、ポイントを取らせなければいい、引き分けでいい、ということだ。


 くそ――。


 織田に冷静に言われ、腹の底から煮えくり返るような悔しさがこみ上げてくる。だが、自分が一番わかっているのだ。稲葉とは相性が悪い。過去、錬成会で何度も稲葉とは対戦しているが、勝率はかなり悪かった。良くて一本勝ち。それも数えるほどしかなく、後は負け、次いで引き分けが多い。

 技を展開したくても、稲葉はなかなか思う通りにはさせてくれなかった。そのため、たいていが地味で見どころのない戦い方になってしまうのだ。


 また、織田が勝てなくてもいい、などと言うのは滅多にないことだ。それだけ、羽柴と稲葉の相性が良くないのを彼もまた知っていて、余計なプレッシャーをかけないようにしているのだろう。それが理解できてしまうからこそ、羽柴は悔しかった。


 おれが稲葉に勝てれば、もっと試合運びは楽になる。副将ってポジションを任されてるのに……、潰すことだけでもやっとなんて……!


 だが、ここで悔しがっても仕方ない。しかも、要となっている三人のうち、一人でも引き分けて潰すことができれば、それはチームにとって決してマイナスではない。羽柴は悔しさをぐっとこらえるように奥歯を噛みしめて、織田に言われた通り、絶対にポイントを取られないよう試合を作ることを強く決意した。だが――。


 体が妙に重い……。心臓がドクドクして……落ち着かない。


 プレッシャーだろうか。こんなに緊張していては、普段通りの力を出せるはずもないのに、心臓の音は大きくなるばかりだ。

 

 参ったな……。稲葉とは普段通りに戦っても勝てるかどうか怪しいってのに――。プレッシャーなんか感じてる場合かよ……!





 ミーテイングのあと、昼前に次の試合までの時間が空いたのを見計らって、市立船戸高校剣道部一行は昼食を取ることになり、観客席へ上がる。そこには浬、楓、大地の三人が待っていた。


「あ――、航!」

「お疲れさまです!」


 浬は航を見るなり表情を明るくし、駆け寄ってくる。その後ろで、楓はやはり面白くなさそうな顔をしたが、その途端に大地にちょっかいを出され、それどころではなくなっていた。おそらくだが、大地がちょっかいを出しているのはわざとだ。


「大地――ッ! おい、髪いじんなって! くすぐってぇから!」

「楓、ひどい……! 頭にクモがついてたから、取ってあげたんじゃんか!」

「え――! ひぃ、嘘っ!」

「う、そ」

「てっめぇ……」

「おーい、そこ。いちゃついてんなよー」


 騒ぐふたりに市鷹が言う。すると、大地は顔を真っ赤にして首を横に振った。


「い、いちゃついてません……! 今のは、大地がふざけて――」 

「はいはい、わかったから。どうでもいいけど、うるさくするなよ。周囲の迷惑にならないように」

「はい……」

「はーい!」


 今度は将鷹がふたりを注意する。楓はしょぼくれながら、大地はにこやかに手を挙げて返事をした。だが、そのあと、楓は不服そうな顔でポカッと大地の肩を殴る。すると、大地は楓の腹をくすぐる。楓がやり返す。彼らのやり取りには終わりが見えなかった。

 ふたりはすっかり仲良しだ。いや――楓が大地を友だちだとか、チームメイトだと認めているのかどうかは定かではないが、明らかに航よりは親しくなっているように感じる。


 よくわかんないけど、北条は大地とは仲がいいんだな……。


 これももしかすると、大地という人間の得意とする部分なのかもしれない。大地はまだ入部して間もないのにもかかわらず、部内のほぼ全員とケータイ番号を交換し、交流を深めているようだった。


 誰とでも仲良くなれる奴って、クラスに一人か二人いるもんなー……。大地はそういうタイプかな。


 大地はとにかく明るい。明朗、とはまさに彼のためにある言葉ではないだろうか、と思えてくるほどだ。少々ふざけ過ぎることもあるようだが、彼の明るさには、時折(ときおり)、ホッとさせられることがある。特に、今のような大事な試合の前なんかには、彼の存在は必要不可欠だった。チームにほんの少し笑いが起きるだけで、不思議と要らない緊張が解けて、雰囲気は格段に良くなるからだ。


「よーし。じゃあ各自、昼メシ食って、五十分後にまた下に集合なー」

「はい!」

「選抜メンバーは食い過ぎ注意だぞ」

「はい!」


 市鷹の呼びかけにそこにいる全員が返事をした。市鷹と将鷹は弁当を持って観客席を早々とあとにし、毛利と伊達はその場で早速、弁当を広げ始める。

 

「なぁ、ヒロぉ。下の自販にリポAあったから買いに行きたいんだけどさ――」

「おう、行ってらっしゃい」

「……なぁんだよ、冷てぇなー。じゃあ一緒に行くか、とかないわけ?」

「お前、どうせまたほかの学校の女子に声かけようとするだろ。――あ、航。どっか静かなとこで、一緒にメシ食おっか」

「は、はい!」

「んだよ、いけずー」


 羽柴は斎藤に背を向け、航に微笑(ほほえ)んだ。斎藤は口を尖らせて文句を言っているが、羽柴はひらりと手を振って済ませる。斎藤には申し訳ないが、今は航と話す時間が欲しかった。中学時代から慣れ親しんだ仲であるせいだろうか。航といると、羽柴は不思議と安心できるのだ。もっと言えば、今の羽柴にとって、航と過ごす時間はとても重要であり、必要だった。ところが、浬がすかさず羽柴の胴着の袖を(つか)む。


「あの、お、おれも――っ!」

「浬……?」

「おれも航と一緒に行っていいですか……! 先輩!」


 羽柴は弁当を持ち、航と浬を連れて、体育館内にある柔道場へ向かう。そこは一面に畳が敷かれていて、選手たちが休んだり、食事を取れるスペースになっていた。試合が行われている今、柔道場の中は閑散(かんさん)としていて、実に静かだ。

 

「よし、ここでメシ食うか」

「はい」


 三人は柔道場の(すみ)で円になって、弁当を広げる。浬は航の隣で上機嫌だった。ふたりは部活中、一緒にいるのが常だ。入部当初は浬のそばにいつも楓がいて、航に対しては喧嘩腰だったので、なにげないおしゃべりをすることにも苦労していたようだったが、今はその妙な三角関係にも変化があった。もしかすると、大地がマネージャーとして入ってきたせいかもしれない。大地は楓にやたらとちょっかいを出してからかうので、必然的に航と浬はセットでいることが多くなったのだろう。

 一年生が四人に増えた今日この頃、妙に彼らの中でバランスが取れてきているように感じるのも、気のせいではなかった。


「あっ、航の弁当いいなぁ、唐揚げいっぱいだ!」


 航の弁当を(のぞ)き込み、浬が目を輝かせた。しかし、航は不服そうだ。その理由が気になって羽柴も弁当を(のぞ)き込み、たまらずに笑みを(こぼ)す。本日の航の弁当には、彼の大好物と一緒に、苦手なものもしっかり入れられていた。


「でもブロッコリー入ってる……。あと、ニンジンも……」

「いいじゃん! あっ、じゃあさ、おれのしいたけと交換する?」

「いや、いい……。くそぉ……、この前、喧嘩したからかなぁ……」


 航の苦手なものは、どれも栄養素を多く含んだものばかりだ。ブロッコリーにニンジンなどの色の濃い野菜類。それらをあえて弁当に入れた人物を、羽柴はよく知っている。


凪子(なぎこ)さん、あいかわらず弁当作ってくれてるんだ。優しいな」

「優しいわけないじゃないですか。悪魔ですよ。いつだって俺の嫌いなもんばっか入れるんですから……」

「栄養のバランス考えてくれてるんだよ。愛の証拠だって」


 航が口を尖らせる。羽柴は笑みを(こぼ)した。凪子は航と十三歳年が離れた姉だ。彼女は、仕事で海外を飛び回る航の母親に代わって、中学時代から航に弁当を作ってくれているらしい。料理が元々得意ではなかったそうだが、冷凍食品をうまく使いながらも、だんだんとその腕を上げ、最近は栄養バランスと(いろど)りにも気を遣った弁当を航に持たせているようだ。


「へえ。航んちって弁当、お姉ちゃんが作ってくれるんだ?」

「あぁ、うちさ、仕事で母親が家にいないことの方が多いし、父さんはまるっきり料理しないから。姉ちゃんがみんなやってくれてるんだ」

「そうなんだ……」


 浬は今までそれを知らなかったらしく、神妙な顔つきをしている。航の家族は一般的ではないので、多少なりとも驚いているのかもしれない。もっとも、羽柴もそれを知ったときは驚いた。羽柴の家は両親ともに働きに出ているが、母は毎日夜七時には家に帰宅しているし、夕飯も弁当も毎日、当然のように作ってくれる。剣道一家で知られる浬の家も、そこはきっと似たような感じだろう。


 凪子が航の食生活をサポートしてくれるようになったのは、まだ航が小学生の頃の話なのだそうだ。凪子は仕事が休みの日には、航が出る大会の応援にも顔を出してくれていて、羽柴は何度も会ったことがある。彼女は航に似ていて気は強いが、しっかり者の美人な女性で、羽柴にとって憧れの存在だった。だが、去年、婚約をしたらしい。そのときはちょっとだけ、ショックを受けた。


「元気か? 凪子さん」

「元気過ぎて困ります。早く結婚してくれって感じですよ。あの人、もう三十ですからね」

「三十? すごい大人じゃん! うちの兄ちゃんたちよか上だ……」

「浬んちの兄ちゃんっていくつ?」

「えっとね、大学四年と……一年」

  

 浬の家は剣道一家だ。家族全員が剣道経験者で、彼は兄が二人いるが、その兄たちも高校時代は個人の部でインターハイ出場も果たしていると聞く。全く、とんでもない兄弟である。


「織田先生が言ってたよ。めちゃくちゃ強かったんだってな、兄ちゃんたち」

「たまたま運が良かったってのもあると思いますけどね。本人たちは出ただけのインハイだって言ってますし」

「出られるだけでもすごいんだよ。しかも個人だろ」


 剣道は団体戦と個人戦がある。団体戦も、結局は個人同士での戦いになるので、個人競技ではあるのだが、団体はチームで勝てば次に進むことができるし、仲間と協力し合ったり、励まし合ったりできるので、決して孤独ではない。だが、個人の部はそうはいかない。どこまで行っても一人。たった一人で勝ち抜いていかなければならないのだ。


「個人ってなると、誰にも頼れないのに、すごいことだと思うよ」


 羽柴が言う。ところが、浬はかぶりを振った。


「上の兄ちゃんはだからいいんだって言ってました。一人だからいいんだって」

「一人、だから?」

「はい。自分さえ勝てば勝ち進めるんだから、簡単だろって。団体だと自分が勝ってもチームで負けたら意味がないけど、一人なら自分が負けなければいいだけだって……」


 羽柴は思わず声を失った。それだけ浬の長兄は、自分に自信があるのだろう。そんな自信は羽柴にはない。思えばこれまで、一度でも自信を持って試合に出たことはなかったかもしれない、とさえ思う。今だってそうだ。一時間後に控えた八重木高校との一戦を、苦手な稲葉との対戦を、どこか恐ろしく感じてもいるのだから。


「……羨ましいな。そんな考え方ができるなんて」

「本当ですね」


 航も同感だ、と言うように頷いた。


「うちの兄ちゃんはちょっと変わってるんです……。特に一番上は……」

「天才肌なんだよ、きっと」


 苦笑いをして、浬は頭を()く。航も感心したふうで、(まゆ)を上げていた。自分さえ勝つことができれば、負けずに済む。そう考えられるようになるには、あとどれだけのつらい稽古に()えればいいのだろうか。いつかなんの疑いもなく、自分と自分の強さを信じられる日が、羽柴にもやってくるのだろうか。――否。自分にはまだまだ難しいかもしれない、とため息を吐く。


 おれも、そんなふうに自分を強く持って、試合に(のぞ)めたらいいんだけどな――。


 自分はもっと強くならなければいけない。今日、市鷹たちの足手まといにならないように。彼らとともにインターハイへ出場するために。そして二ヶ月後、三年生の引退した市立船戸高校剣道部を率いる主将として、その名に恥じぬように。

 今すぐ浬の兄のようになれたらどんなにか楽だろう。そうすれば次の試合だって、簡単に勝てるかもしれない。――と、彼の強さを想像してみる。ところが、不意に。航がふと、思いついたように言った。


「あ――。でも、もし羽柴先輩が天才肌だったら、俺は困るな」

「え……?」

「だって、天才だったら凡人の考えることなんか理解してもらえないでしょ。先輩は浬んちの兄ちゃんみたいな感じとはちょっとタイプが違うけど、いつもみんなのこと見て、考えてくれてて、理解しようとしてくれるじゃないですか。俺、ついてくならそういう人がいいです」


 俺は、羽柴先輩について行きます――。

  

 彼の真っすぐな言葉と視線に、そう言われた気がした。航の言葉があまりに嬉しくて、全身がぶわっと熱を持つ。そこかしこから汗が(にじ)み始める。ひょっとすると今、自分の顔は真っ赤なのではないだろうか。


 こいつ……。本当に人たらしだよなぁ……。


 いつも彼は絶妙なタイミングで嬉しい言葉をくれる。それはまるで、今の羽柴の心の内側を見透(みす)かしているかのようでもあった。だが、同時に彼の言葉は、羽柴に勇気をくれ、強くしてくれるのだ。


「まぁ、おれは平々凡々だからな……」

「ちが……っ、そういう意味で言ったんじゃないですって!」

「わかってるよ」


 とりあえず、そう言って笑って見せた。毎度のことではあるが、照れくさいのだ。航のくれる言葉には嘘や偽りは一切感じなかった。それゆえに彼は、恥ずかしいことも平気でさらっと口にするので、冷静さを保つのには本当に苦労させられる。

 今、たまらなく照れくさいのをちゃんと隠せているだろうか、と思いながら頬を()く。すると、浬も航に賛同するように言った。


「おれもそう思います! それに、羽柴先輩は平凡なんかじゃないですよ。試合してもめちゃくちゃ強いし、二年生で三年生の先輩たちと一緒に選抜メンバ―に入るのだってすごいし、航だって、そういう先輩にめちゃくちゃあこ――」

「お、おい……! 浬!」


 航が慌てて浬の口を手で覆った。浬はきょとんとして航に目をやるが、航は顔を赤らめて必死にかぶりを振っている。すると、浬がこく、と頷いた。

 それ以上は言うな、といったふうだ。航に慕われていることは、羽柴だってとうにわかっていた。ただし、それを浬にも話していたのか、と考えるとその気持ちがどれだけのものなのかは真に伝わってくる。しかも、浬まで航の影響を受けてか、羽柴を褒め殺すのだから本当に参ってしまう。


 おれはそんなに強くないし、すごくもない。自分の弱さは自分が一番よく知ってるんだ。だけど、こんなおれでも、お前たちがついてきてくれるってんなら、おれは、強くならないわけにいかないよな――。


 だが、おかしなものだ。普段、航自身はこっちが恥ずかしくなるようなことも平気で話すというのに、他人の口から言われるのは、恥ずかしいのだろうか。しかし、航と浬の気持ちと言葉は、やはり羽柴の背中を無条件に押してくれた。


 航、浬。おれは今、お前らのために強くなりたい。自分のためじゃない。お前らがついてきても、後悔させないだけの強さが欲しいんだ。だから……。


「おれは、もっと強くなるよ」


 羽柴は、ふたりに誓うようにして、そう言った。すると、航はしっかりと頷いて応える。


「先輩には先輩の強さがあると思います。 羽柴先輩の強さを、俺たちは信じてます。な、浬」

「うんっ! だから、次の試合も頑張ってください!」

「お前らぁ……」


 ここまで言われてしまうと、実に反応に困る。羽柴はため息を吐いて、頭を(かか)えた。


……帰りに、ラーメンでもおごってやるか。





 約一時間後。昼食を終えて、羽柴は航とともにミーティングに参加した。すでに試合会場のボードには、市立船戸高校と、八重木高校のメンバーが貼り出されている。試合場内に主審が一人、その両脇に副審が二人並ぶ。もう今にも試合が始まりそうな雰囲気が辺りに漂い始め、たちまちに緊張感が増した。だが、不思議だ。驚くほど心が静かで、安定している。


 ……昼メシ食って、少なからず体重は増えてる。さっきより緊張だってしてる。なのに……、信じられないほど体が軽い。


 先ほどまでは、ピリピリした緊張感に背後から追いかけられ、襲われているような感覚が確かにあった。しかし、今は違う。その逆だ。羽柴は緊張感に恐れを感じていない。立ち向かっている。背を向けてはいない。だからなのだろうか。こんなにも体が軽く感じるのは。


 ……きっと、航と浬のおかげだ。


 隣にいる航の肩をポン、と叩く。すると、航は頬を(ゆる)め、羽柴の背中をこれでもかというほど強く叩いた。


「い……っ!」

「おーし、全員集まったか。いよいよ三位掛けだぞ」


 織田がやって来て、試合前のミーティングが始められた。ミーティング、といっても、ダラダラと作戦を立てている時間はない。許された時間はほんの数分だ。


「いいか、これから先のことは一切考えなくていい。集中して、この一戦で勝つことだけを考えろ」

「はい!」

「団体戦で大事なのは、チームとしての力がどれだけ出せるかだ。みんなで叩くぞ」

「はい!」


 やがて八重木高校の先鋒と次鋒は面を付け終わり、大将までの五人が(そろ)って整列し始める。それに合わせて、市立船戸高校の選抜メンバーも(そろ)って整列した。十人が(そろ)って、向かい合った同ポジションの選手同士、しっかりと目が合う。羽柴の目の前にいるのは、副将、稲葉だ。


「いよいよだな……」


 不意に、隣で市鷹が呟く。それを羽柴は聞き逃さなかった。


「イチ先輩……」

「今年は、去年のようにはいかないぞ。俺たちはこの一戦を絶対に譲らない……!」

「はい……!」





「はじめ!」

「ぃやぁさぁあああ!」

「うるぁあああ!」


 試合場には、毛利の声と八重木高校の先鋒、荒木の声が響き渡った。赤い(たすき)を背中に結んでいるのが千葉県立八重木高校。対して、白い(たすき)が我ら市立船戸高校である。

 この準々決勝を勝ち抜けば、市立船戸高校の三位入賞が確定する。インターハイ出場への切符獲得までは、この試合を含めば、あと三回勝ち進めばいい。しかし、その三試合は死闘になることは確実だ。さらに、勝ち進めば勝ち進んだだけ、苦しい戦いになっていくことは覚悟しておかなければならない。

 それでも、この試合での勝利を諦めるわけにはいかないのだ。これは自分のためでもあるが、チームのため、そしてなによりも市鷹たち、三年生のためだった。


 八重木高校……。たしかに、チームが勢いづいてる。去年と同じだ。


 県立八重木高校とは、去年のインターハイ県予選でも当たっていた。しかも同じ、三位掛けである。羽柴は去年、応援組としてその試合を観客席から見ていたが、それは実につらく、苦しいものだった。今、思い出しても、悔しさのあまりに拳には自然と力が入ってしまうほどだ。


 先鋒から副将まで引き分けて、大将も引き分け。代表戦になって、丹羽先輩が一本取られて、敗退……。丹羽先輩、泣いてたっけなぁ……。


 去年の部長、丹羽が取られてしまった一本は、見事なまでの引き小手だった。引き面を打とうとした丹羽の手元が上がったところを、瞬間的に(とら)えられ、打たれたのだ。

 しかし、羽柴は覚えている。丹羽が相当やりづらそうだったこと――。いや、彼だけではなく、ほかの二、三年生らもみんな、思い通りの試合運びができずに、悔しそうにしていたことを。


 普段、錬成会等で対戦しても、八重木高校とはほぼ互角だった。いや、羽柴から見れば、個々の実力は市立船戸高校の方が優れているとも思う。戦績では劣っていても、我がチームは県内でトップクラスなのだ、と。それは去年だけではなく、今年のチームで比較しても同じことが言えた。しかし、なぜか市立船戸高校は八重木高校になかなか勝てないのだ。斎藤はそれを「うちにとって八重高は、やりづらい剣道なのかもしれない」と話していた。


 たしかに、そうなのかもしれなかった。羽柴は、市鷹率いる今のチームの選抜メンバーとなってから、八重木高校と対戦するたびに、それを体感した。

 彼らはとにかくやりづらいのだ。副将のポジションになってからは稲葉と対戦することが多くなり、余計にそれを感じている。


 技を出そうと攻めても、息を合わせようとしても、稲葉とはなかなか合わない。タイミングも(つか)みづらい。距離を取りたいと思えばやたらとくっついてくるし、鍔迫(つばぜ)り合いになれば力任せに、しかも必要以上に押してくる。そうしてタイミングが合わないことで、苛立(いらだ)ちは増し、(あせ)りも出てくる。すると、一本を取ることはさらに難しくなってしまうのだ。ただ時間が無慈悲に過ぎ、息が上がるだけの四分間を、羽柴はもう何度も経験していた。

 しかし、今日だけはそんなことも言っていられない。苛立(いらだ)ちや(あせ)りを抑え、冷静に相手を見つめ、なんとか自分ができる最大限の仕事を(こな)さなければならない。


『稲葉を潰せ』


 それが、織田から命じられた羽柴の副将としての仕事だ。最低でも引き分け。それはほかの相手なら、決して難しいことではない。しかし、相手が稲葉となると話は別だ。


 くそ……! おれが稲葉(あいつ)に勝ってイチ先輩に回せたら、絶対、展開としては楽になるのに……!

 

 羽柴の悔しさの理由は、稲葉になかなか勝てない、というだけではない。彼はまだ二年生。羽柴と同い年だということもあった。今のうちから攻略に手こずっているようでは、来年はさらに彼に勝つことが難しくなる可能性が高い。


「メン……ッ!」

「ッテぇぇぇーーーっ!」


 危な……っ!


 主審がほんの一瞬、赤い旗を上げかけた――が、すぐに左右に振る。毛利は、出小手を打たれそうになったものの、寸でのところで気付き、相手の技をどうにか潰した。しかし、彼はやや苦戦しているように見える。


「毛利先輩……」

「毛利は大丈夫だよ」


 隣で、市鷹が言った。その口ぶりは自信たっぷりだ。彼は今、笑みすら浮かべている。


「そう、ですよね……」


 ひとまずそう答えた。羽柴だって毛利を信じている。しかし、去年のことを思い出せば不安感は否めない。市鷹はそんな羽柴の胸の内を読んだのか、肩をポン、ポン、と軽く叩いて言った。


「まぁ、そう心配するな。八重高とうちの相性はあんまりよくないけど、それはなにもうちが劣ってるわけじゃない。俺たちがあいつらから一本を取りにくいのは事実だけどな」

「はい……」

「ただし、だ。それにはちゃんと理由がある」


 市鷹は得意げにそう言ったが、羽柴は(うな)った。理由なんてものはだいたいわかっている。八重木高校と市立船戸高校の剣道はきっと相性がとてつもなく悪いのだ。しかし、市鷹の口から出たのはもっと具体的で、論理的な理由だった。


「あいつらは、とにかくこっちの技を潰すことを優先的に考えた、一本を取れなくてもいい剣道をやってるんだよ」

「一本を、取れなくてもいい剣道……?」


 言葉を理解できずに(まゆ)をしかめる。剣道では一本を取らなければ勝つことはできない。それなのに『一本を取れなくてもいい剣道』とはどういうことなのか。


「俺は客観的に見ても、船高(うち)と八重高なら、うちの方が個々の実力は高いと思ってる。去年だってそう思ってた」

「はい……」


 同感だ。だから余計に悔しかった。なぜか歯車が噛み合わず、思い通りに展開できないままに終わってしまった、と当時、丹羽も涙ながらにそう話していた。


「八重木高校の連中も、それはわかってるはずなんだ。だからあいつらは、無理に一本を取りにいくんじゃない、相手に一本も取らせない剣道をやってるんだよ。技をひたすら潰して、思い通りにさせなければ相手は当然、焦る。焦れば(すき)だってできやすくなるし、調子が狂えばそれだけチャンスが増える。それをひたすらに狙ってるんだ」

「だから、おれたちはやりづらいって感じるんですか……」

「そう。思い通りにさせてくれないってのはつらいからな。俺たちはそういう精神状態に(おちい)って、向こうのペースにまんまと()められた試合運びをさせられてるってことだ。あいつらはある程度、力のあるチームとの上手い戦い方を知ってるのかもしれないな」

「じゃあ、どうすれば――」


 その時だった。


「ドォオオーーーッ!」


 毛利の声と同時にパァンッ、と乾いた音が響く。羽柴はハッと試合場へ目を向けた。目の前では毛利が残心を取り、審判にアピールしている。どうやら引き胴を打ったようだ。白い旗が一斉に上がり、「胴あり!」と主審の声が響く。


「よし!」


 市鷹が声を上げて、拍手をする。羽柴もすぐさま拍手を送った。


「羽柴、向こうはこっちの(すき)ができる、ほんの一瞬の機会を待ってる。イライラして焦って、飛び出したら向こうの思うツボだ。じっくり攻めて、誘って、一本を狙っていくしかない」

「じっくり攻めて、誘う……」

「そうだ。亀を相手に闇雲に打ち込んでもしょうがないだろ。首を出させるためには、四分間たっぷり使って、渋い試合を覚悟しなきゃならない。お互い、我慢大会だよ」


 首を出させる……か。


 やがてピーッと時間を知らせる音が鳴り、毛利の試合が終わった。一本勝ちだ。


「毛利にしては地味な試合だったけど、これでいいんだ。たぶん、な」


 市鷹がやや困り顔で笑みを作る。彼だってきっと本当に正解を知っているわけではない。必死に勝つ方法を考えて、可能性を探しているに違いなかった。


「おれもやってみます」

「うん。大丈夫。お前ならできるよ」


 にこやかにそう言って、市鷹が羽柴を励ましてくれる。気が付けば、その隣にいる斎藤と航も羽柴を見つめ、同感だと言わんばかりにしっかりと頷いていた。


「まぁ、なにが正しかったかなんて終わってみなきゃ誰もわかんねえ。でも、うちの主将がそう言うなら、オレは信じる」


 隣で面を付けながらそう言ったのは、将鷹だった。市鷹は肩をすくめ、「責任重大だな」などと言いながら、やはり困り顔で眉尻(まゆじり) を下げて笑った。


「はじめ!」


 ほどなくして、次鋒である伊達の試合が始まった。隣では将鷹が面を付け終わり、立ち上がる。羽柴もそろそろ面を付け始めなければならない。先ほどの市鷹の話が真実なら、試合はそう簡単には終わらないはずだが、例外もあることは想定しておく必要があった。思ったよりも早く前の試合が終わってしまって、慌てて面を付けるのはみっともないし、自分も焦りを感じてしまっては、冷静に試合に(のぞ)むことが難しくなる。


「小手ぇぇッ!」

「メーーーンッ!」


 ふたりの剣士の声とともに、竹刀がこすれ合い、(はじ)かれれば乾いた音が響く。伊達は八重木高校の次鋒、片桐(かたぎり)を誘うように攻めていた。足を盛んに動かしながら、相手に覚られないようにじりじりと距離を詰めていく、お得意の攻め方である。


 羽柴はその様子を面金(めんがね)の間から見つめながら、面紐(めんひも)をきつく結んだ。この試合においての彼の仕事は、ここで一本を取り、勝ち点を取ることだ。そのあとは中堅の氏家(うじいえ)、副将の稲葉(いなば)、大将の安藤(あんどう)と続いていくが、その三人はチームの要とも言える強敵だった。当然、中堅以降は一本を取ること自体が難しくなってくるので、その分、先鋒、次鋒でポイントを取っておきたいところだ。そうすれば、チームとしてはかなり楽になる。ただし、相手は八重木高校。先鋒の毛利と同様に、今、次鋒の伊達もかなりやりづらそうではあった。


 相手に呼吸を合わせ、タイミングを(つか)む攻め方を、誰よりも得意とする伊達だが、次鋒、片桐はまさに亀のごとく、防御を固めている。

 間合いをじりじりと詰めるも、すぐに下がって距離を取る。ライン(ぎわ)になれば素早く伊達のそばへ寄り、鍔迫(つばぜ)り合いになる。これは一本を取ろうとしている相手からすれば、さぞ鬱陶 (うっとう)しいに違いない。


 あれじゃ、いくらなんでも一本取るなんて絶望的だ……。


 しかし、さすがに防戦の仕方があからさまだったのだろう。主審の一人が(まゆ)をひそめ、旗を持つ両手を上へ掲げた。


「やめ! ――合議!」

「よし……!」


 主審が片手に紅白の旗を持ち直した瞬間、市鷹が小さく呟いた。羽柴もグッと拳を握る。伊達と片桐は試合上の(はじ)に下がっていく。


 剣道の大会では、明らかに戦う意思を選手から感じられなかったり、攻めるわけでもなく技も出さないまま、相手の攻撃を防御し続けて引き分けを狙おうという意思が感じられた場合、反則を取ることがある。しかし、その反則も、主審一人で決めるわけではなく、今のように一度試合を止めて、副審も含めた三人で話し合って決定するのである。今回のような場合は、八割方、相手に反則が取られるはずだ。


 やがて副審が元の位置へ戻っていく。選手のふたりは、再び開始線へ歩みを進め、そこで構えた。主審は右手に持った赤い旗を横へ出している。思った通り、片桐の反則だ。


 よし……。


「反則、一回! はじめ!」


 もう片桐はあとがない。反則は二回で相手に一本が認められるからだ。場外へ足を出しても、戦い方を変えずに、もう一度反則をもらってしまっても伊達の一本。いよいよ彼は前へ出てくるはずだ。――と、その時だった。突如、片桐がスッと深く攻め入ったかと思うと、手元を一瞬上げる。さらに、そのまま飛び込んだ。


「メーーーーンッ! 面だぁぁああ!」


 バクンッ、という(にぶ)い音は、面を付けた羽柴の耳にもしっかり聞こえてきた。片桐は残心を取り、審判へアピールしている。三本の赤い旗がそれぞれ上がった。


 取られた――!


 伊達は背中を少し()らすようにして避けようとしたが、遅かった。悔しいが、それは文句のつけようもない、見事な一本だった。


(かつ)ぎ面か……。バックリいかれたな……」

「……ですね」


 片桐が打ったのは、(かつ)ぎ面という技だ。左肩に(かつ)ぐように一度手元を上げて、小手を打つように見せかけて、面に飛び込む。これは相手の不意をつく技であり、体がその場に居着いてしまうと、もう避けようがない。

 ちなみに今、市鷹が言った「バックリいかれた」というのは、文句のつけようもなく見事に打たれた、という意味である。これが真剣であれば脳天から真っ二つにされ、命などすでになかったに違いない。


「面あり! 二本目!」


 主審の声で、試合が再開された。試合上の外では将鷹がすでに待機していて、足首を回したり、その場で跳ねたりして、しきりに体を動かしていた。このまま試合が終われば、当然、中堅である将鷹は勝ち点を取り返しにいかなければならない。緊張の波が彼を襲っているのだろう。そしてそれは、羽柴の体にも容赦なく伝染してくる。だが――。


 ……だめだ。ここで負けるわけにいかない。


 必死にかぶりを振った。体がこわばってしまうほどの緊張は邪魔になるだけだ。羽柴は、さっき市鷹に言われた言葉を頭の中で繰り返し、思い出した。


 ――四分間たっぷり使って、一本を取るんだ。


 きっと三年生は誰もがみんな、同じ気持ちでいるはずだが、一本を取られてしまった伊達は、先ほどよりもやや焦りを見せていた。取り返しにいきたい気持ちが彼をそうさせるのだ。毛利が取った一本と、貴重な勝ち点を無駄にしないために、伊達は、せめてこの試合は最低でも引き分けにしておきたい、と思っているはずだ。しかし――。


「焦るなよ……。絶対、焦るな」


 市鷹はそう言った。その声量では明らかに彼には届かない。しかし、必死に呼びかけていた。羽柴はタイムキーパーの方へ振り向く。目の前の会場の試合進行担当者らの中に一人、ストップウォッチを手に持ち、そこへちらちらと目を落としている男子生徒がいる。どうやら彼がタイムキーパーらしい。男子生徒はまだ余裕のある表情で試合を眺めていた。


 大丈夫だ……。おれの感覚でも、少なくともあと一分は絶対に残ってる。


 伊達と片桐は長く鍔迫(つばぜ)り合いを続けていたが、やがて分かれ、遠間から仕切り直していた。


「伊達先輩……!」


 先に攻め込んだのは伊達だった。足を使ってじりじりと片桐を攻め、互いの竹刀の剣先が触れ合うところまで近づく。伊達は何度か片桐の構えを崩そうとして竹刀を払ったが、片桐も負けじとそれに()えていた。だが、次の瞬間、片桐の手元がなにかに操られるようにして、ふわりと上がり、体勢が崩れた。


「ッ手ぇぇーーーっ!」

「おぉっ!」

「っしゃあ!」


 バクッ、と音が響いた。白い審判旗が一斉に上がる。隣にいる市鷹、又隣(またどなり)にいる斎藤、そのまた隣にいる航。常に冷静に試合を見守る織田と、試合を終えて面を外した毛利。そして試合場の外に立って出番を待つ将鷹。さらに観客席からも拍手が降るように聞こえてくる。この試合を見守る市立船戸高校の全員が、伊達の一本を(たた)え、拍手を送っていた。一方で片桐は、竹刀を左手一本で持ちながら、悔しそうに天を仰いでいる。


「今のって――」

「あいつ、ここで出してきたな……」


 市鷹がにやりと笑みを浮かべている。これまで伊達がその技を使ったのを、羽柴は一度も見たことはなかった。それは、巻き技と呼ばれる一つの技術だ。

 

「時々、道場の先生なんかは巻き技使う人がいますよね」

「あぁ。伊達は元々巻き技が上手いんだよ。見様見真似なんだって言ってたけどな」

「すごい……。失敗したら(すき)だらけになるし、そもそも難しい技なのに……」


 相手の竹刀の剣先を巻き上げるようにして手元を崩し、(すき)を作る。それが巻き技だ。成功すれば、巻かれた方はまるで誰かに操られているかのように手元を(ひね)られ、普通に竹刀を握っていられることも難しくなるだろう。場合によっては、竹刀は手から離れ、巻き上げられるままに試合場の外まで吹っ飛んでしまうこともあり得る。羽柴自身も、船戸剣武館で年配の師範に掛かった際、何度かこの技を掛けられて体感したが、あれはまるで魔法のようだった。


「でもさ、巻き技って卑怯(ひきょう)な技だって言われることもあるだろ。だからあいつ、今まで試合なんかじゃ絶対使わなかったんだ。公式戦で使ったのも俺は初めて見たよ」

「それなのに、ここで使ってきた……」

「なにかしら悪く言われるかもしれないのを覚悟した上で、あいつは一本取りにいったってことだ」


 それだけ、伊達はこの試合を勝ち抜くことに必死になっているということだ。自分の中にあった正義を守り、貫き通しても、ここで負けては意味がない。負ければ、このチームは終わりなのだから。


「小手あり! ――勝負!」


 試合が再開された。しかしその途端、伊達は再び積極的に間合いを詰めて、片桐に攻め入った。それを見て、市鷹が声を上げる。


「伊達、だめだ……!」


 しかし、伊達にその声はやはり聞こえていなかったのだろう。一気に近間まで間合いを詰め、伊達はダンッ、と足を踏み鳴らす。すると、打ってくる技を避けようとした片桐は、スッと間合いを取って下がった。伊達がそれを追うように、また攻める。ほんの少し、伊達の竹刀の剣先が下がった。


 ――突き、か。


「ツキぁぁああああっ!」


 伊達が片桐の喉元を突いたのとほぼ同時に、ピーッ! と音が鳴る。時間だ。


「やめ!」

   

 主審が旗を上げる。伊達と片桐は開始線へ戻り、構えた。隣で市鷹はホッと胸を撫でおろし、安堵(あんど)していた。ただし、最後の突きはさほど悪くなかったと羽柴は思う。技の選択も間違っていなかった。彼はもう残り時間が数秒しかないとわかっていたのだ。そしておそらくは、片桐も。それで伊達はイチかバチか、突くという選択をしたのだろう。


「惜しかったですね、突き」

「あぁ。ただ、心臓に悪いよ……」

「引き分け!」


 試合会場から、ふたりが下がっていく。伊達が下がったその背後では、将鷹が待ちきれない、とでも言うように腕を回していた。伊達と将鷹はすれ違う瞬間、互いの胴を叩く。将鷹が試合場へ足を踏み入れ、開始線まで歩みを進める。彼が蹲踞(そんきょ)するのを見届けてから、羽柴は立ち上がった。


「はじめ!」


 試合は一対〇で中堅へと引き継がれた。


「うらぁぁあああ!」


 将鷹の声が響いた。八重木高校の中堅、氏家は静かに立ち上がり、竹刀を面の上へ(かか)げてから、構える。上段の構えだ。

 

 ――氏家先輩とは一度、錬成会であたったことあるけど、やりにくかったな……。そもそもこの人、中学の頃も強かったし。


 氏家は県内の中学で一位、二位を争う強豪、鴨川南中の出身だった。がっしりとしたたくましい筋肉質な体に、百八十センチを超える高い身長。彼は実に恵まれた体つきだった。それらを生かすためか、彼は高校では上段の剣士となり、八重木高校の三つの要の一つとして活躍している。ただし中学時代、何度か手合わせした記憶はあっても、今のようなやりづらさを感じたことはなかったはずだった。きっと八重木高校という色に染まり、その高校ならではの戦い方をするようになったからだろう。


 それもまた……強さ、なんだろうな……。


 将鷹は果敢に攻め、氏家の左小手を狙っているようだった。そこを狙われるのが、上段にとっては一番怖いはずだ。上段との戦い方を熟知している将鷹だ。そこを攻めない手はない。


「――小手ぇぇッ!」


 案の定、将鷹が左小手に飛び込んだ。氏家がそれを()ける。将鷹は飛び込んだその勢いを殺さないまま、氏家の(ふところ)に入って体を当てた。船戸高校サイドからは、拍手が起こる。市鷹は面を付けながら何度か頷いていた。だが、羽柴はふと疑問に思う。狙って飛び込むのはいいが、少し安易ではないだろうか、と。


 マサ先輩、地味な試合をするんじゃなかったのか――?


 先ほど市鷹が話していた内容に将鷹が同意を示したのは、間違いない。それは亀に対して打ち込むのではだめだ、首を出させるための、地味な戦い方をする必要がある、という話だったはず。それなのにどうだ。将鷹は今、至っていつも通り。地味な戦い方をしているとは言いにくかった。どちらかといえば、氏家に対して果敢に攻め込み、打ち込んでいるそれは、派手な戦い方ではないだろうか。だが、彼を見守る市鷹は満足げだ。


 どういうことだ――?

 

「うらぁぁああああ!」


 気合の入った声を出し、なおも将鷹は攻めた。やはり執拗(しつよう)に左小手を狙っている。それに対して冷静に対処し続ける氏家だったが、なにかを待ち続けているかのようにも見え始め、羽柴は生唾(なまつば)を飲んだ。

 次に将鷹が飛べば、氏家はその技を利用しようとしているに違いない。そこまで考えてみたところで、羽柴はハッとする。


 そうか――。フェイクって可能性もある。


 将鷹が何度も氏家の左小手を狙ったのは、相手にそうだと()り込むためかもしれない。将鷹が打ちこんでくる瞬間、氏家はそれに合わせて技を出そうとする。つまり、上段の構えがその一瞬、崩れるわけだ。その瞬間を将鷹は狙っていて、その策を市鷹は理解している。そういうことなのだろうか。


 それにしたって……、どうするつもりなんだ……?


 羽柴は固唾(かたず)を飲んで、将鷹と氏家の攻防を見守った。ところが、将鷹はもう十分に打てる間合いに入っているのに、なぜか打っていこうとしない。氏家はおそらく、将鷹が飛んでくるのを待っているので、当然、技を出さないでいる。

 今にも打ち込んでいきそうな雰囲気はあるのだ。しかし、将鷹は技を出さずにまた間合いを取った。


 マサ先輩――?


 いったい、どうしようというのだろう。まさか、迷っているのだろうか、と羽柴も(まゆ)をひそめた、次の瞬間――。将鷹は足を動かしながら、スッと前に攻め入った。間合いが一気に近づいた。すると(しび)れを切らした氏家は、片手面を打ちこんだ。

 

「面りゃぁあああッ!」

「メーーーーンッ!」


 相打ち……いや――、すり上げ面――!


 白い旗が一斉に上がった。「面あり!」という主審の声と、割れんばかりの拍手に気付き、氏家は慌てて周囲を見渡す。だが、すぐにがっくりと肩を落とした。羽柴も小手をして竹刀を持ったまま、拍手を送る。


 そうか……。マサ先輩、すり上げ面を狙ってたんだ……。


 将鷹が氏家に対し、(たく)みに「小手を狙っている」()り込みをして誘い出したのは、すり上げ面を狙っていたからだったのだ。

 すり上げ面とは、打ってきた相手の竹刀をすり上げるようにして交わし、体勢を崩した相手の(すき)を狙って面を打ち込む技である。それはタイミング一つ狂えば、打たれてしまう可能性も高く、難易度は高い技だった。相手の動きをしっかり見極めなければ成功しないその技を、この場で使うとは、さすがは副主将だ。


 よし。このままいけば――、うちの二勝だ。


「二本目!」

「うらぁぁああああっ!」


 将鷹は気合いの入った声を出し、相手を威嚇(いかく)している。対する氏家は冷静さを保っているようではある。だが、どこか彼の動きには焦りもまた見え隠れしていた。


「小手ぇぇッ!」


 明らかに氏家は、先ほどよりも積極的に攻め入っては技を出している。しかし、将鷹は氏家が打とうとするその技をすべて潰していた。時間が過ぎれば過ぎるほど、氏家の焦りや苛立(いらだ)ちがあらわになっていったことは言うまでもない。


 やがて鍔迫(つばぜ)り合いから引き技を打った将鷹が、ライン(ぎわ)まで下がる。それを氏家は追った。引き技のあとは絶好のチャンスになるからだ。

 将鷹を追って、ライン(ぎわ)まで追い詰めた氏家は迷わず彼に片手面を打つ。すると一瞬、まるでそれを待っていたかのように、面金(めんがね)の奥で将鷹がにやけたような気がした。彼は待っていたのだ。


「面――ッ」

「コテぇぇええええッ!」


 バグッと音がして、白い旗が上がった。氏家は片手面を打つことすらさせてもらえなかった。その前にすでに、将鷹の狙った右小手が、見事に当たっていたからだ。


「小手あり!」

「よし……っ!」


 思わず口に出た。将鷹の二本勝ちだ。これで市立船戸高校は二勝。あと一勝でチームとしての勝利が決定する。引き分けたとしても、残るは大将戦だけなので、同じ。だがもし、万が一負けるようなことがあれば、試合は繋がってしまう。つまり、八重木高校にもチームとしての勝利の可能性が出てくるということだ。


 おれの仕事は――。


『稲葉を潰せ』


 織田に言い渡されたそれが、羽柴の仕事だ。どんなに悪くても引き分けにすれば、この試合は勝つことができる。それを羽柴はなんとしても(こな)さなければいけない。


「勝負あり!」


 主審の声で、羽柴はハッと我に返る。将鷹が下がり、そのたくましい背中が近づいてくる。羽柴はごくりと生唾(なまつば)を飲み込んで、航に目をやった。航は期待感の溢れる目でこちらを見つめている。羽柴は深呼吸を一度だけすると、彼に向って小さく頷いた。


「あとは頼んだぞ」


 試合場を出ていく将鷹がすれ違いざまにそう声をかける。その声を受け取って、羽柴は彼の健闘を(たた)え肩を叩いた。


 はい――。


 心の中で返事をした。試合場に一歩入る。稲葉と目を合わせ、一礼をする。三歩で開始線まで歩みを進め、蹲踞(そんきょ)をする。


 おれはおれの仕事をする。やり切って見せる。こんなところで終わるわけにいかない。先輩たちを一番上まで連れていく。ここはまだ、その道の途中なんだ。


「はじめ!」

「せぇぇやぁあああッ!」


 八重木高校の副将、稲葉との試合がついに始まった。正直に言って、これまで彼と対戦したときの戦績は良いとは言えない。引き分けが群を抜いて多く、勝敗の割合も五分五分だ。そのほとんどが錬成会での試合だが、何度戦っても羽柴は彼のタイミングに合わせられず、一本を取れずに終わってしまう。


 そもそもなにが好かないかって、この攻め方だ……。


 今、稲葉は足を(たく)みに使いながら、ふわり、ふわりと柔らかくこちらを攻めている。あまりに動きが柔らかいので攻められている気にならないが、距離は確かに、詰められているのだ。それはどこか、伊達の得意な攻め方にも似ていた。とにかくタイミングが(つか)みづらくて参る。こちらが狙うときはもちろんだが、打たれるタイミングもまた、ひどく予測しづらい。


 だめだ。この動きに翻弄(ほんろう)されてるようじゃ……。


 このままでは彼の術中にハマり、打たれてしまう。四分間をたっぷり使って一本を取る。勢いがなくてもいいから、地味な試合をする。さっき市鷹に言われたことを、羽柴は心の中で何度も何度も繰り返し思い出していた。


『お前なら大丈夫だよ』

 

 攻防の中で、パンッ、と稲葉の竹刀の先を(はじ)いた。すでに一足一刀の間合いに入っているので、ここから技を仕掛けることもできる。これが将鷹なら(するど)く飛ぶような面打ちを出し、市鷹なら鍔迫(つばぜ)り合いからの引き技を狙うだろう。しかし――。


 おれには、得意な攻め方も、技もない。


 実を言えば、羽柴にはこれといった得意技がなかった。この技だけは誰にも負けないとか、誰にも真似できない攻め方があるとか、そういう自分の武器がないのだ。面も小手も、胴も突きも、苦手ではない。しかし、誰にも負けない技はなにか、と聞かれると、いつもそれには答えられなかった。だから、そういうものがある者には無条件に憧れた。自分も突き抜けたものが欲しくてそれを探した。がむしゃらに稽古もした。それでも、自分にはなにがあるのか。その答えには辿り着けなかった。


 おれにはなにがあるんだろうって……ずっとわからなかった。そのせいで自信もなかった。でも、イチ先輩が教えてくれた。


 目の前でもう今にも打ってこようかという稲葉を見据(みす)えながら、羽柴は思う。以前、市鷹がくれた言葉。そして、航と浬に背中を押されたことも。


 ――お前の武器は技の正確さだよ。一つ一つの打ち方に狂いがないっていうか、ムラがないんだ。相手によって勝ったり負けたりすることはあっても、調子の上がり下がりも、ほかの奴と比べて圧倒的に少ない』


 自分にはなにがあるのだろう。自分の強みとはなんなのだろう。悩んでいた羽柴に市鷹がくれた言葉がそれだった。


 ――思ってた答えじゃないかもしれないけどな。たとえてみれば、羽柴の剣道は、絶対に狂わない精密機械……みたいな感じなんだよ。


 単純に嬉しかった。特に苦手はないが、一方で得意もない。面白みのない、突出したものがない平凡な剣道だと自分では思っていた。だがそれは、安定と正確さという長所だと、市鷹は教えてくれたのだ。航と浬もまた、こんな羽柴だからこそ付いていくと、背中を押してくれた。誰かに背中を押されてやっと前を向けるなんて、自分の情けなさには笑いすら起こる。それでも羽柴は今、数いる部員の中から選ばれ、許されてここに立っている。


 ……だから、負けるわけにいかない。おれの武器がそれなら、相手に惑わされずに仕事を(こな)してやる。稲葉を、潰す……!


 羽柴は今一度、稲葉の動きをよく見つめた。彼がなにを考えているのか、それをしっかりと見極めなければいけない。ここはすでに一足一刀の間合いだ。相手も自分も、技を仕掛けて不思議ではない距離にいる。油断はできない。

 しばらくすると、ふわり、ふわりと距離を詰めていた稲葉が、不意にスッと間合いを詰めた。同時に、触れ合っていた剣先に力が込められ、ぐい、と押さえられた。


 来る――。


「面りゃぁあッ!」


 案の定、稲葉が打ってきた。竹刀を盾にして、羽柴は()ける。そのまま鍔迫(つばぜ)り合いになった。――だが、次の瞬間。再び稲葉は手元を強く押して技を出した。


「小手ぇぇええッ!」


 引き小手だ。思いもしなかったタイミングだったが、羽柴は竹刀で払うようにしてなんとかそれを防いだ。ふうっと一度、息を吐く。いつもならここで追いかけて勢いをつけた状態で打ち込むところだが、今、それはしない。引き技を打ち、残心を取って下がった稲葉に打ち込んでいく瞬間を狙われているような感覚を覚えたからだ。


 今のは一本にしようって感じの引き技じゃなかった気がする。もし、このあと、チャンスを作り出すためだとしたら……。


 この残心は、罠かもしれない――。羽柴は改めて遠間から仕切り直した。すると、稲葉はまたふわりふわりと攻め始め、間合いを詰め始める。少しずつ互いの剣先が近づいて触れ合う。さきほどと同様、一足一刀の間合いまで近づいていく。

 やがて稲葉は、羽柴の剣先を先ほどと同じように強く押しつけるような形で攻め始めた。こういった場合、通常は相手に中心を取られないように竹刀の剣先を押し返すのが普通だ。しかし、羽柴はそれをしなかった。


 上等だ。押してくるなら、そのタイミングの裏を狙ってやる――。


 羽柴はぐい、ぐいと押し攻めてくる稲葉の竹刀の剣先に、何度か抵抗を示したあと、瞬時に力を抜いて剣先を下ろした。稲葉はそれを待っていたかのようだ。剣先はそのまま押し退()けられ、稲葉が好機とばかりに飛ぶ。


「ッ手ぇ、面――ッ」

「メンだぁぁああああッ!」


 だが、羽柴はそれを予想し、稲葉よりもひと呼吸早く、面に飛び込んだ。いや、ひょっとすればふたりが飛んだのはほぼ同時だったかもしれない。しかし、稲葉が打った小手面に対して、羽柴が打ち込んだのは面。羽柴の面打ちが稲葉の脳天に届くスピードの方が圧倒的に速かった。

 一斉に白い旗が上がり、稲葉は慌てて周囲を見渡していた。しかし、打った瞬間に羽柴はもう確信していた。これはまごうことなき一本だ、と。


「面あり!」


 よし――!


 チームからは割れんばかりの拍手が沸き起こり、それに()き消されないように、と主審が声を張る。羽柴は主審が上げている白い旗を確認すると、開始線へ戻った。首をしきりに傾げて、稲葉もまた開始線へ戻っていく。羽柴は面に隠された口角を密かに上げた。 


 小手面と面の勝負なら、圧倒的に面の方が速いに決まってる。少しばかり無理やりな一本にはなったが、計算がうまく合ったな……。


 小手面とは、小手のあとに連続して面を打つ技だ。相手が小手を打った場合にこれを活用すると『相小手面(あいこてめん)』という技になる。相手の小手を竹刀で打ち落とし、ガラ空きになった面を狙うのだ。


 先ほどから稲葉は、羽柴の竹刀を執拗(しつよう)に押さえていた。あの状態からでは羽柴は、非常に技を出しにくくなり、選択肢としては小手を打つほかなくなる。彼はそうして、羽柴の小手を誘い、相小手面を狙っていたのだ。

 しかし、羽柴は小手を打つフリをして稲葉の竹刀の剣先の下をくぐらせ、向かって左の面を打った。それは異質な技だ。面はおもに、相手の竹刀を中心とすれば、相手に向かって右側から打つのが普通だ。左面は非常に打ちにくいだけでなく、一般的ではないので、自分の竹刀が向かって左側に来れば、相手はほぼ間違いなく、小手を打たれると思い込む。わざわざ打ちにくいところから面に飛んでくるとは微塵(みじん)にも想像しないだろう。だから、相小手面を狙ってくるのだ。羽柴はその固定観念を逆に利用したのだった。


「二本目!」

「うりゃぁぁああああッ!」


 稲葉がこれでもか、というほどに気合いの入った声を上げた。彼は間違いなく焦っている。攻め方にも先ほどまでの余裕はなかった。当然だ。ここで勝ち点を取り返さなければ、八重木高校はチームの敗退が決まってしまうのだから。残された時間は――あと、半分。ちょうど二分くらいだろうか。


 このまま……。絶対にこのまま一本勝ちで、イチ先輩に繋げる。悪いがこの試合を勝ち上がるのは、おれたちだ――!


 なんとしてもこの試合で勝利して、大将戦へ繋ぎたい稲葉と、ここで決着をつけたい羽柴。ふたりの思いの強さは同じだ。目の前の稲葉が焦っているのも、時間が過ぎていくにつれ、彼の技に正確さが欠けていることも、羽柴には理解できる。だが、(ゆず)れない。

 去年、市立船戸高校はこの三位掛けで八重木高校と当たり、敗退した。その雪辱を晴らす舞台は、今なのだ。三位入賞の前に立ちはだかる壁の高さを思い知らされ、高校剣道の質、そしてレベルがいかに高いか。それを体に刻み込まれた昨年の悔しさを、ここで晴らさずにいつ晴らすと言うのだろう。


「小手ぇッ! 小手だぁぁあああッ!」

「面りゃぁあーーーーッ!」


 鍔元(つばもと)に当たった小手を必死にアピールする稲葉を相手をいなして、引き面を打つ。しかし互いに一本にはならない。稲葉はなおも攻め続けてくる。


 かなり冷静さを欠いてるな……。もう一本、狙えるかもしれない――。


 もう一本、取れる可能性はある。連続して打ってくる稲葉の技を防ぎながら、羽柴は(すき)を探した。だが、彼もまた必死だ。猛攻撃には休みがない。盛んに足を動かして攻め続け、技を出される。残り時間はあと一分ほど――いや、もう一分もないかもしれない。このまま一本勝ちを狙うこともできるが、こう防戦するばかりではどのみち、打たれる危険性は高くなるだけだ。

 万が一、一本を取り返されて引き分けたとしても、チームとしての勝利は確定する。しかし、だからと言って呆気(あっけ)なく取り返されてしまうのもあまりに悔しい。


 どうにか稲葉の勢いを止めないと――。 


 羽柴は近間で稲葉の攻撃を受けながら、考えを巡らせた。一度、間合いを取って仕切り直したいところだが、距離を取ろうと下がれば、稲葉はここぞとばかりに追ってくる。技を竹刀で受けて防ぎ、そのまま鍔迫(つばぜ)り合いになる。まるで勝利に飢えたような、ギラギラとした彼の(するど)い眼差しには背すじがぞくりと粟立(あわだ)った。しかし、負けじと羽柴も彼を見つめる。


 絶対、負けられないんだ――。


 彼の目に、そう言われた気がした。しかし、羽柴は彼を振り払うようにして体を当てながらいなし、大きく振りかぶる。それを即座に防ごうとした稲葉の手元が上がった。


 ここだ――!


 羽柴は稲葉の右胴をえぐるようにして技を打った。引き胴だ。


「ドォォオーーーーッ!」


 当たりは完璧だった。しかし、それとほぼ同時に、時間を知らせる機械音が高く鳴り響いていた。


「やめ!」


 主審の声がかかる。途端に、目の前で稲葉はがっくりと肩を落とした。船戸高校のチームメイトはみんな一様に拍手をくれたが、どうやら最後の引き胴は時間内に間に合わなかったようだ。


 当たりは絶対、良かったのにな――。


 猛攻撃に苦戦する中で出した技だけに、一本にならなかったのは残念だった。だが、この試合は羽柴の一本勝ちとなり、これでチームとしての勝ち点は三つ。よって、市立船戸高校は見事、八重木高校を下したことになる。三位入賞だ。


「勝負あり!」


 開始線へ戻った羽柴は構え、蹲踞(そんきょ)をして、試合場を去った。後方には市鷹が待っている。羽柴が振り返り、しっかりと彼を見て頭を下げると、面金(めんがね)の奥の目が細くなった。


「ナイスファイト、羽柴」


 残るは大将戦だ。小手を()めたままの市鷹の手が、強く羽柴の肩を叩く。叩かれたその部分には、燃えるような熱を感じた。


「はじめ!」


 主審の声で試合が始まる。畳へ戻ってきた羽柴に、チームメイトたちはみんな、拍手を改めて送った。羽柴は軽く会釈をすると、正座をして面を取り、大将である市鷹の姿を見守った。対するは、安藤。彼は市鷹よりも背丈(せたけ)が高く、体つきもひと回り大きく、いかにも大将らしい堂々とした戦い方をする剣士だった。


「ヒロ、お疲れ。すんげかったじゃん!」

「いや……。ギリギリだったよ」


 斎藤にそう答えたのは謙遜(けんそん)でもなんでもない。羽柴は本当にギリギリのところでやっと稲葉に勝ったのだ。正直に言うと、ホッとしている。勝てて良かった、仕事を(こな)せて良かった、と。

 そういう自分に気付きながら、羽柴はもっと強くならなければいけないのだと改めて思う。少なくとも市鷹は試合が終わったあと、こんなふうに胸を撫で下ろすことはないだろう。もっと本物の武士のごとく、恐怖も不安も(いだ)かずに、悔いなく戦うことができるのだ。

 

 もっと、もっと――おれは強くなる。この人みたいに。


 羽柴は目の前で大将として戦う市鷹を見つめ、グッと拳を握った。


 市鷹と安藤の試合は、始まってしばらく経っても実に静かだった。派手さはなく、激しさもさほどない。しかし、彼らの攻防はとても慎重で、思慮深さが感じられた。一方で、熱さもまたある。その光景はまるで、静かに燃える青い炎が二つ、試合場の中に揺らめいているようだった。


「なかなか渋い試合になりそうだな」


 そう言って織田は、満足げに笑みを(こぼ)した。市鷹は一足一刀の間合いまで入り、安藤の剣先を払うようにしながら中心を取る。ダンッ、と足を踏み鳴らし、前へ出る。すると、安藤は後方へ下がったが、すぐさま間合いを詰めて攻め直した。ふたりの間合いが再び近づく。

 

「小手ぇッ!」


 市鷹が(するど)く、刺すような小手を打つ。鍔()り合いになる。市鷹は得意の引き面を打とうと安藤の体をいなして一本を狙うが、さすがにそれを警戒しているのか。安藤は懸命に()えていた。


「面ッ! 面だぁああッ!」

「胴ーーーーッ!」


 互いに引き技を打ってライン(ぎわ)まで下がり、残心を取る。しかし、どちらも一本にはならなかった。再びふたりは構えて近づき、間合いの攻防を始める。試合場とその周辺の空気は、緊張感で張り詰めていて、ただ呼吸をするのにも気を遣った。ふたりを見つめながら、羽柴は無意識に体の中で溜め込んでしまっている息をふうっと吐く。


 不意に、市鷹が前へ攻める。そのまま、先ほどのように足で床を踏み鳴らし、威嚇(いかく)する。続けて小手を打つ。すると安藤は、半歩後方へ下がりながら振りかぶった。


「やっぱり、抜き技か……」

「安藤のお得意だからな」


 思わず口に出た言葉に、将鷹が返した。八重木高校の主将、安藤は抜き技を得意としている。中でも抜き面に関しては、振り下ろされたら最後、必ず一本を取られてしまうと恐れられ、『稲妻落とし』という異名がつけられているほどだった。


 抜き技とは、相手が打ってきた技を後方へ下がるなどしてかわしながら振りかぶり、(すき)ができた相手の面、小手、胴を打つ技である。試合等で使いやすいのは、『小手抜き面』や『面抜き胴』だろう。一般的に『小手抜き面』は『抜き面』、『面抜き胴』は『抜き胴』と呼ばれることが多い。


 抜き技は相手が技を打った瞬間に手元を上げるので、打たれてしまう危険性もある。だが、相手を十分に引きつけて誘い出し、打ち切らせることができれば、一本を決めるのは容易(たやす)い。技を打ち切ったあとで空振りした場合、たいていの人はその場に居着いてしまって無防備になるからだ。つまり、攻防の段階でどれだけ相手を引き付けて誘い出せるか。それが抜き技を成功させる秘訣なのである。

 逆を言えば今、抜き技を狙われている市鷹としては、彼の誘い出しには乗らないこと、その裏を読むことが必要不可欠となってくるわけだ。


「イチ先輩……」


 しかし、実際それは楽ではない。羽柴はそれを身をもって知っている。これまで安藤と錬成会等で何度か試合したことはあっても、一度も勝ったことはなかった。たいていは見事に抜き技で一本を取られるか、逆に抜き技を警戒し過ぎてろくな技を出せないまま、思考を読まれて一本を取られるのだ。市鷹もまた、安藤との勝率はあまり良くはなかった、と記憶している。彼は強い。そう市鷹も話していた。

 もちろん、羽柴も市鷹も、彼の得意技が抜き技だと(はな)からわかっている。それでも「ここだ!」と疑いなく全力で打った技を、難なく抜かれてしまう。そうして、ガラ空きになった脳天を打たれてしまうのだ。


「いくらイチ先輩でも、あの抜き面だけは脅威(きょうい)でしょうね……」

「まぁな……。でも安藤だって人間だ。あの『稲妻落とし』にだって弱点はある」

「弱点……ですか」

「あぁ」


 そんなものがあるのだろうか。考えを巡らせてはみるが、羽柴には思いつかなかった。目の前で、市鷹と安藤は今も静かに間合いの攻防を続けている。一足一刀の間合いで、互いの竹刀を触れ合わせ、ときに、強く払いのけながら攻め合っている。しかし、やがて市鷹は安藤に対して執拗(しつよう)に小手を狙い始めた。


「小手ぇ……っ!」


 そのたびに羽柴は、冷や汗を(にじ)ませなければならなかった。よりによってなぜ小手なのだろう。抜き面が得意である安藤に対して、小手を狙うというのはあまりに危険だ。抜き面の場合は『小手抜き面』が最も打ちやすく、一本にもなりやすい。市鷹だって、それはもう重々理解しているはずだった。


「なんでわざわざ小手を狙うんだろう……。イチ先輩……」

「心配すんなよ。イチにはなにか考えがあるんだろ」


 将鷹が自信ありげに言う。しかし、いくら考えがあったとしても、市鷹が危険な選択をしていることに変わりはなかった。


「でも、危ないじゃないですか。抜き面が得意な人の小手を狙うなんて……」

「見てるこっちにはそう見えても、あいつにとっては違うかもしれないぞ。抜き面を打つ瞬間ってのはどうしても手元が上がるから、案外、小手を抜こうとして打たれることもあるしな」

「そうですけど……。相手は安藤先輩なんですよ?」

「まぁ見てろって」


 羽柴は(うな)り、将鷹はふん、と鼻を鳴らす。市鷹は攻めながら、剣先を下ろしている。彼がなおも小手を狙っているのは明らかだった。安藤もまた、これは好都合だとばかりに半歩間合いを詰めて攻める。市鷹が次に飛んでくるタイミングを狙っているのだろう。しかし、これでは飛んで火にいる夏の虫、状態だ。


 ほどなくして、果敢に攻めていた市鷹の手元が、ふっと上がった。安藤は瞬時に後方へ下がり、そのまま振りかぶる。あぁ、もうだめだ。打たれる――と、羽柴が思った、その時だった。


「ドォォオオーーーーーッ!」

「胴あり!」

「おぉーっ!」


 パァンッ! という竹刀の乾いた音と市鷹の声が響き渡り、一斉に白い旗が上がる。その瞬間、船戸高剣道部のチームメイトはみんな(そろ)って歓声を上げた。市鷹は安藤の(ふところ)に潜るようにして残心を取っている。今、彼が打ったのは逆胴だった。

 安藤は審判が上げている旗の色を確認しているのか、周囲を何度も確認しているが、やがて天を仰ぐ。


「イチ先輩は……、逆胴狙いだったんですね……」

「な? あいつちゃんと考えてたろ」

「マサ先輩はわかってたんですか?」

「わかってたっつーか、オレならそう考えるかなってのはあったよ。振りかぶる瞬間、胴はガラ空きになるわけだから」

「でも、ちょっとタイミング間違ったらバックリ打たれるのに……」

「まぁな。たださ、イチがここで負けたってチームとしてはもう勝つのは決まってるから。そういう意味では、ちょっとリスキーな賭けもできたんじゃねぇかな」

「そうか……」


 すでに二本目の試合は始まっていた。先ほどとは逆で、今度は安藤が積極的に攻めている。市鷹は安藤の技を受けてはかわす。まるっきり防戦一方のようにも見えるが、市鷹はその中で、わずかな(すき)を狙っているようだ。


「面……ッ!」

「小手ぇッ!」


 安藤の打った技をかわして市鷹が打ち返し、それをかわした安藤がまた技を打つ。近間で激しい打ち合いになったふたりを、羽柴は固唾(かたず)を飲んで見つめていた。


「小手ぇぇええッ! 小手だぁああッ!」

「おおっ!」


 バクンッ、と(にぶ)い音がした。市鷹が素早く後方へ下がって残心を取る。引き小手だ。副審の一人がすぐさま白い旗を上げたが、しかし。もう一人の副審と主審の二人は、旗を下ろしたまま、左右に振った。当たりは良かったと思うが、残念ながら一本にはならなかった。


「んだよ、今の引き小手、よかったけどなぁ……!」

「惜しかったですね……」


 安藤の得意技が抜き面なら、市鷹の得意技は引き技だ。引き技となれば、市鷹の右に出る者はこの会場中を探してもいないのではないか。そう信じてしまえるほど、市鷹の引き技は打ち方も美しく、見事だった。ところが――。


「あ――っ!」


 今、市鷹はライン(ぎわ)にいる。うまいこと近間から引き技を打ったあと、残心を取るために後方へ下がったからだ。その市鷹に安藤が(せま)っていた。市鷹は後ろに重心がかかったまま、まだ体勢が整っていない。だが、安藤は容赦(ようしゃ)なく追ってきた勢いをつけたまま、好機とばかりに攻め入った。その瞬間、市鷹が飛び込む。安藤が振りかぶる。


「イチ……ッ!」

「小手ぇッ!」

「メーーーンッ! 面りゃぁああッ!」


 焦ったような将鷹の声がした直後、安藤が市鷹の脳天に竹刀を振り下ろす。ほぼ同時に、バグンッ!と音がした。安藤の一本を決める声が響く。


「面あり!」

「……やられたな」


 主審の声がした途端、将鷹がため息を吐く。市鷹も「やられた」と言わんばかりに肩を落とし、開始線へ戻っていった。やがて「勝負!」という主審の声で、最後の一本勝負が始まる。


「……にしても、普通、ここでアレを使いますか……?」

「今の間合いと攻められ方じゃ、イチだって面が飛んでくると思うよな」

「はい。あれだけの勢いがあれば、安藤先輩はわざわざ相手の打ちを誘って抜き面やるんじゃなくて、ストレートに面に突っ込んでもよかったような気がしますけどね……」


 市鷹はさっきライン(ぎわ)にいて、しかも体勢が整っていなかった。打てたとしても小手が精一杯だったろう。安藤はあのまま面に飛び込んでも、小手面を打って相小手面を狙っても良かったのだ。しかし、彼はあえて抜き面を選択した。なぜ、あの場面で勢いをつけて前に出る技ではなく、やや後方へ下がるような技を選んだのか。羽柴は理解できず、首を傾げる。だが、将鷹は言う。


「もしかしたらあいつ、相当、悔しかったんじゃねえか。さっき得意技を利用されて逆胴打たれたろ、イチに」

「はい……」

「だから、なんとしても得意技の抜き面で一本取り返したかった……のかもな」

「なるほど……」

 

 将鷹が言うことが真実であればつまり、安藤は得意技を逆手に取られて(あざむ)かれた悔しさあまりに、わざと使いにくい状況でも、抜き面を使ったというわけだ。


「安藤先輩、いつも冷静って感じなのに」

「まぁ、オレはわかるけどな。必殺技利用されんのは、やっぱ悔しいだろ」

「へえ」


 そうか――。必殺技があれば、そういうふうに思うものなのかもしれないな……。


 単純に悔しさは理解できても、『誰にも負けない必殺技』を持たない羽柴には、それを深くまでは理解できないのかもしれない。しかし、市鷹が教えてくれた技の正確さ。それが自分の武器なら、今後は必殺技と誇れるものも手にできるはずだ。

 市鷹には引き技。将鷹には遠間からの大砲のような面。航もタイプ的には将鷹と似ている。毛利には矢のような速さの素早い小手打ち。伊達には相手を惑わせて(あざむ)く、攻め方。


 必殺技か……。


「やめ!」


 やがて主審の声がかかる。市鷹と安藤は静かに構えを解いて、開始線へ戻る。大将戦は引き分けで終わった。


「引き分け!」


 市立船戸高校対、県立八重木高校の試合は、三対〇で市立船戸高校が勝利した。三対〇という結果だけを聞けば、三ポイント取った上に一敗もしなかったと思われるだろう。もしかしたら圧勝だった、と思われてしまうかもしれない。しかし、それは死闘。その三勝と二引き分けは、間違いなく五人が去年入賞した強豪校から、死に物狂いで獲得したものだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ、続きを楽しんでいただけると嬉しいです。


いなば海羽丸

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