0, 始まりの夜(3/21大幅改稿)
歴史の背景を詳しく改稿しました(3/21)
物語は、キューバ革命の前夜から始まります。
それまでの二人の人生と出会いは次回以降。
1956年12月2日。キューバ東部、オリエンテ州沿岸。
彼らは、祖国を取り戻すために戻ってきた。
倒すべき相手は、フルヘンシオ・バチスタ政権。
軍と警察を握り、反対者には議論より先に逮捕を、選挙より先に銃を向ける独裁者である。
だが、敵は一人の将軍だけではなかった。
キューバは、もはやキューバ人だけの国ではなくなっていた。
ハバナにはネオンが灯る。ホテル、カジノ、歓楽、観光。北からやって来る資本は、それを繁栄と呼んだ。
アメリカは、自由と技術と文化の国として、映画と音楽と自動車と家電を世界へ流し込んでいた。二十世紀の光は、いつも北から来るように見えた。
だが、その光は必ず影を連れてくる。
企業は土地と砂糖を握り、歓楽街ではカジノとマフィアが夜を支配し、独裁者は兵隊と警察でそれを守る。
表では共和国。裏では帝国。
表では近代化。裏では従属。
そして必要とあれば、北の策謀は、その支配を見えにくい形で補強していく。
バチスタ自身も鎖に繋がれた番人にすぎなかった。
だから彼らは戻ってきた。
ただ一人の独裁者を倒すためではない。
奪われた島そのものを、もう一度キューバ人の手に取り戻すために。
その帰還は、しかし、あまりにもひどい形で始まることになる。嵐の日に――。
※※※※※※※※※※
波が、胃をひっくり返す。
最悪だ。
船が小さい。
小さすぎる。
本来なら遊覧用に過ぎない老朽船――グランマ号に、八十二人が押し込まれていた。
膝が誰かの肘に当たり、肘が誰かの胃に刺さる。
木の湿気。ガソリン。吐瀉物。塩水。
嵐。雨。暗闇。
――それに、人の熱。
吐く場所がない。
吐いたら終わりだ。匂いで、音で、居場所がばれる。
喉が焼ける。水を飲むのも怖い。立てなくなる。
そのときは――上陸しても、撃たれるだけだ。
「本来なら、八人乗りらしいぞ?」
誰かがそう言って笑った。
冗談だと思いたかった。
だが、冗談じゃなかった。
「……海岸だ!」
叫び声。
俺は顔を上げた。
闇の向こうに砂浜の輪郭が見えた。見えた、次の瞬間。
人影。
銃口。
マズルフラッシュ。
海岸に、兵隊がいる。
「おかしい……なんで……?」
声が自分のものじゃないみたいに震える。
嵐の夜だぞ。こんな日に、こんな場所で。待ってるはずが――
「待ってるさ。」
船の奥から低い声。
「――俺が予告した。」
振り向く。
髭面の男が、濡れた前髪の隙間からまっすぐこちらを見ていた。
疲れている。全身びしょ濡れだ。なのに目だけ冴えている。
フィデル・カストロ。
「……予告?」
「敵にだ。上陸すると、な。」
背中が冷たくなる。
理解した瞬間、笑いそうになった。最悪すぎて、笑うしかない感じの。
「……最悪だ――。」
誰かが吐いた。
誰かが短く十字を切った。
誰かが銃を握り直す音が、やけに大きく聞こえた。
船底が浅瀬に擦れて、嫌な音を立てて止まる。
止まった瞬間がいちばん怖い。逃げ場がなくなるからだ。
「行くぞ!」
カストロの声が飛ぶ。
怒鳴り声じゃない。合図だ。
――ここで迷ったら終わり、という合図。
俺たちは海に降りた。
波が足をさらう。
泥が靴を奪う。
背中の荷物が俺を沈める。濡れて、重くて、引きずられる。
一歩、二歩――
乾いた音が夜を裂いた。
砂が跳ねた。
人が倒れた。
叫び声が途中で途切れて、そこで“空白”ができる。
「伏せろ!」
俺は反射で腹ばいになった。
心臓が喉までせり上がる。雨が痛い。塩が目に刺さる。
息を吸うたび、肺が拒否する。咳が出そうで、歯を食いしばる。
さっきまで八十人いたはずの気配が、どんどん薄くなる。
消える速度が速すぎる。数を数える余裕すらない。
動け。
止まったら撃たれる。立っても撃たれる。
――だったら、撃たれにくい動きを選ぶだけだ。
俺は這った。砂が口に入って、じゃりっと歯に当たる。
銃が冷たい。手の感覚が薄れる。
それでも引き金の位置だけは分かる。分かるのが、嫌になる。
そのとき、前でカストロが肩で息をしながら言った。
「これだけ残れば……運がいいな。」
一瞬、耳を疑った。
上陸できたのは十人そこそこ。
他は砂浜の前にやられた。
それでも、この男は運がいいと言う。
狂ってる。
いや、狂ってない。
こういう奴が先頭に立つんだ。
最悪な夜を“起点”と言い換えられる奴が。
そのすぐ脇で、泥にまみれた若い医師が、咳を噛み殺しながら吐き捨てるように笑った。
「……だが、最高に生きている!」
エルネスト・ゲバラ。
まだキューバ人ですらない、このアルゼンチン人は、濡れた銃を抱えたまま、肺を焼くような呼吸の合間に笑っていた。
その言葉は、勝利の雄叫びにはほど遠かった。
むしろ、死の寸前で無理やり絞り出した実感だった。
だが、だからこそ妙に強かった。
なぜか、それで足が止まらなかった。
こいつらが折れないなら、折れる方が損だ、みたいな理屈が腹の底で動いた。
カストロが振り返る。
暗闇でも分かる。
あの目。眠らない目。決めてしまった目。
その隣には、咳き込みながらもまだ笑っているゲバラの横顔があった。
この最悪の夜を、二人ともどこかで引き受けてしまっていた。
誰かが叫ぶ。
「合言葉を忘れるな!」
残った者たちが、喉の奥から声を絞り出す。
雨と血と塩に濡れた、掠れた声。
「――祖国か、死か!」
※※※※※※※※※※
だが、その祖国は、すでに幾重にも抵当に入れられていた。
北の共和国アメリカは、国内では自由と統合を語りながら、その視線を南へ、カリブ海へ、中南米へと伸ばしていた。
銃剣だけではない。資本、企業、観光、歓楽、そして必要とあれば秘密の策謀。
そうした柔らかな支配の網が、弱い国家の喉を静かに締め上げていく。
キューバは、その結び目の一つだった。
砂糖は外へ流れ、利権も外へ流れ、ハバナにはカジノとホテルと外国人の夜が栄える。
だが、島の大半に残るのは、警察と兵隊と貧しさだった。
国旗はキューバのものであっても、富も秩序も未来も、別の場所で決められていく。
だからこの夜、彼らが戻ろうとしたのは、バチスタ一人を倒すためだけではない。
独裁の背後にある北の秩序ごと、祖国から叩き出すためだった。
泥と血と塩にまみれたこの失敗しかけの上陸は、まだ勝利からはほど遠い。
だが、伝説というものは、たいていこういう最悪の場所から始まる。
エルネスト・ゲバラとフィデル・カストロは、のちにこの夜を何度も思い出すことになる。
だが、あの時の二人はまだ伝説ではなかった。
失敗しかけた上陸作戦の泥の中で、運悪く生き残った男たちにすぎなかった。
キューバ革命は、そこから始まる。
次回以降、二人の出会いとそれまでの人生に時計の針は戻ります。
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