203,条件
アメリカとキューバの接触。
決して報道されない裏側で確実に進展していきます。
机の上に広げられた地図を、バジェホはしばらく黙って見ていた。
ハバナから北へ海があり、その向こうにフロリダがある。西へ目を移せばメキシコ湾、そのさらに先にはメキシコがある。カストロは鉛筆を持ったまま、国境や基地ではなく、飛行機をどこから入れ、どこへ戻すかを考えていた。
「ハバナは駄目だ。」
バジェホが言うと、カストロは地図から目を離さずに頷いた。
「分かってる。外国人が降りれば見られる。アメリカ政府の人間なら、名前を隠しても空港で誰かが気づく。」
「なら、メキシコか。」
「向こうの人間が普通に入れる。そこまで自分で来てもらって、こちらから飛行機を出す。」
バジェホはカストロの鉛筆の先を追った。線はメキシコから海を越え、キューバ北岸へ延びる。
「バラデロの近くなら、人の少ない飛行場を使える。必要な人間以外には知らせない。着いたら俺が会う。」
「誰と一緒に?」
「誰とも。」
バジェホが顔を上げると、カストロもようやく目を離した。
「まだ交渉団を作る段階じゃない。向こうが何を考えているのか聞いて、こっちが何を考えているのか話す。それなら二人で足りる。人数を増やせば、秘密を守る人間だけ増える。」
「帰りは?」
「その日のうちに戻す。」
「ずいぶん急だな。」
「泊めれば、それだけ見つかる可能性が増える。」
バジェホは地図を見ながら、少し前まで四人で整理していた条件を思い出していた。侵攻、秘密工作、封鎖、主権、グアンタナモ、ソ連との関係。話すべきことはいくつもあるのに、カストロが最初に求めているのは、それらへの回答ではない。まず一度、人間として向かい合い、相手がどこまで自分の言葉を持っているのか確かめようとしている。
「本当に会う気なんだな。」
改めて訊くと、カストロは少し怪訝そうに眉を上げた。
「ここまで考えて、冗談だと思ってたのか。」
「確認してるだけだ。」
「向こうが本当に政府の意思を持って来るなら、俺が話す。」
返事に迷いはなかった。
バジェホにも、その決断の意味は分かっていた。これまで両国は、互いに相手が本当に話したいのかを探り続けてきた。レチューガがアットウッドと話し、リサがその間を往復し、自分も一語ずつ慎重に返した。しかし、それだけでは永遠に相手の本気を証明できない。どちらかが、相手に判断できるだけの具体的なものを差し出さなければならない。
「これをリサに言えば、向こうも本気だと思うぞ。」
「本気だからな。」
「断られるかもしれない。」
「それも答えになる。」
バジェホはそこでカストロを見た。
「断られてもいいのか。」
「よくはない。」
カストロは鉛筆を置いた。
「だが、いつまでも相手が本気かどうかだけ探っていたら、いつまでたっても分からん。向こうも同じだろう。俺たちが本当に話したいのか、それとも封鎖を緩めさせるために時間を稼いでいるだけなのか、疑っているはずだ。」
地図の上に片手を置く。
「だったら今回は、俺たちから相手が判断できるものを出す。」
それは一方的な譲歩ではなかった。アメリカ側が拒めば、カストロは自分から秘密会談を求めたことになるし、それが漏れればハバナでもモスクワでも説明が必要になる。反対にアメリカ側も、政府関係者が密かにカストロへ会ったことが知られれば、国内政治の問題を抱える。
互いに近づく必要がある。
しかし、近づいていると見られることは避けたい。
その矛盾をなくすのではなく、抱えたまま進むしかなかった。
バジェホは地図を畳みながら言った。
「分かった。次の電話で伝える。」
「何を。」
「向こうの人間が本当に来るなら、こっちも本当に会うということだ。」
カストロが頷いた。
探るだけの段階は、そこで終わった。
※※※※※※※※※※
十月三十一日、ニューヨーク。
リサが電話を取ると、バジェホは最初に遅くなったことを詫びた。
「カストロと外へ出ていた。どこからでもかけられる話じゃなかった。」
その一言で、リサにも返事があることが分かった。
「カストロと話したのね。」
「ああ。」
「それで?」
バジェホは手元の紙を一度だけ見た。何度も読み返した言葉だったが、今回は前ほど恐れていなかった。自分が何を伝えるのか、その意味まで理解している。
「カストロは、そのアメリカ政府の人間と直接話したいと言っている。」
しばらく返事がなかった。
「本人が?」
「本人が。」
「代理を送るという意味じゃなく?」
「違う。カストロ自身が会う。」
リサは受話器を持ったまま椅子へ座った。
四月に自分がハバナへ来た時、こんな話はどこにもなかった。カストロとケネディについて話し、フルシチョフについて話し、アメリカとキューバの関係について長い議論をした。その後、自分が書いた記事をアットウッドが読み、アメリカ政府の中で小さな動きが始まり、半年も経たないうちにカストロ本人が秘密会談の方法を考えるところまで来ている。
「どこで会うの?」
「こちらへ来てもらう。」
「キューバへ?」
「ああ。ただしハバナ空港は使わない。メキシコまで普通に来てもらって、そこへこちらから飛行機を出す。バラデロの近くに、人目につきにくい飛行場がある。」
「そこで?」
「カストロが一人で会う。終われば、その日のうちに同じ飛行機でメキシコへ戻す。」
リサはしばらく何も言わなかった。
バジェホの説明は淡々としている。しかし、それが意味することは明らかだった。
これはもう、「話してみたい」という感触を伝える段階ではない。会談を成立させる具体的な方法だった。
「レネ、これを私が向こうへ伝えたら、もう『もし話せたら』では済まなくなるわよ。」
「そのために電話してる。」
「向こうが受けたら、本当に誰かが飛行機に乗る。カストロと会う。その人はワシントンへ戻って、カストロが何を言ったか報告する。そこから先は、私にも分からない。」
バジェホは少し黙った。
会議室では、飛行場と警備と人数を一つずつ考えていた。どれも解けばいい問題に見えたが、リサの言葉を聞くと、初めてそれらが一つの出来事として見えた。
「怖くなったか。」
リサが訊いた。
「怖くないと言えば嘘になる。」
「それでもやるのね。」
「話したら失敗するかもしれない。でも、話さない方が安全だとはもう思わない。去年、相手が何を考えているか分からないまま、どこまで行くかを見たからな。」
リサは受話器を持ち直した。
彼女にも、それはよく分かった。
対話とは、相手を信用したという宣言ではない。仲直りでもない。戦争と何もしないことの間に、もう一つ選択肢を作ることだった。
「分かった。伝える。」
「頼む。」
そこでリサは、まだ伝えていなかった名前を思い出した。
「そうだ。アメリカ側で話を聞く人間の名前を、まだ言ってなかったわね。」
「そういえば聞いてない。」
「ウィリアム・アットウッド。」
バジェホは鉛筆を取った。
「もう一度。」
リサが名前を繰り返し、綴りを一文字ずつ伝える。書き終えたところで、バジェホの手が止まった。
「待て。」
「何?」
「この男、前に会ったことがある。」
「アットウッドと?」
「革命のすぐ後だ。一九五九年だったと思う。カストロを取材しに来たアメリカ人記者の一人だ。」
リサが笑った。
「そう。昔は『Look』の記者。今はアメリカ国連代表部の顧問。」
「また記者か。」
「元記者よ。」
「俺は医者だ。」
「正式な外交官だけで話せたなら、私たち二人とも最初から必要なかったでしょう。」
バジェホも笑った。
その笑いには、少し前までとは違う安堵があった。
アメリカという巨大な国家の向こう側に、初めて顔を思い出せる人間が現れた。完全な外交官でもなく、完全な部外者でもない。カストロと一度会った経験があり、今は政府へ戻って報告できる場所にいる。
それだけで、見えなかった線の先に輪郭ができた。
「向こうから返事が来たら、すぐ連絡する。」
リサが言った。
「ああ。」
「今度は電話の近くにいて。」
「努力する。」
電話を切ったあと、バジェホは紙に書かれた名前をしばらく眺めていた。
相手が人間になったことで、安心は増えた。
同時に、自分の言葉を受け取る相手の顔まで想像できるようになり、失敗の形もそれまでよりはっきり見えるようになった。
※※※※※※※※※※
翌十一月一日、リサから報告を受けたアットウッドは、途中からメモを取る手を止めていた。
「カストロ本人が会うと言った?」
「本人。」
「代理ではない?」
「バジェホははっきりそう言ったわ。」
アットウッドは書き留めた内容へ目を落とした。
メキシコ。
キューバ側の飛行機。
バラデロ近郊。
カストロと一対一。
会談後、ただちに帰還。
九月にこの接触を考え始めた時には、レチューガと静かに話せれば十分だった。カストロに本当に対米関係を変える意思があるのかを探り、何もなければそこで終わればいい。それが一か月余りで、カストロ本人から会談の方法が返ってきている。
「かなり具体的だな。」
「だから来たのよ。」
リサは向かいの椅子へ座った。
「これでもまだ、カストロが本当に話したいか確認する?」
アットウッドは少し考えてから、首を横に振った。
「そこは、もうかなり答えが出た。」
リサの顔が少し緩んだ。
「珍しく認めるのね。」
「認めるべきところは認める。」
「じゃあ、行く?」
アットウッドは思わず笑った。
「それを私一人で決められるなら簡単なんだが。」
「記者だった頃なら?」
「たぶん飛行機の時間を調べてる。」
「なら、その頃を思い出したら?」
「今は政府の人間だ。」
同じ記者の仕事を知っている二人だからこそ、そこから先の違いも分かった。
記者なら、相手が何を言うか分からないから会うことができる。
政府は違う。
アメリカ政府の人間が秘密裏にキューバへ入り、カストロ本人と会えば、それ自体が政策になる。会談の内容がどうであれ、事実が漏れれば「ケネディ政権がカストロへ接近している」という意味を持つ。
「でも、これはあなたが探していた答えでしょう。」
リサが言った。
「ああ。カストロが本当に話す気があるのかという問いには、かなり強い答えだ。」
アットウッドはそこでメモを閉じず、もう一度読み返した。
「だから次は、こちらが考えなきゃならない。」
「何を?」
「カストロが会うと言っている。それなら、誰を会わせるのか。どこまでの権限を持たせるのか。その人間は何を聞くのか。こちらから何を言えるのか。」
リサは腕を組んだ。
「また疑問が増えた。」
「前へ進んだから増えたんだ。」
その返事に、リサはしばらく黙った。
アットウッドの言うことは分かる。
カストロが曖昧な関心しか示さなかったなら、政府側も曖昧なままでいられた。しかし、具体的な会談を申し出た以上、アメリカ側も具体的な選択をしなければならない。
「ワシントンへ上げる。」
アットウッドが言った。
リサは小さく息を吐いた。
「またワシントンね。」
「そこを通らずに私がバラデロへ行ったら、帰ってきた時には外交官じゃなくなってる。」
「記事は書ける。」
「君は本当に記者だな。」
「あなたも昔は。」
アットウッドは笑いながら立ち上がったが、机の上のメモへもう一度視線を戻した。
カストロは一歩を出した。
その一歩を受け取った以上、今度はアメリカ政府が、何をもって一歩を返すのかを決めなければならなかった。
※※※※※※※※※※
ハバナでは、バジェホからアットウッドの名前を聞いたカストロが、しばらく記憶を探していた。
「覚えてる。」
ゲバラが向かいから訊いた。
「本当に?」
「一九五九年に来た。記者だった。」
セリアが資料をめくった。
「『Look』誌。その後ケネディ政権でギニア大使、今年から国連代表部の顧問です。」
カストロは資料を受け取って眺めた。
「なるほど。」
「何が。」
ゲバラが訊く。
「完全な外交官でもないし、完全な部外者でもない。」
「バジェホみたいなものか。」
部屋の端にいたバジェホが顔をしかめた。
「どこがだ。俺は医者だ。」
「向こうは元記者だろ。どっちも本職からずれてる。」
「お前にだけは言われたくない。」
三人が笑った。
冗談で終わらせられる程度には、空気が軽くなっていた。
アットウッドは大使ではない。しかしケネディ政権の中へ戻れる。カストロとも過去に会っている。正式な交渉を始めるには曖昧すぎる立場だが、正式交渉の前に互いの意思を確かめるには、その曖昧さがむしろ役に立つ。
「向こうも、ちゃんと考えた人間を選んでいるようには見える。」
カストロが言うと、バジェホがすぐ訂正した。
「まだアットウッドを送るとは言ってない。」
「分かってる。」
「断るかもしれない。」
「ああ。」
ゲバラはカストロを見た。
「気になるか。」
「何が。」
「返事。」
カストロは資料を机へ戻した。
「そりゃ気になる。」
「珍しく素直だな。」
「俺だって待つ時くらいある。」
「苦手そうだ。」
「苦手だ。」
カストロ自身、アメリカがすぐ飛びつくとは思っていなかった。米政府の人間を秘密にキューバへ送るなら、その人物の立場、権限、国内政治への影響まで考えなければならない。大統領選挙が近づけば、ケネディにとってキューバとの秘密接触は弱点にもなり得る。
「すぐ返事が来なくても、拒絶とは限らん。」
カストロが言うと、ゲバラは口元を上げた。
「ずいぶん相手の事情を考えるようになったな。」
「相手の事情を考えないで、どうやって相手を動かす。」
「昔はアメリカが何を考えようが知ったことじゃないと言ってた。」
「昔は向こうも、俺たちが何を考えてるか知ろうとしなかった。」
それ以上は誰も言わなかった。
立場が変わったわけではない。
経済封鎖は続いている。
アメリカの秘密工作も完全には消えていない。
キューバは社会主義国であり、ソ連との関係を切るつもりもない。
それでも、相手の意思を知ること自体には意味があると、双方が少しずつ認め始めている。
カストロにとって、それは譲歩ではなかった。
むしろ、相手の都合を理解した上で、自分たちの都合を通すための政治だった。
※※※※※※※※※※
十一月四日、ワシントン。
ホワイトハウス国家安全保障会議スタッフのゴードン・チェイスの机に、ニューヨークから新しい報告が届いた。
内容は、それまでのものとは明らかに違っていた。
カストロがアメリカとの関係改善に関心を持っているらしい、という観測ではない。
本人が、アメリカ政府の人間と会う意思を示している。
メキシコまで来れば、キューバ側が飛行機を出す。
人目につきにくい飛行場へ運び、カストロ本人が一対一で会い、その日のうちに戻す。
チェイスは報告を読み返した。
九月以来、この線で確かめようとしてきた問いは単純だった。
カストロは、本当に話したいのか。
その問いには、以前よりはるかに明確な答えが出た。
だから問題は別の形になった。
アメリカ政府は、その申し出をどう扱うのか。
誰を出すのか。
本当に政府の人間をキューバへ入れるのか。
どこまでの権限を持たせるのか。
カストロに会う前に、何を確認しておくべきなのか。
秘密が漏れた時、どこまで政治的な危険を引き受けられるのか。
一つの問題が解けたことで、それまで考える必要のなかった問題が現れた。
それは後退ではなかった。
具体的に実行できる可能性が生まれたからこそ、実行方法を決める必要が生じたのだった。
※※※※※※※※※※
ハバナでは、返事を待つ間にも政府の仕事は止まらなかった。
会議があり、工場の報告があり、砂糖と石油の数字が上がってくる。バジェホも本来の医師としての仕事を抱え、カストロは一日にいくつもの場所へ顔を出した。
それでも、リサからの連絡が来る可能性は頭の隅に残っていた。
自分が伝えるべきことは伝えた。
カストロの意思を過剰にも過小にもせず伝えたつもりだった。
相手の名前も分かった。
そこまでは、自分の手の届く仕事だった。
ここから先は違う。
アットウッドがワシントンへ報告し、誰かが読み、誰かが判断し、その判断がまた人間を通って戻ってくる。
実行する者にとって厄介なのは、自分が責任を負う瞬間だけではない。自分の役目を終えたあと、別の人間の判断へ時間を預けなければならない時も同じだった。
それでも、数か月前より確かなものは増えていた。
カストロは、アメリカ側に本当に話を聞く人間がいると知った。
リサは、春に感じたカストロの意思が自分の思い込みではなかったと知った。
バジェホは、見えなかった相手にアットウッドという名前と顔を持てるようになった。
アットウッドも、カストロが単に対米圧力を弱めるための言葉を投げているのではなく、自分自身が会うところまで考えていることを知った。
それでも、最後に残る問題は小さくなかった。
カストロは、アメリカがキューバの体制そのものを変えることを前提にせず、独立した国家として共存する可能性まで考えているのかを知らない。
アメリカ側もまた、カストロがソ連との関係や西半球での革命活動を含め、自分たちが問題視している政策について何一つ動かす余地がないのであれば、秘密会談を始める意味があるのか判断できない。
双方に話す意思はあった。
会う方法も考えられた。
その先には、カストロとアメリカ政府から権限を与えられた人間が向かい合う姿まで、ぼんやりと見え始めている。
ただ、そこへ進む前に一つだけ確かめる必要があった。
相手は、本当に話し合える相手なのか。
互いに譲れないものを持っていることは、もう分かっている。
問題は、その間に一つでも動かせるものがあるのかということだった。
十月三十一日、カストロは自分から一歩を出した。
十一月四日、その提案はワシントンまで届いた。
次に考えなければならないのは、アメリカ側だった。
誰に国家の言葉を持たせるのか。
どこまでの権限を渡すのか。
そして、その人間にカストロの何を確かめさせるのか。
キューバが差し出した一歩を、どう受け取るか。
その答えは、まだワシントンの中にあった。
キューバが投げたカードをアメリカはどう判断するか。
そして運命の日も近づいてきます。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は水曜日の夜更新予定です。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




