1, 酒場での出会い(3/21大幅改稿)
3/21大幅改稿しました。
後に世界を動かす二人の出会いはメキシコシティーでした。
嵐の夜より、少し前のことだ。
1955年夏。メキシコシティ。
フィデル・カストロは、祖国キューバから追い出された亡命者だった。
二年前、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、失敗し、裁かれ、投獄され、恩赦ののち国外へ出た。
新聞は彼を、向こう見ずな若い反乱者として書いた。
政権は、終わった男として扱った。
だが本人だけは、まだ自分を敗者だと思っていなかった。
キューバでは、フルヘンシオ・バチスタ政権が軍と警察を背景に支配を固めていた。
反対派には議論より先に逮捕が来る。
貧しい者には法より先に空腹が来る。
そして、その秩序の背後にはいつも北の影があった。
アメリカの資本、アメリカの外交、アメリカの利害。
カストロは今、メキシコで次の戦争のための人間と金と武器をかき集めていた。
その夜の少し前、仲間からこう聞かされていた。
「医者がいる。」
「使える男だ。」
「アルゼンチン人だが、口は固い。」
医者が必要なのは本当だった。
亡命者の集まりに、まともな設備などあるはずがない。
祖国へ戻り、山へ入り、ゲリラ戦をやるつもりなら、なおさらだった。
傷口を縫える者。熱と感染を見分けられる者。死にかけの男をすぐには死なせない者。
その意味で、医者は銃と同じくらい貴重だった。
だからカストロは頷いた。
頷きながら、勝手に想像していた。
どうせ青白い優男だろう、と。
本ばかり読んで、咳をしながら薬瓶を振るような男。
理屈は知っていても、泥と汗と血の匂いには顔をしかめる類の人間。
そういう医者なら、これまでにも見たことがあった。
※※※※※※※※※※
約束の夜の少し前、カストロはいつものようにメキシコシティの雑踏を歩いていた。
雨上がりだった。
舗道にはまだ水が残り、車輪が泥を跳ね、看板の灯りが濡れた石畳に鈍く映っている。
人の流れは絶えない。
亡命者、労働者、商人、観光客、密売人、警官。
メキシコシティは大きく、雑多で、何でも飲み込むくせに、何も守ってはくれない街だった。
カストロは急ぎもせず、だが足は止めずに歩いていた。
この街では、ゆっくりしすぎると目立つ。
急ぎすぎても目立つ。
目立つということは、誰かの記憶に残るということだった。
記憶は時に名簿より危険だ。
その雑踏の中で、一人だけ妙に目を引く男がいた。
痩せている。
咳を押し殺すように喉元へ拳を当てている。
外套はくたびれ、旅の汚れがそのまま残っていた。
顔色もいいとは言えない。
それなのに、弱々しくは見えなかった。
むしろ逆だった。
身体は消耗しているのに、目だけが妙に醒めている。
観光客でも、学生でも、逃亡者でもない。
景色を見ているのではなく、その裏側を見ているような目だった。
男は通りの向こうで、靴磨きの少年と、そのすぐ脇を通り過ぎる上等な靴の男を、同じ静けさで見ていた。
哀れんでいるようにも見えない。
怒っているようにも見えない。
ただ、見て、覚えている。
そういう顔だった。
カストロは、ほんの一瞬だけ足を緩めた。
何かを見すぎてしまった人間の顔だ、と思った。
それは自分もよく知っている顔だった。
敗北や貧困や暴力を一度見ただけでは、ああいう目にはならない。
何度も見て、しかもまだ見続けると決めた者だけが、ああいう目になる。
その時は通り過ぎた。
通り過ぎながら、ほんの少しだけ気になった。
気になったが、振り返りはしなかった。
メキシコには、気になる顔の亡命者も、怒りを抱えた旅人もいくらでもいる。
いちいち拾っていたら、誰とも戦争など始められない。
それでも、その目だけは頭の隅に残った。
※※※※※※※※※※
酒場は薄暗かった。
暗いというより、明るくする必要のない場所だった。
ランプの光はテーブルの端で途切れ、その先は煙と湿気に飲まれていく。
皿は脂っぽく、床は外から持ち込まれた砂で少しだけざらついていた。
外はまた雨だった。
戸口が開くたびに冷えた空気が差し込み、煙草の煙がすっと割れて、また元に戻る。
割れ目から入ってくる匂いがいちばん正直だ。
濡れた外套の革、港の塩、安い石鹸。
洗っても落ちない種類の匂いばかりが混ざっていた。
カストロは奥の席に座っていた。
入口が見えて、窓も視界に入る位置。
逃げ道の確認、というほど大げさなものではない。
だが、何も考えずに座れるほど、彼の人生はもう親切ではなかった。
ラジオが鳴っている。
音楽というより、遠い部屋の生活音がこちらへ滲んでくる感じだった。
歌声の上に誰かの口論が重なり、グラスが木に当たる音が割り込む。
笑い声は短い。
長く笑うと、その笑いを買ったのが誰なのか分かってしまうような店だった。
カストロは水を頼んでいた。
酒はまだ早い。
酒のせいにしたいことが増えるのが嫌だった。
その時、咳を押し殺す気配が聞こえた。
視線を上げる。
そして分かった。
街で見た男だった。
あの時と同じ上着。
あの時と同じ、少しだけ疲れすぎた身体。
そして何より、周囲より先に何かを見てしまっているような、あの目。
どうせ青白い優男だろうと思っていた。
だが、来たのはそういう種類の男ではなかった。
痩せてはいる。
たしかに咳もしている。
だが軽くは見えない。
身体の線は細いのに、その中に入っているものだけが妙に重い。
厄介な男だ、とカストロは思った。
そして同時に、少しだけ面白いとも思った。
「ここ、いいか。」
低い声だった。
だが、わざと低く作った声ではない。
カストロはまず、その男の手を見た。
紙を扱う指だ。
だが同時に、銃も扱える指だった。
そういう癖は見れば分かる。
見えるから、見ないふりをする。
「どうぞ。」
そう言ってから、カストロはほんの少しだけ後悔した。
どうぞ、は関係を始める言葉だ。
男は座ると、椅子が軋んだ。
彼はその音を気にしない。
気にしないふりでもない。本当に気にしていない。
そこが、少し厄介だった。
「水を――。」
男が店に言うより先に、店主が水差しを持ってきた。
水差しは二人の真ん中に置かれる。
店主の癖だ。
争いになった時、最初に倒れるのはたいてい水差しかグラスだからだ。
男はすぐには水を注がなかった。
まずカストロの顔を見た。
軽くない見方だった。
値踏みでもない。
覚えるための見方だった。
「名前は?」
カストロが問うと、男はほんの少しだけ視線を外した。
外し方が慣れている。
名前を言うことが面倒な人間の外し方ではない。
名前を言えば、その瞬間に何かが始まることを知っている人間の外し方だった。
「エルネスト・ゲバラ。」
一拍置いて、彼は付け足した。
「……みんなは、チェ・ゲバラって呼ぶ。」
“みんなは”の言い方が、まるで自分の話ではないみたいだった。
呼び名だけが一人歩きして、本人はその少し後ろに立っている。
「じゃあ、ゲバラ。」
カストロはそう言った。
早く受け入れると軽くなる気がして、わざと少しだけ遅らせた。
ゲバラはほんのわずかだけ肩の力を抜いた。
安堵というより、面白がられずに済んだ、という顔だった。
「君は?」
「フィデル・カストロだ。」
名乗ったあと、カストロは余計な説明を置かなかった。
肩書きも、出自も、武勇談も語らない。
語らないから、名前だけがそのまま重くテーブルに残る。
「……カストロ。」
ゲバラがその名を口にする。
呼び捨てではない。
敬称でもない。
ただの名前。
だからこそ妙に深く刺さる。
沈黙が一度落ちた。
ラジオが曲を変え、皿が鳴り、誰かが椅子を引きずる。
騒音が埋めてくれる沈黙と、埋めてくれない沈黙がある。
今のは後者だった。
ゲバラが喉を押さえ、小さく咳を畳んだ。
カストロは何も言わず、水差しを彼の側へ少しだけ滑らせる。
押しつけない速度。押しつけない距離。だが、引きすぎない。
ゲバラは礼を言わなかった。
言わないことが、なぜかカストロには気に入った。
礼の言葉が出ると場がきれいになりすぎる。
きれいになった場は、たいていどこかに嘘を呼ぶ。
「ここにいる理由を聞いても。」
カストロが問う。
ゲバラはグラスの縁を指でなぞった。
冷たいものに触れていないと、呼吸が乱れるのかもしれなかった。
「旅をしてた。」
短く言い、それから自分の言葉を噛み直すように続ける。
「最初は、気まぐれだった。……途中から、戻れなくなった。」
戻れなくなった。
その言い方は、酒場の湿気より冷たかった。
「何を見た?」
ゲバラは少し考えてから、短く置いた。
「銅山。」
「隔離病棟。」
「焼き印。」
焼き印、と言った時、カストロの喉の奥が勝手に動いた。
飲み込んだのが唾か怒りか、自分でも分からない。
ゲバラはそれを見て、見なかったことにした。
見なかったことにできる人間は、案外少ない。
「話してもいいか。」
「聞く。」
ゲバラは付け足した。
「聞いたら眠れなくなる。」
「眠れないのは構わない。」
カストロがそう言うと、ゲバラは胸元の吸い口を指で撫でた。
薬の匂いが一瞬だけ漂う。
煙草の匂いの中で、その匂いだけが妙に真っ直ぐだった。
嘘がない匂いだった。
「……子供のころ、喘息だった。」
それは前置きのようでいて、前置きではなかった。
鍵穴だけ先に見せられたような言葉だった。
ゲバラはそこで言葉を切った。
自分の過去を、最初から全部物語にはしない。
だが、その断片だけで十分だった。
この男が、どこかで戻れない一線を越えてきたことだけは、もう分かる。
そしてカストロには、もう一つ分かっていた。
あの雑踏でこの男を一瞬見た時に感じた、あの説明しにくい違和感は間違っていなかったということだ。
ただの医者ではない。
ただの旅人でもない。
何かに巻き込まれた男ではなく、自分から何かの中心へ近づいていく種類の人間だ。
カストロは水差しを少しだけ寄せた。
「なら、その続きから聞こう。」
ゲバラは小さく頷いた。
※※※※※※※※※※
彼の旅が、単なる放浪ではなく、世界を敵として認識し始める過程だったことを、この時点でカストロはまだ知らない。
だが、この男が自分と同じように、もう後戻りできない場所まで来ていることだけは、すでに分かっていた。
のちに二人は同じ船に乗る。
同じ泥を這う。
同じ敗北をくぐり抜け、同じ革命の名前で呼ばれることになる。
だが、そのすべてはまだ先の話だった。
この夜の二人はまだ、薄暗い酒場の小さなテーブルを挟んで、水差しを真ん中に置いたまま、相手の呼吸を測っているだけだった。
それで十分だった。
歴史というものは、たいていその程度の静けさから始まる。
次回、ゲバラのそれまでの人生。
モーターサイクル・ダイヤリーズ編スタートです。
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