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第十話 初めての外

森の境界を越えた瞬間、空気が変わった。


それは劇的な変化ではない。だが、長い間同じ場所にいた者ほど分かる、微かな“広さ”の匂いだった。


木々の密度が薄れ、視界が一気に開ける。


そしてそこに道があった。


踏み固められた土の道。


森の中では見たことのない、人の手で整えられた一直線の跡。


レイガは足を止めた。


「……おお」


一言だけ漏れる。


そのまま目線が左右へ跳ねる。


遠くまで続く道。風に揺れる草原。森とは違う“空間の伸び”がそこにあった。


「すげぇ……ほんとに外だ」


背中のリュックが揺れる。


中には干し肉、薬草、予備の鉈、川で磨いた石、そしてロウガンの墓前に供えた花の残りまで詰め込まれている。


旅支度というより、半分は好奇心の詰め合わせだった。


「やかましいな」


ゼクトは小さく呟く。


しかし足は止めない。


そのまま道へと出る。


レイガは後ろから追いかけるように歩きながら、視線をあちこちに振り回していた。


「なぁゼクト、今どこ向かってんだ?」


「都市だ」


ゼクトは短く答える。


「この先にある。今日はそこまでだ」


「都市……!」


その単語に、レイガの声が跳ねた。


「それって人がいっぱい集まってるとこだよな?」


「そうだ」


「うおお……見れるのか都市!」


完全に興奮状態だった。


ゼクトは横目でそれを見て、わずかに肩を落とす。


(騒がしいな、本当に)


だが止めはしない。


そのまま歩き続ける。


しばらくして、ゼクトがふと思い出したように言った。


「見たことないのか」


「都市のことか?」


「全部」


レイガは即答した。


「一回も森の外出たことねぇぞ」


当然のように言う。


ゼクトは一瞬足を止めかける。


「……一度も?」


「うん」


悪びれもない返事。


「外のことはな、ロウガンから聞いてただけだ」


「ロウガン……」


ゼクトはその名前を反芻する。


「外のことを教えてくれたのか」


「ああ。ロウガンは森の外で仕事してたからな」


レイガは懐かしむように笑った。


「帰ってくるたびに、外の話とか聞かせてくれたんだ」


ゼクトはわずかに眉を動かす。


「森の外で仕事を?」


「そうらしい。詳しくは知らねぇけどな」


その瞬間、ゼクトの思考が一段だけ深くなる。


(外で仕事をしている人物)


(森に住む少年を養いながら、外部との接点を持つ)


(しかも衝気や界徒の情報を一切与えていない)


違和感ではない。


“空白”だ。


意図的に隠されている可能性すらある。


ゼクトは無表情のまま前を見た。


(ロウガンという人物は、なぜ界徒……いや、衝気について教えていないんだ)


(知らなかったとは考えにくい。外で仕事をしていたなら、どこかで触れていてもおかしくない)


だが今は確証がない。


問い詰める段階でもない。


ゼクトは思考を止めた。


「……そうか」


短く返す。


レイガは気にした様子もなく歩き続ける。


「なぁゼクト」


「なんだ」


「都市って飯うまいのか?」


「知らん」


「え?」


「俺は観光で行くわけじゃない」


「つまんねぇな」


「お前が興味持ちすぎだ」


そんなやり取りをしながら、二人は道を進む。


森は背後へ遠ざかっていく。やがて道の先に、それは現れた。


地平線の向こうに、異様な“塊”が見える。


近づくほどに、それが建造物の集合だと分かっていく。


「……おい」


ゼクトが小さく呟いた。


「着いたな」


「うおおおおおおお!!」


レイガの声が即座にかぶさった。


次の瞬間、全力で走り出す。


「これが都市か!!?」


「走るな!」


ゼクトの制止は届かない。


レイガはそのまま都市の入口へ突っ込んだ。



そこは“別世界”だった。


石ではない。


木でもない。


見上げるほどの建物が、まっすぐ空へ伸びている。


光が点在し、道には人が行き交い、遠くでは金属の塊が滑るように動いていた。


「な、なんだこれ……!」


レイガは完全に固まった。


目が左右に忙しく動く。


「建物が……立ってる……全部立ってる……」


「そりゃ立ってるだろ」


ゼクトが後ろから追いついてくる。


「いやいやいや、これ全部?全部か?」


「全部だ」


「意味わかんねぇ!」


「静かにしろ」


だがレイガは聞いていない。


「なぁあれ何だ!?動いてる箱みたいなの!」


「……電車だ」


「でんしゃ!!?」


レイガは即座に追いかける。


「待て待て待て、乗れるのかあれ!?」


「乗れるが今は――」


ゼクトの説明は途中で切れた。


レイガがすでに駅らしき場所へダッシュしていた。


「おい待て!」


「すげぇ!動いてる!!生きてるだろこれ!!」


「生きてない!」



その後。


ゼクトは珍しく“追いかける側”になっていた。


「だから触るな!」


「なんかボタンあるぞこれ!」


「押すな!」


「押した!」


「最悪だ……」


通行人がこちらを見る。


ゼクトは軽く頭を下げる。


レイガはまったく気にしていない。


「ゼクト!これどうやって乗るんだ!?」


「説明を聞け」


「どこで聞けるんだ!?」


「俺だ!」



さらに移動。


街の中心部。


高層ビルの前でレイガは首を反らしていた。


「首痛ぇ……」


「だから言っただろ、見上げすぎだ」


「これ全部上まで部屋あるのか?」


「ある」


「意味わかんねぇ……」


レイガは笑い出した。


「すげぇな外って……全部デカいじゃん」


「デカいのはお前の声だ」


「褒めるなよ」


「褒めてない」



しばらくして。


レイガは完全にテンションが壊れていた。


「なぁゼクト!あれ何!?光ってる看板!」


「広告だ」


「こうこく!?」


「それは――いや、説明しても無駄か」


ゼクトは諦めた。


(こいつ、全部初見か)


(森でどうやって生きてたんだ)


一方レイガは走り回る。


「すげぇ!すげぇ!すげぇ!!」


「やかましい!」


「でもすげぇ!!」


「黙れ!」


完全に振り回されていた。


だが。


ゼクトは気づいていた。


この少年が見ている世界は、ただの“都会”ではない。


初めて外に出た人間の視点そのものだ。


だからこそ。


異常なほど真っ直ぐで。


異常なほど楽しそうだった。


ゼクトは小さくため息を吐く。


「……今日は案内日になりそうだな」


その横でレイガは叫ぶ。


「なぁゼクト!次どこ行く!?」


「少しは落ち着け!!」


そして都市へ来てから数時間。


レイガは歩き回った。


走り回った。


叫び回った。


駅へ行き。


ビルを見上げ。


電光掲示板を眺め。


意味もなくエスカレーターを三往復した。


その結果――。


「腹減ったぁ……」


歩道のベンチへ倒れ込んだ。


完全に電池切れだった。


ゼクトは隣でため息を吐く。


「やっと静かになったな」


「腹減った……」


「聞こえている」


「死ぬ……」


「死なない」


即答だった。


レイガはぐったりしている。


さすがに一日中はしゃぎ続ければ疲れる。


ゼクトは周囲を見回した。


そして道路の向こうを見て足を止める。


「ん」


見慣れた看板。


赤い看板に白い文字。


全国どこにでもあるような店だった。


「ちょうどいいな」


「なんだ?」


レイガが顔を上げる。


ゼクトは店を指差した。


「飯だ」


「おおっ!」


レイガが即復活した。


単純だった。



数分後。


二人は店の中へ入っていた。


ファミリーレストラン。


店員に案内され席へ座る。


レイガは周囲を見回した。


「すげぇ……」


キョロキョロ。


「静かにしろ」


「なんで机に紙が置いてあるんだ?」


「メニューだ」


「めにゅー?」


「料理一覧」


「おおっ!」


レイガは勢いよく開いた。


そして固まった。


「……」


「どうした」


「読めるけど分からん」


「何がだ」


レイガは指差した。


「ハンバーグってなんだ?」


「肉料理だ」


「ドリアは?」


「米料理だ」


「カルボナーラは?」


「麺料理だ」


「オムライスは?」


「卵料理だ」


「意味分からん」


ゼクトは頭を抱えた。


レイガは真顔だった。


「お前普段何食ってるんだ」


「魚」


「うん」


「山菜」


「うん」


「木の実」


「うん」


「たまに鹿」


「……」


「ウサギ」


「……」


「川魚」


「……」


「キノコ」


「森しか食ってないな」


「森だからな」


当たり前のように答える。


ゼクトは思った。


(こいつ本当に森だけで生きてきたんだな……)



結局。


注文はゼクトが決めた。


「まずは無難なやつにしろ」


「無難?」


「これだ」


ゼクトが指差した。


・チーズインハンバーグ定食


・ライス大盛り


・コーンスープ


・サラダ


レイガは目を輝かせた。


「肉!」


「肉だ」


「食う!」


即決だった。


ゼクト自身は、


・和風ハンバーグ定食


・ドリンクバー


を注文する。


しばらく待つ。


そして料理が運ばれてきた。


ジュウウウウ……


鉄板の上で肉が音を立てる。


香ばしい匂い。


溶け出すチーズ。


レイガは完全に固まった。


「……」


「どうした」


「すごい」


「食え」


「すごい」


「だから食え」


レイガは恐る恐るフォークを持った。


ハンバーグを切る。


すると。


中から大量のチーズが溢れ出した。


「うおおおおおっ!!」


店内に声が響いた。


「静かにしろ!」


ゼクトが即ツッコミを入れる。


だがレイガは聞いていない。


一口食べる。


もぐもぐ。


数秒後。


「うめぇぇぇぇぇぇ!!」


また叫んだ。


周囲の客が振り向く。


ゼクトは顔を覆った。


「頼むから声量を下げろ」


「肉が柔らかい!!」


「そうか」


「チーズが入ってる!!」


「そうだな」


「なんで肉の中にチーズ入れたんだ!?」


「知らん」


レイガは感動していた。


完全に感動していた。


魚や山菜とは全く違う味。


初めて食べる料理。


初めての店。


初めての外食。


全部が新鮮だった。



十分後。


テーブルの上は空になっていた。


レイガの皿だけ。


「足りん」


「早いな!?」


ゼクトが思わず突っ込む。


「もうないのか?」


「ある」


「頼む!」


「……好きにしろ」


結局。


追加で。


・唐揚げ


・ポテトフライ


・チョコレートパフェ


まで注文することになった。


レイガは終始幸せそうだった。


その様子を見ながら。


ゼクトは小さく息を吐く。


(本当に何も知らないんだな)


衝気も。


界徒も。


都市も。


電車も。


そして外食も。


まるで世界を初めて見る子供だった。


だが――。


そんなレイガを見ていると、不思議と退屈はしなかった。


「ゼクト!」


「なんだ」


「このパフェってやつすげぇぞ!」


「そうか」


「甘い!」


「デザートだからな」


「天才か作った奴!」


「お前は少し落ち着け」


都市の夜は更けていく。


ファミリーレストランを出た頃には、すっかり夜になっていた。


街の明かりが道を照らしている。


昼間とは違う景色だった。


建物の窓から漏れる光。


道路脇に並ぶ街灯。


看板のネオン。


森の夜とはまるで違う。


「すげぇな……」


レイガは何度目か分からない感想を漏らした。


「夜なのに明るいぞ」


「都市だからな」


ゼクトは歩きながら答える。


だがその顔は少し疲れていた。


正確には――財布が疲れていた。


(食い過ぎだろ……)


頭の中で今日の出費を計算する。


ハンバーグ。


唐揚げ。


ポテト。


パフェ。


追加注文。


さらに追加注文。


そしてまた追加注文。


レイガは途中からメニューを制覇する勢いだった。


(宿代は……まぁ大丈夫か)


一応、目的地までの資金は持っている。


多少予定は狂ったが問題ない。


問題ないはずだ。


たぶん。


おそらく。


「なぁゼクト」


「なんだ」


「都会って毎日あんな飯食えるのか?」


「金があればな」


「最高じゃん」


「お前は少し金の大切さを覚えろ」


レイガは首を傾げた。


意味が分かっていない顔だった。



しばらく歩く。


やがて二人は宿泊施設の前へ到着した。


数階建てのビジネスホテル。


旅行者や出張者がよく利用する一般的な宿だ。


「今日はここだ」


ゼクトが言う。


レイガは建物を見上げた。


「でけぇ……」


「普通だ」


「いやでけぇ」


「普通だ」


二人の感覚はまるで噛み合わない。


自動ドアが開く。


レイガは飛び退いた。


「うおっ!?」


「どうした」


「勝手に開いた!」


「そういうドアだ」


「すげぇ!」


また感動している。


ゼクトはもう慣れた。



受付を済ませる。


エレベーターへ向かう。


すると。


「なんだこれ」


レイガが箱を見て固まった。


「エレベーターだ」


「乗り物か?」


「まぁそんなものだ」


扉が開く。


中へ入る。


扉が閉まる。


そして。


ぐんっ。


身体が浮くような感覚。


「うおおおおおっ!?」


レイガが壁にしがみついた。


「落ち着け」


「上がってる!」


「上がってるな」


「なんで!?」


「そういう乗り物だからだ」


「意味分かんねぇ!!」



部屋へ到着。


カードキーで扉を開ける。


レイガは中へ入った瞬間に固まった。


「……」


「どうした」


「家より綺麗」


「当たり前だろ」


ベッド。


テレビ。


机。


冷蔵庫。


浴室。


全てが新鮮だった。


レイガはベッドへ近付く。


手で押す。


沈む。


「おお」


もう一回押す。


「おおお」


さらに飛び込む。


ぼふん。


「うおおおおお!!」


大興奮だった。


「柔らかい!!」


「ベッドだからな」


「すげぇ!!」


ごろごろ転がる。


完全に子供だった。


ゼクトは荷物を置きながらため息を吐く。


「お前、本当に初めてなんだな」


「こんなの見たことねぇぞ!」


レイガは笑った。


心の底から楽しそうだった。



その後。


風呂に入って。


また風呂で騒ぎ。


シャワーで騒ぎ。


ドライヤーで騒ぎ。


ゼクトに三回怒られた。


ようやく静かになった頃。


窓の外には都会の夜景が広がっていた。


レイガはベッドの上で寝転ぶ。


天井を見上げる。


「なぁ」


「なんだ」


ゼクトは隣のベッドへ腰掛けていた。


「外ってすげぇな」


静かな声だった。


昼間のような騒ぎではない。


本音だった。


レイガは窓の外を見る。


遠くまで続く灯り。


森では見られない景色。


知らない世界。


「ロウガンが話してくれた通りだ」


ぽつりと呟く。


そして少し笑った。


「いや」


「それ以上かもな」


ゼクトは何も言わなかった。


ただ窓の外を見る。


そして小さく息を吐く。


「まだ始まったばかりだ」


「ん?」


「外はもっと広い」


レイガの目が輝く。


「マジか!」


「マジだ」


「すげぇ!」


結局また騒ぎ始めた。


ゼクトは枕を投げた。


「寝ろ」


「いてっ!」


都会で迎える初めての夜。


レイガにとっては、人生で初めて森の外で眠る日だった。


そしてその夜は、興奮のせいでなかなか寝付けなかった。

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