終電のはずだった
終電の案内が、かすれたスピーカーから滲むように流れてくる。
わずかに遅れて耳に届くその声は、どこか現実から切り離されている。
言葉は確かに聞こえているのに、意味だけが遠い。
水の底で誰かの声を聞いているような、不確かな距離があった。
夜のホームには、もう誰もいない。
昼間にあれほど溢れていた人の気配は、跡形もなく消えている。
ただ、均一に並んだ蛍光灯だけが、白く、冷たく、空間を塗りつぶしていた。
光はあまりにも平板で、時間の流れすら奪ってしまったみたいだ。
そのせいか、足元に落ちた影だけが、やけに濃く、現実味を持っている。
「はぁ……」
草薙司は、誰もいないプラットホームで息を吐いた。
その音は、思ったよりも大きく響いて、すぐに消えた。
家に戻れば、特別なことをするでもなく、ただ時間を潰す。
休日は、散歩に出かけるくらいで、映画を少し観ることもある。
それだけで一日が過ぎていく
そしてただ、ここにいる。
誰もいないホームに、ひとりで立っている。
その事実だけが、やけに重かった。
終電の案内が途切れると、ホームには、音らしい音がなくなった。
蛍光灯の唸りだけが、かすかに残っている。
やがて、遠くから電車の来る気配がした。
風でも音でもない、ただ“来る”と分かるだけの気配。
草薙は顔を上げる。
線路の向こう、暗闇の奥に、鈍い光がにじんでいる。
見慣れているはずのそれが、なぜか少しだけ遅れて認識される。
電車が滑り込んでくる。
減速の音は控えめで、車体はやけに静かだった。
まるで、音を立てることを避けているみたいに。
扉が開く。
誰も降りてこない。
そして――乗っている気配も、ない。
草薙は、一瞬だけ立ち止まった。
違和感の正体は分からない。
ただ、ここで引き返したところで、何かが変わるわけでもなかった。
「……」
小さく息を吐いて、車内に足を踏み入れる。
その瞬間、背後で扉が閉まった。
少しだけ早すぎるタイミングで。
車内は、拍子抜けするほど静かだった。
座席に腰を下ろすと、体の力が抜けていく。
草薙は、そのまましばらく動かなかった。
何も考えず、ただ座っているだけでいい時間が、妙に心地よかった。
ふと、窓の外に目をやる。
何も見えない。
夜だから――ではなかった。
街灯も、建物の灯りも、線路脇の影すらもない。
ただ、黒い。
ガラスの向こう側だけが、塗りつぶされたみたいに存在していない。
草薙は、わずかに眉をひそめた。
こんな路線だったか、と考える。
思い出そうとしても、うまく浮かばない。
いや、そもそも――
さっき自分がどこから乗ったのかさえ、曖昧だった。
「……疲れてるな」
小さく呟く。
そういうことにしておくのが、一番楽だった。
深く考える必要はない。
どうせ、家に帰って寝れば、明日にはまた同じ日常が始まる。
そう思ったとき、わずかな違和感が胸に残った。
“帰る場所”の輪郭が、少しだけぼやけている。
草薙は視線を逸らすように立ち上がった。
この車両の空気が、合わない気がした。
理由は分からない。
ただ、このまま座っていると、何かを考えてしまいそうだった。
ドアの方へ歩く。
隣の車両に移れば、少しは気が紛れるかもしれない。
そんな、はっきりしない理由で。
ドアを開け、別の車両に足を踏み入れる。
案の定、そこも誰もいなかった。
窓の向こうは真っ暗で、光が存在していないように思える。
「ここも同じか……空っぽ……」
草薙は小さく呟き、諦めたように座席に腰を下ろす。
やはり落ち着かない気持ちは残るが、目を瞑り、考えるのをやめた。
しばらくして、意識はゆっくりと闇に溶け、眠りに落ちる。
次に目を開けたとき、無意識にスマホを手に取り、画面を確認した。
――0時18分。
もうすぐ駅に着く時間だ。
草薙は寝過ごさなかったことに、わずかに安堵して背もたれに体を沈めた。
しかし、その後も電車は止まらない。
スマホの画面を見ても、なぜか圏外を示している。
画面は光を放っているのに、周囲の世界とはまるで接続されていないかのようだった。
草薙は小さく息を吐く。
胸の奥で、普段とは違う、説明のつかない違和感がゆっくり広がっていく。
「大丈夫かな…これ…」
やけに声が響く。
それからいくら時間が経っても目的地に着かない。
「……乗り間違えたか?」
ぽつりと漏れた声が、やけに乾いて響いた。
すぐに、かぶりを振る。
いや、違う。
視線を落とす。
座席の端にある、薄い黒ずみ。
何度も目にしてきた、見慣れた汚れだった。
指先でなぞるでもなく、ただ見ているだけで分かる。
いつもと同じ車両だ。
乗り慣れている。
時間も、位置も、乗る車両も——身体が覚えている。
間違えるはずがない。
それなのに。
胸の奥に、言葉にならない引っかかりが残る。
草薙はゆっくりと息を吐いた。
「……おかしいだろ」
小さく呟いた声が、わずかに遅れて返ってくる。
その響きに、ほんの少しだけ違和感を覚える。
——こんなに、反響したか?
耳を澄ます。
何もない。
走行音さえ、どこか遠い。
草薙は眉をひそめ、窓の外へ目をやった。
やはり、何も見えない。
光も、影も、輪郭すらもない。
ただ、黒い。
そこに“何もない”ことだけが、はっきりと分かる。
「……」
考えかけて、やめる。
まともに向き合えば、ろくな結論にならない気がした。
草薙は、逃げるように立ち上がる。
このままここにいるのは、よくない。
理由は分からない。
だが、そんな確信だけがあった。
「……誰か、いるか……」
自分でも驚くほど小さな声だった。
返事はない。
わずかな間のあと、草薙はドアの方へ歩き出す。
車両の向こう。
運転席のある方へ行けば——
「……駅員、いるだろ……」
言いかけて、足が止まる。
——駅は、どこだ。
その疑問が、唐突に浮かんだ。
次の瞬間、車内の灯りが、音もなく落ちた。
視界が、途切れる。
完全な暗闇だった。
窓の外の黒と、内側の闇が溶け合って、境界が消える。
自分がどこにいるのかさえ、分からなくなる。
「……っ」
息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
手探りで何かに触れようとするが、空を切る。
座席の位置すら、うまく掴めない。
時間の感覚が、曖昧になる。
数秒なのか、もっと長いのか——
不意に。
ぱちり、と。
何事もなかったかのように、車内の灯りが戻った。
草薙は反射的に顔を上げる。
そして、そのまま動きを止めた。
窓の外が——暗くない。
眩しさに、わずかに目を細める。
光が、差し込んでいた。
さっきまであれほど濃かった闇は、跡形もなく消えている。
代わりに広がっていたのは、どこまでも抜けるような青空だった。
雲ひとつない。
昼の、真っ只中の光。
「……は……?」
思考が、追いつかない。
視線が、ゆっくりと下がる。
窓の外、すぐ下。
そこに——
揺れている。
きらきらと、無数の光が砕けている。
太陽の光を受けて、水面が細かく瞬いていた。
規則もなく、絶え間なく、形を変えながら。
まるで、無数の鏡が砕け散っているみたいに。
水平線が、遠くに伸びている。
どこまでも、どこまでも。
遮るものは、何ひとつない。
「…………海?」
遅れて、言葉になる。
電車は、その上を走っていた。
波のすぐ上を、かすめるように。
だが——
草薙は、さらに目を凝らす。
レールが、見えない。
枕木も、支えも、何もない。
ただ、水面の上を。
車体は揺れることもなく、一定の速度で進み続けている。
音も、ない。
あれほど意識していた走行音が、ほとんど聞こえなかった。
風を切る気配さえ、曖昧だった。
ただ、進んでいる、という事実だけがある。
「…………は?」
呟きは、ひどく現実味がなかった。
明るい。
暖かいはずの光。
穏やかなはずの景色。
それなのに。
胸の奥で、冷たいものがじわじわと広がっていく。
この光景は、美しい。
けれど——
どこか、決定的に間違っている。




