ミテイ駅
電車は、海の上を走っていた。
窓の外には、水面しかなかった。
どこまでも続く青は、揺れているはずなのに、ほとんど動いていないように見える。
さっきまで夜だった。
そう思うが、確信は持てなかった。
光は白く、昼のものだった。
草薙は、それを見ていた。
何かを考えようとしても、うまくまとまらない。
疑問は浮かぶが、すぐに形を失う。
ただ、景色だけが残る。
ポケットからスマホを取り出す。
電源ボタンを押しても、反応はない。
黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。
それを、しばらく見ていた。
やがて、ポケットに戻す。
「……夢?」
呟く。
そうかもしれないし、違うかもしれない。
どちらでもいいと思った。
指先で、窓ガラスに触れる。
冷たい。
それだけで、十分だった。
不意に、車内に音が流れる。
かすれたアナウンスだった。
『——停車します』
電車が、ゆっくりと減速を始める。
草薙は顔を上げる。
窓の向こう、海の上に、小さな影が見えた。
近づくにつれて、それが形を持つ。
駅だった。
ホームと呼ぶには狭すぎる足場が、海の上に浮かんでいる。
そこに、ベンチが一つだけ置かれていた。
屋根も、標識も、何もない。
ただ、座るための場所だけがある。
人の姿は、どこにも見えなかった。
電車が止まる。
わずかに遅れて、アナウンスが続く。
『——ミテイ駅に、停車します』
草薙は、その名前を聞いた。
ミテイ。
特に、何も思わなかった。
ドアが開く。
外の空気は、静かだった。
波の音も、風の気配もない。
ただ、光だけがある。
草薙は立ち上がる。
降りる理由は思い浮かばなかった。
同時に、乗り続ける理由もなかった。
どちらでもいい、と思った。
開いたドアを、しばらく見ている。
ベンチが、目に入る。
駅のベンチには、首に小さな鈴を付けた三毛猫がくつろいでいた。
鈴はわずかに揺れるたび、かすかに「チリン」と鳴った。
「にゃー」
草薙は隣に座り、三毛猫の背中を撫でる。
毛先は柔らかく、思ったよりも暖かかった。
耳の奥には、遠くで反射する波の音が静かに響いている。
波は穏やかで、ほとんど動いていないように見える水面の向こうで、光を受けて細かく揺れていた。
「どこから来たの?」
「にゃー」
当然、言葉は通じず、三毛猫はごろんとお腹を向ける。
太陽の光を受けて、毛並みが淡く輝いている。
静かな海の上にぽつんと置かれたベンチの上で、猫は不思議な存在感を放っていた。
「自分は終電に乗ったらここに来たんだ。不思議とパニックにならない」
「んにゃー」
草薙は、風の気配もなく、波のさざめきだけが耳に届くこの場所で、妙に落ち着く自分に気づく。
「明日は土曜日だっていうのに…いや確か12時を回っていたし、もう土曜日か。せっかくの休みが台無しになったのになぜか悪い気はしない。」
草薙は三毛猫に視線を移す。
「君は毎日休みでお気楽だ」
三毛猫は小さく猫パンチを放ち、草薙の手に軽くぶつかる。
「にゃ!」
鈴が軽く揺れて、柔らかい音を響かせた。
草薙は無表情のまま肩をすくめる。
「悪かったって」
遠くの水平線では、光が水面に反射して小さな星屑のように瞬いていた。
その中で、草薙と三毛猫だけが、穏やかな静寂の中に存在している。
「ここは本当に景色が綺麗だね、ここに来れなかったらノウノウと社畜を続けてこんな景色を見れなかったよ。」
「にゃにゃにゃっ!」
三毛猫は草薙の話に興味がないのか、草薙のスーツの袖に触れて遊んでいた。
この三毛猫は一体なんなのか。
そもそもここはどこなのか。
知らないことだらけだがなぜか澄んだ気持ちだった。
しばらくして、音がした。
振り返る。
電車のドアが、閉まりかけている。
草薙は立ち上がる。
「そろそろ行くよ、じゃあね、三毛猫。」
三毛猫にお別れの挨拶をして電車のドアに歩みを進める。
急ぐ理由はなかった。
だが、足は動いた。
ドアに向かう。
閉まりきる直前で、体を滑り込ませる。
車内に戻る。
背後で、ドアが閉まる。
電車が、ゆっくりと動き出す。
草薙は、その場に立っていた。
少しして、窓の外を見る。
ミテイ駅は、すぐに遠ざかっていく。
小さな足場と、ベンチだけが、海の中に残される。
やがて、それも見えなくなる。
草薙は、しばらくその方向を見ていた。
「……ミテイ」
小さく呟く。
言葉の意味は、はっきりしなかった。
ただ、違和感はなかった。
座席に腰を下ろす。
何も考えないまま、時間が過ぎていく。
それでいい気がした。
しばらくして、またアナウンスが流れる。
『——次は——』
そこで、音が歪む。
言葉は続かなかった。
ノイズだけが、わずかに残る。
草薙は、特に気にしなかった。
次があるのだと思った。
それがどこなのかは、分からなかった。
分からなくてもいいと思った。
電車は、止まらない。




