201,偶然とすれ違い
和解をしようとも窓口がないと成立しない。
キューバ危機の米ソのコミュニケーションで新たに発見された外交の法則。
その法則に当時苦しんでいたのは、キューバでありアメリカでした。
十月二十日、ニューヨーク。
九月に初めて開いた窓は、まだ閉じてはいなかった。
ケネディはアットウッドによる接触を認め、スティーブンソンもその試みに同意している。アットウッドはレチューガへ、もしカストロ本人か、その意思を直接持つ人間が何か伝えたいのであれば、アメリカ側には聞く用意があると知らせた。
ハバナでも、カストロとゲバラは話し合いの線を残す方針を決めていた。
両国とも、去年の十月から同じことを学んでいる。
敵との間にある回線は、信頼の証明ではない。
むしろ信頼できない相手だからこそ、相手が何を考えているのかを確かめる道がいる。
理屈だけなら、そこまで来ていた。
だが、そのことをワシントンもハバナも、互いに知らなかった。
秘密外交とは、秘密にすればするほど安全になる一方で、相手の姿を確かめる手段まで失っていくものだった。
アメリカ側では、別の像が出来上がり始めていた。
二日前、アットウッドは、ハバナから戻ったギリシャ人建築家からカストロとゲバラについて話を聞いている。カストロはアメリカとの関係正常化を望んでいるが、ゲバラをはじめとする共産主義者たちはそれに反対しており、カストロの自由を狭めているのではないか。
そんな見立てだった。
アットウッドにとって、それはまったく根拠のない話には見えなかった。春にリサから聞いた印象とも重なる部分があり、国連でキューバ代表が見せる強硬な態度を見れば、なおさらそう考えたくなる。
しかし、その頃のハバナでは、ゲバラ自身がカストロと同じ部屋に座り、アメリカとの回線を切るなと言っていた。
彼はアメリカとの和解を革命の終着点にするつもりなどなかったし、帝国主義に対する見方を変えたわけでもない。
それでも、敵の意思を知ることと敵へ屈することは別だと理解していた。
事実は、どこかで嘘に置き換わったわけではない。
人から人へ渡る途中で、意味の角度が少しずつ変わっていた。
それがワシントンへ着く頃には、
《カストロは話したい。しかしゲバラたちが邪魔をしている》
という像になりかけている。
一方ニューヨークでは、リサにも別の疑念があった。
レチューガは確かにアットウッドの言葉を受け取った。
だが、その言葉は本当にカストロまで届いているのか。
国連代表部からハバナへ報告が送られ、外務省を通り、政府のどこかへ届く。その途中で、一つの非公式な会話がどれほど重要なものとして扱われるのか、リサには分からない。
実際には届いていた。
カストロも読んでいた。
ゲバラも読んでいた。
バジェホまで呼ばれ、次に何をするかという方針まで決めていた。
しかし、それをリサが知る方法はなかった。
秘密が守られているからこそ、彼女には回線が失敗しているように見えた。
リサはアットウッドに会うと、その不安を隠さなかった。
「レチューガから先へ、本当に届いていると思う?」
アットウッドはすぐには答えなかった。
「彼は伝えると言った。」
「外交官はそう言うわ。」
「君も昔は記者だったろ。約束した相手を少しくらい信用したらどうだ。」
「記者だったから信用しないのよ。」
リサは煙草を灰皿へ置いた。
春以来、カストロとの会話を何度説明したか分からない。
CIAにも話した。
政府関係者にも話した。
記事にもした。
カストロは、少なくとも話す可能性を閉じていない。その確信は変わっていなかったが、確信だけでは国家は動かなかった。
「私には、本人まで届く線がある。」
アットウッドが顔を上げた。
「バジェホか。」
「ええ。」
レネ・バジェホ。
医師であり、カストロの側近でもある。
四月の取材ではリサとカストロをつなぐ役割を果たし、その後も何度か電話で話している。
外務省ではない。
国連代表でもない。
だから、政府の正式な回答を受け取る相手ではない。
その代わり、カストロ本人までの距離ははるかに短かった。
「彼に直接訊くわ。あなたがレチューガに話したことをカストロが知っているのか。もし知らないなら、私から伝える。」
アットウッドは少し考えた。
それは便利だった。
同時に危険でもある。
連絡経路を増やせば、秘密を知る人間も増える。二本の線から微妙に違う言葉が入れば、どちらが政府の意思なのか分からなくなる。
しかし、何もしなければ、このまま双方が相手の返事を待ち続ける可能性もあった。
「いい。ただし、そこは間違えないでくれ。」
アットウッドは言った。
「こちらから会談を求めているわけじゃない。カストロに何か言いたいことがあるなら、アメリカ政府にはそれを聞ける人間がいる。それ以上でも、それ以下でもない。」
リサは苦笑した。
「あなたたち、本当に言葉を細くするのが好きね。」
「外交だからな。」
「その細さで切れなければいいけど。」
リサは電話へ手を伸ばした。
※※※※※※※※※※
その日のワシントンでは、別の人間が同じ回線について考えていた。
ホワイトハウス国家安全保障会議スタッフのゴードン・チェイスは、アットウッドへ状況を確認しようとしていた。
翌二十一日、アットウッドは彼に、これまでの経過を説明することになる。
大統領の許可はある。
レチューガへは伝えた。
入口は開いている。
あとはキューバ側の反応を待っている。
アメリカ側から見れば、次に動くのはハバナだった。
その頃ハバナでは、カストロもまた、次にもう一歩正体を見せるべきなのはワシントンだと考えていた。
双方が相手を待っていた。
双方とも、それを慎重さだと思っていた。
そして、どちらも間違ってはいなかった。
だから動かなかった。
外交の歪みは、必ずしも誰かが嘘をつくことで生まれるわけではない。
互いに合理的な判断を重ねた結果、二つの合理性が噛み合わなくなることもある。
その隙間へ、リサは電話をかけた。
※※※※※※※※※※
ハバナの番号を回す。
呼び出し音が続いた。
リサは受話器を耳へ当てたまま、机に置いてある自分の記事へ目を落とした。
四月には、一人の記者がカストロへ質問しただけだった。
九月には、その記事を読んだアメリカ政府の人間が動いた。
十月には、大統領まで接触を認めている。
ハバナでも、本当にカストロが話す気を失っていないのなら、これまでになかったほど条件が揃っている。
米ソは核実験禁止条約を結んだ。
直接通信回線も作った。
キューバ危機から一年。
ケネディはまだ大統領選挙の真ん中には入っていない。
アメリカとキューバが互いに何の約束もせず、ただ相手の本心を確かめるだけなら、今より悪くない時期を探す方が難しかった。
ようやく電話がつながった。
しかし、出たのはバジェホではなかった。
リサは名前を告げた。
相手から返ってきた答えは、政治とも外交とも関係のないものだった。
バジェホは家にいない。
いつ戻るか、はっきりしない。
リサは一瞬だけ黙った。
「リサ・ハワードから電話があったと伝えて。ニューヨークから。戻ったら連絡が欲しい、と。」
相手が繰り返した。
リサは礼を言って、受話器を置いた。
それだけだった。
拒絶されたわけではない。
監視されたわけでもない。
政府が判断を変えたわけでもない。
バジェホが家にいなかった。
ただ、それだけのことだった。
リサはしばらく電話を見た。
大統領の許可を得るまでには何日もかかった。
国務省とホワイトハウスの間では、誰まで知らせるかが検討された。
アットウッドは一つ一つ言葉を選び、レチューガもハバナへの報告を書いた。
カストロたちは、その言葉の意味を検討し、次にどうするかまで決めている。
それでも最後には、電話をかけた時に相手がいるかどうかだった。
リサは自分でも可笑しくなりかけたが、笑えなかった。
歴史というものが本当にこんな仕組みで動いているのなら、あまりにも頼りなかった。
※※※※※※※※※※
ハバナへ戻ったバジェホが伝言を受け取った時、すぐに意味は分かった。
《リサ・ハワード。ニューヨークから。折り返し希望。》
短い紙だった。
前回カストロたちと話してから、この連絡が来る可能性は考えていた。
むしろ来るなら今だと思っていた。
国連の表では、レチューガとスティーブンソンが激しく応酬した。
裏ではアットウッドが動いている。
カストロは線を切らないと決めた。
自分は、その線を実際に動かす役を引き受けた。
来るべきものが来た。
それなのに、自分はいなかった。
バジェホは伝言の紙を机へ置き、椅子へ座った。
少し前まで、自分が恐れていたのは言葉だった。
何を言うか。
どこまで言うか。
どういう間を置くか。
「話す意思がある」と言うのか、「関係改善に関心がある」と言うのか。
その一言が、ワシントンでどう読まれるのか。
だが、実際に最初に起きた問題は、そんな高度な駆け引きではなかった。
電話のそばにいなかった。
カストロたちがどれほど論理的な計画を作っても、自分がその場にいなければ実行されない。
それは責任を軽くするどころか、別の意味で重くした。
自分が何かを言えば歴史が動くかもしれない。
何も言わなくても、動くべき歴史を止めてしまうかもしれない。
医者なら患者のそばを離れることはある。
その間に容体が変わることもある。
だから当直があり、看護師がいて、記録があり、別の医師へ引き継ぐ。
今の回線には、それがない。
自分がいなければ、代わりはいなかった。
バジェホは電話へ目をやった。
すぐにかけようとして、一度手を止めた。
前回の会議でカストロが言った言葉を思い出す。
相手を測れ。
こちらの意思は隠すな。
だが、弱みは見せるな。
扉を閉じるな。
しかし、追いかけるな。
論理は、まだ頭に入っている。
問題は、次の電話でそれを一つの声にしなければならないことだった。
バジェホは紙を引き寄せ、言うべきことを一度書いた。
読み直す。
消した。
別の言葉にする。
また消した。
最後には、ほとんど何も残らなかった。
電話で相手の声を聞かなければ、どこまで言うべきか決めようがなかった。
それもまた、カストロから託された仕事だった。
紙に書かれた計画を読むのではない。
その場で相手を診る。
バジェホは受話器を取った。
※※※※※※※※※※
十月二十三日、ニューヨーク。
リサのアパートで電話が鳴った。
しかし、その日リサはニューヨークを離れていた。
電話に出た家政婦は、相手の名前を聞き返した。
「レネ・バジェホ。」
ハバナからだった。
家政婦には、それが誰なのか分からない。
なぜキューバから電話してきたのかも知らない。
バジェホは英語を選びながら、リサはいるかと訊いた。
いない。
いつ戻るのか。
それもはっきりしない。
今度は、バジェホが黙る番だった。
三日前。
リサが電話をした時、自分がいなかった。
今度は自分がかけた時、リサがいない。
「戻ったら、電話をしたと伝えてください。」
それ以上は言えなかった。
家政婦に、
《カストロにはアメリカとの関係について話す意思がある》
と伝言するわけにはいかない。
《アメリカ政府の人間が本当にケネディの許可で動いているのか確認したい》
とも言えない。
まして、春から二つの国の間で続いてきた細い動きについて説明することなどできない。
だから、国家の意思はまた一言に縮んだ。
《電話があった。》
バジェホは礼を言って切った。
※※※※※※※※※※
受話器を戻してから、バジェホはしばらく手を離さなかった。
腹は立たなかった。
誰に腹を立てればいいのか分からなかった。
リサは仕事をしている。
自分にも仕事がある。
電話をする時刻を約束していたわけでもない。
何もおかしなことは起きていない。
それなのに、何もおかしくないことによって話は進まなかった。
カストロなら、この程度で焦るなと言うだろう。
ゲバラなら、数日くらい待てと言うかもしれない。
それも正しい。
この一回のすれ違いで戦争になるわけではない。
和平が消えるわけでもない。
そもそも和平など、まだどこにも存在していない。
ただ話してみるかもしれない。
それだけだった。
だから、この三日間に意味があったのかどうかさえ、その時のバジェホには分からなかった。
歴史の中で重要になる出来事には、起きた瞬間から重要だと分かるものがある。
革命。
侵攻。
ミサイル。
艦隊。
演説。
条約。
だが、電話に出なかったことは、そうではない。
記録に残っても一行で終わる。
《不在。折り返し。》
誰もその三日間に名前をつけない。
その意味を知るのは、後から時間を振り返った人間だけだった。
※※※※※※※※※※
ニューヨークでは、アットウッドもまた、自分たちが作っている回線を完全には信用していなかった。
ホワイトハウスへ上がっている報告には、カストロはアメリカとの関係を変えたがっているかもしれないが、ゲバラら強硬派の存在がその自由を狭めているのではないか、という見方が混じっていた。
ハバナでは、そのゲバラが回線を残すことに賛成している。
リサは、レチューガの報告がカストロまで届いていないかもしれないと思っている。
実際には届いている。
ワシントンは、次に動くのはキューバだと思っている。
ハバナは、アメリカ側が本当に大統領までつながっているのか、もう少し見せるべきだと考えている。
誰も完全な嘘をついてはいなかった。
だからこそ厄介だった。
敵同士が相手へ近づく時、情報は必ず人間を通る。
人間を通れば、事実に印象が加わる。
期待が加わる。
警戒が加わる。
相手に見せなかった部分が空白になり、その空白を誰かが推測で埋める。
秘密は回線を守る。
秘密は同時に、回線を歪ませる。
その歪みを直すために、リサはバジェホへ直接電話をした。
その電話がつながらなかった理由だけは、政治ではなかった。
ただの不在だった。
※※※※※※※※※※
同じ十月二十三日。
アメリカでは、十一月の大統領日程も静かに固まり続けていた。
テキサス。
サンアントニオ。
ヒューストン。
フォートワース。
ダラス。
来年の選挙を見据えた、数ある国内政治の日程の一つだった。
まだ誰も、その訪問を世界史の出来事として見ていない。
ハバナでは、バジェホがもう一度リサへ電話する機会を待っている。
ニューヨークでは、リサの机にハバナからの伝言が残される。
ワシントンでは、ケネディ政権の人間たちがキューバから返ってくる言葉を待っている。
あと少しだけ、時刻が合えばよかった。
あと少しだけ、電話のそばにいればよかった。
そんなことで歴史が決まるはずはないと、その時なら誰もが思っただろう。
実際、このすれ違いだけで何かが失われたわけではない。
六日後、二人はようやく同じ時間に受話器の両側へ立つ。
糸はまだ切れていなかった。
だが、一度過ぎた時間は戻らない。
そのことだけは、もう始まっていた。
十月二十三日。
リサとバジェホがようやく話せるまで、あと六日。
ダラスの銃弾まで、あと三十日。
大きな歴史のうねりに様々な登場人物が巻き込まれています。
リサの不在も歴史のいたずらなのでしょうか?
遅めのシルバーウィークの休みで、金曜日に続き次回の更新もお休みさせていただきます。
次回の更新は10/2の金曜日となります。
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