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9【インターハイ県予選(初戦)・桜学園高校】~朝比奈航~

ついにはじまったインターハイ予選の初戦のお話。

航視点でお送りします。

「じゃあ、選手は武道館に入ったらそのまま控え室。あとの応援組は客席行って場所取り。いいな?」

「はい!」


 マイクロバスの中に、部員たちの返事が響いた。六月の中旬、第三土曜日。とうに梅雨入りしているはずの関東の空は青く、爽やかに晴れている。時刻は朝の七時半を回った。市立船戸高校剣道部は織田の運転するマイクロバスに乗り、千葉市にある県武道館にやってきた。

 武道館前にはすでに多くの参加チームが集まっている。みんな、重い防具袋と竹刀袋を持った状態で、武道館が開くのを今か、今かと待っているようだ。おそらく彼らは整列しているのだろうが、誰がどの列に並んでいるのかもわからないほど、ここはごった返していた。


「今年もすごい人だな……」


 すぐ隣にいる羽柴がため息混じりに呟いた。二年生の彼は去年もここ、千葉市の県武道館で開催されたインターハイの予選会を経験していた。……と言っても、去年は彼もまだ一年生だったわけだから、先輩たちの応援とサポート係を務め、尽力していたのだろう。選手としての参加は今年が初めてであるに違いない。ただし、この雰囲気は変わりないようだった。


「去年もこんな感じだったんですか?」

「あぁ」


 羽柴はいつになく口数が少なかった。無理もない。彼は今日、この大会に三年生に混じってレギュラーの、しかも選抜メンバーとして参加するのだ。冷静、且つ落ち着いて見えても、緊張は相当しているはずだった。なにしろ補欠枠の航ですら、体がこわばっているくらいなのだ。


 やがて、武道館の扉が開き、各チームがなだれ込むようにそこに入って行く。航は羽柴の背中を懸命に追って、人ごみを避けるようにしながら、控え室へ向かった。


「よし、じゃあ着替えてすぐ会場。アップするぞ」

「はい!」


 市鷹の声に返事をして、航は羽柴と斎藤のすぐ横で着替えを始めた。初めて腕を通す紺色のそれは、選手用の胴着と(はかま)だ。胴着の右腕の部分には緑色で大きく『市立船戸』と、袴の右腰の辺りには、小さな文字で『市立船戸高校剣道部 朝比奈 航』という刺繍が(ほどこ)されている。


 胴着は船戸校剣道部が選手用として所有しているものだったが、この(はかま)は入部したときに航が購入したものだった。剣道部員は入部すると、みんなこれを購入するようになる。もちろん、それは強制ではないが、この(はかま)を持つことは、入部してきた生徒にとっては憧れなのだ。もっとも、それは生徒の保護者に購入してもらうことになるわけだが、当然ながら、我が子の夢や熱い思いを知る保護者からの異議はまず起きなかった。


 いつかこれを穿いて、試合に出る日が自分にも来るのだろうか。と、暢気(のんき)に思っていた航だったが、まさかこんなに早く着ることになるとは思いもしなかった。航は改めてこの現実に驚きながらも、言いようのない幸福感を密かに噛み締めていた。


「よう、久しぶり。イチマサ」

「うす、細川(ほそかわ)

「おい、セットで呼ぶなっつってんだろが」

「いいだろ? 間違わなくて済むじゃん」


 明るい声に顔を上げる。市鷹と将鷹の前には、ちょうど自分と同じくらいの背丈(せたけ)の、見知らぬ青年が立っていた。頭を短く刈り上げ、がっしりとした体つきのその青年はすでに胴着と(はかま)に着替え、胴と垂れを付けている。垂れネームには『桂浜(かつらはま) 細川(ほそかわ)』とあった。


「あの人、細川先輩。県立桂浜高校の主将だよ」

「へえ」

「イチ先輩とマサ先輩とは友だちなんだって。前に、遠征で宿泊部屋が隣になったときに仲良くなったらしいぞ」


 そう羽柴が教えてくれた。聞けば去年の夏、千葉県館山市で行われた大会に参加していた県立桂浜高校とは、宿泊していた部屋が隣同士だったため、自然と交流を深めることになったのだと言う。中でも、主将の細川は気さくな青年で、市鷹と将鷹が双子だったこともあってか、ふたりに興味を持ったらしく、やたらと話しかけてきたのだそうだ。


「すっげえ鬱陶(うっとう)しい先輩だと思ってたけど、まさか主将になってたなんてな」


 羽柴はこっそり航に耳打ちをする。こんな主将が率いるのだから、きっとにぎやかな剣道部なのだろう。くす、と笑みを(こぼ)した時、不意に細川の声が飛んできた。


「おっ? 見かけねえ顔、発見!」


 明らかに自分に飛んできたであろう声に、びくりと肩を震わせて、航は振り向いた。胴着と(はかま)に着替えた航に、細川が近づいてくる。


「ほぉー。背たっけーんだなぁ。一年ボウズか?」


 自分だって同じくらい背丈(せたけ)があるのに、まるで東京タワーでも見上げているかのように細川はそう言った。しかし、その体つきは航とは比べものにならないほどがっしりとしている。一年生部員の中で決して細い方ではない航だが、彼と並んでみると歴然とした差があった。


「あ、朝比奈、といいます。はじめまして」

「おう! 細川だ、よろしく」


 自然と握手を求められ、航は慌ててその手を握る。大きく、肉厚な手だった。手の平はがさついていて、肉刺(まめ)がたくさんできていた。苦しい稽古を積み重ねてきた証がそこに刻まれている気がして、航は思わずごくり、と喉を鳴らす。


「おーい、細川ぁ。もう行こうぜ」

「おお、んじゃ、またな。負けんなよー、お前ら」


 そう言って、細川は仲間とともに控室を出て行った。見るからに硬派な市鷹や将鷹と細川の雰囲気は正反対に見える。軟派、とまではいかないが、彼から威圧感や緊張感はほとんど感じなかった。


「県立桂浜って、強いんですか」


 ふと疑問に感じてそう(たず)ねると、市鷹が答えた。その手には大会のパンフレットを持っている。


「桂浜は、錬成会じゃうちより勝率良いよ。細川は去年も出てたしな。たしか――先鋒だったか」

「へえ……」

「でも、対戦結果はほぼ互角だ。今日あいつらと当たるとすれば……決勝だな」


 決勝。その言葉に体が反応した。興奮と緊張に襲われて、足下からぞわっと全身の肌が粟立(あわだ)っていく。思わず肩をすくめて体を震わせると、毛利が言った。


「まぁ、今日のトーナメント見る限りでは、桂浜の前に大ボスがいるけどね」

「大ボス?」

兜山(かぶとやま)高校。今年の優勝候補だよ」

「あ――。兜山(かぶとやま)高校……って、聞いたことあります……!」


 剣道の雑誌かなにかで読んだのかもしれない。『兜山(かぶとやま)高校』といういかにも武道が強そうな名前と、輝かしいまでの戦績は記憶に残っていた。


「たしか、去年は兜山高校がインハイ行ったんですよね」

「そうそう。ここ数年は毎年だから、県内じゃ有名だと思うよ。ちなみに、さっきの細川率いる桂浜も、毎年ベスト四には絶対上がってくる。あと、要注意なのは千葉(ちば)(ともえ)学園と、市立葛(いちりつかずら)高校、八重木(やえぎ)高校――辺りかな」


 航は毛利の話を聞きながら着替えを済ませ、頭の中で整理しながら高校名を並べていく。その多さにはメモを取りたくもなった。


「強豪だらけだ……」

「バカやろ。オレらだって強豪だ。誰が相手だって負けねえ」


 そう言ったのは将鷹だった。不思議だ。彼の強気な発言を聞いた瞬間、航は急に強くなれたような気がした。航だけではない。その場にいた誰もが同じように感じていたに違いなかった。


「そうだよな? イチ」


 市鷹は頬を(ゆる)め、しっかりと頷いた。よくぞ言ってくれた、と言わんばかりだった。


「あぁ! もちろんだ。俺たちは今日、ここへ勝ちに来たんだからな!」


 航たちは胴着と(はかま)に着替えた後、胴と垂れを付け、面と手ぬぐい、それに竹刀を二本持ち、武道場へ向かった。すでに多くのチームがそこでアップを始めている。気合いの入った選手たちの声が響く中では、普通に話すことも難しかった。市鷹がみんなを集めて、声をめいっぱい張り上げる。


「各自、準備運動して面つけ!」

「はい!」


 他校の気合いに負けないように、声がかき消されないように、航もめいっぱいの声量で返事をする。それから一同は道場の(すみ)で並んで正座し、面を付けた。するとそこへ、佐伯と大地がやってきた。


「竹刀の計量始まりました! みんなの竹刀、一本ずつ持っていきますね!」

「おう、頼む!」

 

 佐伯はアップを始めるレギュラーメンバーが二本持っている竹刀の内、一本を集めて再びその場をあとにした。

 公式大会では、竹刀の計量審査が必ずある。竹刀の重さと太さを計られ、それらの値が規定内であると認められ、その印を付けられた竹刀だけが、大会で使用することを許されるのだ。規定値よりも重い分には問題ない。だが、中には竹刀の竹を極限まで削ったものを組み合わせることで、極端に軽い竹刀を作り、動きにさらに素早さを出そうとする、ずる賢い者もいたりする。そのため、必ずそういった審査が行われるのだ。


 やがて、市鷹の号令で航たちは二列に並び、ウォーミングアップを始める。切り返しから、基礎打ち、技稽古と続くそれは、時間にしてみれば、二十分から三十分程度だっただろうか。しかし緊張しているせいか、航は自分でも驚くほど息が上がっていた。





「おい、集合だ」


 アップのあと、開会式を終えた船戸校剣道部一同は、織田のそばに集まった。ミーティングのためだ。一方で、そのすぐ隣では、毛利と伊達がふたり(そろ)って正座をして、すでに面を付け始めていた。斎藤はその背後に立ち、毛利の背中の胴紐(どうひも)に赤い(たすき)を結び始める。航はそれを見て真似るように、伊達の背中に赤い(たすき)を結んだ。選抜メンバーは先日発表された通り、先鋒は毛利。次鋒は伊達である。


「初戦は……、桜学園か」


 すぐ近くで円陣を組み、ミーティングをしているであろう相手チームをちら、と見て、織田が言った。 その手には大会のパンフレットを持っている。


「桜の次は――準々決勝まで行けば、おそらく八重木(やえぎ)高校が上がってくる。なんとしてもここは勢いつけてくぞ」

「はい!」


 千葉県立八重木(やえぎ)高校。そこは千葉県内の進学校として有名らしいが、勉学と同様に部活動にも相当力を入れているのだそうだ。特に武道関係は県内でも三本の指に入るほどの実力らしい。要するに数ある強豪校の中でもさらに力のある高校、というわけだ。


 この初戦を勝ち上がって準々決勝まで行けば、対戦する可能性が最も高いのはその八重木(やえぎ)高校だろう。船戸高校はなんとしてもこの初戦で勢いをつけたいところだった。


 ちなみに――、インターハイ県予選はトーナメント戦である。つまり、負けたらそこで終わってしまうということだ。全国への切符を手にできるのは、この大会で優勝した一チームのみ。たったの一度でも負けは許されない。

 トーナメント戦は各試合場で太鼓の音とともに一斉に始められる。船戸校の初戦はその第一試合目だった。


「いいか、立ち上がりからしっかり行け。一試合目で緊張も体も慣れてないだろうが、それは向こうも一緒だ。まず勢いつけていくぞ!」

「はい!」

「いつも通りだ! (ひる)むな!」

「はい!」


 ミーティングというよりもそれは、ただ織田に(げき)を飛ばされているだけのようでもあった。特に作戦を練るわけでもない。難しいことも言われない。ただ、織田はとにかく背中を強く押す言葉を発し、選手に勢いをつけようとしているのかもしれなかった。


 やがて審判が三人、試合場に整列をした。いよいよだ。毛利、伊達、将鷹、羽柴、市鷹の五人は試合場の右側に横並びになって整列した。

 ほどなくして、対戦する桜学園も向かい側にやってきて整列する。彼らも地区大会を勝ち抜き、ここまで来るだけの実力を持ったチームだ。その出で立ちや身なりからして、かなり手強そうだった。一方で、航と斎藤、そして顧問の織田は、試合場のすぐ横に置かれた畳の前に並んで立った。


「正面に、礼!」


 アリーナの上座に設置されている運営本部から、マイクを通して号令がかかる。ほかの試合場でも各チームが同様に整列していた。みんなが一斉にアリーナの正面に向かって一礼をする。と、途端にそれまでざわついていた客席からは拍手が起こった。


「お互いに、礼!」


 続いて、各試合場の主審が言う。各チームは対戦する相手チームに向かい合い、一礼をする。静まり返った体育館の中、六つの試合場では同時にそれが行われていた。大きな公式大会の第一試合目は、たいていの場合、こうして始まるのだ。

 互いに礼をしたあと、各チームはそのまま背を向けずに下がり、試合場の外に出る。拍手をしながら声を掛け合うチームも中にはあった。

 目の前の試合場では、最初に試合に(のぞ)む毛利に声をかける市鷹の姿がある。口の動きを見る限り彼は「しっかり」と言っているように見えた。やがて将鷹、羽柴、市鷹は航たちのいる畳へと戻ってくる。


「気をつけ! 礼!」


 市鷹の号令がかかると、一礼をして、あとの選手と織田が畳の上に正座する。航は慌ててそれに合わせて一礼し、畳の上に彼らと同じようにして正座した。これは緊張のせいだろうか。手の先、足の先――いや、全身がこわばっていて(わずら)わしい。


 俺は試合に出るわけじゃないってのに……。こんなに緊張してるのか――。

 

 思わず(ひざ)に置いた拳をぐっと握りしめる。すると、隣にいる斎藤が航の顔を(のぞ)き込んだ。


「な、なにか……?」

「いや。なんか怖い顔してんなーって思ってさ」

「え――」

「もう少し肩の力抜け。サポートすんのにもそんなにガチガチじゃしょうがないでしょー」

「はい……」

「お前はもう少し緊張した方がいいと思うけどな」


 呟くようにそう言ったのは、市鷹の隣にいる羽柴だった。


「な……! おいおい、オレが緊張してないっていつ言ったよ?」

「顔に書いてある」

「……書いてねえよ。勝手に書くのやめてもらえる?」


 航はふたりのやり取りに、くく、と笑みを(こぼ)す。すると、斎藤がポン、と航の肩を叩いた。その表情には笑みを浮かべている。


「ちょっとはほぐれた?」


 航の手が緊張で震えていることに、彼は気付いたのかもしれない。見れば、羽柴も航を見て笑みを浮かべ、頷いている。


 そうだ――。俺が緊張してどうする。


 やがて、審判員は三方向に分かれて、それぞれが試合場内の位置についた。ドウン、ドウン、ドウン、と太鼓が鳴る。だんだんと音の間隔(かんかく)が狭くなっていく。まるで迫ってくるようなその音に合わせて、毛利は一度正面に礼をしてから、試合場に一歩入った。桜学園の先鋒選手も、同じくして試合場に入る。


 ふたりは互いに向き合って礼をすると、三歩で試合開始線の位置につき、蹲踞(そんきょ)をした。

 緊張の一瞬だ。航は呼吸をするのも忘れて、その光景に見入っていた。


「……はじめ!」

「やぁあさぁぁあ!」

「うらぁぁあああ!」


 蹲踞(そんきょ)をしていたふたりが立ち上がり、気合いの声を出す。あちこちから拍手が起こる。インターハイ県予選、男子団体の部が始まった。


 立ち上がりは完璧だった。毛利は試合開始後、初戦の一本を取ろうと躍起(やっき)になっている相手をうまいこと誘い出す形で、あっという間に一本を取った。桜学園高校の先鋒は必死に取り返そうと攻める。だが、少し慌てているのだろうか。彼は空回りしているふうでもあった。その相手を利用して、毛利は難なくもう一本を取る。どちらも彼の得意な小手技だった。


「よっしゃあ……! 二本勝ち!」

「毛利先輩の小手はほんっとに速くて見えないかんなー。初めて対戦する相手は苦労すると思うよ。なにがなんだかわからないうちに触られてたって感じ」


 斎藤が得意顔で言った。航だってそれを知っている。毛利の持ち味は打突の素早さにあった。特に彼の繰り出す小手技はとにかく速い。構えて向かい合っているときは竹刀の下をくぐり、少しでも手元が上がった瞬間や、自分の体勢が崩れた瞬間があれば、そこを狙われて打たれる。

 打たれた瞬間、その動きを目で追うことは実に難しかった。毛利と対戦するとき、航は気が付けば小手を打たれている。しかも、毛利は残心を取るのも素早く、相手との距離をあっという間に作ってしまうのだ。


 次いで、次鋒、伊達の試合が始まった。伊達は背は低いが、非常に足さばきがうまく、また素早かった。足を盛んに動かしながら、だんだんと相手との距離を詰めている。


「伊達先輩、攻め込んでんな」

「はい……」


 距離を縮めたり、遠ざけたりを繰り返しながら、伊達はなおも足を使って動く。そうしているうち、いつの間にか相手に打ち込むことができる間合いまで近づいていた。しかし、相手はそれに気付いているふうではない。


「……よし」


 隣にいる織田が言った。目を向けると、彼はわずかに頬を(ゆる)めている。それに気付いたのか、彼は続けて航に言った。


「目ぇ()らすな、航。よく見とけ」

「はい……!」


 低い声で言われ、航が慌てて試合場へ目を戻した瞬間、伊達が飛ぶ。その直後、バグッという鈍い音とともに、技を決める声が響いた。


「……メーーーンッ! 面だぁぁあああ!」

「おぉっ!」


 航たちは思わず声を上げ、拍手をする。三つの赤い審判旗が一斉に上がった。


「すごい……。飛ぶタイミング、全然わかんなかった……」


 唖然(あぜん)としてそう言うと、斎藤はまたもや得意顔になる。


「航でもわかんなかったかぁ。さっき伊達先輩は、相手に悟られないように足動かしながら、じりじり間合い詰めてたろ」

「はい」

「あの攻め方は厄介でさ、間合いに入られてるって気付きにくいんだ。おまけにタイミングも(つか)みにくい。飛んでくるのがわかって焦って防ごうとしても、自分が思ってるよりも間合いを詰められてるせいで間に合わないってわけよ」

「へえ……」


 航は伊達との試合稽古を思い出してみる。たしかに伊達に一本を取られるとき、その動きに気付いて防ごうとしても、どうしてか間に合わないことが多かった。技を出される瞬間には気付くのに、なぜなのだろう――。と、それを不思議に思っていたが、こんなトリックがあったようだ。


「どうだ、すげえだろ?」

「もしかして……。斎藤先輩もできるんですか! あの攻め方!」


 斎藤があまりに得意顔なので、きっとそうに違いない、と航は興奮して()く。だが、斎藤は苦笑いをしてかぶりを振った。


「いや。オレもいっつもそれで伊達先輩には一本取られてんだけどさ……。あれは真似しようったってそうそうできる技じゃないよ」

「なんだ……」

「なんだってなんだよ」

「いえ……!」


 残心を取った伊達が試合開始線に戻ってくる。主審は赤い旗を上げ「二本目!」と声を上げた。航と斎藤、それに羽柴や市鷹も、割れんばかりの拍手を送る。織田だけが腕組みをしたまま、じっと伊達を見つめていた。


 不意に、二階客席からも割れんばかりの拍手が聞こえた。振り向くと、すぐ上の客席には、緑色の大きな応援幕が設置され、垂れさがっているのが見えた。そこには白い字で『絆』と書かれている。その後ろでは、ジャージ姿で応援する佐伯や、浬たち一年生の姿があった。佐伯はビデオカメラで試合を録画しながら、それの扱い方を大地に教えているようだ。

 航は不意に、胸がじわっと熱くなっていくのを感じた。


 そうだ。先輩たちは――、いや。俺たちは、みんなで戦ってるんだ……。試合に出ていても、出ていなくても、それぞれに役割があって懸命に(こな)して……。


 航はこの船戸校剣道部という一つのチームの中に自分がいることを、改めて感じながら、いつかこのチームの選抜メンバーとして戦うことに今一度、憧れを(いだ)いた。その時には浬も、楓も、一緒だ。そしてマネージャーとなった大地がサポートしてくれる。それを思うと余計に胸が躍った。


 だけど、それまでに北条とはちゃんと話して、せめてまともな仲間になっておかないとだめだよなぁ……。――いや、ひとまず今は、この県予選を勝ち抜くことだけを考えないと!


 やがてピーッという機械音が鳴り響き、伊達の試合が終わる。次鋒の試合は伊達の一本勝ちだ。船戸校はすでに勝ち点を二つ獲得したので、ここからの試合運びはかなり楽になる。五人のうち三人が勝てば、団体戦での勝利は決定するからだ。


「あと、もう一回勝てばうちの勝ちですね!」


 しかし、隣にいる斎藤の表情は硬い。


「どうかな……。次の奴はそう簡単には勝たせてくれないかもしれないぜ」

「えっ」

「桜学園の中堅は向こうの主将だからな」


 将鷹が面を付け、試合場に立っている。対峙するのは、一見、小柄(こがら)にも見える剣士だった。だが、その体はがっしりとして、明らかに鍛えられていることがわかる。垂れネームには『蒲生(がもう)』とあった。


「はじめ!」


 湧き上がるように鳴る拍手の音と主審の声で、中堅の試合が始まった。


 蹲踞(そんきょ)をしていたふたりがすくっと立ち上がる。中堅の試合は静かに始まった。将鷹は構えた状態から間合いを詰めて攻める。桜学園の中堅、蒲生はそれほど背丈(せたけ)が高いわけではなかった。あっても百七十ほど――、いや、もう少し低いかもしれない。対する将鷹は身長が百七十八センチある。ふたりを比べればその差は明らかだった。だが、蒲生は決して小さくは見えない。背すじがピンと伸びていて首は太く、がっしりとした体つきをしている彼は、構えているだけでも相当な迫力があった。


 ダンッ、ダンッ、と足を鳴らして威嚇(いかく)しながら、将鷹は蒲生の反応を見て攻め込んでいる。だが、蒲生は冷静だ。将鷹の様子を静かに見つめながら半歩下がり、間合いを取り直す。体勢は決して崩さない。そのせいで、彼は攻められて下がっているようには決して見えなかった。それはまるで、将鷹の動向を見据(みす)えながら、絶好のタイミングを狙っているようでもある。


「小手ッ、メーーンッ……!」


 将鷹が小手を打ったあと、続けて面を打った。だが、そのどれもが読まれていたようだ。将鷹の攻撃は竹刀で受け取られるようにして、難なく防がれてしまった。


蒲生先輩(あのひと)、なんか狙ってそうだな……」


 隣で斎藤が言う。航も同感だった。だが、妙だ。蒲生は冷静ではあるが、攻めよう、打とう、という気がないようにも見える。ただしそれは将鷹を警戒し、様子を(うかが)っているゆえのことなのかもしれない。


「うらぁぁああああ!」

「いぃやさぁぁああ!」


 鍔迫(つばぜ)り合いになり、ふたりは互いに互いを威嚇(いかく)して気合いの声を上げる。だが、次の瞬間だった――。


「メーーーーンッ!」


 バグンッという音とともに聞こえたのは、蒲生の声だ。拍手が沸き起こる。一瞬のうちに、蒲生は将鷹から離れ、残心を取っていた。慌ててそれを追いかける将鷹だったが、すでに白い旗は上がっている。


「面あり!」


 引き面……!


 見事だった。同時に航は理解した。蒲生が狙っていたのは引き技だ。だから彼は、構えた状態で勝負を仕掛けてこなかったのかもしれない。最初からここで勝負しようと、どうにか鍔迫(つばぜ)り合いの状態に持っていこうと狙っていたのだ。しかし、そのタイミングや打ち方には妙な既視感があった。


「おい、今の……。イチ先輩の引き面に似てなかったか……?」

「あ――、そうか!」


 斎藤の言葉に航はハッと気づく。それから互いに顔を見合わせた。市鷹の得意技の中でも、引き面は脅威的だった。さほど強く体を押されたりするわけではないのに一瞬でいなされて、気が付くともう打たれているのだ。


 いなす――というのは、相手の攻撃等を横に突きながら急にかわして、相手の態勢を崩すことである。これは相撲ではよく使われるポピュラーな技術だが、剣道でも鍔迫(つばぜ)り合いなどの近距離戦になった場合には使われることが多い。


「オレ、前にさ。イチ先輩に直々に教わったことがあるんだよね、いなしてから打つ引き技」

「そうなんですか!」

「うん。でもあれは、ひと言に『いなす』って言っても、教科書通りそれを成功させるのはすっげえ難しいんだよ。力加減とか、タイミングをうまいこと利用しなきゃなんないから」


 簡単に言えば、コツがいる、ということだろう。その引き技は、市鷹の独自の感覚と思考錯誤の中で編み出されたものだったので、ただ口頭で教えられて頭でそれを理解したとしても、実際に試合で再現するのは途方もなく難しいのだそうだ。

 しかし、蒲生のそれはまさに市鷹の引き技と酷似している。斎藤は驚きながらも、悔しそうな表情を見せていた。


「……完全にコピーしてきたんだ。きっと」

「イチ先輩の引き面を、ですか?」

「引き面だけじゃない、もしかしたら引き技全般だ。くそぉ、錬成会かなんかで見て、研究してたのかもな……」


 斎藤は(ひざ)に置いた拳をグッと握る。その思いが伝染してくるように、航も悔しくなって、奥歯を噛み締めた。だが、不意に織田が言った。


「落ち着け」


 それは航と斎藤に言っているようでもあり、また、将鷹に言っているようでもあった。開始線へ戻ってきた将鷹は、がっくりと肩を落として、ちら、と織田の方に目をやる。その瞬間、織田は無言のまま一度だけ頷いて、さらに(あご)をしゃくった。


 行け――。


 織田がそう言った気がした。すると、将鷹はこくりと頷いて、蒲生の方へ向き直った。


「二本目!」


 主審の声で、試合が再開された。将鷹は足を動かし、迷いなく攻めている。蒲生は相変わらず冷静で、将鷹に(ひる)むことなく間合いを取っていた。


「やっぱり攻めようとしてこないですね……」

「でも、このままだと反則もらうんじゃないの」

「ですよね。鍔迫(つばぜ)り狙ってるって審判が気付いたら――」


 航が言ったあと、それまで黙っていた織田が不意に口を開いた。


「今の引き技がどうあれ、蒲生がイチの真似をしてるなら好都合だ」

「え――?」

「うちでイチを負かす奴は、マサしかいないからな」


 織田はそう言った。目の前ではダンッ、と床を踏み鳴らし、将鷹が攻めている。手元を上げ、小手を打つフリをしたかと思うと、再び攻める。すると、蒲生が半歩下がり、間合いが遠のく。これはさっきと同じような展開だった。


「やっぱり、このまま間合い取って、逃げようとしてるんじゃ……」

「時間稼いでるのもあるのかもな……」

「もう反則じゃないんですか、あれ」


 斎藤がぼやいて、航が口を尖らせる。主審も妙だ、という顔をしているので、そろそろ声がかかってしまうかもしれない。だが、将鷹は諦めてはいなかった。彼は再び攻める。蒲生が下がった――いや、下がろうとした。次の瞬間、将鷹は飛んだ。


「メンだぁぁぁあああッ!」


 バグッ! と鈍い音がした。技を決めんと将鷹が残心を取る中で、赤い旗が三つ、一斉に上がる。


「面あり!」

「おおぉしっ!」

「っしゃあ……!」


 航と斎藤は思わずふたり(そろ)って声を上げ、これでもかというほどに強く手を叩き、拍手を送った。それはもう文句なしの、見事な一本だった。将鷹の表情が、ちら、と面金(めんがね)の間から見える。彼も「してやった」と言わんばかりだ。

 将鷹の得意技でもある面打ちは、本来打ってくるはずのない遠間から、刺すようにして飛んでくる、異質とも言える技だった。


 間合いというものは、近間、一足(いっそく)一刀(いっとう)の間、遠間。この三つに分けることができる。近間というのはその名の通り、近い間合いのことだ。この間合いは打たれれば即、当たってしまう距離であり、最も危険な間合いとも言える。つまり打たないという選択肢はない間合い、というのが、この近間だ。


 続いて一足一刀(いっそくいっとう)の間とは、相手と自分の竹刀の剣先が触れる距離の間合いを言う。一般的には、ここで攻防をすることが多い。一足一刀(いっそくいっとう)の間から攻め入って技を出すか、あるいは出された場合に一歩引いて()けるか。その選択をできるのも、この一足一刀(いっそくいっとう)の間なのである。


 最後に、遠間というものがある。遠間は相手との距離が遠く、剣先も触れ合わない距離を言う。相手も自分も、この間合いにいるときには比較的、安全だ。なぜなら打ったとしても、そうそう当たらない距離だからである。しかし、それは人にもよる。(まれ)ではあるが、この遠間から打てる者もいるのだ。将鷹はまさにそれだった。


 将鷹の面の怖さは、遠間から飛んでくることにあった。遠間と言っても、なにも試合場の(はじ)から(はじ)へ飛ぶわけではないが、対峙していれば、それと似た衝撃を感じ受けることだろう。まだ互いの剣先が触れ合っていない間合いから、真っすぐ、刺すように飛んでくるのだから。

 それは質の良い、強靭(きょうじん)な筋力とバネを使った将鷹の必殺技だった。彼の双子の兄、市鷹でさえ、その面技を恐れて普段の試合稽古から警戒しているくらいなのだ。たとえ目で見て、どんなに研究したとしても、実際にその技を受ければ呆気(あっけ)に取られてしまうだろう。少なくとも、蒲生はそうだった。


「あの面は、兄貴のイチ先輩だっておっかないって言ってるくらいだかんな!」

「そうですよね!」

「斎藤……」


 興奮している斎藤と航のやり取りを聞いていたのだろう。隣で面を付けている最中だった市鷹が、斎藤に振り向いた。彼はじろりと(するど)い視線を向ける。


「あ――、すんません……」

「――いや、いいけど。お前らもうちょっと静かにしとけ。審判から注意されるぞ。航もな」

「うぃっす……」

「すいません……」


 剣道では、応援の仕方が厳しく規制されている。特に公式戦では「ファイト」や「頑張れ」など、単純に選手を応援するものであっても原則では禁止されていて、許されている応援は「拍手」のみだった。


 スポーツとして、こういったルールは珍しいかもしれない。しかし「礼に始まり、礼に終わる」といわれる剣道には、礼節を重んじて相手を尊重しなくてはいけない、という教えがある。そのため、打たせていただいた相手の前で喜び過ぎない、というルールが伝統的に守られているのだ。

 また、これは航の勝手な見解であるが、元々、剣道は剣術から始まっている。それは相手を斬る――。すなわち、殺すということである。

 戦いに勝利したとは言え、本来は人を殺した上で大喜びすべきではない、という考え方が根底にあるのではないか。航はそう思ってもいた。


 中学時代では、声を出して応援していたチームは少なくなかった。注意をされるギリギリのところをあえて狙ったように応援するチームもあったが、高校ではさらに厳しく取り締まられているようだ。現に今、このアリーナでも、声を出して応援しているチームはごくわずかであり、あっても航と斎藤のように、思わず声が出てしまっている、というケースがほとんどであるように感じた。


「勝負!」


 主審が声を上げた。気を取り直し、航は再び将鷹の試合を食い入るように見つめる。泣いても笑っても、これが最後の一本勝負だ。


「あれ――」


 だが、試合が開始された途端に異変を感じ、航は(まゆ)をしかめる。それまで攻める気のないように見えていた蒲生が、人が変わったかのように攻め始めたからだ。


「相手チームはこの中堅で絶対にポイントを取る作戦だったんですかね。まぁ、今はそうじゃないとこのまま負けちゃうから当たり前だけど」

「かもな。あいつ主将らしいし、最初から先鋒、次鋒が負けてきても、ここで取り返して流れ変えられるように中堅に置かれてたのかもしんないね」


 おそらく、そうだろう。航も斎藤と同じように考えていた。それまでの試合運びがどうあろうと、中堅の試合はなんとしても勝って、後ろに繋げる。それが桜学園の元々の作戦だったに違いない、と。しかし、そうはいかない。我が市立船戸高校はできれば、ここで決着を付けたいところだ。中堅でポイントを取れば、団体戦としての勝利は決まるのだから。


 頑張ってくれ……、マサ先輩……!


 時間は刻々と過ぎていく。感覚ではもう残り一分もなさそうだ。将鷹は突然攻めてくるようになった蒲生が繰り出す技を一方的に受け止めていた。そのせいで、攻めることも攻撃することもできないでいる。彼は今、ただ防御するのみだ。


「攻撃することで防御もしてるってか……。攻撃は最大の防御、とも言うしな……」


 斎藤が言う。航は奥歯を噛み締めて、じっと将鷹を見つめた。おそらく、蒲生は意図的にそうしていた。残り時間が少なくなる中、勝ち点を取るチャンスは互いにそう多くはないはずである。蒲生は今、とにかく攻めて、攻めて、技を出して、休みなく将鷹を攻撃している。その連続攻撃は、一本を狙いながらにして相手を(ひる)ませることで、防御にも繋がっていた。蒲生の体力の限界がこない限り、このままでは残念だが、将鷹の勝ち目はないかもしれない。


 それでも、俺は信じる。マサ先輩ならきっとなにか考えてる。ここで決めてくれるはずだ――。


 しかし、近間から再び将鷹と蒲生は鍔迫(つばぜ)り合いになった。鍔迫(つばぜ)り合いになれば蒲生は、再び会得した市鷹の引き技を仕掛けようとするはずだ。なにしろ、残り時間はどんどん少なくなっている。互いに一本を取るなら、チャンスはもうここしかない。つまり、彼は再び引き技を狙ってくる可能性が高い、ということだ。


「まずくないですか……、ここで鍔迫(つばぜ)りになったりしたら――」


 航が言った、その時だった。


「面りゃぁぁぁあああーーーッ!」

「――ッテぇええーーーッ!」


 床を踏む、乾いた音と、打突の(にぶ)い音。さらに、将鷹と蒲生の声が試合場に響き渡る。同時に素早く後方へ離れながら、ふたりは残心を取っていた。蒲生は竹刀を高く頭上へ掲げている。一方で将鷹は手元を上げ、竹刀を左側へ傾けている。その直後、赤い旗が上がった。


「小手あり!」

「よし……!」


 主審の声が響いた後、織田が小さな声で言った。蒲生は上がっている三本の赤い旗を確認するなり、掲げていた竹刀を下ろし、天を仰いだ。


「やった! 勝った……! マサ先輩の勝ちだ……! ねぇ、斎藤せんぱ――」

「かぁっけぇー……!」


 斎藤の細く切れ長の目元がほんの少し濡れている。興奮か、感動なのか。彼は目に涙を(にじ)ませているようだった。航もそれには同感であるが、しかし――。これはまだ初戦だ。しかもチームの勝利は確定したものの、まだ副将の羽柴と、大将の市鷹の試合が残っている。航は笑みを引きつらせた。


「斎藤先輩、なんで泣いてんですか……」

「なんでって……! お前な、今の技のすごさがわかってねえだろ」

「わ、わかってますよ……!」


 試合場では、「勝負あり!」という主審の声とともに、将鷹と蒲生が蹲踞(そんきょ)をして、下がっていくところだった。その後、副将の羽柴が一礼をして試合場へと入っていく。斎藤は羽柴の姿を目で追いながら、にやりと口角を上げた。


「わかってねえから言ってんの。いいか、今のはな、マサ先輩だからこそ、打てた技なんだぞ」

「マサ先輩……だからこそ……?」

「そうだよ。イチ先輩の引き面の独特ないなし方と、タイミング。それをマサ先輩はよぉーく知ってる。なんたって双子の弟なんだからな」

「あ、そうか……。あの人の引き面はイチ先輩のコピーだから……!」

「そういうこと。だから、マサ先輩は完璧に狙えたんだ。引き面を出す一瞬、上がった蒲生先輩の手元をな」


 さっき織田が自信たっぷりに口にしていた言葉の意味を、航は真に理解した。市鷹の技と打ち方、そのタイミングを誰よりも知る将鷹なら、市鷹の技を見切ることができる。それは一見、脅威的に見えても、むしろこちらにとっては好都合だったのだ。なにしろ、ふたりは双子で、市鷹に一本を取ることができるのは、このチームの中では、将鷹ただ一人なのだから。


「浅井兄弟の勝利ってことか……。かっこいいですね!」

「だろー? 最強で最高だろ?」


 やっとわかったか、とばかりに斎藤は笑みを浮かべている。その態度を見る限りでは、彼はまるで剣道部の顧問のようだった。織田より斎藤の方が、今はよほど偉そうだ。だが、彼が興奮するのもよくわかる。我が船戸高校剣道部の部長、市鷹と、副部長、将鷹の兄弟は、男から見ても惚れてしまいそうなほどカッコいいのだ。


「最強で、最高です!」

「よーしよし、航。感動すんのは一旦、その辺にしとけよ。次はお前の兄貴分の試合だ、気持ち切り替えろ。しっかり応援すんぞ」


 途端に航は(まゆ)をしかめた。斎藤は、さっき涙を(にじ)ませていた自分のことはすっかり棚に上げている。なんとも調子のいいことだ。


「……自分はさっき泣いてたくせに」

「ん、なんか言った?」

「いえ……っ」


 ほどなくして、「はじめ!」と主審の声が耳に届き、航はハッとして顔を上げた。試合場では、副将、羽柴の試合が始まっていた。


 たとえチームとしての勝利が決まっても、大将までは必ず戦うことになっている。それが剣道というスポーツの、団体戦でのルールだ。つまり、羽柴がここで必死に戦って勝っても、あるいは負けても、チームとしての勝利は変わらない。そういった意味ではプレッシャーが軽減するので、精神的には楽に試合に(のぞ)むことができるはずだった。しかし、彼は決して気を抜いているふうではなく、積極的に相手を攻めていた。対する相手の垂れネームには――「宇喜多(うきた)」とあった。

 

「ヒロがすごいのは、どんなときでも安定してることだよ。ムラがないっていうのかな」


 斎藤が感心したように言う。たしかに、彼は中学時代からそうだった――と航は深く頷いた。


「そうですよね。羽柴先輩って、中学んときからそうだったと思います。本当なら、チームとして勝ち進むのが決まってからは、ちょっと気抜けしそうなもんじゃないですか。なのに――」

「あぁら、これだから一年坊は……」


 航の言葉を(さえぎ)るようにして、斎藤が(あわ)れんだような目で見て言った。その反応は面白くない。なにか間違ったことを言っただろうか、と疑問を持ちながら、航は口を尖らせた。


「一年坊は? なんですか」

「わかってねぇなーって、思って」

「なにがです」

「羽柴がここで負けてもチームの勝ちは決まってる。でも、さっき織田先生はなんて言った?」

「えっと……」


 左隣には織田がいる。航は織田の顔を一瞥(いちべつ)したあと、この試合が始まる前に彼が言った言葉を思い返しながら、口にした。


「準々決では、八重木高と当たるかもしれない――?」

「そのあとだ」


 不意に、話を聞いていたのであろう織田が口を挟む。航はびくりと肩を震わせたが、言われるまま、そのあとに織田が言っていたことを思い返してみる。


「勢い、つけてくぞ――?」

「そうだ」


 満足げに織田が答え、深く頷いた。航はホッと胸を撫でおろすのと同時に、気付く。ここで羽柴や市鷹が勝つことの意味を。


「航。ここで羽柴やイチが勝っても、チームとして勝つことに変わりはない。でもな、ここで三対二で勝ち進むのと、全勝して勝ち進むのは同じじゃないんだ。全勝すれば、それだけ選手個人としては自信がつくだろ。個人、個人に自信がつくのは、チームとして勢いをつけるということでは重要だ」

「はい……」

「それからな、周りを見てみろ」

「周り……」


 航は織田に言われた通りに自分の周囲を見渡してみる。そこには他校チームの姿や、顧問教師の姿があった。みんな、それぞれの試合会場を食い入るように見つめている。


「この試合を見てるのは、勝ち進めばうちと当たる可能性があるかもしれないチームや、その関係者だ」

「まさか、研究されてるってことですか」

「まぁ、それもあるな。手の内や得意技を初戦では見せないと言うことも、勝ち進むことを考えれば大事だが――それ以前に気の抜けた試合してるチームや、みどころのないチームを見て、お前ならどう思う?」


 そう問われ、航は迷いなく答えた。


「楽に勝てそうだなって、思います」

「そうだろ。なめてかかられるってのは厄介なんだよ。相手を勢いづかせることになりかねないからな。いいか、どうせこれだけの人間に見られてんだ。相手チームには、できれば威圧感を与えておきたいだろ。『市立船戸は強そうだ』と思わせられれば、彼らは必要以上に警戒する。威圧感や恐怖を与えて、こっちのペースに巻き込むことができれば、試合運びはずっと楽になるんだ」

「そうか……」

「そうだ。だから、そういう場合でも、試合場に立ってそこに相手がいるなら、いい試合をしなくちゃならない。だいたいな、いい加減な気持ちで試合なんかしたら、相手にも失礼だ。そこんところはしっかり頭に叩き込んでおけよ」

「はい……」


 航の返事に満足したのか。織田はふっと頬を[[rb:緩 > ゆる]]ませる。だが、彼は話している間もずっと試合場で戦う羽柴を見守っていた。航も羽柴を目で追って、惜しい技が出れば拍手を送る。やがて羽柴は近間で宇喜多と打ち合った末、引き技を打った。


「面りゃぁぁああッ!」


 残心を取ってライン際まで下がった羽柴に、宇喜多が迫る。チームとしての負けは決まってしまっているものの、彼はどうにか一矢(いっし)報いようと必死だ。しかし、羽柴は実に冷静に彼を見ていた。


「面……っ」

「コテぇぇええッ!」


 宇喜多は身を投げ出すようにして、羽柴の面を目掛けて飛んだ。だが、羽柴は手元の上がったその瞬間を狙い、宇喜多の右小手を確実に打っていたのだ。

 

「小手あり!」


 主審の声とともに拍手が響く。三人の赤い旗が一斉に上がった。


「――二本目!」


 羽柴の出小手が見事一本となり、試合のペースは一気に羽柴のものとなる。宇喜多は羽柴を怖がっているのか、なかなか打とうとしてこない。それどころか、打っても先ほどまでの勢いを失って、中途半端に攻めては当たりもしないような技を出すようになった。


「あぁらら、完全にテンパっちゃったかな、相手」

「やっぱり、そうですか」


 緊張、恐怖、悔しさ、見せつけられた羽柴との実力差。様々な要素が彼をカラ回りさせているに違いなかった。


「まぁ――、しゃーないかねぇ。まだ一年らしいから。宇喜多って」

「一年? じゃあ、俺とタメじゃないですか」

「うん。さっきまでは結構頑張ってたから、精神的に安定すれば強いんだろうけど。まだ相手のペースに呑まれやすいのかなぁ」

「へえ……」


 一年生ということは、高校生になって公式戦に出るのにはまだ慣れていないのだろう。たとえ勝敗がついていても、初戦ということもあって緊張もそれなりにしていたはずだ。だが、なぜそんな一年生がインターハイ予選の選抜メンバーに選ばれたのか。その理由を考えた航の頭の中に、まず浮かび上がったのが、部員不足の問題だった。

 航は中学時代、最後の大会となる総体で、人数が不足していたために、やむなく一年生の経験者をすぐに選抜メンバーとして迎えたときの事を思い出したのだ。体格、実力、経験値。なにもかも、歴然とした差があって、試合が開始されても、満足に技すら出せないまま、彼らは呆気(あっけ)なく打たれ、散っていった。結果は、はじめからわかっていたようなものだった。それでも一年生の後輩たちは、航と同じ(たすき)を結び、航とともに戦ってくれた。


 きっとあいつらにはつらい思いも、悔しい思いも、させたんだろうな……。


 ふと、当時のことを思い出した時――。時間を知らせる機械音が鳴った。「やめ!」という主審の声がかかって、羽柴と宇喜多が開始線に戻っていく。副将の試合が終わった。これで勝ち数は四。残るは大将戦だ。


 市鷹は数回、試合場の外でぴょん、ぴょんと跳ねたあと、一礼をした。対する相手は身長百八十三センチある市鷹にも劣らない、大柄(おおがら)な青年だ。垂れネームには『(ほり)』とある。


「相手、でっかいっすね……」

「なに言ってんの、お前だっておんなじくらいあんでしょーよ」

「でも、こう――なんていうか、がっしりしてるし」

「あぁ、ムキムキマンだよなぁ。しかも堀先輩って、あの人――」


 斎藤がそう言いかけた時、ちょうど「はじめ!」という主審の声とともに大将戦が始まった。次の瞬間、航は「あ――」と声を上げる。目を見開いて試合場の中で対峙する市鷹と堀を見比べる。突然、堀の身長がさらに高くなったように感じたのだ。それは構えの違いにあった。


「あれって……!」

「そうそう。あの人さ、上段使いなんだよ」

「せぇやぁぁぁああああ!」

「うらぁぁあああ!」


 手元を面の上で高く掲げているその構えは、上段(じょうだん)の構えと呼ばれる構え方だった。剣道の基本的な構えとしては、右足を前に出した状態で左手は竹刀の(はじ)を、右手は(つば)に近い方を握って、腰の辺りで真っすぐに構える中段(ちゅうだん)の構えというものがある。この構えは、あらゆる攻撃や防御をするにあたり、柔軟な対応が可能なので、どの道場や部活へ所属しても一番初めに教わるのが一般的だ。市立船戸の部員も、全員が中段構えを使っている。

 だが、剣道には上段(じょうだん)下段(げだん)脇構(わきがま)え――など、中段のほかにも複数の構え方が存在する。今、目の前の試合場にいる堀という選手は、まさにその上段で構えていた。


「稽古では、上段に対しての技練が組み込まれてますけど、使ってる人は初めて見ました」


 食い入るようにして試合場で戦う市鷹と堀の攻防を見つめながら、航は言う。上段の構えで戦う選手には、こんなにも威圧感を感じさせられてしまうものなのだろうか。


 打ち込む(すき)が全然ないじゃないか……。稽古では対上段の練習もやってるけど、それとはえらい違いだな。


 上段の構えに対して中段で戦う場合は、喉元に竹刀の剣先を向けて真っすぐ構えるのではなく、そこから少し右に手元を傾けて上げ、相手の左小手に竹刀の剣先を向けて攻める。つまり、中段の構えで戦う場合も、上段の構えの選手と対するときには、少し構え方を変える必要があるわけだ。

 また、上段の選手の弱点は左右の小手、突き、胴だ、と航は織田に教わっている。諸手(もろて)――つまり両手を上げているので、突きと胴はガラ空きになっているわけだが、その技を出すまでが難しい。なぜなら上段は、遠間が得意だからだ。中でも片手技(かたてわざ)は非常に厄介で、それには中段の諸手技(もろてわざ)に比べて、間合いが遠くても攻撃できるという怖さがある。要するにリーチが長い、ということだ。それも、圧倒的に。


 あんなの……。どう見たって中段の方が不利だ。イチ先輩とはいえ……、この試合、勝てるのか……?


 試合場の外で見ている航ですら、堀から一本を取る方法など想像もつかない。それどころか、そびえ立つような構えを前に、絶望感すら感じる。


「やっぱデカく見えるし、強そうですね……」

「そっか?」


 一方で斎藤は、少しも動揺していなかった。もっとも彼は二年生なのだから、上段の構えなどとうに見慣れてしまっているということは少なからずあるだろう。だが、市立船戸高校には、上段の選手はいないのだから、対戦慣れはしていないはずだ。主将の市鷹といえども、苦戦することは容易に想像がつく。ところが、斎藤は不思議そうな顔をして、航を見つめたあと、思い出したように言った。


「あぁ――。航はまだ見たことないもんな。言っとくけど市立船戸(ウチ)にもいるんだぜ、上段は」


 それを聞いて驚いたことと言ったらない。航は思わず振り向いた。


「うちって……? うちのチームに、ですか?」

「そう。雑賀いるじゃん。あいつは上段なんだよ」

「え――?」

「お前ほど背ぇ高くないけど、雑賀の上段は強いんだ。あいつも早いとこ、稽古戻ってくるといいんだけどなぁ」


 斎藤はそう言って苦笑すると、腕を組んでため息を漏らす。航は合点がいって思わず頷いた。

 以前、雑賀が居残り稽古を続けていたのは、彼が上段であるという理由もあったのかもしれない。上段での構えは、中学生までは様々な理由があって禁止されているから、誰もが高校生になってから始めることになる。つまり、上段に関してだけ言えば、スタートするタイミングは同じ。高校生の誰もが初心者同然なのだ。

 上段の強さや安定感を得て、戦えるようになるには稽古を人より多く積むしかない。雑賀は相当ストイックだと聞いているから、それを極めようと必死だったのだろう。


「それで雑賀先輩、毎日残って特訓してたんですね……」


 航が言うと、隣で織田が低く(うな)った。

 

「……あいつはそこら辺の上段よりずっと強くなるはずなんだ。普通は、こっちから上段に向いてる人間を見極めて上段にするもんなんだが、あいつは自分から上段をやりたいって言ってきたからな」

「自分から……」

「あぁ。中学の頃から上段に憧れてたらしい。あいつの中段での戦い方は、元々良かったし、上段に向いてるって感じでもなかったんで、オレも随分(ずいぶん)迷ったんだが、熱意に負けたよ。どんなに苦しい稽古を積んでも、楽しい、好きだと思って稽古してる奴には敵わないからな。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもんだ」


 航は織田の口調や、目を見て確信した。織田もまた、雑賀が戻ってくることを願い、いまだ彼に期待し、待ち侘びているのだ、と。


 今、試合場では、市鷹が足を片時も止めずに果敢に攻めている。だが、相手もまた下がることはない。一見、遠く見える間合いだが、おそらく竹刀を振り下ろされてしまえば届く距離だ。


「イチ先輩……。勝てますかね……」

「当たり前じゃん」


 上段の堀を相手にしている市鷹を心配する航とは違い、斎藤は余裕の笑みを見せている。それに多少はホッとさせられながらも、やはり航は気が気ではなかった。すると、それを見兼ねたのか。織田が不意に口を開いた。


「航」

「……はい」

「うちの三年生の中に上段はいないが、対上段の稽古は散々やってきてる。大丈夫だ」

「は、はい……」

「それに高校じゃ上段は珍しくない。イチがどうやって戦うのか、よく見とけよ」

「はい……!」


 そうだ。こんなところで(おび)えている場合ではない。そもそも、試合場の外にいるのにもかかわらず、体がこわばってしまうとはあまりに情けないではないか。そんな暇があったら、航は戦い方を学ばなければならないのだ。

 ごくり、と(つば)を飲み込み、気を取り直して、再び市鷹に目をやる。ほどなくして、右回りに攻めていた市鷹が、不意に前に攻め込んだ。それに対して、堀は下がらない。ただしビクッ、ビクッ、と手元が反応して、重心がやや後方に傾いているようだった。


 いい感じかも……。


 まだ上段選手との対戦経験が乏しい航にも、わかる。これは、悪くない反応だ。


「いけ……!」


 隣で織田が言う。その直後――、いや、ほぼ同時だったかもしれない。タイミングに合わせて、市鷹がぐっと深く攻め、そのまま飛ぶように打ち込んだ。


「ッテェーーーーーッ!」

「小手あり!」

「おおっ!」


 一斉に上がった赤い旗に、思わず歓喜して声が出たのは、航だけではない。隣にいる斎藤も、その隣で面を外し終わったばかりの羽柴もまた、同様に声を上げた。市鷹の小手技は見事だった。相手は打つこともかわすこともできず、動けなかったようだ。


「あの勢いのまま攻められて飛んでこられたら、上段としては嫌だろうなぁ……」

「ああやって動かれるとタイミングも(つか)みづらいしねぇ。あ、航。今のイチ先輩のは対上段戦の模範だかんね」

「は、はい……っ!」


 試合場では、主審が「二本目!」と声を上げたところだ。試合が再開され、再び市鷹と堀が互いに攻防を始める。堀はもうあとがなくなったせいか、先ほどよりも幾分か積極的に攻めていた。しかし、市鷹も負けてはいない。チームの勢いを殺さないために、大将がここで取り返されるわけにはいかないのだ。


 市鷹は足を止めずに果敢に攻める。堀も攻める。ところが攻防を繰り返す中で、不意に市鷹が足を止めた。すると、堀はここぞとばかりに間合いを詰める。


「……打ってくるぞ」


 斎藤が言った。その顔には笑みを浮かべている。次の瞬間――。


「面――ッ!」

「メーーーンッ! 面だぁぁああああ!」


 思わず息を飲んだ。先に片手面を打ったのは堀だ。だが、一斉に上がったのは赤い旗だった。あまりに素早いその技に目が追いつくのもやっとだが、確かに。それは市鷹の一本だった。


「面あり!」

 

 なんて速さだ――。今のは、払い面か。しかもイチ先輩は今、単純に攻められて足を止めてたんじゃない。片手面を誘ってたんだ。だからあの一瞬、足を止めたのか。


 上段と対戦する場合、中段にとって大切なのは、足を止めないこと。そして下がらないことだ。足を止めれば、当然狙われやすくなるので、上段の思うがままに打たれる可能性も比例して高くなる。しかし、市鷹はあえてその状況を作り出し、堀に片手面を打たせた。そうすることによって、対片手面技が出せるからだ。

 今、市鷹が堀に対して打ったのは、相手が打ってきた面を竹刀で払い、体勢が崩れて(すき)のできた相手の面を打つ、払い面、という技だった。


「勝負あり!」


 市鷹と堀が蹲踞(そんきょ)をして、試合場を去る。毛利や伊達、将鷹、羽柴が立ち上がり、市鷹と一緒に肩を並べて整列した。一方で、桜学園の選手も整列し始めるが、どの選手も足取りは重く、表情は暗い。桜学園高校と市立船戸高校の実力差は確かにあった。終わってみれば結果は五対〇。圧勝だ。しかし、彼らも市立船戸高校と同様に、日々、稽古に励んできたことには変わりない。さらにこの初戦敗退で、三年生は引退となる。つまり、桜学園高校の三年生にとっては、これが最後の公式戦となったわけだ。

 彼らの中には、目に涙を溜め込み、それを今はまだ(こぼ)さないように、と懸命にこらえている者がいる。その中で、まだ一年生の宇喜多だけが我慢できずに泣きじゃくり、胴着の袖で目元を(ぬぐ)っていた。


「お互いに! 礼!」


 主審の声で双方が一礼し、試合場を去る。航は目を真っ赤にして泣きじゃくる宇喜多から、しばらく目を離せないでいたが、斎藤に首根っこを(つか)まれるようにして、アリーナを去った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ、続きをお楽しみいただけますと嬉しいです。


いなば海羽丸

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