2,喘息(3/21大幅改稿)
3/21大幅改稿
モータサイクル・ダイヤリーズ編スタート
ゲバラはカストロに自分の過去を語り始めます。
「……子供のころ、喘息だった。」
ゲバラはそう言ってから、グラスに触れた。
飲まない。
ただ、冷たさを指先で確かめている。
カストロは黙っていた。
相手が言葉を探している時に、助けるふりをして軽くするのを嫌う男だった。
酒場の奥でラジオが鳴っている。
誰かが笑い、誰かが皿を置き、戸口の隙間から雨の匂いが入り込む。
そんな雑音の中で、ゲバラは自分の話を始めた。
「最初に覚えた恐怖は、銃でも貧乏でもない。息ができなくなることだった。」
カストロの眉が、ほんの少しだけ動く。
「怖かったか。」
「怖かった。」
ゲバラはすぐに答えた。
強がらなかった。
そこが、かえって強かった。
「夜がいちばん嫌だった。寝ているあいだに胸の中へ見えない手が入ってきて、内側から締め上げられる感じがする。起きる。息を吸う。だが足りない。……子供には、あれが世界の終わりに見える。」
カストロは何も言わない。
目の前の男はいまも時々咳を畳んでいる。
つまり、その恐怖は過去形で終わっていない。
終わっていないものを、こいつは平然と机の上へ置いている。
ゲバラは続けた。
「怖かったから、負けたくなかった。」
その一言で、話の芯が見えた。
「だから無茶をした。勉強もした。泳いだ。歩いた。ラグビーまでやった。」
「馬鹿だな。」
カストロが言う。
「自分でもそう思う。」
ゲバラは少し笑った。
笑いというより、息を整えるために口元を緩めたような顔だった。
「だが、やらなかったら負ける気がした。病気に負ける。身体に負ける。運に負ける。……自分の外側にあるもの全部に負ける。」
カストロはその言葉を頭の中で転がした。
外側にあるもの。
それは病気だけではない響きを持っていた。
「本も読んだ。」
ゲバラが言う。
「本なら次のページがある。呼吸には、それがない。」
酒場の灯りが、彼の頬の影を深くする。
痩せた顔だった。
その顔は、今夜だけで出来たものではない。
長いあいだ、何かと戦ってきた顔だ。
「それで医者か。」
「半分はな。」
「もう半分は。」
ゲバラは少しだけ目を伏せた。
伏せたまま、しかし声は鈍らなかった。
「怒りだ。」
「何への。」
「自分の外側にあるもの全部への。」
カストロは、それにはすぐ返さなかった。
急いで返すと、安い共感になる。
代わりに、水差しを少しだけゲバラの方へ寄せる。
ゲバラはその動きを見た。
礼は言わない。
だが、見なかったことにもしない。
グラスを引き寄せ、水を少しだけ飲んだ。
慎重な飲み方だった。
勢いよく飲めば咳が出る。咳が出れば話が切れる。
切れるのが嫌なのだろう。
「若い頃は思っていた。」
彼は言った。
「医者になれば、人を診られる。熱を測れる。胸の音を聴ける。薬も出せる。少しは苦しみを減らせる。――それで足りる、と。」
「違ったのか。」
「違った。」
その答えだけ、異様に早かった。
「病気は身体の中にある。だが、人間の息苦しさは、それだけでは説明できない。」
カストロの目が少し細くなる。
「生まれた場所。持っている金。働く土地。誰に雇われているか。そういう外側の条件が、人の呼吸そのものを狭くしている。」
酒場のラジオが雑音を混ぜた。
誰かが笑い、誰かが椅子を引く。
だが、その小さなテーブルの上では、もう別の話が始まっていた。
「俺は最初、自分の肺に腹を立てていた。」
ゲバラはまっすぐ言う。
「だが、そのうち分かった。もっと大きなものが、人間の呼吸そのものを奪っている。」
カストロは、そこでようやく少し笑った。
笑ったというより、相手の言葉の中に自分の敵と同じ輪郭を見た時の顔だった。
「それで旅に出たのか。」
「そうだ。」
ゲバラは頷く。
「最初は気まぐれだった。だが、気まぐれは時々、人を人生より大きい場所へ連れて行く。」
「一人でか。」
「いや。」
ここで初めて、ゲバラの声の中にわずかな柔らかさが混じった。
「年上の友人がいた。アルベルト・グラナード。陽気で、現実的で、俺より少しだけ世慣れていた。あいつがいなければ、旅はもっと早く終わっていたかもしれない。」
「止める方か。」
「いや。」
ゲバラはまた少し笑う。
「押す方だ。」
カストロも口元だけで笑った。
その笑いは短かったが、本物だった。
「アルベルトと話していた。」
ゲバラは続ける。
「診察室の中だけでは足りないんじゃないか、と。病気そのものだけじゃなく、その病気を生む土地と労働と貧困の顔を、自分の目で見たい、と。」
「それで、南へ。」
「そうだ。一九五二年。俺たちは旅に出た。」
そこまで言って、ゲバラは咳を押し殺した。
今度は少しだけ苦しそうだった。
カストロは水差しをさらに寄せる。
今度はもう、ためらわない。
ゲバラはグラスを持ち、少し飲み、喉を落ち着かせてから言った。
「旅に出て、最初に見たのは身体が削られる場所だ。」
カストロは黙って待つ。
「チリ北部。」
ゲバラが言う。
「一九五二年。チュキカマタ銅山。」
その固有名詞が落ちた瞬間、空気の重さが変わった。
もうこれは、病弱な少年が医者になった話ではない。
ラテンアメリカそのものの傷口へ入っていく話だ。
カストロは静かに頷いた。
「なら、そこから聞こう。」
ゲバラもまた、小さく頷いた。
その頷きは、回想の続きを告げるというより、戦線を一段深い場所へ移す合図のように見えた。
次回からロードムービーが始まります。
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