199,窓口
ダラスでの銃撃の悲劇の結末まで時計の針が迫ってきます。
九月十二日、ニューヨーク。
「君の記事を読んだんだが、少し話せないか。」
受話器の向こうでそう言った男を、リサは以前から知っていた。
ウィリアム・アットウッド。長く『Look』誌で編集者や記者として働き、革命直後の一九五九年にはキューバへ渡ってカストロとも話している。その後、ケネディ政権に入り、西アフリカのギニア駐在大使を務め、この夏から国連のアメリカ代表部でアドレー・スティーブンソンの下に入ったばかりだった。
記者から外交官へ。
その経歴だけなら、リサと少し似ている。
「どこが気になったの?」
リサが訊くと、アットウッドはすぐには答えなかった。
「君は、カストロが本当にアメリカと話したがっていると思うのか。」
「思うわ。」
「記事を書くための印象じゃなく?」
「記事を書く前からそう思っていたから、書いたのよ。」
春から何度も繰り返してきた説明だった。
カストロはアメリカを信用していない。
ケネディを信用しているわけでもない。
だが、関係を変える可能性そのものは捨てていない。
そして、それを確かめる方法がない。
リサはそこまで話してから、少し声を低くした。
「あなたなら分かるでしょう。彼は、話したいから先に頭を下げるような男じゃない。向こうが話す気があるのか確かめたい。でもワシントンも、自分からカストロへ近づいたとは見られたくない。両方とも入口の前に立って、相手が先に扉を開けるのを待っているのよ。」
アットウッドはしばらく黙っていた。
彼には、その光景が想像できた。
一九五九年に会ったカストロは、すでに何時間でも喋る男だった。話が農地改革からアメリカ企業へ飛び、そこからラテンアメリカの歴史へ移ったかと思えば、自分がいかにアメリカ人に誤解されているかを熱心に説明した。
アットウッドが書いた記事を、後にカストロは気に入らなかった。
だが、会話そのものは成立していた。
「君はレチューガとも会えるんだったな。」
「会えるわ。」
カルロス・レチューガ。
キューバとアメリカの国交が切れたいま、ワシントンにキューバ大使はいない。その代わりニューヨークには国連代表部があり、レチューガはそこでキューバを代表する外交官だった。
アメリカ政府とは国交がない。
しかし、同じ国連本部の廊下を歩くことはできる。
それもまた、閉じた扉の脇に残った小さな隙間だった。
「だったら、一度話してみたい。」
「記者として?」
電話の向こうで、アットウッドが小さく笑った。
「もう記者じゃない。」
「だから訊いてるの。」
今度は少し長い沈黙があった。
「まだ何者として話せるか、決まってない。」
リサはそれ以上追わなかった。
それだけで十分だった。
※※※※※※※※※※
その日のうちに、アットウッドはワシントンへ向かった。
最初に話した相手は、アヴェレル・ハリマンだった。
鉄道王の家に生まれ、ルーズベルトの時代にはモスクワ駐在大使を務め、スターリンとも向き合った老練な外交官である。ケネディ政権では国務次官として、冷戦の最前線と交渉の両方を知る人物だった。
アットウッドが説明したのは、まだ計画と呼べるほどのものではなかった。
リサ・ハワードがカストロと長時間話した。
カストロはアメリカとの関係を変える可能性に関心を示している。
キューバ国連代表のレチューガなら、探りを入れられるかもしれない。
こちらから何かを約束する必要はない。
本当にカストロが話したがっているのか、それだけでも確かめる価値はあるのではないか。
ハリマンは話を聞き、文書にしてみろと言った。
六日後の九月十八日、アットウッドはメモを書いた。
そこにあったのは和平案ではない。
キューバとの国交正常化案でもない。
カストロがソ連軍事要員を島から退かせ、ラテンアメリカでの革命支援をやめ、非同盟へ向かう可能性があるなら、探る価値があるのではないか。
しかも、こちらから取引を持ちかけるのではなく、キューバ側に話す意思があるかを聞くだけ。
アットウッド自身なら、カストロと過去に面識があり、外交官として一定の重さを持ちながら、ワシントンの大物ほど目立たない。
もし何もなければ、それで終わる。
メモの最後に近いところで、アットウッドは自分の役割を小さく限定した。
まずレチューガと接触する許可だけが欲しい。
その先は、それから考えればいい。
紙はハリマンへ渡り、国連大使アドレー・スティーブンソンへ渡った。
スティーブンソンは、一九五二年と五六年に民主党の大統領候補となり、二度アイゼンハワーに敗れた政治家だった。ケネディ政権では国連大使を務め、キューバ危機の最中には安全保障理事会でソ連代表を追及した一方、危機を軍事衝突ではなく交渉で終わらせる道も探っていた。
彼はメモを読んだ。
そして、話を大統領まで上げた。
※※※※※※※※※※
翌九月十三日。
キューバから千数百キロ以上離れたテキサス州ダラスで、地元紙が秋の大統領訪問計画を一面で報じた。
ケネディが十一月、ダラス、フォートワース、サンアントニオ、ヒューストンを回るらしい。
まだ日程の細部は決まっていない。
どこを走るのかも決まっていない。
誰にとっても、それは来年の大統領選挙へ向けた政治日程の一つにすぎなかった。
ダラスまで、まだ二か月以上あった。
※※※※※※※※※※
九月二十日。
アドレー・スティーブンソンから話を聞いたケネディは、アットウッドがレチューガへ慎重に接触することを認めた。
ただし、秘密に。
まだ交渉ではない。
提案もしない。
何も約束しない。
カストロが本当に話したがっているのか、それを探るだけだった。
その決定は、ハバナへ電報になって届かなかった。
ニューヨークのキューバ国連代表部にも知らせられなかった。
当然、カストロも知らなかった。
大統領が許可したことを知らないまま、キューバ側は三日後に、その許可を受けた男と初めて向き合うことになる。
※※※※※※※※※※
九月二十三日のニューヨークは、ハバナより早く秋へ入っていた。
国連総会の開会から一週間。
世界中から外交官が集まり、マンハッタンでは、ホテルのロビーもレストランも、どこかの国の代表団と記者で埋まっていた。
レチューガは、リサ・ハワードから誘われた時も、それほど不自然には思わなかった。
「キューバへ行ったことのある人たちを何人か呼ぶから、一杯どう?」
そう言われた。
リサとは春から顔見知りだった。
彼女がカストロへ十時間近く食い下がり、帰国後もその話を記事にし続けていることは、キューバ側も知っていた。
外交官にとって記者との付き合いは仕事の一部でもある。
ましてニューヨークでは、正式な外交の外側で情報が動くことも珍しくなかった。
リサのアパートには、酒と簡単な食べ物が用意されていた。
客は多くない。
その中に、レチューガの知らない顔ではない男がいた。
リサが紹介する。
「ウィリアム・アットウッド。」
男は手を差し出した。
「以前、あなたの首相には随分長く付き合ってもらいました。」
レチューガは握手を返しながら思い出した。
『Look』。
革命直後の取材。
そして最近、アメリカ国連代表部へ入った元大使。
「一九五九年でしたね。」
「覚えていましたか。」
「カストロと長く話したアメリカ人は、こちらでも記事まで読まれます。」
「本人には、あまり気に入ってもらえなかったようですが。」
アットウッドが笑った。
「それなら、もう一度会えば反論を聞けるでしょう。」
レチューガも笑った。
それだけなら、昔話だった。
リサは別の客のグラスを直し、少し離れた。あえて二人を残したようにも見えたが、レチューガは気づかないふりをした。
アットウッドがカストロについて尋ねた。
近況。
モスクワ訪問。
キューバ危機後の国内。
話題は特別なものではない。
だが、いくつか質問が続いたあと、アットウッドがリサの記事へ触れた。
「彼女は、カストロ首相がアメリカとの関係を変えることに関心を持っていると書いています。」
レチューガはグラスを口へ運び、すぐには答えなかった。
「記者は読ませるために記事を書くものです。」
「あなたはそう思いますか。」
「リサ本人に訊くべきでしょう。」
「訊きました。」
レチューガが男を見る。
アットウッドは笑っていない。
そこで初めて、会話の温度が変わった。
「それで?」
「彼女は本気だと思っている。」
「彼女が?」
「カストロが。」
レチューガはグラスをテーブルへ置いた。
「あなたはどう思うんです。」
「それを知りたい。」
アットウッドは答えた。
簡単な言葉だった。
だからこそ、レチューガには引っかかった。
外交官は通常、自分の好奇心だけで敵国の国連代表へこんな質問をしない。
しかもアットウッドは、もう記者ではない。
「誰が知りたいんです?」
アットウッドは少しだけ間を置いた。
「私は。」
レチューガが口元を緩めた。
「それは答えになっていない。」
「いまのところ、それ以上の答えをする必要もないでしょう。」
「では私も、いまのところ、それ以上答える必要はありませんね。」
二人とも笑った。
だが、会話は終わらなかった。
アットウッドは一九五九年のカストロについて話した。
レチューガも、カストロが自分のことを書いたアメリカ人記者の記事を覚えているだろう、と答えた。
やがてレチューガは、何気ない調子を崩さないまま言った。
「もし昔の話の続きをしたいというだけなら、首相は断らないかもしれませんよ。」
アットウッドの目がわずかに動いた。
「キューバへ行けば?」
「昔と同じように。」
「いまの私は、昔と立場が違う。」
「存じています。」
「政府の許可なしにハバナへ行くことはできない。」
レチューガはそこで確信した。
この男は、少なくとも自分一人の好奇心だけでここにいるのではない。
しかし、それがどこまで上へつながっているかは分からない。
国連代表部の一顧問。
スティーブンソン。
国務省。
ホワイトハウス。
あるいはケネディ。
線は見えない。
ただ、以前はなかった場所に、小さな穴だけが開いている。
「許可が必要なら、取ればいいでしょう。」
レチューガが言った。
アットウッドは曖昧に笑った。
「取れるかどうかを確かめてみます。」
リサが二人の間へ戻ってきた。
「私の家で外交を始めるなら、家賃くらい払ってもらわないと。」
レチューガは笑った。
「外交ではありませんよ。」
アットウッドもグラスを持ち上げた。
「もちろん。」
三人とも、その言葉だけは同じだった。
※※※※※※※※※※
レチューガが国連代表部へ戻ったのは遅い時間だった。
マンハッタンの夜景は、ハバナとは明るさの種類が違った。
窓の向こうに建物の灯が幾重にも重なり、その中のどこにアメリカ政府があり、どこからがただの市民なのか、遠くからでは区別がつかない。
机にはハバナへ送る報告が待っていた。
レチューガは紙を入れ、タイプライターのキーへ指を置いた。
一度打って、止める。
《アメリカ政府は――》
消した。
そこまでは言えない。
《アットウッドは政府を代表して――》
それも消した。
本人はそう言っていない。
結局、事実だけを書いた。
国連米代表部顧問ウィリアム・アットウッドと非公式に会話。
同人は一九五九年に首相と面識あり。
リサ・ハワードの記事に言及。
首相が米国との関係改善について話す意思を有するか、強い関心を示した。
キューバ訪問については、現在の公職上、米政府の許可が必要と発言。
最後の一行でまた手が止まった。
《単なる個人的関心とは考えにくい。》
それなら書ける。
だが、その後が問題だった。
レチューガは少し考え、
《ただし、どの水準の承認を得ての接触かは不明。》
と続けた。
そこが一番重要だった。
※※※※※※※※※※
ハバナでその報告を読んだカストロは、最後の一行を二度読んだ。
セリアが机の向こうで待っている。
ゲバラは窓辺に立っていた。
「アットウッド。」
カストロは名前を口にした。
「知ってるか。」
「記事なら。」
ゲバラが振り返った。
「革命直後にお前を取材した男だろ。いまは外交官か。」
「ギニア大使だったらしい。いまは国連代表部。」
セリアが資料を見ながら補った。
「スティーブンソンのところです。八月から。」
カストロは報告書へ戻った。
「昔は俺の記事を書き、いまは俺と話す許可を政府に取る。」
ゲバラが笑った。
「記者というのは出世すると面倒になるな。」
「リサに聞かせるな。」
「もう一人増えた。」
ゲバラは机へ戻り、レチューガの報告を取った。
「で、どこまで本物だと思う。」
「分からん。」
「またそれか。」
「分からないものを分かったと言うよりいいだろう。」
カストロは椅子へ深く座り直した。
「アットウッド個人なら意味はない。スティーブンソンなら少し意味がある。国務省までなら、もっとある。」
ゲバラが続きを待った。
カストロは言わなかった。
代わりにセリアが言う。
「大統領までなら?」
カストロは彼女を見た。
「それを知りたい。」
ゲバラは報告を机へ戻した。
「リサは、ケネディが話したいんじゃないかとはったりをかけた。今度は、そのはったりの向こうから一人出てきた。」
「まだ一人だ。」
「だからどうする。」
「何もしない。」
ゲバラが眉を上げる。
カストロは報告書を畳んだ。
「向こうがどこまで出てくるか見る。こちらから急げば、向こうは俺たちが困っていると思う。」
「困ってないのか。」
「困ってる。」
カストロは笑った。
「だから見せない。」
セリアが小さく息を吐いた。
「外交って面倒ですね。」
「革命も同じだ。」
ゲバラが答えた。
「相手に弱いと思われたくないから、腹が減っていても腹が減っていない顔をする。」
カストロは椅子の肘掛けを指で叩いた。
「レチューガには話を続けさせろ。ただし、何も約束するな。アットウッドが誰の言葉で話しているのか、それだけ見ろ。」
セリアがメモを取った。
「リサには?」
少し間があった。
「何もしなくていい。」
カストロは答えた。
「今度は向こうの番だ。」
※※※※※※※※※※
翌九月二十四日、アットウッドはワシントンで司法長官ロバート・ケネディに会った。
大統領の弟であり、ピックス湾以後の対キューバ政策にも深く関わってきた人物だった。
アットウッドは九月十八日のメモを渡し、前夜リサのアパートでレチューガと話したことを報告した。
ロバートは、アットウッドがキューバへ直接行くことには慎重だった。
国連代表部の現職外交官が秘密裏にカストロへ会いに行き、それが漏れれば、政権がカストロとの取引を求めたと受け取られる。
メキシコか。
国連か。
第三の場所はないか。
ただし、レチューガとの接触を維持すること自体には異論を唱えなかった。
アットウッドがニューヨークへ戻る時、話はもう一段上まで届いていた。
それでも、キューバ側にはまだ誰の名前も渡らなかった。
※※※※※※※※※※
九月二十六日。
ダラスの新聞は、ホワイトハウス筋の情報として、ケネディが十一月二十一日と二十二日にテキサスを訪問すると報じた。
ダラスも日程に入っていた。
訪問先は決まりつつある。
だが、どの道路を走るかはまだ決まっていない。
昼食会場も、車列の経路も、警護の細部も先の話だった。
十一月二十二日は、まだただの金曜日だった。
ダラスまで、五十七日。
※※※※※※※※※※
九月二十七日、国連本部。
レチューガはロビーでリサのテレビ取材を受けていた。
照明が置かれ、カメラが向き、周囲を外交官や職員が行き来する。
ここでは秘密など作りようがないように見えた。
だからこそ、秘密の会話には向いている時もある。
インタビューが一区切りついたところで、見覚えのある男が近づいてきた。
アットウッドだった。
レチューガはリサを一度見た。
彼女は何も言わない。
「先日の話ですが。」
アットウッドが、ごく普通の挨拶の続きのように切り出した。
「ワシントンで話しました。」
レチューガの注意が一気にそこへ向いた。
「誰と?」
アットウッドは答えなかった。
だが、それだけで前回とは違った。
あの夜は、許可が必要だと言った。
今度は、ワシントンで話して戻ってきた。
「私がハバナへ行くのは難しいようです。今は政府の立場がありますから、秘密に動いても、発覚した時の意味が大きすぎる。」
「では、話は終わりですか。」
「逆です。」
アットウッドは周囲へ目をやった。
誰もこちらを気にしていない。
「もしカストロ首相自身、あるいは首相が直接信頼する人間が、我々に何か伝えたいのであれば、聞く用意はあります。ニューヨークでも、ほかの都合のいい場所でも構わない。」
レチューガはその言い方を聞き逃さなかった。
前回は、
《私は知りたい》。
今回は、
《我々は聞く用意がある》。
「我々?」
レチューガが訊いた。
アットウッドは少し笑った。
「英語では便利な代名詞です。」
「スペイン語でも同じですよ。誰が含まれているのか分からない時には。」
二人はしばらく互いを見た。
レチューガには、まだ大統領の名前は見えない。
だが、少なくともアットウッド一人ではなくなった。
「ハバナへ伝えます。」
「それで十分です。」
アットウッドが答えた。
「ただし、誤解はしないでください。こちらから会談を求めているわけではありません。あなた方に何か言いたいことがあるなら、聞く用意がある。それだけです。」
その言い方に、レチューガはアメリカという国の癖を感じた。
扉は開ける。
しかし、自分が開けたとは言わない。
相手が入ってきたなら聞く。
しかし、呼んだとは言わない。
おそらくハバナも同じことをする。
「分かりました。」
レチューガは答えた。
そして少し考えたあと、別のことを付け加えた。
「先に言っておきます。十月七日の国連演説では、私はかなり強くあなた方を批判します。」
アットウッドの顔に、初めて少し呆れたような色が出た。
「それは緊張緩和には役立たないでしょうね。」
「封鎖をやめていただければ、演説も少し短くできます。」
レチューガは笑った。
アットウッドも苦笑した。
数メートル離れたところでは、リサのスタッフが機材を片づけていた。
表では、キューバとアメリカに外交関係はない。
国連では数日後、互いを非難する演説をする。
それでも、このロビーでは、
《話したいことがあるなら聞く》
という言葉が、初めてアメリカ側からキューバ側へ渡った。
※※※※※※※※※※
その夜、レチューガは二度目の報告を書いた。
今度は、最初の報告より言葉を選ぶのが難しかった。
アットウッドはワシントンで前回の会話を報告した。
キューバ訪問は困難。
しかし、カストロまたはその個人的な代理が伝えたいことを持つ場合、アメリカ側は会って聞く用意がある。
ニューヨークその他の場所での接触は可能。
紙には事実だけを書く。
だが、レチューガ自身の判断も書かなければ、ハバナには意味が伝わらない。
《前回より明らかに公式性が増している。》
そこで止まった。
公式なのか。
どこまで公式なのか。
結局、もう一行加えた。
《ただし、大統領本人の承認については確認できず。》
それが、この回線の現在地だった。
※※※※※※※※※※
ハバナ。
セリアが報告を持ってきた時、カストロは農業関係の数字を見ていた。
ゲバラも同じ部屋にいた。
「ニューヨークからです。」
その一言で、カストロが紙を受け取った。
読み終えるまで、ゲバラは何も訊かなかった。
カストロが黙ったままもう一度最初へ戻ったので、ようやく口を開いた。
「今度は?」
「一人称が変わった。」
「何だ。」
「前は『俺が知りたい』だった。今度は『我々は聞く』だ。」
ゲバラは手を差し出し、報告を読んだ。
「ずいぶん細かいところを見るな。」
「細い線しかないからな。」
カストロは椅子を離れ、世界地図の前へ行った。
ニューヨーク。
ワシントン。
ハバナ。
三つの点を目で追う。
「ワシントンで話したと言っている。ハバナへ来るのは難しいが、別の場所なら聞く。しかも自分から会いたいとは言わない。」
「アメリカ人らしい。」
「キューバ人でも同じことをする。」
ゲバラが笑った。
「認めるのか。」
「こっちも向こうが先に動くのを待ってるんだから同じだ。」
セリアが椅子へ腰を下ろした。
「では、進んだんですか。」
カストロはすぐには答えなかった。
「窓口はできた。」
「誰との?」
その問いにカストロは振り返った。
「そこがまだ分からん。」
アットウッドなのか。
スティーブンソンなのか。
国務省なのか。
司法長官なのか。
ホワイトハウスなのか。
ケネディなのか。
その階段のどこまで、こちらの声が届いている。
リサは春に言った。
若い者同士、本当は少しくらい仲直りしたいんじゃないの。
あの時は、半分が記者の勘だった。
半年近く経って、勘の向こうから初めて人間が一人現れた。
しかし、その男の背後に大統領がいることを、キューバ側はまだ知らない。
「レチューガには?」
セリアが訊いた。
「話を続けさせろ。」
カストロは答えた。
「こちらから条件は出さない。まず、どこまでつながっているかを見る。」
ゲバラが報告書を机へ置いた。
「ケネディ本人まで行っていたら?」
カストロは窓の外へ目を向けた。
夜の海は暗く、アメリカのある方向には何も見えなかった。
「その時に考える。」
ゲバラは少し笑った。
「春からずっと、そればかりだな。」
「一歩先まで考えて、相手が来なかったら馬鹿を見る。」
「山ではもっと先まで考えていただろ。」
「山ではワシントンとモスクワが同時に相手じゃなかった。」
カストロは机へ戻り、レチューガの報告を畳んだ。
「まだ窓口だ。道じゃない。」
それでも、その紙を他の報告書の束へ戻さなかった。
春にリサへ渡したのは、一枚の電話番号だった。
九月になり、ニューヨークのアパートと国連のロビーを通り、その番号とは別の場所から、初めてアメリカ政府らしい声が返ってきた。
正式な大使はいない。
大使館もない。
その代わりに、一人のテレビ記者がいて、医師がいて、国連外交官がいて、元記者の外交官がいた。
国家同士の正面玄関が閉じている間に、人間が脇の窓を一つずつ開けていた。
誰も、その先に何があるのかは知らなかった。
※※※※※※※※※※
同じ九月二十七日。
テキサス訪問の日程表にも、十一月二十二日という日付が残っていた。
まだダラスの車列がどの道を通るかは決まっていない。
昼食会場も決まっていない。
大統領がどこで車を降り、どこで人々へ手を振るのかも決まっていない。
決まっているのは、ケネディがその日にテキサスにいるということだけだった。
ダラスまで、五十六日。
ハバナでは、カストロがアメリカ側の窓口がどこまで大統領につながっているのかを考えていた。
その答えを、彼はまだ知らなかった。
けれど実際には、その窓はもう大統領のところまで開いていた。
アメリカとキューバの歴史の表に現れないやり取りが加速度を増して進んでいきます。
更新は、水・金・日の夜です。
次回は水曜日の夜更新予定です。
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