3,銅山(3/21大幅改稿)
(3/21大幅改稿)
モータサイクル・ダイヤリーズは映画にもなっています。
物語が長編になったことをきっかけに、史実よりに物語を書き直しました。
チリの銅山でみたのはむき出しの人間が奪われる現実でした。
「まず、身体が削られる場所だ。」
ゲバラはそう言って、グラスを持ち上げた。
だが、すぐには飲まない。
冷たい水が指先にあることだけを確かめるみたいに、しばらく黙っていた。
「一九五二年。チリ北部。チュキカマタ銅山。」
カストロは、その固有名詞を頭の中で転がした。
南米でも有数の巨大鉱山だと聞いたことはある。
銅が出る。
利益も出る。
そして、そういう場所にはたいてい、別の話もついてくる。
「アルベルトと二人で、そこへ行った。」
ゲバラが言う。
「バイクは、まだ何とか動いていた。ラ・ポデローサⅡ。でかい名前のわりに、こっちの都合なんか少しも考えない代物だった。」
「機械はたいていそうだ。」
カストロが言う。
「人間より正直だ。」
ゲバラはわずかに笑った。
「そうかもしれない。エンジンは壊れる時、壊れる音を出す。制度はそうじゃない。」
その一言で、カストロは少しだけ目を細めた。
もう銅山の話は始まっている。
※※※※※※※※※※
一九五二年。チリ北部。
風は乾いていた。
乾いているくせに、空気は重かった。
砂漠の町は広い空を持っている。だが、そこに立つ人間の胸の中は狭い。
細かい粉塵が喉の奥へ入り込み、咳の種を置いていく。
目を細めても、頬を拭っても、取れない種類の汚れだった。
ラ・ポデローサⅡは、到着する頃にはもう、機械というより意地で走っているような有様だった。
エンジンは咳き込み、車体は荷物の重さにうんざりしている。
アルベルトはそれでも陽気だった。
「見ろよ、フセル。」
彼は乾いた大地の先を顎でしゃくった。
「世界の果てみたいだ。」
ゲバラは何も言わなかった。
その先に見えるものが、景色には見えなかったからだ。
山が割れていた。
最初はそう見えた。
だが、自然に裂けたのではない。
人間が掘り返し、削り取り、喰い破った巨大な傷口だった。
チュキカマタ銅山。
世界最大級の露天掘り銅山。
チリの山肌の下に眠る富を、まるごと北へ運び出すための穴。
「でかいな。」
アルベルトが言う。
感嘆というより、半ば呆れだった。
穴の底の方では、人間が蟻みたいに小さく見えた。
荷を運び、掘り、叫び、また動く。
規模が大きくなると、人間は逆に見えにくくなる。
そこがゲバラには不愉快だった。
「銅より先に、人が見えなくなる。」
彼はぽつりと言った。
アルベルトは肩をすくめる。
「旅人らしくない感想だな。」
「旅人だからだ。」
ゲバラは答えた。
「旅人は、景色だと思っていたものの中に、いつも誰かの生活が埋まっているのを見る。」
二人は歩いた。
地面は乾いているのに、靴の裏には妙な粘りが残る。
油と金属と汗が混ざった匂いがした。
遠くで金属音が鳴る。
さらにその奥で、誰かが咳をしている。
その咳は、奇妙に乾いていた。
病人の咳というより、労働そのものが肺を削っている音だった。
休憩に入った男たちがいた。
顔は若いのに、手だけが老いている。
節が歪み、爪の間は黒い。
洗っても落ちない黒だ。
汚れというより、仕事が皮膚に刺さっている跡だった。
一人がパンを噛み、もう一人が水筒を回す。
笑い声が短い。
長く笑う余裕がない。
食事の時間まで、労働の延長に見えた。
「賃金はどうなんだろうな。」
アルベルトが言った。
医者の目ではなく、旅人の素朴さがまだ少し残った声だった。
ゲバラは答えなかった。
代わりに、少し離れた場所の帳簿台を見た。
列。数字。受け渡し。無表情な手。
誰かが誰かの時間を、紙切れの厚みで測っている。
「軽い。」
彼は低く言った。
「何が。」
「全部だ。賃金も、命も、扱いも。」
アルベルトは黙った。
同じものを見ていても、ゲバラの方が一歩先で怒っているのが分かったからだ。
風が吹いた。
砂がわずかに舞い、二人の頬を打った。
その風の向こうに、北の国の名がある気がした。
――アメリカ。
電線を張り、工場を回し、都市を光らせる金属。
南米の山から掘り出された銅が、遠くの文明を明るくする。
だが、その文明の光が、この鉱山町の肺を守ることはない。
そこにあるのは、単純な貧困ではなかった。
仕組みだった。
ラテンアメリカの富が、ラテンアメリカの労働者を削りながら、別の場所へ積み上がっていく仕組み。
山そのものはチリのもので、穴を掘る腕もチリのもので、咳き込む肺もチリのものなのに、利益だけが別の国の言葉で数えられていく。
「身体が先に払わされる。」
ゲバラは低く言った。
「利益より先に、肺が払う。骨が払う。時間が払う。」
(まるで詩人だな――でも怒れる詩人だ...... 。)
アルベルトは、その軽口を返さなかった。
二人はその日、宿へ戻る途中で、一組の夫婦に会った。
男も女も痩せていた。
荷は少なく、靴はすり減り、だが目だけは消えていない。
銅山の近くには、そういう人間が集まる。
富があると聞かされ、だが自分の取り分はほとんどないと知りながら、それでも近づかざるをえない人間たちだ。
男は、自分たちが共産主義者だと隠さなかった。
いや、隠しきれなかったと言うべきかもしれない。
職を求めて流れ歩くうちに、信条そのものが顔つきに染みついてしまったような夫婦だった。
アルベルトが煙草を差し出す。
男は礼を言う。
女は礼を言わない。ただ先に夫へ渡す。
そういう癖を持つ夫婦だった。
「ここには仕事があると聞いて来た。」
男は言った。
「だが、あるのは仕事じゃない。順番待ちと、咳と、運が悪ければ墓だ。」
ゲバラはその言葉を黙って聞いた。
慰めの言葉は言わなかった。
言っても、何も軽くならないと分かっていた。
その夜、アルベルトは寝返りを打ちながら言った。
「ひどい話は、旅の途中でいくらでも聞く。」
「そうだな。」
「だが、お前は毎回、少しずつ本気で怒ってる。」
ゲバラは天井を見たまま答えた。
「怒るべきだからな。」
「その怒りで、胃を壊すなよ。」
「肺ならもう壊れかけてる。」
アルベルトは笑った。
ゲバラも少しだけ笑った。
だが笑ったあと、彼はまた黙った。
笑って済ませられないものが、あの巨大な穴の底にはあった。
彼はその時、まだ革命家ではない。
ただの旅の途中の若い医者だった。
だが、身体が削られていく現場を見てしまった以上、世界を以前と同じ角度から眺めることは、もうできなかった。
※※※※※※※※※※
酒場へ、夜が戻る。
ゲバラはようやく水を一口飲んだ。
飲み方は慎重だった。
勢いよく飲めば、咳が出る。
咳が出れば、話が途切れる。
途切れるのが嫌なのだろう。
カストロは黙っていた。
だが、黙り方が少し変わっていた。
聞いてやっている沈黙ではない。
すでに、自分の中でも同じ敵の輪郭をなぞり始めている沈黙だった。
「銅は、チリの山から出る。」
ゲバラが低く言う。
「だが、利益は別の場所に積み上がる。掘るのは南米の労働者だ。咳き込み、骨を削り、肺を擦り減らすのもそいつらだ。なのに、光るのはいつも別の国の街だ。」
カストロは、その言葉を急いで受けなかった。
急いで受けると、安い共感になる。
「お前は、そこで何を見た。」
ようやくそう聞く。
ゲバラは少しだけ目を細めた。
街で見た時と同じ目だった。
景色ではなく、その裏側を見ている目だ。
「資本だ。」
彼は言った。
「銃を持っていなくても、人間を削れる仕組みの方だ。」
ラジオが雑音を混ぜる。
誰かが笑い、誰かが皿を置く。
だが、その小さなテーブルの上では、もう別の話が始まっていた。
カストロは水差しを少しだけ寄せる。
前より自然に。
もう相手の呼吸の間合いが分かってきていた。
「その次は。」
ゲバラは答える。
「距離で人間が削られる場所だ。」
一拍置く。
「隔離病棟。」
ゲバラの思想の出発点の象徴的エピソードです。
次回は現実の医者と革命家の両立の出発点を描きます。
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