202,主権と生存
シルバーウィークお休みいただきました。
ケネディー暗殺編いよいよ佳境です。
すれ違いを経て交渉が始まります。
十月二十九日、ニューヨーク。
電話が鳴った時、リサ・ハワードは部屋にいた。
それだけのことが、三日前までなら何の意味も持たなかった。
十月二十日、リサがハバナへ電話をした時にはレネ・バジェホがいなかった。
二十三日、今度はバジェホがニューヨークへ折り返した時、リサがいなかった。
政府が拒絶したわけではない。
誰かが線を切ったわけでもない。
二人の人間が、同じ時間に電話の両側へいなかった。
それだけだった。
だから受話器を取り、海の向こうから聞き慣れた声が届いた瞬間、リサは思わず笑った。
「今度はいたわね。」
「そっちこそ。」
バジェホも笑った。
その短いやり取りだけなら、二つの敵国の間に存在しない外交関係を、記者と医師が代わりにつなごうとしている電話には聞こえなかった。
だからこそ、二人には少しだけ必要だった。
何週間も言葉を選び、相手がどこまで知っているのかを疑い続けたあとで、初めて同じ時刻に同じ回線へ立てた。
ただ、それだけで少し安心できた。
リサは椅子へ座り直した。
「この前の伝言だけど。」
バジェホの声から笑いが消えた。
「聞いている。」
「アメリカ政府には、あなたたちの話を聞ける立場の人間がいる。」
リサはそこで言葉を選んだ。
アットウッドから聞いた以上のことを、自分の判断で広げるわけにはいかない。
「こちらから正式な会談を申し込んでいるわけではない。でも、カストロに伝えたいことがあるなら、聞く用意はある。」
ハバナの側で、しばらく返事がなかった。
バジェホは机の上に置いたメモを見ていた。
前の会議でカストロから渡された指示は、まだ頭に残っている。
話す意思を示す。
しかし、追い詰められているとは思わせない。
相手がどこまでの権限を持っているか探る。
しかし、ケネディ本人へ必死につながりたがっているようには見せない。
相手を警戒する。
それでも扉は閉じない。
紙の上では、どれも矛盾していなかった。
電話では、一つの言葉にしなければならない。
「フィデルの考えは、四月から変わっていない。」
バジェホはゆっくり答えた。
「君と話した時と同じだ。アメリカとの関係を変える可能性について、話す意思はある。」
リサは自分でも気づかないうちに息を吐いていた。
その返事を聞きたかった。
四月の夜、カストロが見せたものを、自分が都合よく読み取っただけではなかった。
記事を書いた。
その記事をアットウッドが読んだ。
ワシントンへ話が上がった。
そして半年近くたった今も、ハバナ側には同じ意思が残っている。
「では、ニューヨークへ来ることは?」
「フィデルが?」
「本人でも、本人の意思を持った誰かでも。」
バジェホは考えた。
「本人が今ニューヨークへ来るのは難しい。」
「分かってる。」
「来ただけで意味を持つ。国連へ出るならなおさらだ。秘密に話すために来た人間が、世界で一番目立つ人間になったら意味がない。」
リサは笑った。
「それはそうね。」
「ただ、方法がないとは言っていない。」
その言葉に、リサは少し姿勢を変えた。
バジェホ自身も、それ以上はまだ言わなかった。
具体的な方法は、カストロともう一度話してから決める。
いま大事なのは、向こう側に本当に誰かがいるのかを確かめることだった。
「一つ訊きたい。」
「何?」
「その人間は、本当にアメリカ政府の意思を聞ける立場なんだな。」
リサはすぐには答えなかった。
質問そのものは予想していた。
問題は、どこまで言うかだった。
「政府の了解なしに動いている人ではない。」
「誰の了解?」
「そこまでは、まだ私から言わない方がいいと思う。」
バジェホは目を閉じた。
政府の了解なしに動いている人ではない。
ケネディとは言わない。
ホワイトハウスとも言わない。
だが、一人の記者や外交官が好奇心だけで動いているわけではないことは分かる。
「十分だ。」
リサが少し笑った。
「十分?」
「今のところは。」
「あなた、本当に外交官みたいになったわね。」
「それは悪口か。」
「半分は。」
電話を切ったあと、リサはしばらく受話器を見ていた。
カストロはまだ話す気がある。
アメリカ政府には、その声を聞こうとしている人間がいる。
数か月前には、その二つの事実さえ同じ場所に存在していなかった。
だから安心している。
しかし、安心したからこそ、新しい疑問が生まれた。
カストロの言う「話す」と、自分が考えている「関係改善」は、本当に同じなのか。
アメリカ政府の言う「聞く」と、ハバナ側が期待する「交渉」は、どこまで重なっているのか。
糸がつながったことで、問題が消えたわけではなかった。
今度は、その糸に何を流せるのかが問題になった。
※※※※※※※※※※
翌日、ハバナ。
バジェホが報告を終えると、カストロはすぐには何も言わなかった。
机の向こうにはゲバラが座り、セリアは横でメモを取っている。
窓から入る風が、机の上に積まれた紙の端を少しだけ持ち上げた。
「アメリカ政府の了解なしには動いていない。」
カストロが確認する。
「リサはそう言った。」
「誰の了解かは?」
「言わなかった。」
ゲバラが椅子の背へ身体を預けた。
「国務省のどこかかもしれん。スティーブンソンかもしれん。ホワイトハウスまで行ってるかもしれん。」
「だから一つ分かった。」
カストロが言った。
ゲバラが見る。
「何が。」
「向こうにも、線を残したい人間がいる。」
「それ以上は?」
「まだ分からん。」
カストロはあっさり答えた。
以前なら、その先に誰がいるのかという話を長く続けたかもしれない。
しかし、この日は別の紙を引き寄せた。
白紙だった。
「それより、こっちを決める。」
バジェホが訊いた。
「何を。」
カストロは紙の中央へ鉛筆を置いた。
「会えたとして、何を話す。」
ゲバラが少し姿勢を変えた。
セリアの鉛筆が止まる。
「これまで、会えるかどうかばかり考えてきた。向こうに話す人間がいるのか。俺たちの意思が届くのか。どの線なら使えるのか。」
カストロは四人の顔を順番に見た。
「でも、本当に相手が来るなら、入口の話だけして帰すわけにはいかん。」
ゲバラが腕を組んだ。
「条件を決めるということか。」
「条件というより、何を変えたいのかだ。」
カストロは答えた。
「アメリカと仲良くなるために話すんじゃない。この国が、自分で生きられる状態を作るために話す。」
その言葉には、誰も反対しなかった。
「まず何だ。」
ゲバラが訊いた。
カストロの返事に迷いはなかった。
「生き残ることだ。」
セリアが紙へ書く。
カストロは続けた。
「アメリカが、俺たちの政府を倒すことを政策として持っている限り、ほかの話をしても意味がない。侵攻しない。亡命者を使った襲撃や破壊工作を止める。政府を倒すための秘密工作もやめる。」
バジェホが訊いた。
「それを最初の条件にする?」
「少なくとも、そこが変わる可能性がなければ話を続ける意味はない。」
ゲバラが頷いた。
「話している片方の手で爆弾を置かれたら、交渉じゃない。」
「そういうことだ。」
カストロは白紙の上に一本線を引いた。
「最初は、生存だ。」
セリアが次を待つ。
「封鎖は?」
今度はゲバラが先に答えた。
「当然入る。」
カストロも頷いた。
「当然だ。ただし、ここは少し違う。」
ゲバラが眉を上げる。
「何が。」
「侵攻をやめるということと、明日から全部の貿易を元に戻すことは、向こうにとって同じ難しさじゃない。」
「だから?」
「全部を最初の扉に詰め込むなと言ってる。」
ゲバラはしばらく黙ってから、指で机を軽く叩いた。
「封鎖を正しいと認めるわけじゃないな。」
「当たり前だ。」
「ならいい。」
「お前は毎回、俺がいつ裏切るか待ってるのか。」
「暇だからな。」
「産業省へ戻れ。」
セリアが笑った。
空気が少し緩んだ。
だがカストロはすぐに紙へ戻った。
「封鎖は変えさせたい。貿易も戻したい。ただ、それを全部一日目の条件にすれば、向こうが扉を開ける前に終わるかもしれん。」
セリアが訊いた。
「グアンタナモは?」
カストロが彼女を見る。
「お前ならどうする。」
「私に決めさせるんですか。」
「訊いただけだ。」
セリアは少し考えた。
「主権の問題としては避けられない。でも、最初から返還を前提にしたら、アメリカ側もそこで動けなくなると思います。」
「俺もそう思う。」
ゲバラが苦笑した。
「革命の要求が、ずいぶん書類棚みたいになってきたな。」
「国家になったからな。」
カストロが返す。
ゲバラの表情が一瞬だけ変わった。
嫌な言葉だった。
同時に、否定できない言葉でもある。
革命は勝った瞬間から、食料を配り、石油を買い、工場を動かし、港を守り、学校を維持しなければならなくなった。
理念だけでは生き残れない。
しかし、国家になるために革命をしたのでもなかった。
カストロはその顔を見ていたが、何も言わずに紙へ三本の線を引いた。
「俺たちが欲しいのは、アメリカの好意じゃない。」
部屋が静かになった。
「嫌いなままでいい。社会主義を嫌ってもいい。俺を嫌ってもいい。」
カストロは鉛筆を置いた。
「問題は、嫌いだから政府を倒していい、嫌いだから国の進路を決めていい、というところをやめさせることだ。」
それが、この会談でキューバが本当に欲しいものだった。
国交正常化という言葉より深い。
経済封鎖解除という個別政策より大きい。
アメリカの許可を受けなくても、この島が自分の政治体制と外交を選べる状態。
カストロにとって、それが主権だった。
ゲバラが紙へ目を落とした。
「向こうは、ソ連との関係を問題にする。」
「ああ。」
「切れと言われたら?」
「断る。」
カストロの返事は速かった。
「アメリカから独立するために革命をして、今度はアメリカの許可をもらってモスクワとの関係を決めるなら、何のために革命したのか分からん。」
ゲバラは頷いた。
「俺もそれでいい。」
そこで一度、言葉を切った。
カストロは続きを待った。
「ただ、一つだけ確認しておきたい。」
「何だ。」
ゲバラは煙草を指先で転がした。
「話すことには反対しない。侵攻をやめさせられるならやれ。破壊工作を止められるなら止めろ。封鎖が緩んで、この島が自分で使える選択肢が増えるなら、俺が反対する理由はない。」
声に反発はなかった。
むしろ、だからこそ次の言葉が重かった。
「でも、アメリカとの和解を革命の終着点にはするな。」
セリアが顔を上げた。
バジェホもゲバラを見る。
カストロだけは驚かなかった。
「終着点だと思ってない。」
「今はな。」
「お前は何を心配してる。」
ゲバラは少し考えた。
「アメリカが攻めてこなくなる。砂糖が売れる。機械が入る。石油が安定する。国が豊かになる。それ自体はいい。」
煙草を置く。
「でも、それで革命が完成したことになるのか。」
カストロは答えなかった。
ゲバラは続けた。
「ラテンアメリカには、まだ自分の土地も政府も、自分で決められない人間がいる。アフリカにも、アジアにもいる。キューバだけが帝国と折り合いをつけて安全になった時、それを革命の成功と呼び始めたら、俺は違うと言う。」
カストロは葉巻を手に取ったが、火はつけなかった。
「終着点じゃない。」
静かに答える。
「この島が、自分で進路を選べるようにするための条件だ。」
ゲバラは黙って聞いた。
「島が生き残らなければ、その先もない。」
「それくらいは俺にも分かる。」
「俺も、島だけ生き残れば世界がどうでもいいとは思ってない。」
二人の間に、まだ対立はなかった。
同じものを見ている。
ただ、カストロは最初にキューバという国境を見る。
ゲバラの視線は、その国境を越えた先まで止まらない。
どちらかが間違っているのではない。
今はまだ、見る距離が違うだけだった。
セリアが鉛筆の尻で紙を叩いた。
「それで。」
二人が彼女を見る。
「最初の会談では、どこまで言うんですか。」
ゲバラが笑った。
「いいところで現実へ戻すな。」
「そのためにいますから。」
カストロも笑い、白い紙を自分の方へ引き寄せた。
「最初から条約を作るつもりで話すな。向こうもそんなつもりじゃない。まず、相手が何を話せるかを見る。」
バジェホが訊いた。
「こちらの軸は。」
カストロは少し考えた。
「生存と主権。」
セリアがその二語を書いた。
「侵攻と秘密工作を止める。封鎖について話す。キューバの外交をワシントンが決めるという前提は認めない。グアンタナモも消えない。ただし、全部を最初から同じ強さで出すな。」
バジェホはメモを見た。
正しい。
どれも正しい。
だから難しい。
侵攻停止。
破壊工作。
封鎖。
主権。
グアンタナモ。
ソ連との関係。
一枚の紙なら、項目ごとに分けられる。
実際の会話では、一つの返答が次の返答を決める。
一番大きな要求を最初に出せば、相手はその先を聞かないかもしれない。
小さく出しすぎれば、キューバが何を求めているのか誤解される。
正しい薬でも、量を間違えれば毒になる。
治療法そのものが正しくても、患者の身体が耐えられない順番で使えば治療にはならない。
バジェホには、やはり外交より医療の方が分かりやすかった。
「結局、最初に何を出すかは俺が決めるのか。」
カストロが顔を上げた。
「その場ではな。」
「前より責任が増えてるぞ。」
「前より進んだからだ。」
バジェホは反論しなかった。
それも正しかった。
進展とは、危険が減ることではない。
前へ進めば、失敗した時に失うものも増える。
ただ、今回は前回の時とは少し違った。
あの時は、自分の向こう側に何がいるのか分からなかった。
今は少なくとも、アメリカ側にもこの線を閉じたくない人間がいることが分かっている。
相手も同じように、カストロの真意を測っている。
自分だけが暗闇で手を伸ばしているわけではない。
その事実は、不安を消しはしなかったが、少しだけ重さの種類を変えた。
※※※※※※※※※※
会議が終わっても、バジェホだけはしばらく残った。
セリアは書類をまとめ、ゲバラは次の予定があると言って先に出た。
カストロは窓辺に立っていた。
「何だ。」
バジェホが訊く。
「何が。」
「まだ何かある顔をしてる。」
カストロは振り返った。
「逆だ。」
「何が逆なんだ。」
「次はこちらから出す。」
バジェホは少し黙った。
「何を。」
「向こうは、俺たちに話す意思があるか探ってきた。」
カストロは机の上の紙を見た。
「答えはもう出た。」
「話す、と?」
「ああ。」
「それだけじゃ足りない?」
カストロは椅子へ戻った。
「向こうもまだ、自分たちから動いたと思われたくない。俺たちも同じだ。だったら、いつまでも互いに『話すかもしれない』と言っていても進まん。」
バジェホは、嫌な予感と同時に、少しだけ期待した。
「どこまで出るつもりだ。」
カストロはすぐには答えなかった。
机には、セリアが残したメモがある。
《生存》
《主権》
その下には、まだ何も書かれていない空白があった。
「会う方法を考える。」
カストロが言った。
「誰が。」
「俺が。」
バジェホは目を細めた。
それまでの数週間、二つの政府は、相手が本当に話したがっているのかを測り続けてきた。
今度は、その問いにカストロ自身が答えようとしている。
「アメリカの政府の人間を、この島へ入れる気か。」
「誰にも見つからずにできるならな。」
「簡単に言う。」
「だから、お前と考える。」
バジェホは笑いそうになって、やめた。
また自分だった。
だが今度は、前ほど嫌ではなかった。
恐怖がなくなったわけではない。
カストロの意思を一つ間違えて伝えれば、この細い回線は簡単に切れる。
それでも、ようやく一つだけ確かなものがある。
ハバナ側は、もう相手の出方だけを待つつもりではない。
バジェホは机の上の白紙を引き寄せた。
「まず、どこから入れる。」
カストロも椅子を寄せた。
その夜、二人は地図を開いた。
まだ、誰を呼ぶのかも分からない。
アメリカ側が本当に応じるのかも分からない。
ただ一つだけ、決まった。
次の一歩は、キューバから出す。
生存と主権。
キューバは今もなお租借地があり米軍基地や経済封鎖を受けています。
当時の革命政権はそれからの脱却を目指していました。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は日曜日の夜更新予定です。
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