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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
モータサイクル・ダイアリーズ~ゲバの青春~
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3/209

2,喘息(3/21大幅改稿)

3/21大幅改稿


モータサイクル・ダイヤリーズ編スタート

ゲバラはカストロに自分の過去を語り始めます。

「……子供のころ、喘息だった。」


ゲバラはそう言ってから、グラスに触れた。

飲まない。

ただ、冷たさを指先で確かめている。


カストロは黙っていた。

相手が言葉を探している時に、助けるふりをして軽くするのを嫌う男だった。

酒場の奥でラジオが鳴っている。

誰かが笑い、誰かが皿を置き、戸口の隙間から雨の匂いが入り込む。

そんな雑音の中で、ゲバラは自分の話を始めた。


「最初に覚えた恐怖は、銃でも貧乏でもない。息ができなくなることだった。」


カストロの眉が、ほんの少しだけ動く。


「怖かったか。」


「怖かった。」


ゲバラはすぐに答えた。

強がらなかった。

そこが、かえって強かった。


「夜がいちばん嫌だった。寝ているあいだに胸の中へ見えない手が入ってきて、内側から締め上げられる感じがする。起きる。息を吸う。だが足りない。……子供には、あれが世界の終わりに見える。」


カストロは何も言わない。

目の前の男はいまも時々咳を畳んでいる。

つまり、その恐怖は過去形で終わっていない。

終わっていないものを、こいつは平然と机の上へ置いている。


ゲバラは続けた。


「怖かったから、負けたくなかった。」


その一言で、話の芯が見えた。


「だから無茶をした。勉強もした。泳いだ。歩いた。ラグビーまでやった。」


「馬鹿だな。」


カストロが言う。


「自分でもそう思う。」


ゲバラは少し笑った。

笑いというより、息を整えるために口元を緩めたような顔だった。


「だが、やらなかったら負ける気がした。病気に負ける。身体に負ける。運に負ける。……自分の外側にあるもの全部に負ける。」


カストロはその言葉を頭の中で転がした。

外側にあるもの。

それは病気だけではない響きを持っていた。


「本も読んだ。」


ゲバラが言う。


「本なら次のページがある。呼吸には、それがない。」


酒場の灯りが、彼の頬の影を深くする。

痩せた顔だった。

その顔は、今夜だけで出来たものではない。

長いあいだ、何かと戦ってきた顔だ。


「それで医者か。」


「半分はな。」


「もう半分は。」


ゲバラは少しだけ目を伏せた。

伏せたまま、しかし声は鈍らなかった。


「怒りだ。」


「何への。」


「自分の外側にあるもの全部への。」


カストロは、それにはすぐ返さなかった。

急いで返すと、安い共感になる。


代わりに、水差しを少しだけゲバラの方へ寄せる。


ゲバラはその動きを見た。

礼は言わない。

だが、見なかったことにもしない。

グラスを引き寄せ、水を少しだけ飲んだ。

慎重な飲み方だった。

勢いよく飲めば咳が出る。咳が出れば話が切れる。

切れるのが嫌なのだろう。


「若い頃は思っていた。」


彼は言った。


「医者になれば、人を診られる。熱を測れる。胸の音を聴ける。薬も出せる。少しは苦しみを減らせる。――それで足りる、と。」


「違ったのか。」


「違った。」


その答えだけ、異様に早かった。


「病気は身体の中にある。だが、人間の息苦しさは、それだけでは説明できない。」


カストロの目が少し細くなる。


「生まれた場所。持っている金。働く土地。誰に雇われているか。そういう外側の条件が、人の呼吸そのものを狭くしている。」


酒場のラジオが雑音を混ぜた。

誰かが笑い、誰かが椅子を引く。

だが、その小さなテーブルの上では、もう別の話が始まっていた。


「俺は最初、自分の肺に腹を立てていた。」


ゲバラはまっすぐ言う。


「だが、そのうち分かった。もっと大きなものが、人間の呼吸そのものを奪っている。」


カストロは、そこでようやく少し笑った。

笑ったというより、相手の言葉の中に自分の敵と同じ輪郭を見た時の顔だった。


「それで旅に出たのか。」


「そうだ。」


ゲバラは頷く。


「最初は気まぐれだった。だが、気まぐれは時々、人を人生より大きい場所へ連れて行く。」


「一人でか。」


「いや。」


ここで初めて、ゲバラの声の中にわずかな柔らかさが混じった。


「年上の友人がいた。アルベルト・グラナード。陽気で、現実的で、俺より少しだけ世慣れていた。あいつがいなければ、旅はもっと早く終わっていたかもしれない。」


「止める方か。」


「いや。」


ゲバラはまた少し笑う。


「押す方だ。」


カストロも口元だけで笑った。

その笑いは短かったが、本物だった。


「アルベルトと話していた。」


ゲバラは続ける。


「診察室の中だけでは足りないんじゃないか、と。病気そのものだけじゃなく、その病気を生む土地と労働と貧困の顔を、自分の目で見たい、と。」


「それで、南へ。」


「そうだ。一九五二年。俺たちは旅に出た。」


そこまで言って、ゲバラは咳を押し殺した。

今度は少しだけ苦しそうだった。

カストロは水差しをさらに寄せる。

今度はもう、ためらわない。


ゲバラはグラスを持ち、少し飲み、喉を落ち着かせてから言った。


「旅に出て、最初に見たのは身体が削られる場所だ。」


カストロは黙って待つ。


「チリ北部。」


ゲバラが言う。


「一九五二年。チュキカマタ銅山。」


その固有名詞が落ちた瞬間、空気の重さが変わった。

もうこれは、病弱な少年が医者になった話ではない。

ラテンアメリカそのものの傷口へ入っていく話だ。


カストロは静かに頷いた。


「なら、そこから聞こう。」


ゲバラもまた、小さく頷いた。

その頷きは、回想の続きを告げるというより、戦線を一段深い場所へ移す合図のように見えた。

次回からロードムービーが始まります。


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