乗客
電車は、変わらず走り続けていた。
窓の外には、何もない。
どれだけ見ていても、景色は変わらなかった。
海のようにも見えるし、ただの色の塊のようにも見える。
草薙は、しばらくそれを見ていた。
やがて、立ち上がる。
理由はなかった。
ただ、同じ場所に座り続けていることに、意味がない気がした。
ドアの方へ歩く。
隣の車両へ移る。
それだけの行動だった。
ドアを開ける。
次の車両に足を踏み入れた瞬間、草薙は足を止めた。
人がいた。
座席に、一人だけ座っている。
スーツ姿の男だった。
ネクタイは緩み、シャツの襟元がわずかに崩れている。
男は、こちらを見ていた。
特に驚いた様子もなく、ただ視線を向けている。
草薙は、その場に立ったまま、少しだけ考えた。
これまで、誰もいなかった。
その事実は思い出せる。
だが、それを不思議だと思う感覚が、うまく続かなかった。
気づくと、口を開いていた。
「あの、すみません……」
男は、すぐに答えた。
「どうしました?」
自然な声だった。
ここがどこなのか、分かっている人間の声に聞こえた。
草薙は、一瞬だけ言葉に詰まる。
何を聞こうとしていたのか、はっきりしない。
それでも、言葉は出た。
「……ここ、どこか分かりますか?」
男は、少しだけ考えるような仕草をした。
「どこ、ですか?」
「……この電車です」
そう言うと、男は小さく笑った。
「ああ」
納得したように頷く。
「さあ……どこなんでしょうね」
軽い調子だった。
「気にしたことないです」
草薙は、何も言わなかった。
男は、窓の外に目を向ける。
「最初はちょっと変だなって思いましたけど」
そう言ってから、少し間を置く。
「まあ、慣れますよ」
その言葉には、特別な感情はなかった。
ただ、そういうものだと知っているような言い方だった。
草薙は、近くの席に座る。
男との距離は、遠くも近くもなかった。
しばらく、何も話さない時間が続く。
静かだった。
電車の音すら、ほとんど聞こえない。
やがて、男の方から口を開いた。
「初めてですか」
草薙は顔を上げる。
「……たぶん」
男は、少しだけ笑う。
「自分もそんな感じでした」
そう言って、視線を前に戻す。
「仕事の帰りだったと思うんですけどね」
ぽつりと続ける。
「気づいたら、ここにいて」
草薙は、その言葉を聞いていた。
「……戻れないんですか」
気づくと、そう聞いていた。
男は、少しだけ考える。
「どうなんでしょうね」
曖昧に答える。
「戻ろうと思えば、戻れるのかもしれないですけど」
そこで言葉を切る。
「まあ、そんなに困ってないですし」
あっさりと言った。
草薙は、わずかに視線を動かす。
男の顔を見る。
疲れているようにも見えるし、そうでもないようにも見える。
「……仕事、あるんですよね」
草薙が言うと、男は頷く。
「ありますよ」
「忙しくて」
軽く笑う。
「最近ずっとですね」
ポケットからスマホを取り出す。
画面は点かない。
それを確認するでもなく、またしまう。
「まあ、こんなもんですよ」
何気なく言う。
草薙は、その言葉を聞いていた。
「……そういうものなんですか」
男は、少しだけ首を傾げる。
「そういうものじゃないですか」
自然に返す。
その言い方に、疑いはなかった。
草薙は、小さく息を吐く。
「……一回壊れると、大変って聞きますよ」
ふと、そう言った。
男は、一瞬だけこちらを見る。
「え?」
「……なんとなく」
草薙は、そう付け加える。
それ以上の意味はなかった。
男は、少しだけ黙る。
それから、小さく笑った。
「はは……そうですよね」
視線を落とす。
「壊れたら、面倒ですもんね」
そう言いながら、手を組む。
しばらく、そのまま動かなかった。
電車は、変わらず走り続けている。
窓の外は、何もない。
男は、やがて顔を上げる。
「……でも」
小さく呟く。
「まあ、いいか」
その言葉は、軽かった。
草薙は、それを聞いていた。
特に何も思わなかった。
男は、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、自分ここで」
そう言う。
電車は、止まっていない。
それでも、男はドアの方へ歩いていく。
草薙は、その後ろ姿を見ていた。
止める理由は思い浮かばなかった。
ドアの前で、男が立ち止まる。
外を見ている。
草薙も、そちらに視線を向ける。
そこには、何もなかった。
海の上のような、何もない空間が広がっているだけだった。
だが、男の様子は違っていた。
わずかに表情が緩む。
見えているものが、違うようだった。
男は、振り返る。
「じゃあ」
軽く手を挙げる。
草薙は、小さく頷く。
ドアが開く。
男は、迷いなく外に出る。
その足取りは、どこか軽かった。
外には、やはり何もないように見えた。
それでも男は、そのまま歩いていく。
やがて、見えなくなる。
ドアが閉まる。
電車は、何事もなかったかのように走り続ける。
草薙は、その場に座ったまま動かなかった。
さっきまで男がいた席を見る。
何も残っていない。
視線を窓の外に向ける。
相変わらず、何もなかった。
「……そういうものか」
小さく呟く。
その言葉に、特別な意味はなかった。
ただ、そう思っただけだった。




