真紅の海
男が降りた後、草薙はしばらく動かなかった。
向かいの窓の外に広がる海を、ぼんやりと眺める。
「海なんて、小学生以来かも……」
どこか他人事のように呟く。
波は一定の速さで流れているはずなのに、時間の感覚だけが曖昧だった。
そのとき――
「何これッ!ここはどこなのッ!?」
ヒステリックな叫び声が、別の車両から響いてきた。
草薙はゆっくりと瞬きをする。
「……いるんだ」
小さく呟く。
少しだけ迷ってから、音のする方へ歩き出した。
その女性は、草薙の姿を見つけた瞬間、表情を崩した。
「あ……!よかった……私以外にも人が……」
安堵と混乱が入り混じった顔で、こちらへ駆け寄ってくる。
草薙は、その様子を少し遅れて認識した。
足取りの不安定さ。
荒い呼吸。
焦点の定まらない目。
「あの……!電車に乗ったら、急に海の上を走ってて……!それで……!」
言葉が溢れる。
草薙は、しばらく何も言わなかった。
声は聞こえている。
だが、意味だけが少し遅れて届く。
「……草薙司です」
「あ……はい!私は橘冥です……!」
橘は、名前を言えたことで、わずかに落ち着いたように見えた。
「よかった……本当に、人がいて……」
その言葉に、草薙は少しだけ間を置く。
「……そうですね」
橘は何度も深呼吸を繰り返す。
「これ、どういうことなんですか……?夢……じゃないですよね……?」
頬に手を当てる。震えている。
草薙は視線を落とす。
少しだけ考える仕草をして、やめる。
「……どうなんでしょう」
曖昧な返事だった。
「あの…私たち以外に人いました…?」
草薙は控えめに頷く。
「えぇ、いましたよ、会社員の男性。」
橘はぱあっと顔が明るくなる。
「そうですか…人は多いほど安心なので…」
「で、その人ってどこに…」
「降りましたよ」
草薙は間髪入れずに答える。
「え…?降りるって…」
草薙は窓の外を見る。
「その人には普通の駅に見えたみたいです、それで元の世界に帰れた…みたいな。」
「は…?そんなわけ…」
言いかけて、橘は言葉を止める。
窓の外を見る。
どこまでも続く、海。
「……おかしい……」
小さく呟く。
「こんなの、絶対おかしい……!」
その声は、次第に強くなる。
「なんで平気なんですか!?草薙さんは!」
突然、向けられた感情。
草薙は、少しだけ間を置いた。
「……平気、ではないと思います」
「じゃあなんでそんな……!」
橘の声が揺れる。
草薙は、視線をわずかに逸らした。
「とりあえず…座りません?パニックになっても何も解決しません。」
橘は草薙の言葉に一旦深呼吸する。
「すぅ…はぁ…すみません…あ…」
橘は座席に腰を下ろす。草薙は少し離れたところに座る。
「改めて自己紹介させてください…私は橘冥です…終電に乗ったらここに来ていて…」
まだ声が掠れていた。
草薙は橘に視線を移す。
「私もです、さっき話した男の人も仕事で疲れていたんですけど社畜限定とかでもあるんですかね?」
橘は怪訝そうな顔をする。
「ふざけてます?」
その時、電車内が真っ暗になる。
「え…!?なにこれッ…!?草薙さんどこですかッ!?」
「ここにいます、落ち着いてください。」
前にもあったことだ。
明るくなれば、またあの青い海が広がっているはずだった。
——しかし。
パタン。
音もなく、闇が途切れる。
次の瞬間、視界に流れ込んできた光景に、草薙は息を止めた。
海が——赤い。
透き通っていたはずの水面は、濁ったような深い赤に変わっていた。
それはただ色が変わっただけではない。
どろりと重たく、光を鈍く弾いている。
波が揺れるたび、粘つくように色が絡み合い、ゆっくりと形を崩していく。
まるで、薄められた血液が、水面を覆っているみたいだった。
鉄のような、かすかな匂いがした気がした。
空もまた、焼けつくような赤に染まっている。
だが夕焼けの柔らかさはなく、ただ一面に塗り潰されたような色だった。
光はあるのに、温かさがない。
橘が、息を呑む。
「あ……嫌……」
その声は震えていた。
草薙も、視線を逸らせなかった。
さっきまで“綺麗”だと思っていた景色と、あまりにも似ている。
それなのに——
決定的に違う。
胸の奥に、じわりと嫌な感覚が広がる。
「これは一体……」
後ろの車両から、ペタペタと何かが床に落ちる音がする。
水音に似ているが、それよりも重く、粘ついた響きだった。
一定ではない。間を空けて、不規則に近づいてくる。
橘の喉が、ひゅっと鳴る。
「ひゅっ……」
草薙は振り返らない。
ただ、橘の手首を掴んだ。
「逃げましょう。」
その声は小さかったが、はっきりしていた。
二人は走り出す。
床に靴底が触れる音を、できるだけ殺すように。
それでも、どうしてもわずかな振動が足元に伝わる。
一車両。
ドアを押し開ける。
ガタン、と小さな音が鳴る。
その瞬間、背後の“音”が止まった。
――気づかれた。
草薙は何も言わず、さらに速度を上げる。
二車両。
三車両。
繋ぎ目を越えるたびに、空気がわずかに変わる。
しかしどこへ行っても、逃げ場があるようには思えなかった。
ペタ……ペタ……。
また、音がする。
さっきよりも、近い。
しかも今度は、はっきりとした“引きずる音”が混じっていた。
まるで、何かを床に擦りつけながら進んでいるような。
橘の呼吸が乱れる。
「ま、待って……っ、これ……何……」
「分かりません」
即答だった。
「でも、止まったら——」
言いかけて、やめる。
言葉にする必要はなかった。
止まれば、追いつかれる。
それだけは分かっていた。
四車両目に入ったとき、
ふいに、足元に違和感が走る。
草薙は反射的に視線を落とす。
床に、何かが付着していた。
赤黒い、濡れた跡。
踏んだ瞬間、靴底がわずかに粘つく。
――ここまで来ている。
橘も気づいたのか、小さく息を呑む。
「やだ……これ……」
そのとき。
背後で、ドアが開く音がした。
ゆっくりと。
軋むように。
振り返る勇気は、なかった。
ただ、分かる。
そこに、“いる”。
ペタ……。
すぐ後ろで、音がした。
近すぎる距離だった。
草薙は、橘の手を強く引く。
「まだ行けます」
前を見る。
次の車両のドアが、やけに遠く感じた。
その間にも、
ペタ……ペタ……と、
何かが確実に距離を詰めてくる。
――逃げきれない。
そんな感覚が、じわりと背中に張り付く。
それでも、足は止めなかった。




