4,隔離病棟(3/21大幅改稿)
(3/21日大幅改稿)
医師で、革命家。ゲバラでしか描けないエピソードです。
「その次は、見えない壁で人間が引き裂かれる場所だ。」
ゲバラはそう言って、指先でグラスの縁をなぞった。
銅山の話をしているあいだより、少しだけ声が低い。
怒りより先に、別の重さがある声だった。
カストロは何も言わない。
ただ、目の前の男の呼吸が、今どこで詰まり、どこで流れるかを見ている。
酒場の奥ではラジオが鳴っている。
誰かが笑い、誰かが皿を置き、雨の匂いが扉の隙間から入り込む。
だが、この小さなテーブルの上だけは、もう別の土地の湿気で満ち始めていた。
「一九五二年。ペルー。サン・パブロの隔離病棟。」
カストロが、そこで初めて短く返す。
「病院か。」
「病院だ。」
ゲバラは頷く。
「だが、あそこにあったのは病気だけじゃない。線だ。」
※※※※※※※※※※
一九五二年。ペルー、アマゾン流域。サン・パブロ。
湿気が肌に貼りつく。
空気は濃く、川は広い。
銅山の乾いた風とは逆だった。
だが、ここにも別の苦しさがあった。
肺を削る粉塵ではない。
人間と人間のあいだに引かれた、見えない距離の息苦しさだ。
ゲバラとアルベルト・グラナードは、南米横断の旅の果てに、その療養所へたどり着いた。
ハンセン病患者を収容する施設だった。
ハンセン病。
当時すでに呪いや天罰ではなく、病気だと分かっていた。
少なくとも、触れただけで直ちにうつるような病気ではないことも、医療に関わる人間なら知っていた。
だが、長く染みついた恐怖と偏見は、病そのものよりしぶとく残っていた。
治療の名で人を隔てることが、いつのまにか当然の秩序になっていた。
二人は医療に関わる人間だった。
だからこそ、そこにある空気が、ただの見学者よりも早く鼻についた。
病棟と職員区域。
患者の食堂と、職員の食堂。
渡し舟の乗り場。
川のこちら側と、向こう側。
薬品の匂いより先に、「ここから先は別だ。」という気配があった。
アルベルトが、声をひそめて言った。
「……ずいぶん、きっちり分けるんだな。」
ゲバラは答えなかった。
答える前に、自分の目でもう一度確かめたかったのだろう。
遠くで誰かが笑った。
だが、その笑いはすぐ途切れた。
長く続かない。
この場所では、笑いでさえ、どこまで届いていいかを見張られているようだった。
職員が近づいてきて、手袋と注意を渡す。
口調は丁寧だった。
善意すら感じる声だった。
だが、その丁寧さそのものが、線の存在をいっそうはっきりさせていた。
「接触には気をつけてください。」
「患者とは適切な距離を保ってください。」
「向こう側には向こう側の規則がありますので。」
向こう側――。
その言い方に、アルベルトがわずかに眉をひそめる。
理不尽だとは思っている。
だが、反論するほど単純でもない。
医療の現場には規則がある。
感染への恐れもある。
頭では理解できる。
それが、かえって厄介だった。
その時、一人の患者がゆっくり歩いてきた。
顔色は穏やかだった。
だが、皮膚には長く病気が居座った痕があった。
耳たぶは少し厚く、眉はところどころ薄い。
顔立ちは崩れきってはいない。
それでも、見た瞬間に「健康な顔ではない」と身体の方が先に知るには十分だった。
職員の一人が、ほとんど無意識に半歩下がる。
アルベルトも、一瞬だけ身体を引いた。
ほんのわずかな動きだった。
言い訳できる程度の反射だった。
だがゲバラは、それを見逃さなかった。
アルベルト自身も、すぐに気づいていた。
気づいて、腹を立てたような顔をした。
患者にではなく、自分の身体に対してだ。
「分かってる。」
彼は低く言った。
誰に向けたのでもない。
自分への弁明みたいな声だった。
「理不尽なのは分かってる。分けるべきじゃないとも思ってる。……なのに、心のどこかではもう『向こう側』だと分けてる。」
ゲバラはすぐには答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
彼自身の中にも、同じものがあったからだ。
患者が近づいた瞬間に生まれた、ごく短い躊躇。
あれは職員たちだけのものではない。
制度が、自分の中へ写した壁だった。
アルベルトは低く続けた。
「壁があるのが間違ってるのは分かる。だが、壁を見た瞬間、こっちの心まで勝手に壁を作る。……そこが、いちばん気味が悪い。」
ゲバラは皿の横へ置かれた手袋を見た。
医療の道具だ。
必要なものでもある。
だが、ここではそれが治療のための道具である前に、人と人のあいだへ置かれた壁の印に見えた。
「病気じゃない。」
ゲバラがぽつりと言った。
「え。」
アルベルトが顔を上げる。
「ここでいちばん人を傷つけてるのは、病気そのものじゃない。」
ゲバラは低く続けた。
「病気を理由に、人間を人間の側から追い出すやり方だ。」
患者が二人の前まで来た。
男は、少し照れたように笑って言う。
「先生たちは、向こう側から来たんでしょう。」
向こう側。
今度は患者の口から出た。
その言い方が、ゲバラにはひどく不快だった。
患者自身が、その線を自分の言葉で受け入れてしまっている。
それが病気より重く見えた。
「向こう側じゃない。」
ゲバラは、思ったより早く答えていた。
男が目を上げる。
「同じ側だ。」
そう言ってから、自分でも少し驚いたように黙った。
理屈ではない。
口が先に動いたのだ。
アルベルトは、その横顔を見た。
止めなかった。
ただ、少しだけ険しい顔になった。
※※※※※※※※※※
その日の夕方、二人は職員用の食堂へ案内された。
皿は清潔で、配膳も整っていた。
だが、川の向こうにいる患者たちの食事が別になっていることを思うと、その整い方そのものが薄気味悪く見えた。
アルベルトがフォークを置く。
しばらく何も言わなかった。
皿は清潔で、配膳も整っている。
だが、川の向こうにいる患者たちの食事が別になっていることを思うと、その整い方そのものが薄気味悪く見えた。
「……頭では分かる。」
ようやくアルベルトが言った。
ゲバラは黙って顔を上げる。
「規則があるのも、感染を怖がる人間がいるのも、説明はできる。」
アルベルトはそこで言葉を切った。
喉の奥に、まだ別の言葉が引っかかっている顔だった。
「だが、さっき俺は引いた。ほんの少しだが、身体が先に引いた。」
その声には、患者への嫌悪より、自分自身への嫌悪が混じっていた。
「理不尽だと思ってる。分けるべきじゃないとも思ってる。……なのに、心のどこかではもう『向こう側』だと分けてる。」
ゲバラはすぐには答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
彼自身の中にも、同じものがあったからだ。
患者が近づいた瞬間に生まれた、ごく短い躊躇。
あれは職員たちだけのものではない。
制度が、自分の中へ写した壁だった。
アルベルトは低く続けた。
「壁があるのが間違ってるのは分かる。だが、壁を見た瞬間、こっちの心まで勝手に壁を作る。……そこが、いちばん気味が悪い。」
ゲバラは皿の横へ置かれた手袋を見た。
医療の道具だ。
必要なものでもある。
だが、ここではその必要が、人と人の距離を正当化する記号にもなっていた。
夜、ゲバラは職員側の岸に立ち、向こう側の灯を見ていた。
川は暗く、静かだった。
静かなものほど、時に残酷だ。
流れているだけで、こちらと向こうを別世界にしてしまう。
「本気で向こうへ行く気か。」
アルベルトが横に来て言った。
「行かなきゃ分からない。」
「分かってる。だが、俺は――。」
そこで言葉が止まる。
「怖いか。」
ゲバラが聞く。
アルベルトは少し苦い顔で笑った。
「理不尽だと思う。だが、正直に言えば、少し怖い。」
その答えに、ゲバラは頷いた。
責めない。
責める方が簡単だ。
簡単なことをしないところに、この二人の旅の意味があった。
「俺も同じだ。」
ゲバラは言った。
「だが、怖いままで線を越えないなら、医者でいる意味がない。」
※※※※※※※※※※
その翌日だった。
職員の一人が、ほとんど反射のように声を上げた。
「先生、そこから先は――。」
ゲバラは返事をしなかった。
返事をすると、相手の理屈の中へ入ってしまう気がした。
彼は立ち止まり、自分の手を見た。
白い手袋。
清潔で、正しくて、必要なものだ。
だが、その白さの向こうに、昨夜アルベルトが言った言葉が残っていた。
分かってる。だが、心が勝手に分けてしまう。
アルベルトはその横顔を見ていた。
昨夜までのゲバラの目は、よく見える目だった。
人より早く構造を見抜き、人より深く怒りの理由を掘り当てる目。
だが今の彼の目は、少し違った。
外を見ているようでいて、もっと厄介なもの――自分の中にできた見えない壁を見ている目だった。
ゲバラの指が、手袋の端をつまむ。
その動きは、いつものように迷いなくはなかった。
ほんのわずかに止まる。
それが、アルベルトにはかえってはっきり見えた。
迷っているのだ、と彼は思った。
怖れていないわけではない。
躊躇していないわけでもない。
だが、目を逸らさない。
逸らさずに、自分の中の躊躇そのものを見つめている。
「ゲバラ……。」
アルベルトは低く呼んだ。
止めるつもりではなかった。
ただ、その一歩がどれだけ重いか、自分にも分かってしまったからだった。
ゲバラは顔を上げなかった。
そのまま、手袋を引き抜く。
薄いゴムの擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
右手。
左手。
それは職員への反抗というより、自分の中のためらいを一枚ずつ剥がしていく動きに見えた。
外した手袋を脇へ置いた時、アルベルトには、ゲバラの目つきがさらに少し変わったように見えた。
強くなったというより、静かになった。
理屈で自分を押している目ではない。
もう決めてしまった人間の目だった。
患者の一人が、信じられないものを見るように目を上げた。
年齢の分からない顔だった。
病気よりも、長い隔離の方が、人間の時間を削っていた。
ゲバラはその前にしゃがみ込む。
患者が、小さく言った。
「先生……いいんですか。」
ゲバラは短く答える。
「よくないことなら、最初からこんな線は引かれていない。」
それから、手を差し出した。
患者はしばらく動かなかった。
そのためらいは遠慮ではない。
拒絶されることに慣れた人間のためらいだった。
やがて、おそるおそる、その手が重なる。
温かかった。
ゲバラは、その瞬間だけ息を忘れた。
湿気のぬるさとは違う。
汗の熱とも違う。
掌の奥から静かに返ってくる体温だった。
生きている人間の温もりだった。
頭が理解するより先に、皮膚の方が知った。
向こう側の誰かではない。
病気の名で分けられた存在でもない。
自分と同じ温度を持つ、ただの人間だと。
患者が、ほとんど息のような声で言った。
「……手が、あたたかい。」
ゲバラは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
ただ重なった掌の熱だけを受け取っていた。
離れた場所で、アルベルトがそれを見ていた。
その時、彼にはゲバラの目が昨夜までとは違って見えた。
相変わらず、よく見える目だった。
だが今はそこに、別の光が混じっていた。
構造を見抜く鋭さではない。
一度触れてしまったものを、もう見なかったことにはできない人間の静かな強さだった。
革命家の目、とまではまだ言えない。
だがアルベルトは思った。
こいつはたぶん、この先どこかで、本当に何かを変えようとする。
理屈でそう考えるからではない。
いま、自分の手で、人間の温度を知ってしまったからだ。
川には月が映っていた。
職員側の岸と患者側の岸を分ける、水の黒い面だ。
ゲバラは、その境界を見ながら思った。
閉じ込められているのは、患者だけではない。
病気に名を借りて人を隔てる社会そのものが、自分の恐怖と無知の中へ閉じ込められている。
そしてラテンアメリカもまた、同じように、別の言葉と別の制度によって岸の向こうへ押しやられているのではないか。
貧しい国。
従属する国。
搾取される国。
「向こう側」と呼ばれ続ける国。
銅山で見たのは、身体が削られる現場だった。
だがここで見たのは、距離そのものが人間を傷つける仕組みだ。
ここで、ゲバラの中の二つの顔が一つになる。
病人を診たい医者と、人間を切り分ける制度そのものに怒る男。
その二つが、同じ場所を向き始める。
※※※※※※※※※※
酒場へ、夜が戻る。
ゲバラは一度だけ咳を畳んだ。
長くは続かない。
だが、胸の奥ではまだ何かが鳴っているようだった。
カストロは、グラスに触れたまま言う。
「銅山では、資本に怒った。」
「そうだ。」
「ここでは何に怒った。」
ゲバラは少しだけ目を伏せた。
次いで、まっすぐ答える。
「人間を切り分ける制度そのものにだ。」
ラジオが一瞬だけ雑音を強くする。
誰かが笑い、誰かが椅子を引く。
だが、その小さなテーブルの上では、もうそんな音は届かない。
「病人を閉じ込める。」
ゲバラは続ける。
「貧しい者を閉じ込める。国を閉じ込める。全部同じだ。理屈は違っても、やっていることは同じだ。」
カストロは、その言葉をすぐには受け取らなかった。
急いで受け取ると、ただの政治談義になる。
代わりに、水差しを少しだけ寄せた。
もうそれは、さっきまでの気づかいとは違っていた。
相手の言葉を、こちら側へ引き寄せる動きだった。
「それで、お前は医者になったのか。」
「いや。」
ゲバラは首を振る。
「そこでようやく分かった。医者でいるだけでは足りない。」
カストロの目が細くなる。
その言葉を、彼は待っていたのかもしれない。
「その次は。」
短く問う。
ゲバラは答える。
「名前で人間が削られる場所だ。」
一拍置く。
「焼き印。」
日本では1996年まで隔離病棟が法的に認められていました。
モーターサイクルダイアリーの章も佳境です。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




